第三十一話 記録者の記録
王都中央広場の噴水に刻まれた文字を前にして、俺たちは誰一人として動けなかった。
さっきまで確かにそこに立っていた女の姿は消えている。時間も、街の人々も、何事もなかったかのように動き始めている。荷馬車の車輪が石畳を叩き、噴水の周囲では何人かの子供が楽しそうに水を覗き込んでいるし、少し離れた場所では露店の主人が客を呼び込む声まで聞こえていた。
それなのに。
俺たちの目の前にある文字だけが、この世界の中で明らかに異質だった。
『記録者を探す者へ』
そして、その下に。
『記録者もまた、誰かに記録されている』
「……どういう意味だと思う?」
セレナが小さく呟いた。
「分からない」
「即答ね」
「分からないものは分からない」
「でも、何か思いついてる顔してるわよ」
俺は噴水を見たまま答えた。
「一つだけある」
「何?」
「記録者が、この世界の一番外側にいるとは限らない」
アルベルトが俺を見る。
「続けろ」
「昨日までは、記録してる奴が世界の外から俺たちを見てると思ってた」
「実際、その可能性は高い」
「ああ。でも、さっきの言葉が本当なら違う」
俺は噴水に刻まれた文字を指差した。
「記録者も誰かに記録されているってことは、記録者のいる場所もまた、別の何かから見られているってことだ」
ルナが腕を組む。
「つまり、外側にも外側がある?」
「たぶん」
「どこまで続く?」
「それが分からない」
また同じ答えになった。
だが、今回は少し違う。
分からないこと自体が、答えの一部になっている気がした。
世界が一つだけなら、外側という言葉には意味がある。
けれど世界が幾つもあり、その全てが記録によって成立しているのなら、その記録を残した存在にもまた、それを記録する何かがいるのかもしれない。
そうなると。
俺たちが「世界」と呼んでいるものは、最初から一つの箱ではない。
箱の中に箱があり、その箱の中にもさらに箱がある。
そして俺たちは、そのどこか一つの箱の中で生きている。
「……気持ち悪い話ね」
セレナが顔をしかめた。
「そうだな」
「どこまで行っても上があるってことでしょ?」
「たぶん」
「じゃあ、記録者を見つけても意味ないんじゃない?」
「どうして?」
「その記録者を記録してる奴がいるなら、そいつを探さないといけない」
「……」
「そいつにも記録者がいるなら、そのさらに上を探す」
「……」
「それ、永遠に終わらないじゃない」
確かにそうだった。
理屈だけなら。
けれど。
「終わらなくてもいい」
「え?」
俺は噴水から目を離した。
「別に、一番上まで行く必要はないだろ」
「でも」
「俺たちが知りたいのは、誰が俺たちを記録してるかだ」
セレナが黙る。
「そいつが何を目的にしてるのか。それが分かればいい」
俺は拳を握った。
「全部の答えを知る必要はない」
そう言った瞬間。
どこかで小さく、紙をめくるような音がした。
「……?」
俺は周囲を見る。
何もない。
ただ、風が吹いているだけだ。
「どうした?」
ルナが尋ねる。
「今、何か聞こえなかったか?」
「何も」
セレナも首を振る。
ミレイアだけが。
黙っていた。
「ミレイア?」
「……聞こえました」
「何が?」
「紙をめくる音です」
俺とミレイアの視線が交わる。
「どこから?」
「分かりません」
彼女は胸元へ手を当てた。
「でも、さっきからずっと」
「ずっと?」
「はい」
ミレイアの顔が少し青ざめている。
「私たちが話している間も、どこかでページをめくっている音がします」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の背中を冷たいものが走った。
「……アルベルト」
「ああ」
彼も同じことを考えたらしい。
「一度、王城へ戻ろう」
「急ぐの?」
「急いだ方がいい」
アルベルトは噴水を見つめた。
「この文字が消える前に、記録しておきたい」
俺たちは王城へ戻った。
だが。
その途中で、一つの異変に気がついた。
