第三十五話 明日
朝の食堂には、昨夜までとは違う空気が流れていた。
窓から差し込む光は穏やかで、宿の主人が並べた朝食からは、焼きたてのパンと香草の香りが漂っている。
いつもなら、旅の疲れを口にしながら適当に食事を始めるところだった。
けれど。
今日は、全員が妙に静かだった。
原因は分かっている。
昨夜のことだ。
いや。
正確には。
昨夜から、何かが変わってしまった。
「……何よ」
セレナが、じっと俺を見る。
「何が?」
「その顔」
「普通だろ」
「普通じゃない」
向かいに座っていたルナも頷いた。
「かなり普通じゃない」
「どこがだよ」
「なんか嬉しそう」
「そうか?」
「そう」
ミレイアまで頷く。
「昨日より、少しだけ表情が柔らかいです」
「……お前らな」
俺がため息をつくと。
隣に座っていたエリナが小さく笑った。
「ふふ……」
「エリナまで」
「す、すみません」
そう言いながらも、エリナは笑っている。
昨日までの彼女なら。
誰かが笑っていても、自分が笑うことを躊躇っていた。
声を出していいのか。
目を合わせていいのか。
何かを言ってもいいのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は違う。
まだ少し遠慮はある。
まだ時々、何かに怯えるような仕草も見せる。
それでも。
自分から笑っている。
それだけで十分だった。
「……ところで」
アルベルトが口を開いた。
「昨日の白い本についてだが」
「やっぱりそこか」
「ああ」
アルベルトは食事には手をつけず、机の上に一枚の紙を置いた。
「昨夜から今朝にかけて、記録の変化を調べた」
「何か分かった?」
「いくつか」
アルベルトは指を一本立てる。
「まず、エリナの死亡予定が消えた」
「うん」
「そして、『第二章――選択』という記述が追加された」
「それも見た」
「問題は、その次だ」
アルベルトが紙を裏返す。
そこには、昨夜の記録を書き写したものがあった。
『彼女たちは、それぞれの意思で記録者を選ぶ』
「これ」
セレナが眉をひそめる。
「どういう意味なの?」
「まだ分からない」
「またそれ?」
「仕方ないだろう」
アルベルトは苦笑する。
「だが、一つだけ分かっていることがある」
「何?」
「この記録は、これまでとは性質が違う」
俺は腕を組む。
「どう違う?」
「今までの記録は、未来を示していた」
「エリナの死亡予定とか?」
「ああ」
「でも、それは俺が書き換えた」
「そうだ」
アルベルトは頷いた。
「つまり、この本は未来を確定させるものではない」
「……」
「選択肢を提示している」
ミレイアが静かに呟いた。
「未来そのものではなく……」
「可能性を記録している」
アルベルトが続けた。
「そして、選択によって内容が変化する」
俺は白い本を見る。
昨日まで。
俺はこの本を恐れていた。
何かが決められている。
自分たちの知らないところで、未来が書かれている。
そんな感覚があった。
けれど。
エリナの記録を書き換えたことで。
少しだけ考え方が変わった。
もし、この本が未来を決めるものではないのなら。
俺たちは。
まだ自由に選べる。
「なら」
俺は言った。
「今度こそ、俺たちの好きなようにすればいい」
「簡単に言うわね」
セレナが苦笑する。
「そうか?」
「この本に書かれていることが全部本当なら、世界そのものに関わる話なのよ」
「だったらなおさらだ」
俺は白い本を閉じた。
「誰かに決められるくらいなら、自分で決める」
ミレイアが微笑む。
「……レオンらしいですね」
「そうか?」
「はい」
その隣で。
エリナが小さく頷いた。
「私も……そうしたいです」
「エリナ?」
「昨日まで」
彼女は自分の手を見る。
「何をするにも、誰かに許可をもらわないといけないと思っていました」
「……」
「でも」
エリナは顔を上げた。
「これからは、自分で決めてみたいです」
「それでいい」
「はい」
エリナは笑った。
その笑顔を見て。
セレナが何かを考えるように黙り込む。
「……ねえ」
「ん?」
「ちょっと聞いていい?」
「何を?」
「レオンは」
セレナは一瞬だけ言葉を止めた。
「これから、どうするつもり?」
「どうって?」
「エリナのこと」
「もちろん守る」
「そういう意味じゃない」
セレナの視線がエリナへ向く。
「昨日から、あの子はあなたをかなり頼ってる」
「……まあ」
