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第三十三話 沈黙する少女



 王都の朝は、昨日までと何も変わっていなかった。


 中央広場ではいつものように人が行き交い、噴水から流れ落ちる水が朝日に反射している。


 露店には焼きたてのパンが並び、通りの向こうでは荷馬車が何台も列を作っていた。


 昨日、俺たちが見たもの。


 噴水に刻まれた文字。


 記録者を記録する存在。


 リゼリア。


 そして、古い本に書かれていた『六人目――読者』という言葉。


 そんなものが全部嘘だったかのように。


 王都は平然と朝を迎えていた。


「……本当に何も変わってないな」


 俺が呟くと、隣を歩いていたセレナが肩を竦めた。


「変わってたら困るでしょう」


「まあな」


「昨日あんなことがあったのに、よく普通に朝ご飯食べられたわね」


「腹は減るからな」


「神経が太すぎるのよ」


 そう言いながらも、セレナの表情は硬い。


 俺たち五人は、王城から少し離れた大通りを歩いていた。


 目的は一つ。


 昨日、古い本に記録された『次の記録』を探すこと。


 何が始まっているのか。


 誰が記録を続けているのか。


 そして。


 六人目として記された『読者』が何を意味するのか。


 それを確かめるためだった。


「まずは昨日の男について調べる」


 アルベルトが言った。


「赤い帽子の男?」


「ああ」


「何か分かったの?」


「まだ何も」


 アルベルトは手に持った紙を見た。


「だが、王都の記録には不自然な空白がある」


「また?」


「まただ」


 ルナがため息を吐く。


「最近、空白ばかりだな」


「空白というのは、何かがあった証拠でもある」


「どういうこと?」


 ミレイアが尋ねた。


 アルベルトは少し考えてから答える。


「本来なら記録されているはずのものが、意図的に抜けている」


「誰かが消した?」


「可能性は高い」


「誰が?」


「それが分からない」


 俺は笑った。


「昨日から何回目だ?」


「数えていない」


「俺も」


 ミレイアが小さく笑う。


 その笑顔を見て。


 俺は少しだけ安心した。


 昨日。


 彼女はリゼリアと同じ記録だと言われた。


 元々一つだった存在が三つに分かれた。


 観測する者。


 記憶する者。


 そして。


 選択する者。


 俺たちが知ったことは多い。


 けれど。


 知れば知るほど、分からないことも増えていく。


 そんな中で。


 ミレイアが今まで通り笑っていることだけは、妙に嬉しかった。


「レオン」


「ん?」


「どうしました?」


「いや」


 俺は首を振る。


「何でもない」


「そうですか?」


「ああ」


 ミレイアは少し不思議そうに俺を見た。


 そのときだった。


「おい」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 そこには。


 三人の男が立っていた。


 全員、身なりがいい。


 高級そうな服。


 腰には装飾の施された剣。


 その中心にいる男は、特に目立っていた。


 金髪。


 整った顔。


 細身だが鍛えられている。


 そして。


 人を見下すことに慣れている目。


「お前」


 男は俺を見る。


「昨日、中央広場にいただろ」


「……誰だ?」


「俺を知らない?」


 男は笑った。


「王都では珍しいな」


「興味ない」


 俺が歩き出そうとすると。


 男の取り巻きの一人が前に出た。


「待てよ」


「何だ?」


「グレン様が話してるんだ」


「だから?」


 男の顔から笑みが消えた。


「……生意気だな」


 セレナが一歩前に出る。


「そっちこそ、何の用なの?」


 グレンと呼ばれた男はセレナを見る。


「お前たちは昨日、地下資料室に入っただろ」


「……」


 俺たちは黙った。


「どうして知ってる?」


 ルナが問う。


「王城の中に、俺の知らない場所なんてそうそうない」


「王族なのか?」


「近いな」


 グレンは笑った。


「父が王都騎士団の副団長をしている」


「なるほど」


 アルベルトが静かに言った。


「グレン・ヴァルゼン」


「ほう」


「知ってるの?」


 セレナが聞く。


「ヴァルゼン家は王都でも有数の名家だ」


 アルベルトの声が低くなる。


「軍部にも影響力がある」


「へえ」


「へえ、じゃない」


 アルベルトが俺を見る。


「不用意に敵に回すな」


 グレンはその会話を聞いて満足そうに笑った。


「話が早くて助かる」


「何が目的だ?」


 俺が聞く。


「昨日、地下資料室で何を見た?」


「何も」