王都の中央通りを歩いている最中だった。
「……なあ」
俺は足を止めた。
「どうした?」
ルナが振り返る。
「さっきから、同じ人間を見てないか?」
「同じ人?」
「あそこ」
通りの向こうを指差す。
赤い帽子を被った男が歩いていた。
その男は角を曲がる。
しばらくして。
別の通りから、同じ男が出てきた。
「……」
俺は黙って見つめる。
「偶然じゃない?」
セレナが言う。
「服装も同じだぞ」
「似た人じゃないの?」
「顔まで同じだ」
「……」
セレナも目を細める。
男がこちらを向いた。
目が合った。
その瞬間。
男は立ち止まった。
そして。
何事もなかったように、反対方向へ歩き始めた。
「追う?」
ルナが聞く。
「いや」
俺は首を振った。
「今は王城へ行こう」
「いいの?」
「ああ」
理由は分からない。
ただ。
追ってはいけない気がした。
まるで。
あの男を追えば、こちらが何かを「記録してしまう」ような。
そんな感覚があった。
王城へ戻ると、アルベルトはすぐに地下の資料室へ向かった。
そこは王城の中でも特に古い区画だった。
普段使われることのない石造りの階段を下り、いくつもの扉を抜けた先にある。
壁一面に本棚が並び、古い羊皮紙や記録書が整理されていた。
「ここなら、王都の記録がほとんど残っている」
アルベルトが言う。
「ほとんど?」
「完全な記録なんてものは存在しない」
「それは今なら納得できるな」
俺は苦笑した。
アルベルトは一つの棚から厚い本を取り出した。
「まず、リゼリアについて調べる」
セレナが頷く。
「どうやって?」
「名前だ」
「名前?」
「ああ」
アルベルトは本を机の上に置く。
「リゼリアという名前が、どの時代から記録されているのかを調べる」
「百年以上前からあったんじゃないの?」
「そうだ」
「なら、それより前を調べる」
俺は本を開いた。
王都の古い住民記録。
ページを一枚ずつめくっていく。
百年前。
百五十年前。
二百年前。
三百年前。
四百年前。
名前はない。
「五百年前」
アルベルトがページをめくる。
そこにも。
ない。
「六百年前」
ない。
「七百年前」
ない。
「もっと前は?」
「この王都が建設される以前の記録になる」
アルベルトが別の本を取り出した。
王都建設以前の土地記録。
古い。
文字も今とは違う。
だが。
そこに。
「……あった」
セレナが呟いた。
小さな文字。
地名の横に。
『リゼリア』
と記されている。
「人名?」
「分からない」
アルベルトが慎重に紙を見る。
「この時代の記録では、名前なのか地名なのか判断できない」
「じゃあ、もっと前」
さらにページをめくる。
しかし。
それより前の記録はなかった。
「ここで途切れてる」
ルナが言う。
「どうして?」
「分からない」
アルベルトが答えた。
「この時代以前の記録が、ほとんど残っていない」
俺はそのページを見つめる。
何かがおかしい。
リゼリアという名前が。
王都の歴史より古い。
それ自体は、あり得ないことではない。
けれど。
彼女は俺たちの前に何度も現れた。
世界が分岐する前から。
そして。
ミレイアの記憶の中にもいる。
「ミレイア」
「はい」
「リゼリアについて、何か思い出せるか?」
ミレイアは目を閉じた。
しばらくして。
「……少しだけ」
「何を?」
「名前です」
「名前?」
「リゼリアという名前は、私が呼んだ名前じゃありません」
「どういうことだ?」
「誰かが、彼女をそう呼んでいました」
「誰?」
「……」
ミレイアは眉を寄せる。
「思い出せません」
その瞬間。
ミレイアが頭を押さえた。
「っ……」
「ミレイア!」
俺はすぐに支える。
「大丈夫です」
「無理するな」
「違います」
「何が?」
「今、思い出せないんじゃなくて」
ミレイアはゆっくり顔を上げた。
「思い出すことを、何かに止められました」
「……」
「頭の中に、扉があるみたいなんです」
「扉?」
「はい」
ミレイアは自分の頭を指差す。