「あなたも放っておくつもりはないんでしょう?」
「ああ」
「なら」
セレナは少しだけ目を細めた。
「責任は持ちなさいよ」
「責任?」
「人を救うっていうのは、助けたところで終わりじゃないから」
その言葉に。
俺は少しだけ黙った。
確かに。
昨日、エリナを助けることだけを考えていた。
グレンから解放する。
家族を守る。
それができれば十分だと思っていた。
でも。
自由になった後。
彼女がどう生きるのか。
何を選ぶのか。
そこまで考えていなかった。
「……そうだな」
俺が頷く。
「その通りだ」
エリナが慌てた。
「わ、私はそんな……」
「何だ?」
「レオンさんに迷惑をかけたいわけじゃ……」
「迷惑だなんて思ってない」
「でも」
「エリナ」
俺は彼女を見る。
「お前がここにいることを、俺が迷惑だと思ったことは一度もない」
「……」
エリナは目を伏せた。
耳まで赤くなっている。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことでもない」
「それでも」
彼女は小さく笑った。
「嬉しいです」
その瞬間。
白い本が。
かすかに光った。
「……またか」
全員が本を見る。
ページが勝手に開いていく。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
新しい文字が浮かんだ。
『第一選択――エリナ・フェルナ』
エリナの表情が固まる。
「私……?」
続いて。
『過去を捨てる』
『誰かに従う』
『自ら未来を選ぶ』
三つの言葉が並んだ。
「これは……」
ミレイアが息を呑む。
「選択肢?」
「そうみたいだな」
俺が答える。
エリナはしばらく黙っていた。
そして。
「……自分で選ぶ」
小さな声だった。
「私は」
もう一度。
「自分で未来を選びたいです」
その瞬間。
三つの選択肢のうち。
最後の一つが光った。
『自ら未来を選ぶ』
文字がゆっくりと消えていく。
代わりに。
『選択を受理』
と表示された。
エリナが驚いたように目を見開く。
「これで……いいんでしょうか」
「ああ」
俺は頷いた。
「それがお前の選択なら」
エリナは胸に手を当てる。
「……初めてです」
「何が?」
「自分で決めたことが」
その言葉は。
妙に重かった。
俺は何も言えなかった。
代わりに。
エリナの肩にそっと手を置く。
「これから増やしていけばいい」
「……はい」
エリナは微笑んだ。
*
その日の昼。
俺たちは王都を歩いていた。
グレンが拘束されたことで、ヴァルゼン家周辺はかなり騒がしくなっている。
騎士団による調査も始まった。
エリナの家族も保護され、借金についても正式な調査が行われることになった。
すべてが解決したわけではない。
けれど。
昨日までとは明らかに違う。
「……静かですね」
エリナが言った。
「何が?」
「頭の中です」
「頭の中?」
「いつも、次に何を言われるか考えていたんです」
「……」
「怒らせないようにしなきゃとか」
エリナは苦笑する。
「何をすれば嫌われないかとか」
「今は?」
「分かりません」
「それでいい」
「はい」
彼女は空を見上げた。
「分からないって、こんなに楽なんですね」
その言葉を聞いて。
俺は少しだけ胸が痛くなった。
自由というものは。
本来なら当たり前のはずだ。
何を食べるか。
どこへ行くか。
誰と話すか。
誰を好きになるか。
そんなことを自分で決める。
それが普通だ。
でも。
エリナにとっては。
それすら与えられていなかった。
「……レオンさん」
「ん?」
「今日」
「うん」
「少しだけ、お願いがあります」
「何?」
「一緒に買い物をしてもらえませんか?」
「買い物?」
「はい」
エリナは少し恥ずかしそうに笑う。
「自分で選んでみたいんです」
「いいぞ」
「本当に?」
「ああ」
すると。
後ろから声が飛んできた。
「私も行く」
セレナだった。
「え?」
エリナが驚く。
「一人じゃ心細いでしょ」
ルナも手を挙げる。
「私も」
「私もご一緒します」
ミレイアまで加わった。
「お前ら……」
「何よ」
セレナが笑う。
「女の子の買い物に男一人で付き合うつもり?」
「俺だけじゃ駄目なのか?」
「駄目」
「即答かよ」
エリナが小さく笑った。
「ありがとうございます」
「気にしなくていいわ」
セレナはそう言って。
俺をちらりと見る。
「それに」
「それに?」
