あの岬まで行くんだ
三月三十日。
遠乗り決行の前日となった。朝、両親が畑に出て行ってしまうと、ミツアキが一人で自転車に乗ってやって来た。今までの話し合いで、今日、洞窟探検用の明かりを作ることにしていたのだ。
「あれ? あいつらは?」
あいつらとは、もちろん、いつも一緒にいるミツアキの二人の弟、ヒロシとマサルのことだ。
「今日は自分たちだけで遊ばせることにしたんだ。そばにいたら気が散るからさ」
ミツアキは笑いながら答えた。
ヤスノリは、この同じ年のいとこをいつも通り、まず二階にある自分の部屋に通した。窓からは太平洋に突き出したライオン岬が望める。
最初に口を切ったのはミツアキだった。
「明日の洞窟探検には明かりが必要だったんだよな。卒業式の帰り、お前に言われてから色々と考えてたんだけど、こんなのはどうだ。たしか、ここの家には正月に神棚に供える小さな丸いロウソク立てがあったよな。あれにうまく針金を巻きつけたらいいんじゃないのかな。それで巻きつけた針金のもう一方の端を真下に直角に折り曲げれば取っ手の代わりになるだろ?」
「なるほど。そりゃ、いい考えだ」
ちょっと待っててくれ、と言うと、ヤスノリは一階の台所へ下りて行き、水屋だんすの引き出しを開けた。中には金色の丸い小さなロウソク立てが三つと、銀の魚型のコルク抜きが置かれていた。
この銀の魚型のコルク抜きというのは、少年だった父が昔、八月の満月の晩に行われていた天狐森神社の神事「月夜の遠泳」に最年少で参加したのを記念に自分で買ってきて大切にしているもので、思い入れがあるのか、今でも引き出しを開けては大事そうに眺めることがある代物だった。
ちっ、全部で三つか。まあ、しかたがない。
いまいましそうに舌を鳴らしてロウソク立てを取ると、ヤスノリは部屋にもどった。
「なんだよ。一つ足りないじゃないか」
さし出されたロウソク立てを見ると、ミツアキは、いったいどうするつもりだよ、と言いたげな顔をしている。
「これだけしかなかったんだ。僕とお前で一つずつ。ヒロシとマサルの分はいっしょだ。ヒロシがロウソク立てを持って、マサルはそばにくっついていればいい」
ヤスノリがなだめるように言うと、
「なるほどな」
と、ミツアキは、くっ、と口角を上げた。
「じゃあ、納屋へ行こうぜ。あそこには父さん愛用の日曜大工の工具類が置いてあるんだ」
家の中はヤスノリたちだけのはずだったが、二人はゆっくりと足音を立てずに階段を下りて行った。
母屋の裏にある納屋の戸を開けると古い木の匂いがした。納屋特有の匂いだ。
中に入るとミツアキはさっそく洞窟探検用のロウソク立て作りに取りかかった。ラジオ
ペンチを握ったミツアキの大きな手が針金を適当な長さに三本切り、小さな丸いロウソク立てに一つ一つ器用に巻きつけては、もう一方の端を直角に真下に折り曲げてゆく。ロウソク立て作りに集中しているミツアキの真剣な横顔を見ていると、今日、なぜ二人の弟を連れて来な
かったのか、改めてその理由がわかったような気がした。
ほんと、こいつ、手は大きいのに器用なんだよな。掌なんか、まるで大仏みたいだ……。
ヤスノリは去年の修学旅行で行った東大寺の大仏を思い出した。
「何をにやけてるんだ」
ミツアキの声で我に返ると、ヤスノリはでき上がったロウソク立ての一つを手に取って答えた。
「いや、何でもない。それより、うまくできたな、これ」
完成した三つのロウソク立てを納屋の奥に置いてある、今ではもう使われることがない臼の陰に隠すとミツアキは帰っていった。特に何も言わなかったが、自分でも仕上がりに満足しているのが足も軽く自転車をこぐ後ろ姿でわかるのだった。
その夜、電気を消して布団に入っても、明日の冒険を思うと、ヤスノリはなかなか眠れ
なかった。沖をゆく黒潮のさざめきが枕もとで聞こえる。
ヤスノリはふだん台風でも来ないかぎり部屋の雨戸は閉めず、窓には薄いカーテンを一枚引くだけで寝ていたから、部屋の中は電気を消しても外の月や星々でほのかに明るかった。
目を開けて天井を見つめていると、天狐森神社の古ぼけた小屋の奥にあるという、まだ見たことのない洞窟の入口のぽっかりと空いた穴が思い浮かぶ。
あの入口の奥にはいったい何があるんだろう?
