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第三十話 記録のない人


 王都の朝は、昨日までと何も変わっていないように見えた。


 窓の外では、いつものように荷馬車が石畳を軋ませ、通りの向こうでは朝市の準備をする商人たちが声を張り上げている。焼きたてのパンを並べる店からは小麦とバターの匂いが流れてきて、遠くでは教会の鐘が一定の間隔で鳴っていた。


 昨日、西門の外に現れた街が消えたことも。


 その街に住んでいた人々が、俺たちを見ていたことも。


 空に浮かんだ文字が、俺の名前を知っていたことも。


 まるで最初から存在しなかったように、何一つ痕跡を残していない。


 けれど、俺だけは知っている。


 あれは幻じゃなかった。


 確かに存在していた。


 そして、あの街が消えたあとに残ったものは、俺の中にある。


 あの男の顔。


 俺と同じ顔。


 俺と同じ姿をしていながら、俺とはまるで違う目をした男。


 そして、あの声。


『あなたは、記録されているからです』


 俺はベッドの上で目を覚ましたまま、しばらく天井を見つめていた。


 眠れなかったわけではない。


 ただ、眠っている間もずっと何かに見られているような感覚があった。


 目を閉じれば、知らない場所が見える。


 白い柱。


 何もない空間。


 無数の光。


 その一つ一つが世界なのだと、なぜか理解できる景色。


 そして、その中にある一つの暗い場所。


 ミレイアが「帰ってきたような気がした」と言った場所。


 あれが何なのか。


 まだ俺には分からない。


 分からないことばかりだ。


 それでも、昨日までなら「分からない」で済ませていたかもしれない。


 今は違う。


 何かが俺たちを見ている。


 それだけは、もう疑いようがなかった。


「……レオンさん」


 扉の向こうから声がした。


「起きてますか?」


「起きてる」


「入りますね」


 返事を待たずに扉が開く。


 ミレイアが顔を覗かせた。


「おはようございます」


「おはよう」


「よく眠れました?」


「まあまあ」


「また嘘ですね」


「……最近、そればっかりだな」


 ミレイアは笑いながら部屋へ入ってくる。


 その手には、昨日と同じように朝食が載った盆があった。


「今日はパン、多めにしておきました」


「昨日のセレナ対策か?」


「はい」


「本人に言ったら怒るぞ」


「本人には言いません」


「それならいい」


 ミレイアが机に朝食を並べていく。


 その動きを見ていると、昨日の最後に見た文字が頭に浮かんだ。


『第一観測対象、確定』


 そして。


『次の記録対象――ミレイア』


「……」


「どうしました?」


「いや」


 俺は一度、言葉を飲み込んだ。


 ミレイアにはまだ言わない方がいい。


 そう思った。


 理由は自分でも分からなかった。


 ただ、あの本に書かれていた名前を見た瞬間、嫌な感じがした。


 もしあれが単なる予告ではなく、本当に何かを記録するためのものなら。


 ミレイアが「記録対象」になったということは、次に何かが起きるのは彼女かもしれない。


「レオンさん?」


「ん?」


「今日、少し変ですよ」


「そうか?」


「はい」


 ミレイアが俺の顔を見る。


「昨日より考え込んでます」


「……まあな」


「何かあったら言ってくださいね」


「分かってる」


「本当に?」


「ああ」


 ミレイアは少しだけ俺を見つめたあと、頷いた。


「なら、いいです」


 それ以上は聞かなかった。


 そのことが、逆に気になった。


 以前なら、もっと踏み込んできたはずだ。


 けれど今のミレイアは、俺が言いたくないことを無理に聞こうとはしない。


 それは距離が遠くなったからではない。


 むしろ逆だった。


 俺が何かを抱えているとき、それを無理に奪おうとせず、俺が自分から話すまで隣にいる。


 そういう距離感を、少しずつ覚えてきたのだと思う。


「ところで」


 ミレイアが椅子に座る。


「今日、王城へ行くんですよね?」


「ああ」


「アルベルトさんから連絡がありました」


「何て?」


「『昨日の件について確認したいことがある』と」


「昨日の件か……」


 西門の街。


 あの本。


 噴水。


 記録。


 俺と同じ顔の男。


 どれを指しているのか分からない。


 たぶん、全部だ。


「セレナたちは?」