「私も、少し見ておきたいから」
「何を?」
「あなたがどこまで鈍いのか」
「……意味が分からん」
ルナが吹き出した。
「本当に鈍いんだよなあ」
「何だよ」
「そのうち分かるって」
俺は首を傾げた。
その横で。
ミレイアが少しだけ寂しそうに笑っていたことには。
俺は気づかなかった。
*
商店街に入る。
エリナは最初。
何を見ても手を伸ばさなかった。
「これ、綺麗ですね」
「買えば?」
「でも……」
「欲しいなら買えばいい」
「……」
「金なら俺が――」
「駄目です」
セレナが俺の肩を叩いた。
「そこは本人に選ばせなさい」
「あ」
「『買ってあげる』じゃなくて、『自分で買う』経験が必要なの」
「なるほど」
エリナは少し考えて。
棚に並んでいた小さな髪飾りを手に取った。
「……これ」
「気に入った?」
「はい」
「じゃあ買おう」
「……自分のお金で?」
「もちろん」
エリナは財布を開く。
しばらく悩んで。
店員に小さく声をかけた。
「これをください」
その瞬間。
エリナは何とも言えない顔をした。
「どうした?」
「……嬉しいです」
「そんなに?」
「はい」
髪飾りを胸元に抱える。
「自分で選んで、自分で買いました」
「そうだな」
「……すごく嬉しい」
その横で。
セレナが小さく笑った。
「良かったわね」
「はい」
エリナは髪飾りを眺める。
そして。
突然こちらを見る。
「レオンさん」
「ん?」
「これ……似合いますか?」
「え?」
「髪につけてみてもいいですか?」
「ああ」
エリナが髪に飾りをつける。
黒髪の中に、小さな銀色の飾りが光った。
「どう?」
俺は少し考える。
「似合ってる」
「……本当ですか?」
「ああ」
エリナは笑った。
「ありがとうございます」
セレナが横で呟く。
「……本当に罪な男ね」
「何が?」
「何でもない」
ルナが笑う。
「そのうち刺されるぞ」
「怖いこと言うなよ」
*
夕方。
買い物を終えた俺たちは、宿へ戻った。
食事を済ませ。
それぞれの部屋へ戻ろうとしたところで。
「レオンさん」
エリナに呼び止められた。
「ん?」
「少しだけ」
彼女は迷うように言う。
「話したいです」
「分かった」
俺たちは宿の中庭へ出た。
夜風が静かに吹いている。
「今日は」
エリナが言った。
「すごく楽しかったです」
「それなら良かった」
「自分で選んだものを持って歩くって」
彼女は髪飾りに触れる。
「こんなに嬉しいんですね」
「これから、いくらでもできる」
「……はい」
少し沈黙する。
「レオンさん」
「ん?」
「昨日の夜」
「うん」
「私、変なことを言ってませんでしたか?」
「変なこと?」
「その……」
エリナの顔が赤くなる。
「あなたのことが好きかもしれないって」
「ああ」
「……覚えてるんですね」
「忘れるわけないだろ」
「……」
エリナが俯く。
「私」
小さく息を吐く。
「今まで、自分の気持ちを考える余裕がありませんでした」
「うん」
「だから、これが恋なのか」
「……」
「それとも、助けてもらったから安心しているだけなのか」
「どっちでもいい」
エリナが顔を上げる。
「え?」
「今すぐ答えを出す必要なんてない」
「でも……」
「好きなら好きでいいし、まだ分からないなら分からないでいい」
「……」
「俺は待つ」
エリナはじっと俺を見る。
「どうして?」
「何が?」
「どうして、そんなに待ってくれるんですか?」
「お前が今まで、自分のことを決める時間を奪われてきたからだ」
俺は答えた。
「だから今度は、誰にも急かされないで決めてほしい」
「……」
エリナの目が潤む。
「レオンさん」
「ん?」
「私」
彼女は一歩近づいた。
「少しだけ」
「うん」
「甘えてもいいですか?」
「ああ」
エリナは。
そっと俺の胸に身体を預けた。
昨日と同じ。
けれど。
昨日とは違った。
昨日は。
恐怖から逃げるためだった。
今日は。
自分の意思で。
俺のそばにいたいと思っている。
俺は彼女の背中に手を回す。
「……温かいですね」
「そうか?」
「はい」
エリナは目を閉じる。
「安心します」
「それなら、しばらくこうしていればいい」
「……はい」
しばらく。
誰も何も言わなかった。
夜風だけが静かに二人の間を通り抜けていく。
やがて。
エリナが顔を上げた。
目が合う。
彼女は少しだけ迷って。
そして。
俺の頬に、そっと触れた。
「……これも」
「ん?」
「私が決めてもいいですか?」
