第三十四話 夜伽
王都の夜は静かだった。
けれど。
俺たちの足取りだけは、静けさとは程遠かった。
ヴァルゼン家へ向かう道を、俺たちは急いでいた。
隣では、エリナが俯いたまま歩いている。
「……本当に、行くんですか?」
「ああ」
「私のせいで……」
「違う」
俺は即座に遮った。
「お前のせいじゃない」
「でも」
「何度も言わせるな」
エリナは黙った。
しばらくして。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
「まだ何もしてないぞ」
「それでも」
エリナは少しだけ笑った。
「誰かにそう言ってもらえたのは、久しぶりです」
その笑顔は。
今にも消えてしまいそうなほど弱かった。
だからこそ。
俺は思った。
絶対に、この笑顔を取り戻す。
ヴァルゼン家の屋敷が見えてきた。
門の前には騎士が並んでいる。
「止まれ!」
声が響く。
俺たちは足を止めた。
「ここから先はヴァルゼン家の私有地だ」
「エリナを返してもらいに来た」
俺が言う。
騎士たちがざわめく。
「何を言っている?」
「その子は誰かの所有物じゃない」
「貴様――」
「待て」
屋敷の中から声がした。
ゆっくりと扉が開く。
現れたのは。
グレンだった。
「来ると思っていた」
その顔には余裕がある。
「エリナ」
「……はい」
「こちらへ来い」
エリナの身体が強張った。
だが。
動かなかった。
「エリナ?」
「……」
「聞こえなかったか?」
グレンの声が低くなる。
エリナは震えている。
それでも。
一歩も動かなかった。
俺は何も言わない。
セレナも。
ルナも。
ミレイアも。
アルベルトも。
ただ見守っている。
やがて。
エリナが顔を上げた。
「……嫌です」
グレンの表情が止まった。
「何?」
「私は……」
声は震えている。
それでも。
今度は逃げなかった。
「あなたのところには戻りません」
静寂。
グレンが笑った。
「随分と偉くなったな」
「……」
「誰に吹き込まれた?」
エリナは答えない。
「レオンか?」
俺が前に出る。
「俺が何だ?」
「お前は本当に余計なことをする」
「そうかもな」
「この女を助けられると思っているのか?」
「助ける」
「家族は?」
エリナの顔が青ざめる。
「お前が逆らえば、家族がどうなるか分かっているだろう」
「……」
「父親の借金も」
「……」
「母親の仕事も」
エリナが俯く。
「全部、俺の父親次第だ」
グレンは笑った。
「お前は俺から逃げられない」
その瞬間。
「違います」
エリナが言った。
「……何?」
「逃げられないんじゃありません」
エリナは震えながらも。
はっきりと顔を上げた。
「逃げるんです」
グレンの目が細くなる。
俺は。
思わず笑った。
「そういうことだ」
グレンの魔力が膨れ上がる。
次の瞬間。
屋敷の壁が震えた。
「ならば、力ずくで連れていく」
戦いが始まった。
だが。
今回は。
俺たちだけの戦いじゃなかった。
エリナ自身が。
初めて自分の意思で立っていた。
そして。
それが何よりも大きかった。
*
戦いが終わった頃には。
空が白み始めていた。
グレンは倒れていた。
その背後には。
王都騎士団が並んでいる。
アルベルトが持ち出した証拠。
ヴァルゼン家が隠していた記録。
そして。
白い本に記された記録。
それらが揃ったことで。
グレンを守っていた力は崩れた。
エリナの家族も。
無事だった。
「……本当に?」
エリナが何度も確認する。
「ああ」
俺は頷いた。
「もう、お前を縛るものはない」
エリナはその場に座り込んだ。
そして。
泣いた。
声を押し殺すこともなく。
誰かの顔色を窺うこともなく。
ただ。
泣き続けた。
ミレイアがそっと隣に座る。
セレナも。
ルナも。
少し離れたところで見守っていた。
しばらくして。
エリナが俺を見る。
「レオンさん」
「ん?」
「私には……」
言葉が止まる。
「私には、こんなことしか……」
「そんなこと?」
「……はい」
エリナは涙を拭った。
「今まで何もできなくて」
「違う」
俺は彼女の言葉を遮った。
「お前は最後、自分で選んだだろ」
「……」
