第三十二話 記録される者
床に落ちていた紙を握りしめたまま、俺はしばらく動けなかった。
『次の記録は、あなたが読む前に始まっている』
たった一文。
それだけなのに、さっきまでとは何かが違っていた。
俺たちはずっと、記録を探していた。
記録者を探し、世界の仕組みを探り、リゼリアの正体を追いかけていた。
その結果、ようやく自分たちで記録するという答えに辿り着いた。
なのに。
その瞬間から、もう次の記録が始まっている。
「……なあ」
俺が呟く。
「何?」
セレナが振り返った。
「俺たちが本を書くことも、最初から決まってたんじゃないか?」
「……」
誰も答えない。
ミレイアが古い本を見つめる。
「でも、レオンさん」
「ん?」
「それなら、私たちが今こうして考えていることも……」
「ああ」
俺は頷く。
「記録されてる可能性がある」
ルナが眉を寄せた。
「じゃあ、何をしても無駄じゃないか」
「そうは思わない」
「なぜ?」
「記録されていることと、決められていることは同じじゃない」
自分でも不思議だった。
どうしてそんな言葉が出てきたのか。
けれど、さっきリゼリアが言ったことが頭に残っている。
選択する者は、選んだ瞬間のことを覚えていてはいけない。
もし俺が本当に「選択する者」なのだとしたら。
俺が今ここで何を選ぶか。
それだけは、誰にも決めさせたくなかった。
「帰ろう」
俺は本を閉じた。
「今日はもう遅い」
「この本はどうする?」
アルベルトが尋ねる。
「持っていく」
「危険かもしれないぞ」
「それでも」
俺は古い本を抱えた。
「置いていったら、また誰かに拾われる」
アルベルトは少し考えたあと、頷いた。
「分かった」
資料室を出る。
長い石造りの廊下を歩いている間、誰も口を開かなかった。
ただ。
俺の耳には。
ずっと。
紙をめくる音が聞こえていた。
王城を出た頃には、すでに夜になっていた。
王都の街灯が石畳を照らし、中央通りにはまだ人の姿が残っている。
昼間と同じ街。
昨日と同じ街。
それなのに。
俺には、何もかもが少し違って見えた。
「明日はどうする?」
セレナが聞いてくる。
「まず、あの赤い帽子の男を調べる」
「やっぱり?」
「ああ」
「追わないんじゃなかったの?」
「直接はな」
「じゃあ?」
「人に聞く」
ルナが小さく笑った。
「地道だな」
「こういう時に限って、地道な方法が一番早かったりする」
「確かに」
そのまま俺たちは宿へ戻った。
その夜。
俺はなかなか眠れなかった。
ベッドの横に置いた古い本を見つめる。
白紙の表紙。
何の装飾もない。
なのに。
どうしても気になる。
俺は手を伸ばした。
表紙に触れる。
何も起きない。
ページを開く。
俺が書いた文字がある。
『第三十一話』
『今日、俺たちは記録者を探した』
そこまで。
続きを書くことはできなかった。
なぜなら。
最後のページに。
新しい文字が増えていたからだ。
『記録者――レオン・アルヴェイン』
そして、その下。
『読者――未確認』
「……」
俺は眉をひそめる。
昨日までなら、こんな文字を見たら警戒していただろう。
けれど。
今は違う。
俺はペンを取った。
そして。
『読者は誰だ?』
と書いた。
しばらく待つ。
何も起きない。
「……まあ、そう簡単には答えないか」
本を閉じようとした。
その瞬間。
紙の上に文字が浮かんだ。
『あなたは、まだ知らなくていい』
「……」
俺は思わず笑った。
「お前、意外と性格悪いな」
返事はない。
ただ。
その下に。
『しかし、彼は知っている』
と書かれた。
「彼?」
その一言を見た瞬間。
昼間に見た赤い帽子の男が頭に浮かんだ。
俺は本を閉じた。
今度こそ寝よう。
そう思った。
だが。
その夜。
夢を見た。
白い空間だった。
何もない。
床も。
天井も。
壁も。
ただ遠くに、一冊の本が浮かんでいる。
俺はそこへ歩いていく。
