第二十八話 昨日までなかった道
朝の王都は、第一部の最後にあれほど大きな戦いがあったことなど忘れてしまったように、驚くほど穏やかだった。
窓の外から聞こえてくるのは、荷馬車の車輪が石畳を叩く音と、通りを行き交う人々の話し声、それからどこかの店で焼かれているパンの香ばしい匂いだけで、少なくとも今この瞬間だけを切り取れば、世界がいくつもの可能性に引き裂かれ、選ばれなかった世界と衝突し、俺たちがその境界を閉じたことなど、最初から存在しなかった出来事のように思えた。
俺は窓際に立ったまま、しばらく王都を眺めていた。
街はまだ完全に元通りになったわけではない。
大通りの一部には戦いの跡が残っているし、崩れた建物の修復も続いている。
それでも。
人々は歩いている。
店は開いている。
子供たちは、何も知らない顔で路地を走り回っている。
それを見ていると、ようやく終わったのだという実感が少しだけ湧いてくる。
「……暇ですね」
背後から声がした。
振り返ると、ミレイアが椅子に座ったまま頬杖をついている。
「何が?」
「何も起きません」
「それが普通だろ」
「でも、変な感じです」
「何が?」
「レオンさんが朝から窓の外をずっと見ていることです」
「……」
俺は再び窓の外へ視線を戻した。
「悪いか?」
「悪くはないです」
ミレイアは少し笑った。
「ただ、以前なら何か起きるたびに『行くぞ』って言っていたので」
「それは俺が面倒事に巻き込まれすぎてただけだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「では、今は?」
「何も起きてないから、行く必要もない」
「なるほど」
ミレイアは納得したように頷いた。
それから。
「……本当に何も起きなければいいですね」
小さく呟いた。
俺は返事をしなかった。
何も起きない。
その言葉を聞くと、なぜか胸の奥に引っかかるものがあった。
第一部の最後に、俺たちは確かに一つの答えを出した。
世界を選ばない。
誰か一人を犠牲にして終わらせない。
俺一人で決めない。
それによって、第七周期は残った。
選ばれなかった世界も、少なくとも今すぐこちらへ押し寄せてくることはなくなった。
リゼリアも。
ミレイアも。
セレナも。
ルナも。
アルベルトも。
そして俺も。
この世界で生きている。
だから。
もう問題はないはずだった。
「レオンさん」
「ん?」
「朝ご飯、冷めますよ」
「……ああ」
俺は窓から離れた。
机の上には、簡単な朝食が並んでいる。
パン。
スープ。
卵。
そして、なぜかミレイアが買ってきた大量の果物。
「これ全部食うのか?」
「食べます」
「多くないか?」
「レオンさんが食べれば大丈夫です」
「俺一人で?」
「はい」
「……」
ミレイアは真顔だった。
俺は諦めてパンを手に取った。
そのとき。
扉が勢いよく開いた。
「おはよう!」
セレナだった。
その後ろからルナも入ってくる。
「朝から騒ぐな」
「だって暇なんだもの」
「お前もかよ」
セレナは机を見る。
「朝ご飯?」
「そうです」
ミレイアが答える。
「私の分は?」
「ありません」
「えっ」
「自分で買ってきてください」
「冷たい!」
セレナが大げさに胸を押さえる。
ルナが呆れたようにため息をついた。
「昨日も食べただろ」
「昨日食べたから今日も食べたいの」
「理屈になってない」
「いいじゃない」
そんなやり取りを眺めていると。
俺は少しだけ笑ってしまった。
戦いの前には。
こんな光景を想像する余裕なんてなかった。
世界がどうなるのか。
自分がどうなるのか。
誰が生き残るのか。
そんなことばかり考えていた。
それが今は。
朝食のパンを誰が食べるかで揉めている。
馬鹿みたいな光景だった。
でも。
嫌いじゃなかった。
「そういえば」
セレナがパンを一つ勝手に取った。
「アルベルトは?」
「朝から王城です」
ミレイアが答える。
「復旧作業の指揮を取るって言ってました」
「相変わらず真面目ね」
「お前が適当すぎるんだ」
「レオン、ひどくない?」
「事実だろ」
「ミレイア、聞いた?」
「はい」
「味方してよ」
「事実なので」
「二対一……」
セレナが肩を落とした。
ルナが小さく笑う。
そんな時間が。
しばらく続いた。
俺は。
それを眺めながら思った。
これでいい。
こういう日々が続けばいい。
世界を救うなんて大層なことをしなくても。
朝起きて。
飯を食って。
くだらない話をして。
夜になれば眠る。
それだけでいい。
少なくとも。
今は。
そう思っていた。
――昼までは。
王都の西側にある市場へ向かうと決めたのは、単純に食料が足りなくなったからだった。