布団を抜け出すと、窓の所まで行きカーテンを開けてみた。
墨色の海に映る金色の帯。春の大きな満月の真下の水平線の辺りは、ひときわ輝いて、まるで光の木の葉を浮かべたようだ。
はるか沖に目をやると、月の光の木の葉は黒潮の流れでちらちらと震えている。今年の三月は満月が二回あり、今夜はいわゆるブルームーンで大潮だ。
あの月の海を、ちょうど今の僕くらいの歳だった父さんは、泳いで渡ったんだ……。
窓の外の光景を見ていると、遠泳を導く為に櫓舟の上で打たれる太鼓の響きが、聞こえてきそうだった。
昼間見るのとは違う、黒々としたライオン岬の輪郭。その先端の高台が天狐森だ。窓の外の夜の海は、月の光の帯をあいかわらず映し続けている。
行者の岩屋へ足を踏み入れるところを何気なく想像してみると、少年たちがいつも唱える「呪文」の言葉が思い出されるのだった。
はばかりや はばかりや
お月さん いつも桜色
行者様をしのんでか
いったい、どうすればこの月が桜色になるというのだろう……。
「呪文」の言葉一つ一つをなでるように思い出したヤスノリは、はるか昔、ライオンが寝そべるように見える岬で修行をしたという行者に問いかけてみたかった。
三月三十一日。
すっかりと夜が明けた。岬への遠乗り決行の日だ。朝食が済んでしばらくすると、ヤスノリの両親は農作業の為、いつものように畑に出て行こうとしていたが、そこへミツアキが二人の弟と自転車でやって来た。
「ああ、ミツアキ君たち、いらっしゃい」
母の迎えの言葉に、おじゃまします、とミツアキは答える。
「そうそう、今夜はあなたたち、うちで泊まるんだったわよね。夕食にはステーキ焼いてあげる。七輪の炭火で網に載せて焼くステーキよ。味付けは『島の塩』でね」
母が言った、「島の塩」というのは、この島の美しい海の水で作られた天然塩のこと
だった。
ヤスノリは節約家の両親のもと、ふだんは一汁一菜の野菜が中心で、肉といえばほんの申しわけ程度に肉(それでもいちおう牛肉は使ってくれてはいたが)の入ったカレーか肉じゃがが年に数えるほど出ればいいような食生活を送っていたので、母の言葉に思った。
いったいどういうつもりなんだよ。ミツアキたちにそんな大見栄を張って……。
あきれた気持ちでいっぱいになりながら行方を見失っていたヤスノリの視線はやがて玄関の下駄箱の上に置かれていた、三月、四月と二ヶ月分が印刷された卓上カレンダーで止まった。
そうか、そういうことか。明日は四月一日。つまりエイプリルフールで、今日はその前
日ってわけだ。まあ、クリスマスでもその前夜祭の方を盛大に祝うからな……。つまり、今夜の夕食に出る七輪で網焼きにしたステーキというのは実は焼き魚のことで、それを見た僕らが、何なんだよ、これ、って文句をつけたら、これだって魚のステーキよ、ほら、今夜はエイプリルフール・イブでしょ。だから冗談なのよ、冗談。どうせ冗談なら盛大に、とか言うつもりなんだろう。考えたな、母さん……。
見るとミツアキたちは、ステーキという言葉に顔をほころばせている。
おいおい、お前たち。こんな手に引っ掛かってたらだめだって……。
ヤスノリはミツアキにけんめいに目で合図を送ったが、気づいてくれなかった。
気持ちをきっぱりと引き締めると、ヤスノリはこちらを喜ばそうと笑顔の母にそっけなく言葉を返した。
「そう」
両親が畑に出てゆくと、ヤスノリはミツアキたちを一階にある押入れに案内し、中から
自分のリュックを取り出した。もともと家にあった父のリュックと合わせると、ちょうど二人分あった。
はい、これ、と父のリュックをミツアキに渡す。
「なんだよ、これ。大人用じゃないか」
「しょうがないだろ。これしかないんだからさ……。お前、体でかいんだから大人用でも大丈夫だろ?」
ミツアキはへへっ、と大きな体を少し小さくするようにして笑った。
お昼にでも両親が畑から帰って来で、押入れを開けるということはまず考えられなかった。
今日一日、リュックがなくなっていても気づかれることはなさそうだ……。
ヤスノリは父の書斎の、扉付きの本棚から方位磁石とこの島の地図を失敬すると、今度は台所へ行き、梅干しを箸で裂いて番茶で満たした水筒に落とし込んだ。さらに戸棚から
