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第二十九話 記録されない朝


 翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。


 目を覚ましたというより、眠りの底から無理やり引き上げられたような感覚だった。


 理由は分からない。


 悪夢を見たわけでもないし、誰かに起こされたわけでもない。


 ただ、目を開けた瞬間から、昨日の夜に見た文字が頭から離れなかった。


『第一章 平穏の終わり』


 あの黒い本に浮かんだ言葉。


 あれが単なる予告なのか、それとも何かを知っている者が俺たちへ向けて残したものなのか、それすら分からない。


 けれど、妙に引っかかる。


 平穏の終わり。


 そう書かれていたのに、朝になってみれば王都は昨日と何一つ変わっていなかった。


 窓の外からは人の声が聞こえる。


 パン屋の主人が店先を掃除している。


 通りを荷馬車が走っている。


 子供たちは学校へ向かっている。


 昨日までと同じ朝。


 それなのに。


 俺は、その景色を素直に信じることができなかった。


「……嫌な朝だな」


「何がですか?」


「うわっ」


 突然背後から声がして、俺は思わず振り返った。


 ミレイアが扉のところに立っている。


「驚きすぎじゃないですか?」


「普通に驚くわ」


「そうですか?」


「そうだよ。いつからいた?」


「今来たところです」


「なら声をかけてから入ってくれ」


「昨日も朝ご飯を食べていたじゃないですか」


「それとこれとは話が違う」


 ミレイアは小さく笑った。


 いつも通りの表情だった。


 それを見て、俺は少しだけ肩の力を抜く。


「眠れました?」


「ああ」


「嘘ですね」


「なんで分かる」


「顔に書いてあります」


「そんなに分かりやすいか?」


「はい」


 ミレイアは俺の隣まで歩いてくると、窓の外を眺めた。


「昨日の本のこと、考えてました?」


「……ああ」


「私もです」


「やっぱり?」


「はい」


 しばらく二人で黙って外を見る。


 平和な街。


 何も起きていない。


 何も変わっていない。


 そう見える。


 だが。


「レオンさん」


「ん?」


「昨日の最後に見たもの、覚えていますか?」


「もちろん」


「私、あのとき一つだけ思い出したことがあります」


「何を?」


 ミレイアはすぐには答えなかった。


 胸元へ手を当て、何かを確かめるように目を閉じる。


「白い場所です」


「……昨日の?」


「はい」


「俺が見た白い柱のある場所か?」


「少し違います」


 ミレイアはゆっくりと目を開けた。


「私が見たのは、その場所を外側から見ている景色です」


「外側から?」


「はい」


 俺は眉を寄せた。


「世界の外側ってことか?」


「分かりません」


「何が見えた?」


「たくさんの光です」


「光?」


「はい」


 ミレイアは窓の外を見た。


「星みたいなものが、たくさん浮かんでいました」


「星……」


「でも、その一つ一つが世界だった気がします」


 俺は言葉を失った。


「世界が、星みたいに?」


「はい」


「いくつくらい?」


「分かりません」


 ミレイアは首を横に振った。


「数えられないくらい、たくさん」


「……」


「その中に、一つだけ」


 ミレイアの声が少し低くなる。


「何も光っていないものがありました」


「黒い星?」


「違います」


 彼女は首を振った。


「星ですらないんです」


「どういうことだ?」


「そこだけ、何もないんです」


 何もない。


 その言葉を聞いた瞬間、昨日見た白い空間が脳裏に蘇った。


 世界が存在する前のような場所。


 白い柱。


 顔の見えない男。


 女。


 そして、俺自身。


「……第零記録か?」


「分かりません」


「でも、何か関係がある」


「たぶん」


 ミレイアは少しだけ俯いた。


「それと」


「まだあるのか?」


「はい」


 彼女は顔を上げた。


「その何もない場所を見たとき、私は怖くなかったんです」


「怖くなかった?」


「むしろ」


 ミレイアは、自分でも不思議そうな顔をした。


「帰ってきたような気がしました」


 その瞬間。


 部屋の外から、大きな物音が響いた。


「おーい! 起きてる!?」