本を開く。
ページには。
無数の名前が並んでいた。
知らない名前。
知っている名前。
そして。
俺の名前。
『レオン・アルヴェイン』
その横に。
何か別の名前が書かれている。
読もうとした。
だが。
文字が滲んだ。
その瞬間。
「お前は、まだ早い」
声がした。
振り返る。
そこに。
赤い帽子の男が立っていた。
「お前……」
男は笑っている。
顔は。
俺と同じだった。
「誰だ」
「知ってるだろ」
「知らない」
「そうか」
男は本を閉じる。
「なら、まだ大丈夫だ」
「何が?」
「俺たちは」
男が言う。
「まだ同じ世界にいる」
「……どういう意味だ?」
男は答えない。
ただ。
俺の後ろを見る。
「もう一人来る」
「誰が?」
「お前が一番嫌うタイプの人間だ」
「……?」
「気をつけろ」
男の姿が薄くなる。
「そいつは、力を持っている」
「待て!」
「お前が正義を選ぶなら」
最後に。
「そいつは、お前の正義を利用する」
目が覚めた。
窓の外が明るくなっていた。
「……夢か」
俺は額を押さえる。
けれど。
ベッドの横に置いていた古い本を見る。
昨日閉じたはずの本が。
開いていた。
最後のページ。
そこに。
『来訪者確認』
と書かれていた。
その下には。
『本日、王都中央学院にて接触予定』
俺はしばらく、その文字を見つめた。
「……学院?」
嫌な予感がした。
その日の昼。
俺たちは王都中央学院へ向かった。
理由は単純だった。
王都の過去の記録を調べるなら、王城だけでは足りない。
王都中央学院には、魔術史や古代文明に関する資料が大量に保管されている。
アルベルトの知り合いにも研究者がいるらしく、資料の閲覧許可を取ってもらえることになった。
「ただし」
学院へ向かう途中、アルベルトが言った。
「今日は学生の数が多い」
「何かあるのか?」
「王都貴族の子息や令嬢が集まる時期だからな」
「面倒そうだな」
「面倒だ」
アルベルトが即答した。
「特に、あいつがいる」
「あいつ?」
その問いには答えなかった。
学院の門をくぐる。
広い。
王都でも有数の巨大な施設らしく、石造りの建物がいくつも並んでいる。
中央には大きな噴水。
その周囲を学生たちが歩いている。
「……なんか、普通だな」
俺が言うと。
「何を期待してたの?」
セレナが笑う。
「もっとこう、魔法使いだらけなのかと」
「ここは学院よ」
「いや、だから」
「普通に人間が勉強してるわよ」
その時だった。
正門の奥から。
一人の男が歩いてきた。
周囲に何人もの男女を従えている。
服装は明らかに高級だった。
黒を基調とした学院制服。
胸元には金色の紋章。
歩いているだけなのに。
周囲の学生たちが道を空けていく。
「……誰だ?」
俺が聞く。
アルベルトの顔が険しくなった。
「グレイヴ・ハルディア」
「貴族?」
「ああ」
「どのくらい?」
「この学院で、こいつに逆らう人間はほとんどいない」
グレイヴ。
その男は二十歳前後に見えた。
整った顔。
長い黒髪。
笑っている。
だが。
その笑顔には。
人間を人間として見ていないような気配があった。
俺たちの前で。
グレイヴが足を止める。
「アルベルト教授」
「教授じゃない」
「相変わらずですね」
グレイヴが笑った。
「そちらの方々は?」
「私の研究協力者だ」
「へえ」
グレイヴの視線が俺たちを一人ずつ見る。
ミレイア。
セレナ。
ルナ。
最後に。
俺。
その瞬間。
グレイヴの笑顔が。
ほんの少しだけ変わった。
「あなた」
「俺?」
「初めて会いますよね?」
「ああ」
「……そうですか」
グレイヴは俺の顔を見ながら。
何かを考えている。
「どこかで見た気がするんですが」
「気のせいだろ」
「そうかもしれません」
彼は笑う。
「ところで」
視線がミレイアへ移った。
「そちらの女性」
「……何?」
セレナが一歩前へ出る。