紙コップを失敬してリュックに入れ、今度は納屋へ行き、昨日、臼の陰に隠しておいた、三つのロウソク立てを取って来た。さらにロウソクとマッチを居間の仏壇から失敬したが、その際、軽くおりんを叩くと、ちょっと借りるね、と鴨居の祖父母の遺影を見上げながら言って、ミツアキに手渡した。
ミツアキは渡されたロウソク立てとロウソクとマッチ、それにさっき台所から失敬したおかき、暇つぶし用にと持って来たトランプをリュックに詰めたが、さらにその上、いつの間にか用意してあった古新聞を、借りている自分用のリュックにそっと詰めるのだった。
ヤスノリはふだん食事を取るちゃぶ台の上に置手紙、というよりは走り書きのようなものを残した。
今日はミツアキたちと遊びに出かけるよ。夕方には帰るから。
「もし、母さんたちに何も知らせてなくて、お昼に突然、僕らがいなくなっていたら、それこそ騒ぎになってしまう。だからこうしておかなきゃな」
夕方には帰るから、という用件さえ分かれば、両親は本当に何も心配しないということが、ヤスノリにはわかっていたが、それはこの島の治安の良さからくるものだった。
四人の少年たちは全員,長袖、長ズボンという、山へ行く時の基本のいでたちをしていた。ヤスノリとミツアキはリュックを背負うと、広い土間に停めてあった自転車を表に出した。表に出す時に振り返ると、土間の奥に地下蔵への入口が見えた。そこには父がミツアキの母親のミチおばさんから、あの月夜の遠泳から二十周年ね、とこの前に贈られて来た赤ワインの
シャンベルタンを宝物のようにして眠らせているのだった。
あのワイン、当分の間、開けられることはないな……。
ヤスノリはミツアキ兄弟に、これから始まる冒険の成功を祈って、さあ、輪になろう、とうながした。
玄関先で少年たちは肩を組み、声を潜めて、この島に伝わる奇妙な呪文を唱えた。
はばかりや はばかりや
お月さん いつも桜色
行者様をしのんでか
呪文を唱える時、ヤスノリはポケットにそっと忍ばせておいた、この前、母が作ってくれた持ち塩に手を伸ばし触れた。
「持ち塩」。それはこの島の美しい海の水から作られた天然塩を半紙で包んだもので、島の住民らはお守り代わりにしていたが、手渡してくれた時の母の言葉を思い出した。
この「持ち塩」はね、何か守ってもらえたと思った時には半紙を解いて中の塩を土や海に撒くのよ。もとの自然に帰してあげるの。
家を出て、田んぼの中の、軽自動車が一台通れるくらいの道を行くと、まだ植えられたばかりの短い苗が風にゆれ、水の匂いがした。道端を縁取るように赤くレンゲの花が咲いている。
田んぼが終わると、次は菜の花畑だった。
そういえば、たしか去年の春休み、ミツアキたちと、ここでかくれんぼをしたことが
あったっけ……。
ヤスノリは、ぐん、と背筋を伸ばすと足に力を入れてペダルを踏んだ。
菜の花畑が済むと、遠くにこの前、卒業したばかりの小学校の校舎が見えてきた。
そういえば、あの校庭でも、ミツアキたちとよく遊んだな……。
道がゆるやかに曲がると、小学校へと続く横一文字の桜並木がほのかに白く、まるで灯籠のように見えた。ヤスノリは、以前、これと同じ光景をどこかで見たような不思議な懐かしさを覚えるのだった。
一行は、しばらく自転車を停めて桜並木を眺めていた。
「行者の岩屋」への道は、出発前に地図を見て、頭の中に入れておいた。この辺りから岬の高台の天狐森までは、直線距離で数キロメートルのはずだが、道は真っすぐではない。ライオン岬は岩が硬く、道を作る時、切り通すことができなかったのだ。
ヤスノリが小学校に入る前、それまでは獣道だった岬の高台までの道が、やっと舗装されたが、天狐森のある高台までは途中にある硬い岩盤を避ける為に、同じ所をくねくねと曲がりながら進む山道になったのだった。
一年生の時、その頃はまだ行われていた卒業生を送るお別れ遠足で、岬まで来たことはあるが、途中の詳しい道程はもう覚えていなかった。
ヤスノリが、他にもっと何か思い出せないか、と思いをめぐらせていると、時を告げる役場のチャイムが鳴った。