「嘘だな」


「なら勝手に調べればいい」


「そうしたいんだけどな」


 グレンが肩を竦める。


「その資料室には、俺の権限でも入れない場所がある」


「だから俺たちに聞いてる?」


「そういうことだ」


 俺はグレンを見た。


 こいつは。


 嫌なタイプだ。


 自分が力を持っていることを理解している。


 そして。


 その力を使えば、大抵のことはどうにかなると思っている。


「何も知らない」


「そうか」


 グレンはあっさり引いた。


「ならいい」


 そう言って。


 俺たちの横を通り過ぎる。


 そのとき。


 グレンの取り巻きの一人が。


 何かを地面に落とした。


 小さな紙片だった。


 男はそれを拾う。


 そして。


 何事もなかったように歩き去った。


「……」


 俺はその背中を見る。


「何だったの?」


 セレナが聞く。


「分からない」


 だが。


 嫌な予感がした。


 その予感は。


 すぐに当たった。


 グレンたちが去ってから数分。


 通りの角から。


 一人の少女が出てきた。


 黒髪。


 細い身体。


 質素な服。


 王都の貴族街を歩くには、あまりにも目立たない格好だった。


 彼女は俺たちを見ると。


 一瞬だけ足を止めた。


 そして。


 怯えたように目を逸らす。


「……」


 そのまま通り過ぎようとした。


「待って」


 俺が声をかける。


 少女の肩が跳ねた。


「はい……」


「さっきの男たちと一緒にいた?」


「……」


「グレンって男」


 少女は答えない。


 ただ。


 小さく頷いた。


「知り合い?」


「……はい」


「どういう関係?」


「……」


 少女の顔が青ざめた。


「答えたくなければいい」


 俺がそう言うと。


 少女は少しだけ顔を上げた。


「私は」


 声が震えている。


「グレン様の……付き人です」


「付き人?」


「はい」


「名前は?」


「……エリナ」


 それが。


 彼女の名前だった。


「エリナ」


 ミレイアが優しく呼ぶ。


 エリナは彼女を見る。


「昨日、何か見ていた?」


「……」


「俺たちが地下資料室から戻ってきたところを」


 エリナは黙った。


「別に責めてるわけじゃない」


 俺は言った。


「ただ、何か知っているなら教えてほしい」


 エリナは唇を噛んだ。


「……言えません」


「どうして?」


「……」


 彼女の指が震えている。


 ミレイアが一歩近づいた。


「怖いんですか?」


 エリナは答えない。


 その代わり。


 袖口をぎゅっと握った。


 そこから。


 わずかに。


 青黒い跡が見えた。


「……」


 俺は目を細めた。


 ミレイアも気づいたらしい。


「その腕」


「……!」


 エリナが慌てて袖を下げる。


「何でもありません」


「怪我してるだろ」


「大丈夫です」


「大丈夫には見えない」


「本当に」


 声が強くなる。


 その瞬間。


 エリナの目に。


 恐怖が浮かんだ。


 俺たちに対する恐怖じゃない。


 もっと別の。


 ここで何かを話してしまったことへの恐怖。


「……すみません」


 エリナは頭を下げた。


「失礼します」


 そして。


 逃げるように去っていった。


「……何だったの?」


 セレナが呟く。


「明らかに普通じゃない」


 ルナが言う。


 俺はエリナが消えた角を見る。


「追う?」


「いや」


 アルベルトが止めた。


「今追えば、余計に危険だ」


「でも」


「彼女は誰かを恐れている」


「グレン?」


「ああ」


 アルベルトは低い声で言った。


「そして、おそらく彼女は逃げられない」


 俺は黙った。


 あの目。


 あれは。


 何度か見たことがある。


 自分の意思で動いているように見えて。


 実際には。


 誰かに行動を決められている人間の目。


 それから三日。


 俺たちは王都で調査を続けた。


 グレンについて。


 エリナについて。


 そして。


 『記録者』について。


 だが。


 グレンの名前を調べれば調べるほど。


 妙なことが分かってきた。


「……これ、本当なの?」


 セレナが資料を見ながら言う。


「ああ」


 アルベルトが答える。


「王都騎士団副団長の息子で、現在は王立魔導学院の特別推薦枠」


「それだけなら普通じゃない?」


「問題は、その後だ」


 アルベルトが紙を指差す。


「決闘で相手を再起不能にした記録が三件」


「処分は?」


「なし」


「……」


「魔法実験で学院施設を破壊した記録が二件」


「処分は?」


「なし」


