第二十七話 境界の外
朝の王都は、妙なほど静かだった。
昨日までなら、それを穏やかな朝と呼んでいたかもしれない。
けれど今の俺には、その静けさが少しだけ不気味に感じられた。
あれほど大きな出来事が起きたというのに、街はもう日常へ戻り始めている。
壊れた建物は修復され、割れた窓には新しい板が張られ、昨日まで空を覆っていた巨大な鏡も、世界を繋いでいた亀裂も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
王都の人々は、何が起きたのかを正確には知らない。
ただ、空に異変が起きて、それが収まった。
多くの人にとっては、それだけの出来事なのだろう。
俺たちにとっては違う。
六つの世界。
第七周期。
選ばれなかった可能性。
リゼリア。
そして。
第零記録。
何一つ終わっていない。
むしろ。
昨日の出来事によって、ようやく何かが始まったような気がしていた。
「……眠い」
俺は宿の窓から外を眺めながら呟いた。
「それは昨日ほとんど寝ていないからでしょう」
背後からミレイアの声がする。
「お前は?」
「私もです」
「なら、お前も眠そうだな」
「眠いです」
ミレイアは即答した。
振り返る。
彼女は髪を整えながら、眠そうに目を擦っていた。
「じゃあ寝ればいいだろ」
「レオンさんこそ」
「俺は起きた」
「私も起きました」
「じゃあ寝るなよ」
「レオンさんも寝ないでください」
「なんでだよ」
「一人だけ寝るのはずるいです」
「子供か」
思わず笑う。
ミレイアも笑った。
こういうくだらない会話をしていると。
昨日までの出来事が嘘だったように思えてくる。
世界が崩れるかもしれない。
別の世界に飲み込まれるかもしれない。
そんな状況にいたはずなのに。
今は、眠いだの寝るなだの。
そんな話をしている。
不思議なものだった。
「ところで」
ミレイアが窓の外を見る。
「今日はどうするんですか?」
「それを考えてる」
「何も予定はないんですか?」
「ない」
「珍しいですね」
「昨日まで世界が滅びそうだったんだぞ。今日くらい休ませろ」
「でも」
ミレイアが少しだけ表情を変えた。
「アルベルトさんが、朝になったら来てほしいって」
「……」
「聞いてませんでした?」
「聞いてない」
「昨日の夜に言ってました」
「俺、寝てた?」
「寝てました」
「いつ?」
「話している途中です」
「……」
俺は額を押さえた。
「完全に記憶がない」
「相当疲れてたんですね」
「お前も起こしてくれればよかっただろ」
「気持ちよさそうに寝ていたので」
「優しいのか雑なのか分からないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
ミレイアが笑う。
俺も笑った。
けれど。
その笑いが少しだけ途切れる。
俺は右手を見る。
昨日。
最後に無限化を使ったとき。
確かに。
俺は見た。
無数の世界を。
そのすべてを繋いだ。
そして。
その向こう側に。
何かがいた。
巨大な目。
こちらを観測する何か。
あれが何なのか。
まだ分からない。
けれど。
アルベルトが知らないとは思えなかった。
「……行くか」
「どこへ?」
「アルベルトのところ」
「はい」
俺は立ち上がる。
宿を出る。
朝の王都には、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
通りには人が増え始めている。
子供たちが走り回り、店の前では商人が荷物を運んでいる。
昨日まで異世界の侵食に怯えていた街とは思えない。
「……普通ですね」
ミレイアが呟く。
「ああ」
「こうして見ると、昨日のことが夢みたいです」
「俺もそう思う」
歩きながら。
俺は空を見る。
何もない。
青い空。
白い雲。
鏡も亀裂もない。
「でも」
ミレイアが言った。
「私は覚えています」
「何を?」
「リゼリアさんの声です」
俺は足を止めた。
「……何か言ってたのか?」
「昨日の最後に」
「何て?」
ミレイアは少し考えてから。
ゆっくり口を開いた。
「『また会いましょう』って」
「……」
「でも」
彼女は胸元へ手を当てる。
「その声が、どんどん遠くなっている気がします」
「消えるのか?」
「分かりません」