俺は頷いた。
「ああ」
エリナは安心したように微笑んだ。
そして。
ほんの一瞬だけ。
俺の頬に唇を触れさせた。
すぐに離れる。
顔は真っ赤だった。
「……これが」
「うん」
「私の、今日の選択です」
俺は笑った。
「いい選択だと思う」
「……もう」
エリナは恥ずかしそうに笑った。
けれど。
その笑顔には。
もう怯えはなかった。
*
その夜。
俺は部屋へ戻った。
扉を閉めた瞬間。
「遅かったわね」
「……」
セレナがいた。
「何で俺の部屋にいる?」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「ちょっと話があるの」
セレナは椅子に座っていた。
「何?」
「エリナのこと」
「……」
「あなた、本当に優しいわね」
「急にどうした?」
「でも」
セレナは視線を逸らした。
「優しいだけじゃ、困る人もいるのよ」
「どういう意味?」
「……鈍感」
「またそれか」
セレナは立ち上がった。
俺の前まで来る。
「エリナだけじゃない」
「?」
「ミレイアも」
俺は黙った。
「ルナも」
「……」
「私も」
セレナは。
小さな声で言った。
「あなたのこと、特別に思ってる」
俺は何も言えなかった。
「だから」
セレナは少しだけ笑う。
「エリナが悪いとか、私が先だとか、そういう話じゃない」
「……」
「私は私で、ちゃんと自分で決めたい」
白い本が。
部屋の机の上で開いた。
『第二選択――セレナ』
「……」
セレナが本を見る。
そこには。
『守る』
『離れる』
『想いを伝える』
三つの選択肢。
セレナは。
しばらく黙っていた。
「……こんなの」
「うん」
「ずるいわね」
「何が?」
「まるで私の気持ちを覗かれてるみたい」
セレナは苦笑する。
「でも」
彼女は本を閉じた。
「私は、本に決められるつもりはない」
「……」
「だから」
セレナは俺を見る。
「今は言わない」
「え?」
「自分のタイミングで言う」
そう言って。
セレナは部屋を出ていった。
残された俺は。
しばらく動けなかった。
「……何なんだよ」
小さく呟く。
けれど。
胸の奥が。
妙に熱かった。
*
翌日。
白い本は。
さらに変化していた。
『第二章――選択』
『第一選択――エリナ・フェルナ』
『選択済』
『第二選択――セレナ・アルシェ』
『保留』
そして。
その下に。
『第三選択――ルナ・フェリス』
ルナはページを覗き込み。
「私もか」
「みたいだな」
「じゃあ、私も考えとく」
「何を?」
「何を選ぶか」
「……」
「レオン」
「ん?」
「私もね」
ルナは笑った。
「あなたといる時間、結構好きだよ」
「そうか」
「だから」
ルナは本を閉じる。
「そのうち、ちゃんと答える」
「分かった」
「ただし」
「?」
「逃げるのは禁止ね」
「逃げないよ」
「ならよし」
そして。
最後に。
ミレイアが本の前へ座った。
彼女は何も言わなかった。
ただ。
静かにページへ手を置く。
「ミレイア?」
「……私は」
彼女が言った。
「まだ、自分の気持ちがよく分かりません」
「うん」
「でも」
ミレイアは俺を見る。
「レオンと一緒にいると」
少しだけ頬を赤くする。
「記憶を失っていた頃よりも、自分が自分であると感じます」
「……」
「だから」
彼女は微笑んだ。
「私も、選ぶための時間が欲しいです」
「もちろん」
白い本が光った。
『第三選択――ルナ・フェリス』
『第四選択――ミレイア・セレス』
そして。
四人の名前の下に。
新しい文章が浮かぶ。
『選択は、強制されない』
俺はその文字を見つめた。
それから。
少しだけ笑った。
「……ようやく、この本も分かってきた気がする」
「何が?」
セレナが聞く。
「この本が決めるんじゃない」
「ええ」
ミレイアが頷く。
「私たちが決める」
ルナが笑う。
「なら、話は簡単だ」
エリナも。
小さく頷いた。
「はい」
俺たちは。
それぞれ違う場所に立っている。
過去も違う。
考え方も違う。
俺への想いだって。
きっと同じじゃない。
だから。
誰かを選ばなければならないわけじゃない。
誰かと同じ気持ちにならなければならないわけでもない。
大切なのは。
自分の意思で選ぶこと。
それだけだった。
その日の夜。
俺は一人で窓の外を眺めていた。
王都の灯りが遠くまで続いている。
エリナは。
ようやく眠れるようになったらしい。
セレナは。