セレナが朝食を食べたせいで、想定よりも早くパンがなくなった。
「私のせいじゃないと思うんだけど」
「どう考えてもお前のせいだ」
「レオンがもっと食べるからでしょ」
「俺に責任転嫁するな」
「はいはい」
「なんで俺が悪いみたいになってるんだ」
そんな会話をしながら大通りを歩いていると、ミレイアがふと足を止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
「いえ」
彼女は少し離れた場所を見ていた。
「前から、あんな道ありましたっけ?」
「道?」
俺もそちらを見る。
大通りの脇。
建物と建物の間に。
細い路地が伸びている。
石畳の道。
両側には古い建物が並んでいる。
別に珍しい光景ではない。
王都にはこういう細い路地がいくつもある。
「知らないな」
俺が答えると。
セレナも首を傾げた。
「私も知らない」
「私も」
ルナも答える。
四人とも知らない。
それだけなら。
別に不思議ではなかった。
王都に住んでいるわけではない俺たちが、全ての路地を知っているわけではない。
「じゃあ、行きましょう」
ミレイアが言った。
「なんで?」
「気になります」
「市場は?」
「後でいいです」
「……」
俺はため息をついた。
「少しだけだぞ」
「はい」
俺たちは路地へ入った。
細い道だった。
人通りも少ない。
左右の建物はどれも古く、壁には苔が生えている。
だが。
数十メートル進んだところで。
俺は違和感を覚えた。
「……待て」
足を止める。
「どうしました?」
ミレイアが振り返る。
「この道」
「はい」
「さっきより長くないか?」
「……」
セレナが後ろを見る。
「入口、見えないね」
「さっきは見えてた」
ルナが剣に手を添える。
「戻るか?」
「ああ」
俺たちは引き返した。
十歩。
二十歩。
三十歩。
だが。
大通りへ出ない。
「……」
誰も喋らなくなった。
俺は歩く速度を上げる。
それでも。
道は続いている。
「レオンさん」
「分かってる」
「これ……」
「ああ」
俺は立ち止まった。
目の前に。
一軒の店がある。
木製の看板。
古びた扉。
そして。
看板には見覚えのある文字が書かれていた。
『レオン・アルヴェイン』
「……俺?」
自分の名前。
店の名前として。
そこに書かれている。
「なんで……」
セレナが絶句する。
ルナも剣を抜いた。
「誰かが、レオンの名前を使っているのか?」
「それならまだ分かる」
俺は看板を見る。
「でも」
妙なのは。
文字だった。
俺がこの世界で使っている文字ではない。
それなのに。
読める。
見た瞬間に。
意味が理解できる。
そのことの方が。
俺には気味が悪かった。
「開ける?」
セレナが聞く。
「やめた方がいい」
ルナが答える。
「でも」
「何があるか分からない」
俺は扉を見る。
そして。
なぜか。
懐かしさを覚えた。
まただ。
第一部のときから。
何度も感じている。
知らない場所なのに。
身体が知っている。
記憶にはない。
でも。
確かに。
知っている。
「……俺が開ける」
「レオンさん」
「大丈夫だ」
俺は扉へ手を伸ばした。
その瞬間。
扉の向こうから。
声が聞こえた。
『遅かったな』
俺は手を止めた。
聞き覚えのある声。
でも。
今まで聞いたどの声とも違う。
「誰だ?」
『お前だ』
「……」
『正確には』
扉の向こうで。
誰かが笑った。
『お前だったかもしれないものだ』
ミレイアが俺の腕を掴む。
「開けないでください」
「……ああ」
俺は手を離した。
すると。
扉が。
勝手に開いた。
中には。
誰もいない。
ただ。
一冊の本が置かれていた。
机の上に。
黒い表紙。
そこには。
『第零記録』
と書かれている。
「……」
俺たちは誰も動かなかった。
第一部の最後。
アルベルトが言った。
第零記録は記録ではない。
存在してはいけない。
そして。
今。
目の前にある。
「罠かもしれない」
ルナが言った。
「だろうな」
「なら、触らない方がいい」
「でも」
俺は本を見る。
「これを放置する方が危ない」
「レオンさん」
ミレイアが俺を見る。
俺は少し考えて。
「全員で決めよう」
そう言った。
ミレイアが目を丸くした。
「……はい」
セレナも頷く。
「私は調べたい」
ルナはしばらく黙った。
「危険なら、私が止める」
「分かった」
四人で。
その本を囲む。
俺は。
ゆっくりと手を伸ばした。
表紙に触れる。
その瞬間。
視界が白く染まった。
――。
最初に見えたのは。
空だった。
青くもない。
黒くもない。
ただ。
何もない。
その下に。
地面がある。
世界がある。
しかし。
そこには。
人間がいなかった。
王都も。
村も。
海も。
山も。