「もう向かっているそうです」


「早いな」


「セレナさんが『朝ご飯を食べるより謎を調べる方が大事』って」


「それは珍しいな」


「でも」


「ん?」


「そのあと、『帰ったら昼ご飯を食べる』と言ってました」


「……結局そこか」


 思わず笑ってしまった。


 その瞬間。


 部屋の外から、慌ただしい足音が聞こえた。


 誰かが廊下を走っている。


 次いで、扉が叩かれた。


「レオン!」


 セレナの声だった。


「開けて!」


「どうした?」


「いいから早く!」


 俺が扉を開ける。


 そこには、息を切らしたセレナとルナが立っていた。


「朝からどうした」


「王城へ行く前に、確認してほしいものがあるの」


「何だ?」


 セレナが一枚の紙を差し出した。


「これ」


 受け取って見る。


 王都の住民名簿だった。


「住民名簿?」


「昨日、アルベルトに頼まれて調べてたの」


「何を?」


「昨日の『存在しない人』について」


 俺は紙に目を落とす。


 名前がいくつも並んでいる。


 どれも王都に住んでいる人間のものだ。


「この中に、変なところがある」


 セレナが指を差す。


「ここ」


 そこには、一人の名前があった。


 だが。


 名前の横にある住所欄が空白になっている。


「住所がない?」


「そう」


「記載漏れじゃないのか?」


「最初はそう思った」


 セレナは別の紙を出す。


「でも、この人の住所を調べようとしたら」


 その紙には、別の記録があった。


「存在しない?」


「ああ」


 ルナが頷いた。


「名前はある」


「でも住所がない」


「その人を知っているという証言もある」


「なのに、家がない」


 俺は眉を寄せる。


「どんな人なんだ?」


「分からない」


「分からない?」


「昨日までは、三人がその人を知っていると答えた」


 セレナの顔が曇る。


「今朝は一人になった」


「……」


「そして、その一人に聞いたら」


「何て?」


「『そんな人は知らない』って」


 俺は紙を見る。


 名前だけが残っている。


 それ以外が、少しずつ消えている。


「名前は?」


「それが」


 セレナが言葉を止めた。


「何?」


「あなたが見て」


 俺は紙に書かれた名前を見る。


 そこには。


『リゼリア・アルヴェイン』


 と書かれていた。


「……」


 呼吸が止まりそうになった。


「これ」


 ミレイアが小さく呟く。


「リゼリアさん……?」


 セレナが頷く。


「そう」


 俺はもう一度、名前を見る。


 間違いない。


 リゼリア。


 第一部で何度も俺たちの前に現れた存在。


 敵なのか味方なのかさえ、最後まで簡単には決められなかった女。


 そして。


 ミレイアの中に、その記憶を残した存在。


「でも」


 ミレイアが紙を見つめる。


「リゼリアさんは、ここにはいません」


「そうだな」


「この世界に、住民として存在していた記録もないはずです」


「なのに名前だけある」


「はい」


 セレナが言う。


「しかも、これだけじゃない」


「まだあるのか?」


「こっち」


 次の紙。


 そこには、王都の古い住民記録が並んでいた。


 何十年も前のものだ。


 その中に。


 一つだけ。


 何度見ても消えない名前がある。


『リゼリア・アルヴェイン』


「いつの記録だ?」


「百年以上前」


「……」


 俺は紙をめくる。


 同じ名前。


 別の年。


 さらに別の年。


 どれも同じ名前だった。


「生年月日は?」


「書いてない」


「死亡記録は?」


「ない」


「住所は?」


「毎回違う」


 セレナが苦い顔をする。


「でも、その家を調べると」


「存在しない?」


「そう」


 俺は黙った。


 まるで。


 リゼリアという名前だけが。


 世界の中を渡り歩いているようだった。


「アルベルトは?」


「このことを知ってる?」


「まだ」


 セレナが首を振る。


「だから急いで知らせようと思って」


「分かった」


 俺は立ち上がった。


「王城へ行くぞ」


 四人で部屋を出る。


 朝の王都は、やはり平和だった。


 通りを歩く人々は、誰も俺たちのことなど気にしていない。


 昨日、世界の外側から観測されたことなど知らない。


 存在しない街を見たこともない。


 記録から人間が消えていくことも知らない。