「貴族相手の暴行」


「なし」


「平民への傷害」


「なし」


「……全部なし?」


「ああ」


 ルナが眉をひそめる。


「どうして?」


「父親の影響力だろう」


「そんなに?」


 アルベルトは頷いた。


「それだけではない」


「まだあるの?」


「グレン本人の実力だ」


 俺が聞く。


「強いのか?」


「王立魔導学院では、現在最上位」


「どのくらい?」


「一対一なら、王国騎士の上位数名と互角と言われている」


「なるほど」


「そして」


 アルベルトが一枚の紙を出す。


「魔力属性が特殊だ」


「何?」


「他人の魔力干渉を一時的に無効化する」


 セレナが顔をしかめる。


「それって……」


「ああ」


 俺も理解した。


「かなり厄介だ」


 グレンが単なる金持ちの馬鹿なら。


 まだよかった。


 だが。


 あいつには。


 権力と実力。


 両方がある。


 だからこそ。


 誰も止められない。


「エリナは?」


 俺が聞く。


 アルベルトが別の資料を見る。


「ヴァルゼン家に仕える下級貴族の家の出身」


「それだけ?」


「家が多額の借金を抱えている」


「……」


「父親がグレンの父親から金を借りている」


「なるほど」


「つまり」


 セレナが言う。


「エリナ自身も逃げられない」


 アルベルトは頷いた。


「家族を人質に取られているようなものだ」


 その日の夕方。


 俺たちは学院の近くを歩いていた。


 すると。


 路地の奥から。


「……やめてください」


 声が聞こえた。


 俺たちは足を止める。


「お願いです」


 エリナだった。


 その前には。


 グレン。


 そして取り巻きが二人。


「何度言えば分かる?」


 グレンが言っている。


「俺が呼んだら来る」


「はい……」


「返事は?」


「……はい」


「もっと大きな声で」


「はい!」


 エリナが震える。


 俺は拳を握った。


 グレンが彼女の顎に手をかけた。


「顔を上げろ」


 エリナは逆らわない。


「そうだ」


 グレンは笑う。


「お前は俺の側にいればいい」


「……」


「それ以外のことを考える必要はない」


 エリナは俯いた。


 グレンは彼女の耳元で何かを囁いた。


 内容までは聞こえない。


 だが。


 エリナの顔から。


 一気に血の気が引いた。


「……分かりました」


 彼女が言った。


 その声を聞いた瞬間。


 俺は。


 我慢できなかった。


「おい」


 グレンが振り返る。


「……お前か」


「その子から離れろ」


「何だ?」


「聞こえなかったか?」


 俺は前に出る。


「その子から離れろ」


 グレンは笑った。


「英雄様は正義感が強いな」


「関係ない」


「関係あるだろ」


「ない」


「この女は俺の取り巻きだ」


 エリナの身体が小さく震えた。


「違う」


 俺は言う。


「取り巻きじゃない」


「本人に聞けば?」


 グレンがエリナを見る。


「俺について来たいよな?」


「……」


 エリナは黙っている。


「答えろ」


「……はい」


「ほら」


 グレンは笑う。


「本人もそう言ってる」


「……」


 俺はエリナを見る。


 彼女は。


 助けを求めるような目をしていた。


 けれど。


 声には出さない。


 出せない。


「レオン」


 セレナが小声で言う。


「今はやめた方がいい」


「分かってる」


 俺も。


 馬鹿じゃない。


 ここでグレンを殴れば。


 エリナがもっと酷い目に遭う。


 それが分かるから。


 余計に腹が立つ。


「グレン」


 俺は言った。


「お前」


「何だ?」


「強いんだな」


 グレンが笑う。


「当然だ」


「なら」


 俺は続けた。


「弱い人間を従わせてないと、そんなに偉そうにできないのか?」


 空気が変わった。


 グレンの笑顔が消えた。


「……面白いことを言う」


「本当のことだろ」


「お前」


 グレンの魔力が膨らむ。


 路地の空気が重くなる。


 エリナが震えた。


「やめてください!」


 彼女が叫ぶ。


 俺はエリナを見る。


「どうして止める?」


「……」


「俺が勝てないと思ってる?」


「違います!」


 エリナは首を振る。


「そうじゃなくて……」


 その先を言えない。


 グレンが笑った。


「いい子だ」


 エリナの肩が跳ねる。


 その反応を見て。


 俺は確信した。


 こいつは。


 ただ怖がっているだけじゃない。


 日常的に。


 逃げることを許されていない。


 拒否することを許されていない。


 そして。