「そこから先に行こうとすると、別の記憶が一つ消える」
セレナが不安そうに聞く。
「どんな記憶が消えたの?」
「さっきは……」
ミレイアは少し考える。
「昨日の朝食です」
「朝食?」
「はい」
「そんなものが?」
「はい」
俺は黙った。
記憶の重要度なんて関係ない。
記録する側にとって。
消す側にとって。
人間が大切だと思う記憶と、そうでない記憶は違うのかもしれない。
「……俺たちの記憶が、記録の代わりに使われてるのかもしれない」
俺が呟く。
「どういうこと?」
セレナが聞く。
「記録が書き換わるとき、世界の矛盾を埋めるために人間の記憶が変わる」
「つまり?」
「俺たちが覚えていることが、世界を繋ぎ止めている」
アルベルトが考え込む。
「興味深い仮説だ」
「なら、ミレイアが記憶を失っているのは」
「世界の変化に最も近い場所にいるからかもしれない」
ミレイアが顔を上げる。
「私が?」
「ああ」
アルベルトは少し迷ったあと、研究記録を取り出した。
「昨日見せた『L』という記録が関係している可能性が高い」
「でも、Lが誰なのか分からないんですよね?」
「そうだ」
アルベルトは紙を見る。
「だが、一つだけ分かった」
「何?」
「この記録を書いた人物は、Lを『器』と呼んでいる」
「器……」
「そして、周期を越えて記憶を保持する存在とも書いてある」
俺はミレイアを見る。
「つまり」
セレナが言う。
「ミレイアが周期を越えて記憶を持っているなら、Lである可能性がある?」
「まだ断定はできない」
アルベルトが答える。
「ただ」
「ただ?」
「彼女が第一部……」
アルベルトはそこで言葉を止めた。
俺たちの間に、妙な沈黙が落ちた。
第一部。
その言葉を。
俺たちは知っている。
けれど、普段は誰も口にしない。
それは俺たちが生きてきた時間を、あまりにも簡単に「区切り」にしてしまう言葉だからだ。
アルベルトは少しだけ視線を逸らした。
「……以前の周期から記憶を保持しているなら」
言い直した。
「その可能性はある」
セレナも何も言わなかった。
俺も。
あえて突っ込まなかった。
ただ。
この世界の外側にいる何かが、俺たちの時間を「第一部」「第二部」などと区切って見ているのだとしたら。
それは単なる呼び方ではない。
俺たちが生きている世界そのものが。
誰かにとっては、一つの記録でしかない。
そのことが。
少しだけ怖かった。
「レオン」
ルナが呼ぶ。
「何だ?」
「この記録」
彼女が別の紙を指差した。
「ここを見ろ」
そこには。
『観測者と器は、同一世界に二人以上存在してはならない』
と書かれていた。
「……」
俺はその一文を何度も読む。
「これ、どういう意味?」
セレナが聞く。
「分からない」
アルベルトも答えを出せない。
だが。
俺には。
一つだけ思い当たることがあった。
「昨日の男」
「もう一人のレオン?」
「ああ」
「それが観測者?」
「分からない」
俺は首を振る。
「でも、あいつは俺と同じ顔をしていた」
ルナが考える。
「同じ世界に二人以上存在してはいけないなら」
「うん」
「お前とあいつは、どちらかが本来存在してはいけない?」
「……そうなる」
ミレイアが小さく息を呑んだ。
「でも」
俺は言った。
「それなら、あいつはどうして俺を見ていた?」
「どういうこと?」
「あいつは俺を消そうとしていなかった」
「確かに」
「むしろ、俺がどうするのかを見ていた」
そこで。
黒い本が。
机の上で小さく揺れた。
全員が振り返る。
「……またか」
俺は警戒しながら本へ近づく。
表紙には何も変化がない。
だが。
ページが一枚だけ、勝手に開いた。
『同一世界に観測者と器が存在する』
俺は固まった。
「……」
次の行。
『矛盾を修正します』
「待て」
俺が本に手を伸ばす。
しかし。
次の文字が浮かんだ。
『対象――』
そこで文字が止まる。
黒いインクが何度も紙の上を走る。
まるで。
何を書けばいいのか決められないように。
「何だ?」
俺は本を睨む。