 ただ今日を生きている。


 それだけだった。


 けれど。


 王城へ向かう途中。


 俺は一人の女性とすれ違った。


 ほんの一瞬。


 肩が触れた。


「すみません」


 女性が振り返る。


「いえ」


 それだけだった。


 だが。


 俺は足を止めた。


「……」


 何かを感じた。


 振り返る。


 女性はもう人混みの向こうへ消えようとしている。


「レオンさん?」


「いや」


「どうしました?」


「……何でもない」


 そう答えた。


 けれど、何でもなくはなかった。


 あの女性の顔を。


 俺は知っていた。


 知らないはずなのに。


 知っていた。


 昨日見た白い空間。


 そこにいた女。


 顔は違う。


 髪も違う。


 服も違う。


 なのに。


 目だけが。


 同じだった。


「レオン」


 ルナが俺の前に立つ。


「どうした?」


「今、誰か見ていただろ」


「ああ」


「知り合いか?」


「分からない」


「なら、行くぞ」


 ルナはそれ以上聞かなかった。


 俺はもう一度だけ人混みを見る。


 女性の姿は消えていた。


 王城へ着くと、アルベルトは昨日と同じ部屋で待っていた。


「来たか」


「ああ」


「何か分かった?」


「むしろ、分からないことが増えた」


「そうだろうな」


 アルベルトは疲れた顔をしていた。


「昨夜から記録を調べ続けている」


「何が出た?」


「昨日の噴水については、今朝になって新しい情報が出た」


「新しい情報?」


「あの噴水は、建造されたものではない」


「じゃあ何なんだ?」


「記録上、最初から存在していたことになっている」


「でも実際には、昨日までなかった」


「ああ」


 アルベルトが一枚の紙を差し出す。


「もっと正確に言えば」


 俺は紙を見る。


「昨日まで、存在していなかったという記録も存在している」


「……」


「つまり」


 アルベルトは静かに言った。


「二つの過去が同時に存在している」


 俺は紙を見つめる。


 一枚には。


『王都中央広場に噴水は存在しない』


 もう一枚には。


『王都中央広場の噴水は、三百年前から存在する』


 どちらも本物だった。


 紙の質も。


 筆跡も。


 保存状態も。


 誰かが後から書き足した形跡はない。


「あり得るのか?」


「普通ならあり得ない」


「普通なら?」


「今起きていることは、普通ではない」


 アルベルトは椅子に座った。


「記録が現実を決めているなら、過去そのものが書き換わっている可能性がある」


「昨日までなかったものが、昔からあったことになる?」


「そうだ」


「じゃあ、逆も?」


 俺が聞く。


「昔からあったものが、なかったことになる可能性もある?」


 アルベルトは黙った。


「……ある」


 その返事を聞いた瞬間。


 嫌な予感がした。


「何かなくなったのか?」


「まだ確認できていない」


「なら、確認する」


「そう言うと思った」


 アルベルトが立ち上がる。


「一つ、確認してほしい」


「何だ?」


「リゼリアについてだ」


 セレナがすぐに反応する。


「アルベルトも知ってるの?」


「今朝、記録を見つけた」


「どんな?」


「百年以上前の記録に、リゼリアという名前が何度も出てくる」


「それは私たちが見つけた」


 セレナが紙を見せる。


「だが」


 アルベルトは首を振る。


「私が見つけたのは、それだけではない」


 彼は別の資料を机に広げた。


 古い研究記録。


 紙は黄ばんでいる。


 表紙には、かつて見たことのある紋章が描かれていた。


「これ」


 セレナが息を呑む。


「父の研究室の紋章……」


「そうだ」


 アルベルトは頷いた。


「君の父親が残したものだ」


「どうしてアルベルトが?」


「彼が亡くなる前、私に一部だけ預けていた」


 セレナが紙をめくる。


 そこには細かい文字が並んでいる。


「何これ?」


「第零記録についての研究だ」


 セレナの指が止まる。


「父は、ずっとこれを調べていたの?」


「ああ」


「でも、どうして今まで……」


「見せる必要がなかったからだ」


「どういう意味?」


 アルベルトは答えず、俺を見る。


「レオン」


「何だ?」


「これを見てくれ」


 一枚の紙。


 研究者らしい細かな文字。