何もない。
ただ。
一つの巨大な白い柱だけが。
世界の中心に立っている。
そして。
その前に。
二人の人影があった。
一人は。
女。
長い髪。
白い服。
顔は見えない。
もう一人は。
男。
こちらも顔は見えない。
だが。
なぜか。
俺には分かった。
あれは。
俺だ。
「……」
俺は映像へ近づこうとする。
しかし。
足が動かない。
声も出ない。
ただ。
見ることしかできない。
白い柱の前で。
二人が何かを話している。
今度は。
声が聞こえた。
『これで、世界は安定します』
女の声。
リゼリアに似ている。
でも。
リゼリアではない。
『本当に?』
男が聞く。
『はい』
『なら、俺たちは?』
『必要ありません』
男が黙る。
『世界が成立した後、私たちの役割は終わります』
『……』
『あなたも、私も』
『消えるのか?』
『はい』
男は。
しばらく空を見上げた。
『それでもいい』
そう言った。
『世界が残るなら』
女が笑う。
『あなたは、いつもそうですね』
『何が?』
『自分を最後にする』
『……』
『だから、何度でも同じことを繰り返す』
そこで。
映像が乱れた。
「待て」
俺は叫ぶ。
その瞬間。
女がこちらを向いた。
初めて。
顔が見えた。
「……!」
リゼリアではない。
ミレイアでもない。
見たことのない女だった。
だが。
その目だけは。
知っていた。
俺が。
ずっと昔から。
知っていたような目。
『あなたは、また来る』
女が言った。
『だから、今度こそ』
手を伸ばす。
『選んでください』
世界が。
砕けた。
――。
「レオンさん!」
目を開ける。
ミレイアが目の前にいた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
俺は息を整えた。
周囲を見る。
さっきの店。
黒い本。
セレナ。
ルナ。
全員いる。
「今、何を見た?」
セレナが聞く。
「……第零記録だと思う」
「何があった?」
俺は説明した。
二人の人間。
白い柱。
世界が成立する前。
そして。
知らない女。
「知らない女?」
「ああ」
「リゼリアじゃない?」
「違う」
ミレイアが考え込む。
「でも」
「何だ?」
「その人」
ミレイアは胸元に手を当てた。
「私、知ってる気がします」
「……」
嫌な予感がした。
「どこで?」
「分かりません」
「記憶か?」
「はい」
ミレイアは目を閉じる。
「でも、リゼリアさんの記憶じゃない」
その言葉に。
俺は黙った。
「私の記憶でもありません」
「じゃあ」
「……分かりません」
そのとき。
店の外から。
鐘の音が聞こえた。
昼の鐘。
一度。
二度。
三度。
俺たちは顔を見合わせた。
「戻ろう」
俺が言う。
「この本も持っていく」
「大丈夫?」
セレナが聞く。
「ああ」
俺は本を手に取った。
その瞬間。
表紙に新しい文字が浮かんだ。
『第二十八周期』
「……」
セレナが息を呑む。
「何それ」
「分からない」
俺は本を閉じた。
そして。
何も言わずに歩き出した。
店を出る。
路地を戻る。
すると。
今度は。
普通に大通りへ出た。
まるで。
最初から何もなかったように。
「……」
俺は振り返る。
そこには。
路地しかない。
店も。
看板も。
何もない。
「消えた?」
セレナが呟く。
「……ああ」
ルナが周囲を確認する。
「最初から存在しなかったみたいだ」
俺は。
手に持っている本を見る。
それだけが。
あの場所が存在した証拠だった。
王城へ戻ると。
アルベルトが待っていた。
「遅かったな」
「少し寄り道した」
「何があった?」
俺は本を見せた。
アルベルトの表情が。
固まった。
「……それをどこで?」
「王都の西側」
「西側?」
「ああ」
「そんな場所に何があった?」
「店」
「店?」
「今はない」
アルベルトは本を受け取る。
表紙を見た瞬間。
顔色が変わった。
「……これは」
「知ってるのか?」
「知らない」
「でも反応しただろ」
「……」
アルベルトは本を開いた。
ページには。
何も書かれていない。
「空白?」
ミレイアが覗き込む。
「ああ」
アルベルトはページをめくる。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
どこにも文字がない。
だが。
最後のページにだけ。
一行だけ。
文字が書かれていた。
『第零記録は、最初ではない』
アルベルトの手が止まった。
「……」
俺はその文字を見る。
「どういう意味だ?」
「分からない」
「本当に?」
「……」
アルベルトは。
しばらく黙った。
「一つだけ」
「何だ?」
「第零記録という名前を」
「うん」
「私の父も使っていた」