 拒否すれば。


 本人だけでなく。


 家族まで何かを失う。


 そういう状況に置かれている。


「……エリナ」


「はい」


「俺たちに助けてほしいなら」


「……」


「何も言わなくていい」


 彼女が俺を見る。


「ただ」


 俺は言った。


「一度だけ、首を横に振ってくれ」


「……」


 エリナの目が揺れる。


 グレンが彼女を見る。


 長い沈黙。


 そして。


 エリナは。


 ゆっくり。


 首を横に振った。


 ほんの一度だけ。


 俺は頷いた。


「分かった」


 グレンが笑う。


「何が分かった?」


「今は何もしない」


「賢明だな」


「ただし」


 俺はグレンを見る。


「次は違う」


 グレンは鼻で笑った。


「次があると思うか?」


「ある」


「なぜ?」


「お前が、俺を見逃さない目をしてるからだ」


「……」


「俺も同じだ」


 グレンは何も言わなかった。


 俺たちはその場を離れた。


 角を曲がったところで。


 セレナが俺の腕を掴んだ。


「どうして止めたの?」


「エリナが止めたから」


「でも」


「今、俺たちがグレンを倒しても」


 俺は振り返る。


「エリナの家族がどうなるか分からない」


 アルベルトが頷いた。


「正しい判断だ」


「……腹立つけどな」


「私もよ」


 ルナが言った。


「でも、あの子を巻き込むわけにはいかない」


 ミレイアは黙っていた。


「ミレイア?」


「……私」


 彼女が呟く。


「少しだけ、分かる気がします」


「何が?」


「記憶を失う怖さ」


 俺は何も言わなかった。


「自分が自分じゃなくなっていく感じ」


 ミレイアが手を握る。


「誰かに、自分のことを決められてしまう感じ」


「……」


「だから」


 彼女は顔を上げた。


「助けたいです」


 その目には。


 迷いがなかった。


「でも」


 セレナが言う。


「今すぐじゃない」


「はい」


「なら、どうする?」


 俺は考えた。


「グレンの弱点を探す」


「弱点?」


「ああ」


 権力がある。


 実力もある。


 なら。


 それ以外を探す。


「人間なら、何かある」


 その夜。


 俺たちは王城の資料室へ戻った。


 古い本を開く。


 昨日、俺が書いたページには。


 新しい文字が増えていた。


『記録者――レオン・アルヴェイン』


 その下。


『共同記録対象――ミレイア、セレナ、ルナ、アルベルト』


 そして。


 さらに一行。


『未記録対象――エリナ』


「……」


 俺はその文字を見る。


「エリナが未記録?」


 アルベルトが頷く。


「おそらく」


「どういう意味だ?」


「記録が存在していない」


「でも、エリナは普通に存在してる」


「だからこそ」


 アルベルトが古い本を睨む。


「この世界の記録体系から外れている可能性がある」


「つまり?」


「リゼリアと同じだ」


 俺は息を呑む。


「……記録される前から存在している?」


「可能性はある」


 ミレイアが本に触れる。


 その瞬間。


 ページがめくれた。


『未記録対象――エリナ』


『記録不能』


『観測不能』


『固定不能』


「……」


 セレナが呟く。


「どうしてエリナが?」


 ページが変わる。


『原因――』


 文字が止まる。


 黒いインクが何度も重なる。


 そして。


『観測者による干渉』


 俺は目を見開いた。


「観測者?」


 アルベルトが呟く。


「誰かが、エリナを記録させないようにしている?」


「でも、何のために?」


 ルナが聞く。


 答えは。


 すぐに現れた。


『器の保護』


「器?」


 ミレイアが呟く。


 次の文字。


『第三分割体との接触を確認』


『選択者との接触を確認』


『観測者との接触を確認』


 俺はページを見つめる。


「三人……」


 ミレイア。


 俺。


 そして。


 もう一人。


「エリナが、三分割された器と関係してる?」


「分からない」


 アルベルトが答える。


 そのとき。


 ページに新しい文字が浮かんだ。


『注意』


 続いて。


『エリナ・フェルナ』


『死亡予定――』


 俺の心臓が跳ねた。


「待て」


 文字が続く。


『第七周期・王都崩壊時』


「……死亡?」


 ミレイアが顔を青くする。


「どういうことですか?」


 俺はページを睨む。


 その下に。


 さらに文字が浮かぶ。


『原因――』


 そこで。


 文字が止まった。


 何度も。


 何度も。


 書き直される。


 そして。


 最後に。


『未確定』