 その中央に。


『器候補:L』


 と書かれていた。


「器?」


 ミレイアが呟く。


 俺はその文字を見つめる。


 その下には、いくつもの記録があった。


『世界の安定には、観測者とは別に器が必要』


『器は周期を越えて記憶を保持する』


『ただし、完全な記憶保持は人格の崩壊を招く』


『Lは適合率が高い』


「……L?」


 セレナが父の筆跡を追う。


「誰のこと?」


 アルベルトは首を横に振った。


「それが分からない」


「じゃあ何で見せたの?」


「最後まで読めば分かる」


 セレナがページをめくる。


 最後の一枚。


 そこには、他のページより明らかに乱れた筆跡で、一行だけ書かれていた。


『Lは人間ではない』


 ミレイアの顔が固まった。


「……」


 俺は彼女を見る。


「ミレイア?」


 返事がない。


 彼女は紙を見たまま、じっと動かなかった。


「どうした?」


「分かりません」


「何が?」


「この文字」


 ミレイアが指を震わせる。


「見たことがあります」


「どこで?」


「……分かりません」


 そして。


 ミレイアの瞳が揺れた。


「でも」


「うん」


「この文字を書いた人を」


 彼女は胸元を押さえた。


「私は知っています」


 部屋の空気が止まった。


「誰だ?」


 ミレイアは答えようとして。


 口を閉じた。


「……言えません」


「どうして?」


「名前を思い出そうとすると」


 彼女の顔から血の気が引いていく。


「頭の中で、何かが消えます」


「消える?」


「はい」


「何が?」


「分かりません」


 ミレイアは苦しそうに目を閉じた。


「でも、今」


 小さく息を吸う。


「私の中から、一つだけ記憶が消えました」


「……!」


 俺は反射的に彼女の肩を支えた。


「大丈夫か?」


「はい」


「本当に?」


「……たぶん」


 セレナが不安そうに近づく。


「無理しないで」


 ミレイアは頷いた。


 だが、その表情は明らかに怯えていた。


 記憶が消える。


 それは第一部で見たものとは違う。


 あのときは、世界そのものが崩れかけていた。


 今は。


 世界が、記録を書き換えながら人間の中身まで変えている。


「アルベルト」


「何だ?」


「この研究記録」


「ああ」


「いつ書かれた?」


「日付を見ろ」


 俺はページの端を見る。


 そこに書かれていた日付は。


 俺が生まれるよりも、はるか前だった。


 それだけなら。


 不思議ではない。


 だが。


 その下に。


 小さな文字がある。


『レオン・アルヴェインとの接触後、再調査』


 俺は固まった。


「……俺の名前?」


 セレナも見る。


「嘘……」


 アルベルトは黙っていた。


「この記録を書いたのは、俺が生まれる前だぞ」


「ああ」


「なのに、どうして俺の名前がある?」


「それを調べている」


「じゃあ」


 俺は紙を掴む。


「この記録を書いた人間は、未来を知っていたのか?」


「それも可能性の一つだ」


「未来を?」


「あるいは」


 アルベルトが低く言う。


「我々が考えている時間の流れそのものが間違っている」


 その言葉を聞いて。


 俺は黙った。


 昨日の本。


 存在しない街。


 書き換わる記録。


 二つの過去。


 そして、まだ生まれていない俺の名前を知っている研究記録。


 全部が一本の線で繋がり始めている。


 世界は時間の中にある。


 俺たちはそう思っていた。


 過去があって。


 現在があって。


 その先に未来がある。


 けれど。


 もし世界を記録する「外側」があるのなら。


 そこでは。


 過去も未来も。


 ただの記録として並んでいるのかもしれない。


「レオンさん」


 ミレイアの声で我に返る。


「ん?」


「私」


 彼女は少し迷ったあと。


「さっき消えた記憶を、もう一つ思い出しました」


「何を?」


「昨日見た、あの白い場所です」


 俺は黙って聞く。


「私は、あの場所に行ったことがあります」


「……いつ?」


「分かりません」


「どんなとき?」


「それも分かりません」


 ミレイアは目を伏せる。


「でも、昨日初めて見たわけじゃない」


「じゃあ、前にも?」


「はい」


「誰と?」


 ミレイアが顔を上げる。


 その瞳には、戸惑いがあった。