グレイヴは気にした様子もなく言った。
「以前、私の家で働いていた女性に、とてもよく似ています」
ミレイアが首を傾げる。
「私は、そのような場所へ行ったことはありません」
「そうですか」
グレイヴは笑った。
「なら、人違いでしょう」
そう言って。
彼は通り過ぎていった。
だが。
俺は気づいていた。
ミレイアを見た瞬間。
グレイヴの目に。
明らかな驚きがあった。
そして。
何かを確信したような目。
「……アルベルト」
「分かっている」
「何者だ?」
「ハルディア侯爵家の長男だ」
「侯爵……」
「ああ」
「そんなに偉いのか?」
「王都ではな」
アルベルトは声を落とした。
「父親が王国軍の高官、母親が王立魔術研究所の理事だ」
「なるほど」
「そして本人も魔術師として非常に優秀だ」
「どのくらい?」
「私でも正面から戦えば危険だ」
俺は思わず振り返った。
「アルベルトが?」
「ああ」
その言葉だけで十分だった。
強い。
しかも。
権力まである。
面倒なタイプだ。
その日の資料調査は、思った以上に順調だった。
古代の記録。
王都成立以前の記録。
周期について書かれた断片。
いくつか興味深いものが見つかった。
だが。
リゼリアに繋がる情報はなかった。
夕方。
俺たちが学院を出ようとした時だった。
「レオンさん」
ミレイアが呼ぶ。
「どうした?」
「少しだけ、待ってください」
「?」
ミレイアは後ろを振り返る。
誰かを探しているようだった。
だが。
その顔が。
急に強張った。
「ミレイア?」
「……あの人」
視線の先。
学院の中庭。
そこに。
一人の女性が立っていた。
長い茶髪。
学院の制服。
少し俯いている。
そして。
その横には。
グレイヴがいた。
「……」
グレイヴが何かを言う。
女性が首を振る。
グレイヴが笑う。
女性は何も言わない。
その光景を見た瞬間。
俺は妙な違和感を覚えた。
グレイヴは笑っている。
女性は怯えている。
明らかだった。
「ちょっと行ってくる」
俺が歩き出す。
「待て」
アルベルトが腕を掴んだ。
「何だ?」
「今はやめろ」
「でも」
「あの女を助けたい気持ちは分かる」
アルベルトは低い声で言う。
「だが、ここでグレイヴに手を出せば、お前たちは学院どころか王都全体を敵に回す可能性がある」
「……」
「証拠がない」
「見れば分かるだろ」
「それだけでは足りない」
俺は拳を握った。
確かに。
俺たちは何も知らない。
あの女性がどういう立場なのか。
グレイヴと何があったのか。
ただ。
怯えている。
それだけだった。
その夜。
学院の近くにある酒場で、俺たちは情報を集めていた。
「グレイヴについて?」
店員が困った顔をする。
「やめた方がいいですよ」
「なぜ?」
「侯爵家の人間ですから」
「悪い噂は?」
「……」
店員は周囲を見回した。
「声を落としてください」
俺たちは黙る。
「昔から、女性関係は派手だったそうです」
「女性関係?」
「学院の女生徒を呼び出したり、貴族の令嬢に手を出したり」
セレナが顔をしかめる。
「それで?」
「揉めても、なぜか誰も問題にしない」
「権力か」
「ええ」
店員は頷く。
「金も権力もありますから」
「被害者は?」
「何人もいるって話ですよ」
ルナが拳を握った。
「それなのに、誰も止めない?」
「止めようとした人間が、学院を辞めさせられたという噂もあります」
俺は黙った。
その時。
酒場の奥から声がした。
「グレイヴに関わるな」
振り返る。
一人の老人が座っていた。
「誰だ?」
「昔、学院で教師をしていた」
「詳しいな」
「詳しいから言っている」
老人は酒を飲む。
「奴は強い」
「魔術が?」
「それもある」
「他には?」
「家柄だ」
老人は苦笑した。
「人間は、剣や魔法だけで人を殺すわけじゃない」
「……」
「立場を使えば、人間の人生なんて簡単に壊せる」
俺は黙って聞いていた。
「だが」