「……」


 俺は拳を握った。


 まだ確定していない。


 なら。


 変えられる。


 昨日。


 俺は言った。


 自分たちで記録する。


 誰かに決められる前に。


 自分たちで選ぶ。


 それなら。


 この記録も。


 書き換えられるはずだ。


「アルベルト」


「何だ?」


「この『死亡予定』」


「ああ」


「消せるか?」


「分からない」


「なら」


 俺は羽根ペンを取った。


「試してみる」


「レオン?」


 セレナが驚く。


 俺は。


 古い本の余白に。


 自分の手で書いた。


『エリナ・フェルナ――生存』


 何も起きない。


「……」


「何も変わらない?」


 セレナが言う。


「いや」


 俺はページを見る。


 俺が書いた文字の下に。


 別の文字が浮かんでいた。


『記録を受理』


 そして。


『未来記録を更新』


「……」


 全員が黙った。


 アルベルトが眼鏡を押し上げる。


「今のを見たか?」


「ああ」


「未来の記録が」


「書き換わった」


 俺はページをめくる。


『エリナ・フェルナ』


『死亡予定――未確定』


 その文字が。


 ゆっくり変化する。


『死亡予定――削除』


 セレナが息を呑んだ。


「本当に……変えられた」


 俺は羽根ペンを見る。


「これが」


 昨日リゼリアが言っていたことなのか。


「自分たちで記録する」


 その瞬間。


 部屋の奥から。


 紙をめくる音がした。


 一度。


 二度。


 三度。


 俺たちは一斉に振り返る。


 誰もいない。


 だが。


 資料室の一番奥。


 昨日までは何もなかった棚に。


 一冊の本が置かれていた。


 白い表紙。


 その表紙に。


 黒い文字が一つだけ。


『E』


「……」


 ミレイアが息を呑んだ。


「エリナ……?」


 俺は本へ近づく。


 その瞬間。


 背後から。


「やめて!」


 声がした。


 振り返る。


 そこに。


 エリナが立っていた。


 息を切らしている。


 髪は乱れ。


 顔には怯えが浮かんでいる。


「どうしてここに?」


 俺が聞く。


「グレン様が……」


「グレン?」


「皆さんを探していると」


 エリナは震える声で言った。


「それで……」


「どうやってここまで?」


「王城の使用人に……」


 言葉が途切れる。


 彼女は。


 白い本を見る。


「それに触らないでください」


「何を知ってる?」


「……」


「エリナ」


「知りません」


「本当に?」


「……」


 エリナは目を伏せる。


 そして。


「私が触ると」


 小さく呟いた。


「誰かが死ぬんです」


「……何?」


「今まで何度も」


 彼女の手が震える。


「私が何かを知ろうとすると、誰かが傷つく」


「誰に?」


「……グレン様に」


 俺は黙った。


「私が逃げようとすると」


 エリナは続ける。


「家族に何かが起きる」


「……」


「私が誰かに助けを求めると、その人が学院を追われたり、仕事を失ったり」


 声が震える。


「だから」


 彼女は俯いた。


「黙っているしかないんです」


 セレナが拳を握る。


「それで……あいつの言うことを全部?」


 エリナは答えない。


 ただ。


 小さく頷いた。


「……あいつは」


 俺は言葉を選ぶ。


「お前に何をしてる?」


 エリナの身体が固まった。


「……」


「言いたくなければいい」


「……」


「でも」


 俺は静かに言った。


「お前が悪いわけじゃない」


 エリナの目から。


 一粒。


 涙が落ちた。


「……何度も」


 彼女が呟く。


「何度も、嫌だと言いました」


「……」


「でも」


 声が震える。


「聞いてもらえませんでした」


 俺は拳を握った。


「脅されて」


 エリナは続ける。


「断ったら家族を壊すって」


「……」


「誰にも言うなって」


 彼女は自分の身体を抱くように腕を組んだ。


「言ったら、もっと酷いことをされるって」


 具体的な内容は。


 彼女は言わなかった。


 俺も。


 聞かなかった。


 ただ。


 それが単なる嫌がらせではないことだけは分かった。


 長い間。


 彼女の意思を無視して。


 尊厳を踏みにじるようなことが繰り返されている。


 それでも。


 エリナは。


 グレンの隣に立ち続けていた。


 自分の意思で。


 そこにいるように見せながら。


 実際には。


 逃げ道を全部塞がれて。


「……ごめんなさい」


 エリナが言った。


「何で謝る?」


「私が……」