 セレナの声だった。


「朝からうるさい!」


 俺が扉を開けると、セレナとルナが立っていた。


「何よ、朝から機嫌悪いわね」


「お前が騒ぐからだ」


「普通でしょ」


「普通じゃない」


「二人とも」


 ルナが間に入る。


「朝から喧嘩するな」


「喧嘩じゃない」


「そうそう」


 セレナが頷く。


「これは高度な意思疎通よ」


「ただの言い争いだ」


 俺がため息をつくと、セレナが腕を組んだ。


「それより、アルベルトから連絡が来たわ」


「何て?」


「王城へ来てほしいって」


「理由は?」


「それが」


 セレナの表情が変わった。


「昨日の本について」


 嫌な予感がした。


「何か分かったのか?」


「それが分からないから呼ばれたみたい」


「……なるほど」


「それと」


 セレナが少し間を置く。


「王都で変なことが起きてるらしい」


「変なこと?」


「昨日の道の話、覚えてる?」


「ああ」


「似たような報告が、今朝だけで三件出てる」


 俺は黙った。


「三件?」


「うん」


「どんなものだ?」


「存在しない道」


「……」


「存在しない建物」


「……」


「それから」


 セレナは一度言葉を切った。


「存在しない人」


 部屋の空気が変わった。


「人?」


「見た人によって証言が違うの」


 ルナが続けた。


「ある商人は、昨日の夕方に店の前を通った女性と話したと言っている」


「その女性は?」


「商人以外の誰も知らない」


「それだけなら、知らない人ってだけじゃないか?」


「問題は、その商人が言うには」


 ルナが俺を見る。


「その女性は十年前に亡くなった人らしい」


 俺は黙った。


「本人も最初は気づかなかったらしい。でも今朝、昔の記録を確認して、同じ顔の人物が十年前に死亡していることを知った」


「……」


「それだけじゃない」


 セレナが続ける。


「別の人間は、昨日まで存在していた友人が突然いなくなったと言ってる」


「死んだ?」


「違う」


「じゃあ?」


「その友人を知っている人間が、誰一人としていない」


 俺は眉を寄せた。


「本人だけが覚えている?」


「そう」


「……おかしいな」


「でしょう?」


 セレナは頷いた。


「だからアルベルトが調べてる」


 俺たちは王城へ向かった。


 昨日までと同じ道を歩く。


 昨日までと同じ街並み。


 だが。


 昨日とは違って見えた。


 道の角を見る。


 建物の壁を見る。


 看板を見る。


 何かが変わっていないか、無意識に確認してしまう。


「レオン」


 ルナが声をかけてきた。


「何だ?」


「さっきから周囲を見すぎだ」


「……悪い」


「警戒しているのか?」


「ああ」


「何か感じる?」


「分からない」


 俺は前を見る。


「ただ、昨日の道みたいなものが、また出てくる気がする」


「なら、警戒しておく」


「助かる」


 しばらく歩いたところで。


 俺は足を止めた。


「……待て」


「どうした?」


「ここ」


 目の前には、噴水があった。


 王都の中央広場にある、何の変哲もない噴水。


 だが。


「昨日、ここに噴水なんてあったか?」


 セレナが首を傾げる。


「あったでしょ」


「本当に?」


「ええ」


 ルナも頷いた。


「前からある」


「……」


 ミレイアが噴水に近づく。


「レオンさん」


「何だ?」


「私も」


 彼女は噴水を見つめた。


「昨日はなかった気がします」


「……」


 俺は噴水へ近づいた。


 石造り。


 古い。


 水が流れている。


 だが、妙なことに。


 噴水の底に刻まれた文字だけが新しい。


 俺はしゃがみ込んだ。


 そこには。


『第二十八周期 統合開始』


 と書かれていた。


「……またか」


 セレナが隣から覗き込む。


「昨日の本と同じ?」


「ああ」


「第二十八周期って、何なの?」


「分からない」


 俺が答えると。


 突然。


 噴水の水が止まった。


「……?」


 次の瞬間。


 水面が鏡のように揺れた。


 そこに。


 俺たちの姿が映る。


 ミレイア。


 セレナ。


 ルナ。


 俺。


 だが。


「……四人じゃない」


 俺は呟いた。


 水面には。


 五人目が映っていた。


 俺のすぐ後ろ。