老人が続ける。
「奴が本当に恐ろしいのは、そこじゃない」
「何だ?」
「奴は、人間の弱みを見つけるのが上手い」
「弱み?」
「家族、金、地位、秘密」
老人は俺を見る。
「そして、一度握ったら絶対に離さない」
その夜。
宿に戻ろうとした時。
路地裏で。
誰かが待っていた。
「……?」
女性だった。
昼間、グレイヴの隣にいた女。
「あなたは」
「声を出さないでください」
彼女が言った。
「お願いです」
「どうした?」
「私は……」
女性は周囲を確認する。
「グレイヴ様のところで働いています」
「学院の学生じゃないのか?」
「学生です」
「じゃあ、どうして?」
彼女は唇を噛んだ。
「家が……借金をしています」
俺は黙った。
「父が事業に失敗して」
「それで?」
「侯爵家に借りています」
女性の声が震える。
「その代わりに、私はグレイヴ様の言うことを聞いています」
「……」
「断れば、家が終わります」
「お前自身は?」
「私も」
彼女は俯いた。
「学院にいられなくなります」
「それだけ?」
彼女は答えない。
その沈黙だけで。
十分だった。
「名前は?」
「エレナ」
「エレナか」
「はい」
「グレイヴに何をさせられてる?」
「……」
「言いたくなければ言わなくていい」
俺がそう言うと。
エレナは少し驚いた顔をした。
「……優しいんですね」
「普通だろ」
「普通……」
彼女は小さく笑った。
「私には、その普通が分からなくなっていました」
その言葉を聞いた時。
俺は何も言えなかった。
「でも」
エレナが顔を上げる。
「あなたたちも、グレイヴ様に関わらない方がいいです」
「なぜ?」
「あなたは」
エレナが俺を見る。
「目をつけられています」
「俺が?」
「はい」
「何をした?」
「何もしていません」
「じゃあ、なぜ?」
「分かりません」
エレナは少し迷ったあと。
「でも」
声を落とした。
「グレイヴ様は、あなたのことを調べています」
「……」
「あなたの名前」
「レオン・アルヴェイン」
「知ってるのか」
「はい」
「それだけ?」
「それと」
エレナが俺を見る。
「あなたと同じ顔をした男のことも」
俺の背筋が凍った。
「……何だって?」
「グレイヴ様は言っていました」
エレナが震える声で続ける。
「『あれは、俺の知らないレオンだ』と」
俺は息を呑んだ。
「見たことがあるのか?」
「はい」
「いつ?」
「今日の朝です」
「どこで?」
「学院の地下です」
「地下?」
「立入禁止区画があります」
エレナは周囲を見回す。
「そこに、グレイヴ様は何度も出入りしています」
「何をしている?」
「分かりません」
「お前は?」
「私は入ったことがありません」
「本当に?」
「……一度だけ」
「何を見た?」
エレナは。
しばらく黙っていた。
そして。
「本です」
「本?」
「黒い本が」
俺の手が。
無意識に古い本へ触れた。
「どんな本だ?」
「分かりません」
「何が書いてあった?」
「名前です」
「名前?」
「たくさんの名前が」
エレナの顔が青ざめる。
「その中に」
「……」
「レオン・アルヴェインがありました」
俺は黙った。
「でも」
エレナは続ける。
「その名前の横に」
「何が?」
「『削除済み』と」
空気が止まった。
「……削除済み?」
「はい」
「それはいつの記録だ?」
「分かりません」
「他に名前は?」
「ありました」
「誰?」
「……」
エレナが答えようとした。
その時。
「エレナ」
背後から声がした。
彼女の顔から血の気が引いた。
俺も振り返る。
路地の入口。
グレイヴが立っていた。
笑っている。
「こんなところで何をしているんです?」
「……」
エレナは動けない。
「探しましたよ」
グレイヴが近づいてくる。
「私との約束を忘れたんですか?」
「申し訳ありません」
「謝れば済むと思いますか?」
エレナが震える。