「それで十分だ」
エリナは俺を見る。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
「……私」
小さく息を吸う。
「もう少しだけ、あなたのそばにいてもいいですか?」
「もちろん」
その答えを聞いた瞬間。
エリナの表情が緩んだ。
そして。
彼女は俺の胸元に額を預けた。
「……怖かったです」
「ああ」
「ずっと」
「ああ」
「でも……今は少しだけ、怖くありません」
俺は何も言わず。
彼女の肩に手を置いた。
エリナはそのまま。
しばらく俺から離れなかった。
*
その夜。
俺たちは宿に戻った。
エリナには別の部屋を用意するつもりだった。
だが。
「レオンさん」
「どうした?」
「……少しだけ、話してもいいですか?」
「ああ」
部屋に入る。
エリナは窓際に座った。
月明かりが。
彼女の横顔を照らしている。
「私」
エリナが言った。
「これから、何をすればいいのか分かりません」
「すぐに決めなくていい」
「でも」
「今まで誰かに決められてきたんだろ?」
「……はい」
「なら、これからは自分で決めればいい」
エリナは黙っている。
「ゆっくりでいい」
「……レオンさんは」
「ん?」
「私が、そばにいても……嫌じゃないですか?」
「嫌なわけないだろ」
エリナは少し笑った。
「……よかった」
そして。
ほんの少しだけ。
俺との距離を縮めた。
「レオンさん」
「ん?」
「私……あなたのことが好きなのかもしれません」
「……」
「まだ自分でもよく分かりません」
エリナは頬を赤くする。
「でも」
彼女は俺の手に触れた。
「あなたのそばにいると、自分でいられる気がします」
俺はその手を握り返した。
「それなら」
俺は言った。
「焦らなくていい」
「……はい」
エリナは微笑んだ。
その夜。
俺たちは長い時間、互いのことを話した。
これまでのこと。
これからのこと。
そして。
誰にも決められない未来のことを。
やがて。
エリナは俺の肩に寄りかかった。
「……今日は、このままでいたいです」
「ああ」
「明日の朝になったら」
「うん」
「また、ちゃんと自分で選びます」
「それでいい」
月明かりの中。
俺たちは静かに寄り添った。
それ以上のことは。
言葉にする必要がなかった。
*
翌朝。
食堂に降りると。
セレナが俺を見るなり。
「……随分遅かったわね」
「何のことだ?」
「別に?」
ルナがニヤニヤしている。
「レオン、顔が緩んでる」
「そうか?」
「そうよ」
ミレイアまで笑った。
「エリナさんも、とても嬉しそうですね」
「……!」
エリナの顔が真っ赤になる。
「ち、違います!」
「何が違うの?」
セレナが楽しそうに聞く。
「そ、それは……」
エリナが俺を見る。
俺も。
思わず笑ってしまった。
「……もう」
エリナは恥ずかしそうに俯いた。
だが。
その顔には。
昨日までなかったものがあった。
自分で選ぶことへの喜び。
そして。
誰かを好きになることへの戸惑い。
それを見て。
セレナが小さく息を吐く。
「……本当に、増えていくわね」
「何が?」
「ヒロイン」
「お前な」
ルナが笑う。
「でも、悪くないんじゃない?」
「何が?」
「こういうの」
ミレイアも頷く。
「私も……少し、羨ましいです」
「ミレイアまで?」
セレナが俺を見る。
「レオン」
「ん?」
「覚悟しておいた方がいいかもね」
「何の?」
「これから」
セレナは笑った。
ルナも。
ミレイアも。
そして。
エリナも。
俺は嫌な予感しかしなかった。
だが。
不思議と。
悪い気はしなかった。
白い本が。
テーブルの上で。
ひとりでに開く。
新しいページ。
そこには。
『第二章――選択』
そして。
その下に。
四人の少女の名前が並んでいた。
『ミレイア』
『セレナ』
『ルナ』
『エリナ』
最後に。
新しい一文が浮かぶ。
『彼女たちは、それぞれの意思で記録者を選ぶ』
俺は。
その文字を見つめた。
これから先。
俺たちの関係は。
きっと今までとは変わっていく。
誰かに決められた物語じゃない。
俺たち自身が選ぶ物語へ。
その最初の一歩を。
俺たちは踏み出した。