「誰を修正する?」
文字が動く。
『対象――』
そして。
『ミレイア』
「……!」
ミレイアの顔が強張る。
俺は反射的に彼女の前に立った。
「ふざけるな」
右手に光が集まる。
反射・無限化。
俺が本に触れようとした瞬間。
『訂正』
文字が変わった。
『対象――レオン』
「……俺?」
さらに。
『訂正』
文字が消える。
『対象――リゼリア』
「何だよ……」
さらに消える。
『対象――不明』
その瞬間。
本が閉じた。
何も起きない。
「……」
しばらく誰も喋らなかった。
「今の」
セレナが口を開く。
「対象が変わったわよね」
「ああ」
「ミレイアからレオン、レオンからリゼリア、最後は不明」
「そうだな」
「どういうこと?」
「分からない」
「またそれ?」
「本当に分からない」
だが。
俺には一つだけ分かった。
あの本は。
俺たちを記録しているだけではない。
迷っている。
何かを書こうとして。
書けない。
まるで。
誰かが記録を決めているのではなく。
記録そのものが、まだ答えを探しているようだった。
「アルベルト」
「何だ?」
「この本」
「ああ」
「本当に誰かが書いてると思うか?」
アルベルトはしばらく本を見つめた。
「以前なら、そう思った」
「今は?」
「分からない」
「……」
「この本は、記録しているだけではない」
アルベルトが言う。
「記録されたものを認識している」
「認識?」
「自分が何を記録しているのか、理解しているように見える」
セレナが眉を寄せる。
「じゃあ、本そのものが記録者?」
「その可能性もある」
「でも」
俺は首を振る。
「さっき、記録者も記録されているって書かれた」
「そうだ」
「なら、この本も誰かに記録されている」
アルベルトが黙る。
しばらくして。
「……確かめよう」
「どうやって?」
「記録されているものには、必ず記録がある」
「?」
「なら、この本自身の記録を探す」
俺たちは資料室のさらに奥へ向かった。
アルベルトが持っていた古い鍵で、誰も使っていない扉を開ける。
中には。
一冊の本だけが置かれていた。
他には何もない。
机も。
椅子も。
棚も。
ただ。
部屋の中央に。
一冊。
黒い本が置かれている。
「……同じ本?」
セレナが呟く。
「いや」
俺は首を振った。
「違う」
形は似ている。
だが。
今まで見てきた黒い本より、ずっと古い。
表紙には何も書かれていない。
アルベルトが近づく。
「これを見つけたのは、私の師だ」
「いつ?」
「四十年前」
「何のために?」
「分からない」
「じゃあ、なぜここに?」
「それも分からない」
アルベルトは苦笑した。
「この部屋自体が、記録に残っていないからだ」
「……」
「王城の設計図には、この部屋は存在しない」
「なら、どうして入れる?」
「分からない」
まただ。
分からない。
だが。
ここまで来ると、その言葉にも慣れてきた。
世界の仕組みそのものが。
俺たちの知識より大きい。
それだけの話だ。
「開けるぞ」
アルベルトが古い本に手を伸ばす。
その瞬間。
「待って」
ミレイアが言った。
「どうした?」
「その本」
彼女が一歩後ろへ下がる。
「触らない方がいいです」
「何か感じるのか?」
「はい」
ミレイアの顔が強張っている。
「この本は」
「何だ?」
「私を知っています」
誰も動かなかった。
「……本が?」
「はい」
「どうして分かる?」
「分かりません」
ミレイアは胸元を押さえる。
「でも、見られている感じがします」
俺は古い本を見る。
ただの本にしか見えない。
それでも。
なぜか。
俺自身も。
あの本に近づくことを躊躇していた。
「じゃあ、俺が開く」
「レオンさん」
「大丈夫だ」
俺は一歩前へ出た。
右手を伸ばす。
古い表紙に触れる。
何も起きない。
俺はゆっくりと表紙を開いた。
最初のページ。
何も書かれていない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
何もない。