「もう十時か、行こうぜ」
ミツアキがうながした。
まるで腸のような岬の山道をけんめいに駆け上って行く四台の自転車。左側には山、右側には太平洋が広がる。勾配がきつくなってきたので、自転車を降りて押しながら上る。ヤスノリの横にはミツアキ。その直ぐ後ろには二人の弟。春先でも強い日差しに、衣服の下の肌が
うっすらと汗ばむのがわかる。
それからも険しい山道は続いた。いつまでたっても坂は緩くならなかった。
右に開けていた海が消えると、両側の木々が道を包み込むように枝を伸ばしている。木々に囲まれた道は気まぐれに向きを変える。
ヤスノリは、前に一度来た遠足の時のことを何か思い出せないかと、かすんでしまった記憶を手繰り寄せてみたものの、何も思い出せなかった。
本当に岬に向かって進んでいるんだろうか。
ヤスノリは自転車を押しながら心の中で問いかけてみる。
今朝、地図を頭に入れておいたから、「行者の岩屋」までの、およその道筋はわかってはいるけど、実際、木々に包まれた道の中で、こんなにも同じ所を回り続けていると、方向感覚が失われてゆく……。
さっきから足首が少し痛み、こめかみの血管が脈を打つ。軽いはずのリュックもベルトが肩に食い込んでくるようで、終わることのないような疲労感に包まれてゆく。最初は軽い気持ちで小学校の卒業記念にこの岬へ行こう、と提案したが、待っていた疲労感は予想以上だった。ヤスノリは軽いかすみを覚えた頭をけんめいに振り、疲れた足に力を入れるた。
目の前の道の急に湾曲した所に自動車の待避所が見える。
あんなのあったかな?
もう遠くへ行ってしまった記憶を手繰り寄せながらも、ヤスノリはすぐ横で自転車を押しているミツアキを見た。昔の遠足でミツアキと並んで長い坂道を歩いたことだけは思い出す。
ミツアキはどう思っているんだろう。
「あそこで少し休もうよ」
ヤスノリは待避所で自転車を停めて、もう一度、道を確かめるようにリュックから地図と方位磁石を取り出した。てのひらに磁石を載せて木々に囲まれて軌道のように目の前に伸びるゆるやかな上り坂に向かって差し伸べる。
この坂なら自転車で上れそうだ。
ほぼ視界をさえぎられてしまった木々の道の中で、方向感覚を失いかけていたヤスノリは磁石を見て固まった。針は北を指していたのだ。
嘘だろ。
ヤスノリと隣で磁石を見つめていたミツアキは顔を見合わせた。
ライオン岬は太平洋に向かって南に突き出した岬なのだ。これではまるであべこべだ。南へ向かうはずが、北に向かっている。
ああ、わかった。きっとさっきの急に曲った道のせいだ。
直感でそう思ったヤスノリは広げた地図で向きを急に北に変えている地点をけんめいに探した。
「ああ、あった。これだ」
ヤスノリは地図の上に描かれた急な湾曲を人差し指で押さえた。ミツアキたちもヤスノリの指先をのぞき込む。
「地図にはこれの他に急に折れ曲がって北へ向かう道はない。僕たちが今いるのはここだよ」
驚いたことに地図を押さえているヤスノリの指先のすぐ側に天狐森はあった。
なあんだ。あともう少しじゃないか。この道って、すぐにまた大きく曲がって南に
向かうんだ。もう間もなく天狐森だ。坂は前よりもゆるくなっている……。
目の前の、また自転車をこぎ出せそうな勾配のゆるい坂道を見ると、とたんに元気が
もどって来た。
一行は再び自転車に跨った。
「あと少し、あと少し」
誰からともなく、そんな言葉が自然にこぼれる。
役場のお昼を告げるチャイムが、遠くから聞こえてきた。
母さん、もう畑からもどって来ただろうな。あの置手紙は母さんの目の前に突如出現したことになるけど、それを見ていったい何を思うんだろう……。
ヤスノリは自転車をこぎ続ける。
僕たちがいなくなってるのに気づいてからあの手紙を見つけるのかな。それともあの手紙を読んでから僕たちがいなくなっていることに気がつくのかな……。
そう思うと、なぜか愉快な気分になってきた。
隣のミツアキの顔には弾ける汗。振り返るとヒロシとマサルは汗に濡れた前髪を額に貼りつけて、あえぎながら自転車をこいでいた。