「レオンさんと」


「……俺と?」


「はい」


「俺は覚えてない」


「私も覚えてません」


 それでも。


 ミレイアは続けた。


「でも、二人であの場所に立っていた気がします」


 俺は何も言えなかった。


 その瞬間。


 部屋の隅に置かれていた黒い本が。


 かすかに震えた。


「……」


 全員がそちらを見る。


 誰も触れていない。


 なのに。


 本の表紙がゆっくりと開いていく。


 一ページ。


 二ページ。


 三ページ。


 そして。


 昨日まで何も書かれていなかったページに。


 文字が浮かび上がった。


『記録の矛盾を確認』


 セレナが息を呑む。


 次の行。


『観測対象に記憶の不一致を確認』


 さらに。


『器の反応を確認』


 ミレイアが一歩下がった。


「……私?」


 文字が続く。


『L――』


 そこで。


 文字が途切れた。


 黒いインクが紙の上で滲み、何かを書こうとしているように揺れる。


 そして。


『――不明』


 とだけ残った。


 俺は本に近づいた。


「何だよ、それ」


 ページに手を伸ばす。


 その瞬間。


 黒い文字が一気に消えた。


 代わりに。


 新しい一文が現れる。


『記録者が干渉しています』


「……記録者?」


 俺が呟く。


 次の文字が浮かぶ。


『接続を遮断します』


 突然。


 俺の右手に熱が走った。


「っ……!」


 反射・無限化が勝手に発動する。


 手のひらに光が集まり。


 黒い本の表紙へ触れた瞬間。


 世界が。


 一瞬だけ止まった。


 音が消える。


 風も止まる。


 アルベルトも。


 セレナも。


 ルナも。


 ミレイアも。


 全員が動かない。


 俺だけが動いていた。


「……何だ、これ」


 視界の端が白くなる。


 そして。


 部屋の壁が消えた。


 床が消えた。


 天井が消えた。


 俺は。


 また。


 あの場所に立っていた。


 白い柱。


 何もない世界。


 けれど。


 昨日とは違う。


 今日は。


 柱の前に。


 一人だけ立っていた。


 男。


 俺と同じ顔。


 昨日見た、もう一人のレオン。


 男は俺を見ると。


 少しだけ笑った。


『ようやく来たか』


「……お前」


『遅かったな』


「お前は誰だ」


『それを聞くのは、お前らしい』


「答えろ」


『俺は』


 男が一歩近づく。


『お前が選ばなかった可能性だ』


「……」


『お前が今いる世界が残ったことで、俺の世界は消えた』


「違う」


『違わない』


「俺はお前の世界を消した覚えはない」


『お前が決めなくても、世界は決めた』


「……」


『お前は生き残った』


 男の声には、怒りも憎しみもなかった。


 ただ。


 疲れがあった。


『だから俺は、お前を恨む理由すら失った』


「なら、何がしたい?」


『見ている』


「何を?」


『お前が、また同じ選択をするのか』


 俺は拳を握った。


「俺はもう、一人では決めない」


『そうか』


「今度は全部守る」


『できると思うか?』


「できるかどうかじゃない」


 俺は男を見る。


「やるんだ」


 男が少しだけ目を細めた。


『……やっぱり、お前は俺だな』


「何?」


『その答えをすると思っていた』


 男が振り返る。


 白い柱へ向かって歩いていく。


「待て!」


 俺が追おうとした。


 だが。


『ただし』


 男が振り返る。


『一つだけ覚えておけ』


「何だ?」


『お前が守ろうとしている世界は』


 男の後ろで。


 白い柱に亀裂が入った。


『お前が思っているほど、古くない』


「……どういう意味だ?」


『第七周期は』


 男が笑う。


『まだ始まってすらいない』


「……!」


 その瞬間。


 視界が砕けた。


 音が戻る。


 風が戻る。


 時間が動き出す。


 俺はその場に膝をついた。


「レオンさん!」


 ミレイアが駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか!?」


「……ああ」


 俺は息を整えた。


 黒い本を見る。


 そこには。


 もう何も書かれていない。


 ただ。


 最後のページの一番下に。


 小さな文字だけが残っていた。


『第二十九話 記録のない人』