ページをめくる。
十ページ。
二十ページ。
三十ページ。
ずっと。
何も書かれていない。
「空っぽ?」
セレナが言う。
「そうみたいだな」
さらにめくる。
そして。
最後のページ。
そこだけ。
一行だけ書かれていた。
『この記録を発見した者へ』
俺は息を止めた。
次の行が。
ゆっくり浮かび上がる。
『あなたが、この記録を読むことは予定されていない』
「……」
セレナが後ろから覗く。
「何よ、それ」
文字が続く。
『したがって、以下の記録は存在しない』
そして。
ページの下半分に。
無数の文字が一気に現れた。
『第七周期』
『世界成立』
『観測者未確認』
『器未確認』
『レオン・アルヴェイン未確認』
『ミレイア未確認』
『リゼリア未確認』
俺は目を見開いた。
「……」
まだ続く。
『記録開始』
『観測開始』
『世界固定』
『第一観測対象――』
そこだけ。
文字が滲んでいる。
何度も書き直されたように黒く塗り潰されている。
そして。
最後に。
『該当なし』
「該当なし?」
セレナが呟く。
その瞬間。
ミレイアが息を呑んだ。
「どうした?」
「……この記録」
「うん」
「おかしいです」
「何が?」
ミレイアはページを指差す。
「私たちが記録されていません」
「それは書いてあるな」
「違います」
彼女は首を振る。
「そうじゃない」
「じゃあ?」
「この記録は」
ミレイアの声が震える。
「私たちが存在する前に書かれています」
「……」
「でも」
彼女は俺を見る。
「この本を今、私たちが読んでいる」
「……」
「つまり」
ミレイアが小さく呟く。
「私たちは、記録されたから存在したんじゃない」
俺はその言葉を聞いて。
ようやく気づいた。
記録が世界を作る。
そう考えていた。
だが。
もし、記録される前から俺たちが存在していたのなら。
記録は。
世界を作っているわけではない。
世界を。
後から追いかけている。
「記録は」
俺が言う。
「世界を作るんじゃなくて」
ページを見る。
「存在しているものを、後から固定している?」
アルベルトが目を見開いた。
「……そういうことか」
「じゃあ」
ルナが聞く。
「記録されていないものは?」
俺は答えた。
「まだ固定されていない」
セレナが息を呑む。
「だから存在しない街が生まれたり、消えたりする?」
「ああ」
「存在しているけど、記録がないから安定しない」
「たぶん」
「じゃあ、リゼリアは?」
「……」
俺は言葉に詰まった。
リゼリア。
何百年もの記録に名前だけが残っている存在。
住所も。
生年月日も。
死亡記録も。
何もない。
それなのに。
確かに俺たちの前に存在していた。
「リゼリアは」
ミレイアが言った。
「記録される前から、存在していたんじゃないでしょうか」
「……」
「だから」
彼女は自分の胸に手を当てる。
「私の記憶にも残っている」
その瞬間。
古い本のページが。
一枚だけ勝手にめくれた。
そこには。
今まで何も書かれていなかった。
しかし。
白い紙の中央に。
一文字だけ。
『L』
と浮かんでいた。
「……L」
アルベルトが呟く。
ミレイアがその文字を見る。
そして。
突然。
涙を流した。
「え……?」
セレナが驚く。
「ミレイア?」
「……分かりません」
ミレイアは涙を拭う。
「悲しくないんです」
「じゃあ、どうして?」
「分かりません」
けれど。
その目は。
何かを懐かしむように。
古い本の一文字を見つめていた。
「この文字」
ミレイアが呟く。
「私の名前です」
「……ミレイア?」
「違います」
彼女は首を振る。
「ミレイアという名前より前の」
俺は息を止めた。
「じゃあ、何ていう名前なんだ?」
ミレイアは口を開く。
だが。
声が出ない。
代わりに。
古い本の文字が変化した。
『L』
その下に。
『リゼリア』
さらに。
『ミレイア』
そして。
最後に。
『同一記録』
「……!」
俺たちは全員、言葉を失った。
ミレイアの顔から血の気が引く。
「私と……リゼリアさんが?」