「……いいえ」
「なら」
グレイヴの視線が俺へ向いた。
「そちらの方々と何を話していたのか、私にも教えてください」
「俺たちはただ話していただけだ」
「そうですか」
グレイヴが笑う。
「なら、問題ありませんね」
だが。
その目は。
全く笑っていなかった。
「レオン・アルヴェインさん」
「何だ?」
「あなたは、最近変な夢を見ませんでしたか?」
心臓が跳ねた。
「……何のことだ?」
「白い場所」
「……」
「本がある場所です」
俺は反応を隠せなかった。
グレイヴは。
それを見逃さなかった。
「なるほど」
笑う。
「やはり」
「何を知ってる?」
「さあ」
グレイヴは肩をすくめた。
「私は、あなたより少し長くこの世界を見ているだけですよ」
「……」
「それでは」
彼はエレナを見る。
「帰りましょう」
エレナは動かない。
「エレナ」
「……はい」
「来なさい」
彼女は俯いた。
その時。
俺は。
エレナの手首に痣があることに気づいた。
服で隠れていた。
だが。
袖口から少しだけ見えている。
「待て」
俺が言った。
グレイヴが振り返る。
「何でしょう?」
「その子は嫌がってる」
「本人がそう言いましたか?」
「顔を見れば分かる」
「それはあなたの感想でしょう」
「……」
「彼女には彼女の事情があります」
グレイヴは笑う。
「あなたが口を挟むことではありません」
「なら」
俺は一歩前へ出る。
「俺の目の前で怯えさせるな」
グレイヴの笑顔が消えた。
「……なるほど」
「何だ?」
「あなたは、本当に変わらない」
「何?」
「いえ」
グレイヴは目を細める。
「少し確認しただけです」
その瞬間。
俺の足元に。
魔法陣が浮かんだ。
「っ!」
俺は反射的に飛び退く。
次の瞬間。
路地の石壁が砕けた。
轟音。
石片が飛び散る。
「レオン!」
セレナが叫ぶ。
俺は光を纏う。
「いきなり攻撃するのか?」
「違いますよ」
グレイヴが笑う。
「警告です」
「これが?」
「ええ」
彼の周囲に。
複数の魔法陣が展開する。
その数。
十。
二十。
三十。
普通の魔術師なら。
一つでも制御するのが難しいほどの術式。
それを。
グレイヴは笑いながら操っている。
「レオン」
アルベルトが低く言う。
「下がれ」
「アルベルト?」
「今の私たちでは勝てない」
俺は驚いた。
アルベルトが。
ここまで明確に言う。
「……分かった」
俺が構えを解く。
グレイヴは満足そうに笑った。
「賢明ですね」
そのまま。
彼はエレナの腕を掴む。
「行きましょう」
「……はい」
エレナが歩き出す。
だが。
一瞬だけ。
俺を見る。
助けてほしい。
そう言っているように見えた。
俺は拳を握った。
けれど。
今は何もできない。
グレイヴが去っていく。
その背中を。
俺は睨み続けた。
「……悔しい」
セレナが呟く。
「ああ」
「助けられなかった」
「ああ」
俺は答える。
「でも」
ルナが言った。
「終わったわけじゃない」
「……そうだな」
その夜。
俺は古い本を開いた。
今日の出来事を書こうとする。
だが。
ペンを持った瞬間。
文字が浮かんだ。
『グレイヴ・ハルディア』
俺は固まった。
続いて。
『権力者』
『観測者への接触を開始』
『器への接触を開始』
俺は眉を寄せる。
「器……」
ミレイア。
その可能性が頭に浮かぶ。
さらに。
『協力者』
文字が浮かぶ。
『エレナ・ヴァイス』
「……」
俺は息を止めた。
そして。
その下。
『記録者候補』
俺はページを睨んだ。
さらに文字が続く。
『彼女はまだ、自分が何を記録しているのか知らない』
「……どういう意味だ?」
返事はない。
だが。
ページの端に。
小さく一文が浮かんだ。
『彼女は、見たものを忘れない』
俺は目を細めた。
ミレイアは。
記憶する者。
俺は。
選択する者。
そして。
もう一つ。
観測する者。
なら。
エレナは。
何者だ?