 黒い髪。


 俺と同じ顔。


 同じ背格好。


 ただし。


 目だけが違った。


 冷たい。


 何も映していないような目。


 俺が振り返る。


 誰もいない。


 もう一度、水面を見る。


 五人目は消えていた。


「レオンさん?」


 ミレイアが俺の肩に手を置く。


「今、見たか?」


「何を?」


「……いや」


 俺は立ち上がった。


「何でもない」


 この時点では。


 まだ俺は、それが何だったのか分からなかった。


 王城に着くと、アルベルトが待っていた。


 部屋に入った瞬間。


「遅かったな」


「街で妙なものを見つけた」


「噴水か?」


「知ってるのか?」


「ああ」


 アルベルトは机の上に数枚の紙を並べた。


「今朝、突然現れた」


「突然?」


「正確には、記録上は昨日から存在している」


「……」


「だが、昨日まで誰も存在を認識していない」


 アルベルトは一枚の紙を俺に渡した。


「この噴水についての記録だ」


 そこには、建設年月日、施工者、使用した石材、修復履歴まで細かく書かれていた。


「こんなもの、昨日までなかったのに?」


「そうだ」


「じゃあ、この記録は?」


「そこが問題だ」


 アルベルトは別の紙を出す。


「王都の古い記録を調べた」


 紙には、噴水が存在していないことが記されていた。


「こっちが三日前」


「噴水はない」


「一年前も」


「ない」


「十年前も」


「ない」


「百年前も」


「ない」


 アルベルトが最後の紙を置く。


「だが、今朝確認した記録には存在している」


 セレナが眉を寄せる。


「誰かが記録を書き換えた?」


「それなら簡単だった」


「違うの?」


「記録だけじゃない」


 アルベルトは窓の外を見る。


「人間の記憶まで変わっている」


 部屋が静かになる。


「噴水を昔から知っているという人間がいる」


「……」


「昨日まで存在しなかったことを覚えている人間もいる」


「つまり」


 俺が言う。


「人によって世界の記憶が違ってる」


「その通りだ」


 アルベルトは頷いた。


「そして」


 彼は黒い本を取り出した。


「昨日の本にも変化があった」


「何?」


「昨日、最後のページには『第一章 平穏の終わり』としか書かれていなかった」


「……ああ」


「今朝は違う」


 アルベルトが本を開く。


 ページには新しい文章が浮かんでいた。


『世界は、記録されたものによって定義される』


「……」


『記録されなかったものは、存在しない』


 セレナが息を呑む。


「何よ、これ……」


 さらにページがめくれる。


『だが、存在しないものを記録する者が現れた場合、その世界は矛盾する』


 最後に。


『矛盾は、世界を増やす』


 俺は本を見つめた。


「世界を増やす?」


 アルベルトが頷く。


「おそらく、これが第二十八周期の意味だ」


「どういうこと?」


「第七周期までの世界は、世界同士の分岐によって生まれた」


「じゃあ第二十八周期は?」


「分岐ではない」


 アルベルトは答えた。


「記録によって生まれる世界だ」


 俺は黙った。


「誰かが世界を記録する」


「その記録が現実になる」


「現実になった世界が、また記録される」


「そうやって」


 アルベルトが黒い本を見る。


「世界そのものが増殖している」


 その言葉を聞いた瞬間。


 俺の頭の中で、昨日の映像が蘇った。


 白い柱。


 二人の人間。


 世界が成立する前の場所。


 そして。


 女の言葉。


『だから、何度でも同じことを繰り返す』


 俺は拳を握った。


「アルベルト」


「何だ?」


「昨日、俺が見た場所」


「白い空間か?」


「ああ」


「何か分かったのか?」


「そこには、世界が一つしかなかった」


「……」


「少なくとも、俺が見た限りでは」


 俺は続ける。


「なのに今は、世界が増えている」


「そうだな」


「だったら」


 俺は黒い本を見る。


「誰かが記録しているんじゃないか?」


 アルベルトの目が細くなる。


「可能性はある」


「誰が?」


「それが分からない」


 また。


 分からない。


 俺は思わずため息をついた。


「昨日から分からないことばっかりだな」


「仕方ない」


「仕方ないで済む話か?」


「済ませるしかないだろう」