俺は答えられない。
同じ人間だとは思えない。
だが。
同じ「記録」だというなら。
意味が変わってくる。
名前が変わった。
姿が変わった。
記憶が変わった。
世界が変わった。
それでも。
記録の中では。
同じ一つの存在として扱われている。
「じゃあ、Lって……」
セレナが呟く。
その瞬間。
古い本に。
新しい文章が浮かんだ。
『器の識別に失敗』
『人格の分離を確認』
『記憶の分離を確認』
『世界の分離を確認』
俺は目を見開く。
さらに。
『本来、一つであるものが』
文字が一度消える。
そして。
『三つに分かれた』
「……三つ?」
ミレイアが呟く。
俺の頭の中に。
昨日の白い空間が蘇った。
女。
俺と同じ顔をした男。
そして。
俺。
まさか。
「俺と、ミレイアと、リゼリア……」
誰も答えない。
だが。
答えは。
もう一つの記録によって示された。
『三分割された器は、それぞれ異なる世界を記録する』
『一つは観測する』
『一つは記憶する』
『一つは選択する』
俺は息を呑んだ。
「……選択する」
それは。
俺なのか。
昨日の男なのか。
それとも。
リゼリアなのか。
分からない。
けれど。
この記録が言っていることは。
俺たちが思っていたより、ずっと恐ろしい。
俺たちは別々の人間ではないのかもしれない。
元々一つだった何かが。
世界の分岐によって。
三つに分かれた。
そして。
その三つが。
それぞれ違う役割を持っている。
「アルベルト」
「何だ?」
「この記録を書いた奴は?」
「……分からない」
「じゃあ、誰がこの本を置いた?」
「それも分からない」
「なら」
俺はページを見る。
「この記録は、誰のために書かれた?」
アルベルトは答えなかった。
代わりに。
古い本の最後のページに。
新しい文字が浮かんだ。
『あなたのためではない』
俺は眉を寄せる。
次の一文。
『あなたの前に来る者のためだ』
その瞬間。
部屋の扉が。
ゆっくり開いた。
「……?」
俺たち全員が振り返る。
誰もいない。
廊下だけが見える。
だが。
その廊下の奥に。
一人。
立っていた。
白い服。
長い髪。
昨日、噴水の中央に現れた女。
あの白い空間にいた女。
「……リゼリア?」
ミレイアが呟く。
女は答えなかった。
ただ。
こちらを見ている。
そして。
ゆっくりと口を開いた。
「ようやく見つけた」
声は。
昨日のものと同じだった。
俺は一歩前へ出る。
「お前は何者だ」
「それを聞くの?」
「聞く」
「あなたなら、もう分かり始めているでしょう」
「分からないから聞いてる」
女が微笑む。
「そういうところは変わらないのね」
俺の背後で。
ミレイアが息を呑んだ。
「……私?」
女がミレイアを見る。
「あなたは」
一瞬だけ。
寂しそうな顔をした。
「まだ、そこにいるのね」
「どういう意味ですか?」
「その名前を持っているのね」
「ミレイア?」
「ええ」
女が頷く。
「その名前は、あなたが自分で選んだもの」
「……」
「だから、まだ完全には消えていない」
俺は女の前に立つ。
「何を言ってる?」
「記録の話よ」
「なら聞く」
俺は女を睨んだ。
「俺たちは何なんだ?」
女は少しだけ目を伏せる。
「あなたたちは」
そして。
「最初から一人だった」
ミレイアが息を止める。
「一人?」
「ええ」
「俺とミレイアが?」
「あなたと、私と、彼女」
女がミレイアを見る。
「三人ではない」
「じゃあ?」
「一つ」
その言葉が。
静かな資料室に落ちた。
「一つの存在が」
女は続ける。
「世界を選ぶために、三つに分かれた」
「誰が分けた?」
「あなた」
「俺が?」
「正確には」
女が俺を見る。
「まだ、あなたではないあなたが」
その瞬間。
頭の奥で。
何かが弾けた。
白い空間。
無数の世界。
その中心に立つ。
誰か。
顔は見えない。
けれど。
手を伸ばしている。
俺。
ミレイア。
リゼリア。
三つの影が。
一つから分かれていく。
「……違う」
俺は頭を押さえた。
「そんな記憶、ない」