セレナが顔を上げた。
「父が?」
「ああ」
「どうして知ってるんですか?」
「昔、研究資料を見た」
「何が書いてあった?」
「第零記録とは」
アルベルトは。
ゆっくりと言葉を選んだ。
「世界が作られる前に存在した、世界の設計図だと」
「設計図……?」
「だが」
アルベルトは本を閉じる。
「それは間違いだったらしい」
「どうして?」
「その本に書いてある」
アルベルトが表紙を見る。
「第零記録は、最初ではない」
部屋に沈黙が落ちた。
俺は窓の外を見る。
昼の王都。
人々が歩いている。
昨日までと同じ。
なのに。
俺には。
何かが違って見えた。
「アルベルト」
「何だ?」
「第一部の最後に言ってたよな」
「ああ」
「第零記録は、記録じゃないって」
「そうだ」
「じゃあ」
俺は本を指差した。
「これは何だ?」
アルベルトは答えなかった。
代わりに。
ミレイアが小さく呟いた。
「記録じゃないものを記録している……?」
その言葉に。
アルベルトが顔を上げる。
「……そうか」
「何か分かった?」
「いや」
アルベルトは首を振った。
「だが、可能性はある」
「何の?」
「第零記録という名前は」
アルベルトが本を見る。
「世界そのものを指しているのではない」
「じゃあ何を?」
「世界を記録するための、外側の場所だ」
俺は眉をひそめる。
「外側?」
「ああ」
「世界の外に、別の場所があるってことか?」
「そう考えれば」
アルベルトは低い声で続けた。
「選ばれなかった世界が存在していることも説明できる」
俺は黙った。
第一部で見た。
六つの世界。
選ばれなかった世界。
そして。
あの白い空間。
あれは。
世界の中ではなかった。
世界と世界の間。
あるいは。
世界の外。
「……第零記録」
俺は呟く。
「そこに、俺たちの世界が記録されてるのか?」
「分からない」
「またか」
「だが」
アルベルトが本を閉じた。
「一つだけ確認する必要がある」
「何を?」
「この本に書かれた『第二十八周期』が何を意味するのか」
「……」
「第七周期の次に、第八周期が来るとは限らない」
俺は。
その言葉を聞いて。
嫌な予感を覚えた。
第二十八周期。
もし。
これが単なる記録の番号ではないのなら。
俺たちは知らないうちに。
すでに何かの周期へ入っている。
第一部で終わったと思っていた世界の選択が。
実は。
終わっていなかったのかもしれない。
「……レオンさん」
ミレイアが俺の隣に立つ。
「大丈夫です」
「何が?」
「今度は」
彼女は俺を見る。
「一人で考えないんですよね」
俺は。
少しだけ笑った。
「ああ」
「なら」
ミレイアも笑う。
「大丈夫です」
そのとき。
窓の外から。
子供たちの笑い声が聞こえた。
穏やかな王都。
平和な日常。
第一部で取り戻したもの。
俺はそれを守りたいと思った。
けれど。
同時に。
今度は。
守るだけでは足りない気がした。
世界が何なのか。
なぜ俺たちが存在するのか。
誰が世界を選んでいるのか。
そして。
あの白い空間にいた女は誰なのか。
まだ何も分かっていない。
ただ。
一つだけ。
俺は確信していた。
昨日まで存在しなかった道が現れた。
存在しないはずの店があり。
存在しないはずの本があり。
その本には。
俺たちが知らない周期の名前が書かれていた。
なら。
世界はもう。
昨日までと同じではない。
その日の夜。
俺は一人で王都の屋根の上に座っていた。
夜空には無数の星が浮かんでいる。
第一部の最後に見た、あの赤い星はもう見えない。
普通の夜空だった。
「……」
俺は空を見上げる。
すると。
一つの星が。
ほんの一瞬だけ。
瞬いた。
「……?」
目を凝らす。
何もない。
ただの星。
そう思って立ち上がった。
その瞬間。
頭の中に。
あの女の声が響いた。
『あなたは、また来る』
「……!」
俺は空を見上げる。
声は。
もう聞こえない。
だが。
手元に置いていた黒い本が。
ひとりでに開いた。
風は吹いていない。
それなのに。
ページがめくれる。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
最後のページで止まった。
そこには。
昼間にはなかった文字が。
一つだけ浮かんでいた。
『第一章 平穏の終わり』
俺は。
しばらくその文字を見つめていた。
そして。
小さく息を吐く。
「……終わりって」
誰もいない屋根の上で。
俺は呟いた。
「始まったばかりじゃないか」
夜空には。
何も変わらない星々が浮かんでいる。
王都は眠り始めている。
平和な夜だった。
けれど。
世界のどこかで。
昨日まで存在しなかった何かが。
静かに。
生まれ始めていた。