明日の予定を確認している。
ルナは。
宿の厨房で何か食べ物をもらっている。
ミレイアは。
白い本の記録を整理している。
そんな日常が。
妙に心地よかった。
そのとき。
背後から声がした。
「レオン」
「ん?」
ミレイアだった。
「少しだけ、いいですか?」
「ああ」
ミレイアは隣へ来る。
しばらく。
二人で窓の外を眺めた。
「昨日」
「うん」
「エリナさんが笑っていたのを見て」
「……」
「私も嬉しかったです」
「ああ」
「でも」
ミレイアが小さく息を吐く。
「少しだけ、寂しかった」
俺は彼女を見る。
「どうして?」
「分かりません」
「そっか」
「でも」
ミレイアは微笑んだ。
「これも、私の気持ちなんだと思います」
「……」
「だから」
彼女は胸に手を当てる。
「ちゃんと覚えておきたいです」
俺は頷いた。
「ああ」
ミレイアは。
それ以上何も言わなかった。
ただ。
俺の隣に座った。
肩が触れそうな距離。
それだけだった。
けれど。
その距離を。
俺たちはどちらも離れなかった。
白い本が。
部屋の向こうで静かに光っている。
ページには。
新しい文字。
『選択者――四名』
『記録者――一名』
その下に。
『関係性――変化中』
さらに。
『未来――未確定』
俺はその文字を見て。
少しだけ笑った。
未確定。
それでいい。
誰かに決められた未来なんて。
もう必要ない。
エリナは。
自分の人生を選び始めた。
セレナも。
自分の気持ちと向き合い始めた。
ルナも。
そしてミレイアも。
きっとこれから。
自分自身の答えを見つけていく。
俺だって。
いつか答えを出さなければならない。
誰を守るのか。
誰と歩くのか。
どんな未来を選ぶのか。
それは。
まだ分からない。
でも。
今は。
分からなくてもいいと思えた。
窓の外で。
王都の鐘が鳴る。
一回。
二回。
そして。
三回。
その音に合わせるように。
白い本がひとりでに閉じた。
表紙に浮かんだ文字は。
『第三章――来訪者』
「……第三章?」
俺が呟いた瞬間。
窓の外。
王都の上空に。
巨大な光が走った。
「レオン!」
ミレイアが立ち上がる。
俺も窓へ駆け寄った。
夜空の中央。
雲を突き抜けるように。
一筋の光が落ちてくる。
王都の外壁。
その向こう。
地面が揺れた。
轟音。
宿全体が震える。
「何だ……?」
セレナとルナ。
そしてエリナも部屋から飛び出してくる。
「今の何!?」
「分からない!」
アルベルトが階段を駆け上がってきた。
「全員、外を見るんだ!」
俺たちは窓へ集まる。
遠く。
王都の外に。
巨大な黒い柱が立っていた。
その柱を中心に。
空が歪んでいる。
「……あれは」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「知ってるのか?」
「ああ」
「何なんだ?」
アルベルトは。
震える声で答えた。
「古代記録に一度だけ登場する」
「名前は?」
長い沈黙。
そして。
「記録喰らい」
その言葉を聞いた瞬間。
白い本が。
今までにないほど激しく震えた。
ページが勝手に開く。
文字が次々と浮かぶ。
『警告』
『観測不能』
『記録不能』
『未来予測不能』
そして。
最後に。
『第三章――来訪者』
その下に。
たった一行。
『記録を食べる者が、王都へ到達』
俺は。
拳を握った。
「……またか」
エリナが俺の袖を掴む。
「レオンさん」
「大丈夫だ」
「でも……」
「大丈夫」
俺はもう一度言った。
「今度は、誰かに決められた未来を待つんじゃない」
白い本を見る。
「俺たちが決める」
セレナが剣を抜いた。
「そうね」
ルナも杖を構える。
「面白くなってきたじゃん」
ミレイアは静かに頷く。
エリナも。
震える手で。
それでも自分の武器を握った。
そして。
俺たちは。
王都の外へ向かって走り出した。
その先に。
何が待っているのか。
まだ誰にも分からない。
けれど。
今度の物語は。
誰かに書かれたものじゃない。
俺たち自身が。
選びながら進んでいく物語だ。
だから。
たとえその先に。
世界そのものを食らう怪物が待っていたとしても。
俺たちは。
自分たちの足で。
その未来へ進む。
白い本に。
最後の一文が浮かんだ。
『次の記録者――未定』
俺はそれを見て。
静かに笑った。
「だったら」
俺は剣を握る。
「最後まで、未定のままでいい」
夜明け前の王都を。
俺たちは走った。