 アルベルトが珍しく苦笑した。


「我々は昨日まで、世界がいくつも存在することすら知らなかったんだからな」


 そのとき。


 扉が開いた。


 王城の兵士が入ってくる。


「アルベルト様」


「どうした?」


「報告があります」


「何だ?」


 兵士は少し怯えた様子だった。


「西門の外に」


「うん」


「存在しないはずの街が見えます」


「……」


 俺たちは全員、顔を見合わせた。


「街?」


 アルベルトが聞き返す。


「はい」


「規模は?」


「王都ほどではありません。ただ」


 兵士が言葉を詰まらせる。


「こちらから見えるのに、近づけません」


「どういう意味だ?」


「歩いても距離が変わらないんです」


「……」


「それから」


 兵士はさらに続ける。


「その街に住んでいる人間が、こちらを見ています」


 セレナが立ち上がった。


「人がいるの?」


「はい」


「どんな人?」


「それが」


 兵士は俺を見る。


「全員、こちらと同じ顔をしているように見えます」


 俺の背筋に。


 冷たいものが走った。


「……行くぞ」


 ミレイアがすぐに立ち上がる。


「はい」


 ルナも剣を手に取る。


「分かった」


 セレナも杖を持った。


「嫌な予感しかしないけどね」


「俺もだ」


 アルベルトがため息をつく。


「私も同行する」


「王城は?」


「この状況で留守番していろと言うのか?」


「……それもそうだな」


 俺たちは西門へ向かった。


 城壁の上に登ると。


 兵士が言っていた意味が分かった。


 遠く。


 王都の外。


 本来なら平原が広がっているはずの場所に。


 一つの街があった。


 城壁。


 塔。


 家々。


 煙突から上がる煙。


 人々が歩いている。


 明らかに。


 街だった。


「昨日までなかったよな?」


 俺が聞く。


「ない」


 アルベルトが答える。


「私が昨日、この辺りを確認している」


「なら、あれは何だ?」


「……分からない」


 俺は目を凝らした。


 街の中央に。


 巨大な塔が立っている。


 その塔の上に。


 旗が掲げられていた。


 紋章は。


 王国のものではない。


 だが。


 見覚えがあった。


「……あれ」


 ミレイアが呟く。


「どうした?」


「あの旗」


「知ってるのか?」


「知りません」


 彼女は首を横に振る。


「でも」


「でも?」


「懐かしいです」


 まただ。


 ミレイアが感じる。


 俺も感じる。


 知らないものなのに。


 知っている。


 その感覚。


 そして。


 街の塔から。


 鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 四度。


 五度。


 六度。


 七度。


 八度。


 九度。


 十度。


 十一度。


 十二度。


 鐘が鳴り終わった瞬間。


 街にいた人々が。


 一斉にこちらを向いた。


「……!」


 何百人。


 いや。


 何千人もの人間が。


 同時にこちらを見る。


 その光景に。


 誰も声を出せなかった。


 そして。


 一人の男が。


 街の中央から歩き出した。


 遠すぎて顔は見えない。


 なのに。


 なぜか。


 俺には分かった。


 あいつは。


 俺を見ている。


 男が手を上げた。


 すると。


 街の上空に。


 巨大な文字が浮かび上がった。


『確認』


 続いて。


『第七周期』


 そして。


『観測対象――レオン』


「……!」


 俺は一歩前へ出た。


「なんで俺の名前を知ってる?」


 返事はない。


 代わりに。


 もう一行。


『記録開始』


 その瞬間。


 俺の右手が。


 淡く光った。


「……っ」


 反射・無限化。


 能力が。


 勝手に反応している。


「レオンさん!」


 ミレイアが俺の腕を掴む。


「大丈夫か?」


「分からない」


 手を見る。


 光はすぐに消えた。


 だが。


 何かが。


 俺の中へ入ってきたような感覚が残っている。


 そして。


 頭の中に。


 声が響いた。


『記録対象、接続』


 昨日の女とは違う。


 冷たい声。


 感情のない声。


『反射能力、確認』


『無限化能力、確認』