ミレイアは少し寂しそうに笑った。
「でも、今はそれでいいと思います」
「どうして?」
「私はリゼリアさんじゃないからです」
その言葉に。
俺は何も言わなかった。
ミレイアは続ける。
「私は私として、これからのことを決めたいです」
「ああ」
「だから」
彼女は俺を見る。
「もしまた、リゼリアさんが現れても」
「……」
「私は、私のままでいたいです」
俺は頷いた。
「それがいい」
そのとき。
遠くから。
「おい!」
声が聞こえた。
セレナだった。
「遅いですよ!」
王城へ続く道の途中で、彼女が手を振っている。
その隣にはルナ。
さらに少し離れた場所にはアルベルトが立っていた。
「お前ら早すぎだろ」
「アルベルトさんが早く来いって」
「そうなのか?」
「はい」
アルベルトが答える。
「話がある」
「昨日の続きか?」
「ああ」
「第零記録?」
アルベルトは答えなかった。
代わりに。
「それも含めてだ」
その言葉に。
俺は少しだけ警戒した。
「何か見つかったのか?」
「見つかったというより」
アルベルトが王城を見る。
「昨夜、王城の地下で異変が起きた」
「門は閉じたんだろ?」
「閉じた」
「じゃあ何が?」
「門が閉じた後に」
アルベルトが言う。
「新しい扉が現れた」
「……新しい扉?」
「そうだ」
俺たちは顔を見合わせる。
「どこに?」
「第七層」
「そんな場所、あったか?」
「なかった」
「じゃあ」
「昨日まで存在しなかった」
アルベルトの声が重くなる。
「今朝、突然現れた」
嫌な予感がした。
「見たのか?」
「ああ」
「何があった?」
「まだ開けていない」
「どうして?」
「鍵がない」
「……」
アルベルトは俺を見る。
「ただ」
「何だ?」
「扉には文字が刻まれている」
「何て?」
アルベルトが一拍置いた。
「『第零記録を持つ者のみ開けられる』」
空気が。
一瞬だけ止まったように感じた。
「……第零記録を持つ者?」
セレナが呟く。
「そんなもの、誰も持ってないんじゃないんですか?」
「そのはずだ」
アルベルトが答える。
「だから問題なんだ」
俺は右手を見る。
昨日。
無限化を使ったとき。
俺の中に何かが流れ込んだ。
あのとき。
一瞬だけ。
知らない場所を見た。
暗闇。
巨大な目。
そして。
声。
もし。
あれが第零記録だったとしたら。
「……俺かもしれない」
思わず呟いた。
「何?」
セレナが聞き返す。
「第零記録を持ってるの」
全員の視線が俺へ集まる。
「昨日、無限化を使ったときに見たんだ」
「何を?」
「知らない場所」
「どんな場所ですか?」
ミレイアが聞く。
「真っ暗だった」
俺は記憶を辿る。
「でも、何かがいた」
「何か?」
「巨大な目みたいなもの」
アルベルトの顔色が変わった。
「……そうか」
「知ってるのか?」
「いや」
「嘘だろ」
「知らない」
「じゃあ何でそんな顔する?」
「……」
アルベルトはしばらく黙った。
そして。
「私が知っている情報と一致した」
「何の?」
「第零記録についての記述だ」
「どこにある?」
「王家の禁書庫」
「見せてくれ」
「それはできない」
「なんで?」
「禁書庫は封鎖されている」
「なら開ければいい」
「そう簡単にはいかない」
「昨日まで世界が繋がってたんだぞ。今さら何を怖がってる」
アルベルトは俺を見る。
「怖いのではない」
「じゃあ?」
「知らない方がいいこともある」
「……」
「それが第零記録だ」
俺は少し黙った。
そして。
「だったら余計に知りたい」
アルベルトは目を細めた。
「なぜ?」
「知らないままなのが一番危ないからだ」
アルベルトは。
しばらく俺を見ていた。
やがて。
「分かった」
そう言った。
「禁書庫へ行く」
――。
王城の奥。
普段なら王族や一部の高位官僚しか立ち入れない区画を抜ける。
長い廊下。
古い石壁。
何重にも施された封印。
その奥に。
一枚の黒い扉があった。
「ここが?」
「ああ」
アルベルトが鍵を取り出す。
鍵を差し込む。
だが。
回らない。
「どうした?」
「……おかしい」
「壊れた?」
「違う」
アルベルトが鍵を抜く。
扉を見る。
「鍵が必要なくなっている」
「どういう意味?」
「この扉は」
アルベルトが手を置く。
「昨日までは、私にしか開けられなかった」