「当然よ」
「なぜ?」
「あなたは『選択する者』だから」
女が静かに言う。
「選択する者は、選んだ瞬間のことを覚えていてはいけない」
「どうして?」
「覚えていたら」
女は悲しそうに笑った。
「選択ではなく、ただの予定になるから」
俺は何も言えなかった。
「あなたは何度も選んだ」
「何度も?」
「ええ」
「この世界で?」
「この世界だけではない」
女が視線を上げる。
「あなたは何度も世界を選んで」
一歩。
「何度も失って」
さらに一歩。
「何度もやり直した」
俺の背中に寒気が走る。
「じゃあ」
俺は聞いた。
「第七周期っていうのは」
「七回目ではないわ」
「……何?」
「七つ目の記録」
女が答える。
「それ以前にも、あなたは何度も世界を作り、何度も世界を壊している」
「そんな……」
セレナが呟く。
「じゃあ、私たちは……」
「あなたたちが今いる世界は」
女が言う。
「初めての世界ではない」
「じゃあ、何番目?」
「数えられない」
その言葉に。
俺は。
なぜか笑ってしまった。
「また、それか」
「え?」
「分からないことばっかりだ」
女が少しだけ目を細める。
「それでも」
俺は言った。
「今の世界は、今ここにある」
ミレイアを見る。
セレナを見る。
ルナを見る。
アルベルトを見る。
「俺が何度同じことを繰り返していたとしても」
拳を握る。
「今ここにいるこいつらまで、過去の失敗として扱うつもりはない」
女は黙っていた。
「俺は今の世界を選ぶ」
「……」
「前の世界がどうだったとか」
「……」
「何回目だったとか」
「……」
「そんなの関係ない」
女が。
ほんの少しだけ笑った。
「そう言うと思った」
「何?」
「だから」
女は俺を見る。
「あなたはまだ、記録されていない」
「……」
「今のあなたは」
女が一歩後ろへ下がる。
「誰にも書かれていない」
俺は目を見開く。
「なら」
俺は言った。
「俺たちが自分で記録すればいい」
女の表情が。
初めて変わった。
「……そう」
「何だ?」
「それが」
彼女は静かに答えた。
「この世界で、まだ一度も試されていないこと」
「自分たちで記録する?」
「ええ」
「どうやって?」
女は答えなかった。
代わりに。
古い本を見る。
「その本を持っていきなさい」
「これを?」
「あなたたちの記録にするの」
「何を書けばいい?」
「何でもいい」
「何でも?」
「あなたが見たもの」
女が言う。
「あなたが感じたこと」
「……」
「あなたが選んだこと」
そして。
「それを誰かに書かれる前に、自分で書きなさい」
俺は古い本を見る。
「それで何が変わる?」
「世界が」
女は答えた。
「初めて、あなたたち自身のものになる」
その瞬間。
女の身体が薄くなり始めた。
「待て!」
「まだ聞きたいことがある!」
「ええ」
「リゼリアはどこだ?」
女が笑う。
「目の前にいるでしょう?」
「……」
「私はリゼリア」
そう言った。
「そして」
ミレイアを見る。
「あなたでもある」
「……!」
ミレイアが目を見開く。
「でも」
リゼリアは続ける。
「今は違う」
「何が?」
「私たちは」
その姿がさらに薄くなる。
「もう、別々の人間だから」
そして。
最後に。
「だから、あなたはあなたとして生きなさい」
その言葉を残して。
リゼリアの姿は消えた。
誰も動かなかった。
しばらくして。
「……消えた?」
セレナが呟く。
「ああ」
「本当にリゼリアだったの?」
「分からない」
「またそれ?」
「でも」
俺は古い本を手に取る。
「この本は本物だ」
表紙を開く。
さっきまで書かれていた文字は。
全部消えていた。
「……何もない」
ルナが覗き込む。
「本当に?」
「ああ」
白紙。
何も書かれていない。
俺はペンを手に取った。
資料室に置かれていた古い羽根ペン。
インクをつける。
そして。
一番最初のページに。
自分の手で文字を書いた。
『第三十一話』
セレナが眉をひそめる。
「……何それ?」
俺は少しだけ考える。