俺はページをめくった。
何もない。
次のページ。
何もない。
さらに。
何もない。
最後のページ。
そこだけ。
一文字が浮かんだ。
『E』
「……E?」
その瞬間。
部屋の外から。
紙をめくる音がした。
一度。
二度。
三度。
俺は立ち上がった。
扉を開ける。
廊下には誰もいない。
ただ。
遠くに。
一人の人影が立っていた。
「……エレナ?」
人影は。
ゆっくり振り返る。
違う。
顔は見えない。
だが。
その手には。
一冊の黒い本があった。
俺が一歩近づく。
人影は。
一歩後ろへ下がる。
「待て!」
走る。
廊下を曲がる。
誰もいない。
窓もない。
逃げ場なんてないはずなのに。
人影は消えていた。
床には。
一枚の紙。
拾い上げる。
『第七周期における新規変数』
その下。
『エレナ・ヴァイス』
そして。
『本来、この人物は存在しない』
「……」
俺は紙を握りしめる。
その瞬間。
背後から。
「レオンさん」
声がした。
振り返る。
ミレイアが立っている。
「どうした?」
「今」
ミレイアが周囲を見る。
「誰かと話していましたか?」
「いや」
「そうですか」
「何かあった?」
「いえ」
ミレイアは首を振る。
だが。
その顔は不安そうだった。
「ただ」
「うん」
「さっきから」
ミレイアが小さく言う。
「知らない女の人の声が、頭の中で聞こえるんです」
「……何て?」
「『私を見つけないで』って」
俺は。
手にした紙を見た。
エレナ・ヴァイス。
存在しないはずの人間。
グレイヴに支配されている少女。
そして。
記録者候補。
俺はまだ。
何も知らない。
ただ一つだけ。
分かったことがある。
グレイヴ・ハルディアは。
俺たちよりも。
この世界のことを知っている。
そして。
エレナは。
ただの取り巻きではない。
彼女自身が。
この世界の記録に。
何かを残している。
翌朝。
学院から一人の使者が宿へやってきた。
「レオン・アルヴェイン様ですね?」
「ああ」
「グレイヴ・ハルディア様から伝言です」
「何?」
使者は一枚の封書を差し出した。
俺は受け取る。
中には。
一枚の紙。
『今夜、旧学院塔へ』
その下に。
『一人で来い』
俺は紙を見つめた。
さらに。
最後の一文。
『来なければ、エレナ・ヴァイスの家族がどうなるかは保証しない』
「……」
セレナが横から覗き込む。
「最低」
ルナも。
「罠だな」
「ああ」
アルベルトが腕を組む。
「絶対に一人で行くな」
「分かってる」
ミレイアが。
俺の手元を見る。
「エレナさん……」
「ああ」
俺は封書を握りつぶす。
グレイヴは。
俺たちが助けようとすることまで。
計算している。
なら。
真正面から行くわけにはいかない。
「今夜」
俺は言った。
「旧学院塔へ行く」
「一人で?」
「いや」
俺は三人を見る。
「五人で行く」
アルベルトが笑った。
「そうだな」
セレナが頷く。
「最初からそのつもりだった」
ルナも剣を抜く。
「グレイヴがどれだけ強いか、確かめてやろう」
ミレイアだけが。
少し不安そうにしていた。
「どうした?」
「……何でもありません」
「何かあるだろ」
「いえ」
彼女は古い本を見る。
「ただ」
「うん」
「この本が」
ページを開く。
そこには。
まだ誰も書いていないはずの文字があった。
『旧学院塔』
『接触者――グレイヴ・ハルディア』
『同行者――五名』
そして。
最後に。
『死者――』
そこで。
文字が止まっていた。
俺は息を呑む。
「……誰が死ぬ?」
文字は動かない。
何度待っても。
その先は書かれなかった。
俺はペンを取った。
そして。
その一文の下に。
『死者――なし』
と書いた。
瞬間。
本が震えた。
『記録を拒否しました』
文字が浮かぶ。
俺は笑った。
「だったら」
ペンを握り直す。
「俺たちの記録に、死者はいらない」
その瞬間。
本のページが。
強く光った。
そして。
新しい一文が刻まれた。
『記録者による修正を確認』
俺は目を見開く。
続いて。
『世界固定率――上昇』
さらに。
『第七周期――初の自律記録を確認』
セレナが息を呑む。
「これ……」
「ああ」
俺は本を閉じた。
「俺たちが書いたことで」
胸の奥に。
確かな感覚があった。
「世界そのものに、少しだけ手が届いた」
だが。
その直後。
最後のページに。
新しい文字が浮かんだ。
『警告』
そして。
『自律記録を行う者は、観測者の敵となる』
俺は。
その文字を見つめた。
怖くない。
とは言えなかった。
けれど。
もう逃げるつもりもなかった。
グレイヴ・ハルディア。
エレナ・ヴァイス。
そして。
俺たちの知らない観測者。
世界を記録する者と。
世界を自分たちで記録しようとする者。
その二つが。
今夜。
旧学院塔で。
初めて真正面からぶつかる。
俺は本を閉じた。
そして。
まだ誰も知らない未来へ向かって。
一歩を踏み出した。