『第七周期、安定』


『観測を継続する』


「……誰だ」


 俺は声に向かって問いかけた。


『質問を受理』


「お前は誰だ」


『回答不能』


「なんで俺を知ってる?」


『質問を受理』


「答えろ!」


 沈黙。


 そして。


『あなたは、記録されているからです』


 その言葉と同時に。


 俺の視界が一瞬だけ白くなった。


 見えた。


 白い柱。


 あの場所。


 その前に。


 昨日の女が立っている。


 だが。


 今度は一人ではなかった。


 女の隣に。


 もう一人。


 男がいる。


 顔は見えない。


 しかし。


 その男がこちらを向いた。


 そして。


 俺と同じ顔をしていた。


「……!」


 視界が戻る。


 俺は膝をついた。


「レオン!」


 ミレイアが支える。


「大丈夫だ」


「顔色が悪いです」


「平気だ」


「平気じゃない」


 セレナも近づいてくる。


「何を見たの?」


「……俺」


「え?」


「俺がいた」


「どういう意味?」


「白い場所に」


 俺は息を整える。


「俺と同じ顔をした奴がいた」


 ルナが剣を握り直した。


「もう一人のレオン……?」


「分からない」


 だが。


 昨日の店で聞いた声。


『お前だったかもしれないものだ』


 あの言葉が。


 今になって繋がった気がした。


 そして。


 その瞬間。


 西の街が。


 消えた。


「……え?」


 セレナが呆然とする。


 さっきまで確かにあった街が。


 跡形もなく消えている。


 平原だけが残っていた。


「幻?」


 ルナが呟く。


「いや」


 アルベルトが首を振った。


「幻ではない」


「じゃあ何?」


「存在した」


 アルベルトは平原を見る。


「だが、今は存在しない」


 俺は城壁の上から遠くを見る。


 何もない。


 昨日までと同じ平原。


 なのに。


 俺には分かっていた。


 あの街は。


 消えたんじゃない。


 記録から外れただけだ。


 そして。


 次に記録されるのが。


 何なのか。


 俺にはまだ分からない。


 王城へ戻る途中。


 俺たちは誰もほとんど喋らなかった。


 昨日までは。


 平穏を取り戻したと思っていた。


 今日になって。


 その平穏そのものが。


 誰かに観測されていることを知った。


 夜。


 俺は再び黒い本を開いた。


 昼間には何もなかったページに。


 新しい文字が浮かんでいた。


『第二十九日』


「……?」


 その下に。


『観測継続』


 そして最後に。


『次の記録対象――ミレイア』


 俺の手が止まった。


「……ミレイア?」


 その名前を口にした瞬間。


 背後から。


「呼びました?」


 声がした。


 俺は振り返る。


 そこにはミレイアが立っていた。


「どうしたんですか?」


「……いや」


 俺は本を閉じた。


「何でもない」


 ミレイアは少し不思議そうな顔をした。


 それでも。


 深くは聞かなかった。


「そうですか」


「ああ」


「じゃあ、明日も朝ご飯、一緒に食べましょうね」


「……ああ」


「約束ですよ」


「分かった」


 ミレイアが部屋を出ていく。


 扉が閉まる。


 俺は一人になる。


 そして。


 ゆっくりと本を開く。


 文字は消えていた。


 ただ。


 最後のページの端に。


 小さな文字が一つだけ残っている。


『第一観測対象、確定』


 俺はそれを見つめる。


 嫌な予感がする。


 けれど。


 今度は。


 逃げるつもりはなかった。


 第一部で。


 俺は一人で世界を選ぼうとして。


 間違えた。


 だから今度は。


 誰かが俺たちを選ぶというのなら。


 俺たちの側から。


 その選択に手を伸ばす。


「……待ってろ」


 誰に言ったのかは。


 自分でも分からなかった。


 ただ。


 黒い本の向こう側にいる何かへ。


 俺は静かに言った。


「次は、こっちから見つけてやる」


 その瞬間。


 黒い本が。


 初めて。


 自分の意思で閉じた。


 そして。


 王都のどこかで。


 誰も存在を知らない鐘が。


 一度だけ鳴った。

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