「……」


 セレナが首を傾げる。


「何それ?」


 俺は答えなかった。


 ただ、その文字を見つめていた。


 さっきまで俺たちが見ていたものが。


 誰かによって「話」として記録されている。


 そう考えると。


 妙に嫌な感覚がした。


 俺たちは今まで。


 自分たちの意思で動いていると思っていた。


 けれど。


 もし。


 俺たちの行動そのものが、誰かに記録されているのなら。


 記録される前の俺たちは。


 どこにいる?


 そして。


 記録された俺たちは。


 本当に俺たちなのか。


「レオンさん?」


 ミレイアがもう一度呼ぶ。


「ああ」


「何か分かったんですか?」


「……少しだけ」


 俺は本を閉じた。


「この世界には、俺たちが知らない『外側』がある」


 アルベルトが静かに頷いた。


「やはりそう考えるか」


「ああ」


「そして?」


 俺は窓の外を見る。


 王都は今日も平和だった。


 人々が歩き。


 店が開き。


 子供たちが笑っている。


 その全てが。


 昨日までと同じように見える。


 けれど。


 その景色のどこかに。


 俺たちが知らない誰かがいる。


 俺たちを見ている。


 記録している。


 そして。


 必要なら。


 世界そのものを書き換える。


「まずは」


 俺は立ち上がった。


「リゼリアの記録を調べる」


 セレナが頷く。


「私も行く」


「私も」


 ルナが続く。


「当然です」


 ミレイアも立ち上がった。


 俺は三人を見る。


 そして。


 アルベルトを見る。


「アルベルト」


「何だ?」


「一つ聞きたい」


「言ってみろ」


「もし、記録されたものが世界になるなら」


 俺は黒い本を手に取った。


「この本を書いている奴を見つければ、世界を書き換えている奴も分かるんじゃないか?」


 アルベルトは。


 しばらく黙った。


「……その可能性は高い」


「なら、やることは決まったな」


「ああ」


 アルベルトが頷く。


「記録者を探す」


 その言葉が部屋に落ちた。


 誰も笑わなかった。


 昨日までなら。


 そんなものが本当にいるのかと疑っていたかもしれない。


 だが今は違う。


 確かにいる。


 俺たちの知らないところで。


 世界を見ている存在がいる。


 俺は黒い本を抱えたまま、窓の外へ目を向けた。


 青い空。


 白い雲。


 いつもと変わらない王都。


 その空の向こうに。


 世界の外側がある。


 そう思った瞬間。


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 いつもの昼の鐘だ。


 俺たちは誰も気に留めなかった。


 けれど。


 四度目の鐘が鳴った瞬間。


 王都のすべての時計が。


 同時に止まった。


「……?」


 セレナが窓の外を見る。


「止まった?」


 ルナも外へ目を向ける。


 通りを歩いていた人々も。


 荷馬車を引いていた馬も。


 風に揺れていた旗も。


 何もかもが。


 一瞬だけ静止した。


 そして。


 王都の中央広場にある噴水から。


 水が逆向きに流れ始めた。


 地面から空へ。


 落ちるはずの水が。


 上へ。


 上へ。


 昇っていく。


「何……あれ」


 ミレイアが呟く。


 水が空へ消えたあと。


 噴水の中央に。


 一人の女性が立っていた。


 白い服。


 長い髪。


 そして。


 こちらを見ている。


 俺は息を止めた。


 昨日の白い空間にいた女。


 あの女だった。


 けれど。


 次の瞬間。


 女の姿は消えた。


 時計が動き始める。


 馬が歩く。


 人々が声を上げる。


 風が吹く。


 何事もなかったように。


 世界は再び動き始めた。


 ただ一つ。


 中央広場の噴水だけを除いて。


 そこには。


 新しい文字が刻まれていた。


『記録者を探す者へ』


 そして、その下に。


『記録者もまた、誰かに記録されている』


 俺は。


 その言葉を見つめた。


 意味は。


 すぐには理解できなかった。


 けれど。


 なぜか。


 その一文だけは。


 ずっと昔から知っていたような気がした。

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