 彼女は涙を拭う。


「私が弱いから」


「違う」


「でも」


「違う」


 俺はもう一度言った。


「お前が弱いんじゃない」


 エリナが顔を上げる。


「弱い人間を逃げられないようにしている奴がいるだけだ」


「……」


「それを同じだと思うな」


 エリナは。


 何も言えなかった。


 そのとき。


 白い本が。


 勝手に開いた。


 ページには。


『エリナ・フェルナ』


 そして。


『記録開始』


 エリナが息を呑む。


「……私の名前」


 俺は本を見る。


 その下に。


『彼女は、まだ自分の物語を書いていない』


 文字が浮かぶ。


 さらに。


『書く権利を奪われている』


 俺は。


 その一文を見つめた。


 そして。


 ようやく。


 昨日の言葉の意味が。


 少しだけ分かった気がした。


 記録するということは。


 単に歴史を書くことじゃない。


 自分が何者なのか。


 自分がどう生きるのか。


 誰と生きるのか。


 それを。


 自分自身で決めることなのかもしれない。


「エリナ」


「はい……」


「お前は」


 俺は聞いた。


「本当はどうしたい?」


 エリナは。


 すぐには答えられなかった。


 長い沈黙。


 何度も唇を開き。


 閉じる。


 そして。


 やっと。


「……分かりません」


「それでいい」


「え?」


「今すぐ決めなくていい」


 エリナが俺を見る。


「まずは」


 俺は言った。


「自分で選べるようになればいい」


 その瞬間。


 白い本のページに。


 新しい文字が浮かんだ。


『選択権――回復』


「……」


 エリナの目が。


 大きく見開かれる。


「何……これ」


 俺は本を見る。


 そこには。


 もう一つ。


『保護対象――エリナ・フェルナ』


 と書かれていた。


 そして。


 その文字の下に。


『記録者――レオン・アルヴェイン』


 俺は息を呑む。


 また。


 記録が始まった。


 だが。


 今回は。


 昨日とは違う。


 俺たちが。


 誰かを救うために。


 自分たちで書いた記録だった。


 その瞬間。


 王城の外から。


 鐘の音が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 エリナの顔が強張る。


「……どうした?」


「この鐘」


「何かあるのか?」


「グレン様が」


 エリナは震えながら言った。


「私を呼ぶときに使う鐘です」


「……」


 セレナが顔を上げる。


「王城の鐘?」


「違います」


 エリナは首を振る。


「ヴァルゼン家だけが持っている魔道具です」


 四回目。


 鐘が鳴る。


 エリナの身体が震えた。


「行かなきゃ」


「行かなくていい」


「でも」


「今はここにいろ」


「無理です」


「どうして?」


「私が行かなかったら」


 エリナは。


 涙を堪えながら言った。


「家族が危ない」


 俺は。


 何も言えなかった。


 権力。


 金。


 実力。


 そして。


 人質。


 それら全部を使って。


 グレンは。


 一人の少女を縛っている。


「なら」


 俺は立ち上がった。


「俺たちが行く」


「え?」


「グレンのところへ」


「駄目です!」


 エリナが叫ぶ。


「あなたたちまで巻き込まれます!」


「もう巻き込まれてる」


「でも!」


「それに」


 俺は白い本を閉じた。


「今度は」


 俺はエリナを見る。


「俺たちが記録する番だ」


 エリナは。


 何も言わなかった。


 ただ。


 小さく。


 頷いた。


 その瞬間。


 白い本の表紙に。


 黒い文字が浮かんだ。


『第一章――反抗』


 俺はそれを見て。


 少しだけ笑った。


「……随分と勝手なタイトルだな」


 アルベルトが苦笑する。


「記録者が決めたんだろう」


「俺じゃない」


「なら」


 アルベルトが本を見る。


「誰が決めた?」


 誰も答えなかった。


 けれど。


 俺たちは歩き出した。


 王城の外へ。


 グレンのいる場所へ。


 そして。


 俺たちはまだ知らなかった。


 この日。


 エリナを縛っていた男の正体を知ることになることを。


 そして。


 グレンが。


 ただの傲慢な貴族ではないことを。


 彼自身もまた。


 誰かに記録され。


 誰かに命令され。


 誰かを恐れていたことを。


 そのことを知るのは。


 もう少し先の話だった。

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