それから。
その下に。
『今日、俺たちは記録者を探した』
と書いた。
ペン先を止める。
「……これでいいのか?」
誰に聞いたわけでもない。
返事はない。
俺は続けた。
『そして、俺たちは一つのことを知った』
『この世界は、誰かに記録されている』
『だが、記録されることだけが存在する条件ではない』
『俺たちは、記録される前からここにいた』
最後に。
『だから、これからは俺たち自身で記録する』
ペンを置く。
しばらく。
何も起きなかった。
「……何も起きないな」
セレナが言う。
「ああ」
「もっとこう、世界が光ったりとか」
「期待するな」
「ちょっとくらい期待するでしょ」
その会話に。
ルナが小さく笑った。
ミレイアも。
「そうですね」
笑っていた。
俺も笑った。
たぶん。
これでいい。
何か特別なことが起きなくても。
自分たちの言葉で。
自分たちの時間を残す。
それだけで。
何かが変わるのかもしれない。
そのとき。
古い本の最後のページが。
一枚だけ。
勝手にめくれた。
「……?」
俺は振り返る。
最後のページには。
俺が書いた覚えのない文字が。
一行だけ浮かんでいた。
『記録を開始しました』
セレナが息を呑む。
「今の、誰が書いたの?」
「分からない」
俺は答える。
けれど。
その下に。
さらに文字が浮かんだ。
『記録者――』
そこで止まる。
インクが揺れる。
そして。
ゆっくりと。
『レオン・アルヴェイン』
と書かれた。
俺は目を見開いた。
「……俺?」
その瞬間。
部屋のどこかで。
紙をめくる音がした。
一度。
二度。
三度。
今度は。
全員に聞こえた。
「……」
アルベルトが静かに周囲を見る。
「誰かいるのか?」
返事はない。
だが。
古い本のページが。
風もないのに。
勝手にめくられていく。
一枚。
二枚。
三枚。
まるで。
誰かが続きを読んでいるように。
そして。
最後のページで。
止まった。
『記録者、確認』
次の行。
『観測対象、変更』
さらに。
『レオン・アルヴェイン』
『ミレイア』
『セレナ』
『ルナ』
『アルベルト』
俺たち全員の名前が。
並んだ。
「……」
セレナが息を呑む。
「全員?」
ルナが剣に手をかける。
「記録対象が一人ではなくなった?」
「そうみたいだ」
俺は本を見る。
最後の一文。
『五名による共同記録を開始』
その文字を見た瞬間。
俺は。
なぜか少しだけ安心した。
誰か一人を選ぶのではない。
誰か一人を犠牲にするのでもない。
少なくとも今は。
俺たち五人が。
一つの記録として扱われている。
だが。
その直後。
ページの端に。
小さな文字が追加された。
『ただし』
俺は目を細める。
『記録者は五人ではない』
「……?」
続く文字。
『六人目を確認』
全員が。
凍りついた。
「六人目?」
セレナが呟く。
「ここには五人しかいない」
ルナが周囲を見る。
俺。
ミレイア。
セレナ。
ルナ。
アルベルト。
確かに五人。
それ以外には誰もいない。
なのに。
ページには。
『六人目――』
と書かれている。
文字が。
ゆっくり浮かぶ。
俺たちは。
その名前が現れるのを待った。
そして。
最後に書かれた名前を見て。
俺は。
息を止めた。
『読者』
「……」
セレナが首を傾げる。
「読者?」
俺は答えられなかった。
その文字を。
見た瞬間。
なぜか。
背後に。
誰かがいる気がした。
振り返る。
誰もいない。
だが。
部屋の扉。
その向こう。
長い廊下の先に。
何かが。
立っている。
人影。
こちらを見ている。
「……誰だ」
俺が呟く。
人影は動かない。
俺が一歩進む。
その瞬間。
人影は。
消えた。
ただ。
床に。
一枚の紙だけが残っていた。
俺は拾い上げる。
紙には。
一文だけ。
『次の記録は、あなたが読む前に始まっている』
俺は紙を握りしめた。
そして。
その瞬間から。
俺たちは。
記録者を探す側ではなく。
記録そのものを追う側へと。
少しずつ変わり始めていた。