「じゃあ今は?」
「分からない」
俺が近づく。
すると。
黒い扉に。
淡い光が走った。
「……」
文字が浮かび上がる。
『認証』
俺の右手が光る。
『反射系統――確認』
さらに。
『無限化――確認』
最後に。
『第零記録――接続済』
「……」
全員が黙った。
「俺か」
扉が。
ゆっくり開いた。
中は。
想像していた禁書庫とは違っていた。
本棚は少ない。
部屋の中央に。
一つの円形の台座がある。
その上に。
一冊の本が置かれていた。
黒い表紙。
題名はない。
俺が近づく。
その瞬間。
ミレイアが俺の腕を掴んだ。
「待ってください」
「どうした?」
「これ」
彼女が本を見る。
「嫌な感じがします」
「俺もだ」
それでも。
俺は本へ手を伸ばした。
指先が表紙に触れる。
瞬間。
頭の中に。
声が響いた。
『ようやく来た』
俺は手を離した。
「……!」
「レオン?」
ミレイアが心配そうに見る。
「今、声が」
「リゼリア?」
「違う」
俺は本を見る。
「俺だ」
その本が。
勝手に開いた。
ページには。
何も書かれていない。
白紙。
一枚。
また一枚。
ページをめくるたびに。
白紙が続く。
「何もない?」
セレナが近づく。
その瞬間。
紙に文字が浮かんだ。
『第零記録』
次のページ。
『これは過去の記録ではない』
さらに。
『これは世界が生まれる前の記録である』
俺は息を呑んだ。
さらにページをめくる。
『第一世界は、選ばれた』
『第二世界は、捨てられた』
『第三世界は、観測された』
『第四世界は、忘れられた』
ページをめくる。
『第五世界は、反射した』
さらに。
『第六世界は、繰り返した』
そして。
『第七世界は、拒絶した』
俺は眉をひそめる。
「拒絶?」
次のページ。
『選択そのものを』
その言葉に。
昨日のことを思い出す。
俺たちは。
選ばなかった。
全部を残した。
それが。
第七周期だった。
だが。
まだ続きがある。
ページをめくる。
『ゆえに、第七世界は成立した』
『だが、成立した世界には問題がある』
『選択されなかった世界が、消滅していない』
俺は息を呑んだ。
「……」
さらに。
『それらは、外側へ押し出された』
『世界の外側』
次のページ。
『そこには、観測者が存在する』
部屋の空気が。
明らかに変わった。
アルベルトが本を見る。
「観測者……」
その言葉を。
まるで知っているように呟いた。
「知ってるのか?」
「名前だけだ」
「何者なんだ?」
「分からない」
「また?」
「本当に分からない」
ページには。
さらに文字が続いている。
『観測者は、世界を直接変えない』
『ただ、選択を見ている』
『選択が行われた瞬間』
『その世界は確定する』
そして。
『確定した世界は、観測者の所有物となる』
「……所有物?」
俺はページを見つめた。
「じゃあ」
ミレイアが言う。
「私たちの世界も……」
「ああ」
俺は答える。
「誰かに観測されてる」
次のページ。
『第七世界は、観測者から逃れた』
セレナが息を呑む。
「どうして?」
俺はページをめくる。
『選択を拒絶したため』
『世界が確定しなかったため』
『観測者は、第七世界を所有できない』
「……」
だから。
昨日。
何かがこちらを見ていたのか。
俺たちが。
世界の外側へ手を伸ばしたから。
それに気づいた存在がいる。
さらにページをめくる。
『観測者は、第七世界を回収する』
その文字を見た瞬間。
背後で。
ガタン。
何かが落ちた。
全員が振り返る。
何もない。
ただ。
禁書庫の奥にある棚が。
少しだけ揺れていた。
「誰かいる?」
ルナが剣を抜く。
返事はない。
だが。
俺の右手が。
勝手に光った。
「……」
俺は棚へ近づく。
一冊の本が。
ゆっくりと前へ出てきた。
タイトル。
『第八記録』
俺はそれを見た。
「……第八?」
昨日まで。
第七周期で終わったと思っていた。
けれど。
ここには。
次の記録がある。
「開くな」
アルベルトが言った。
「どうして?」
「それは」
アルベルトの顔が険しくなる。
「私たちが書いたものではない」
「じゃあ誰が?」
「分からない」
「なら」
俺は本を取った。
「なおさらだ」
表紙を開く。
一ページ目。
そこには。
たった一行だけ。
『第八周期――観測者側から開始』
俺は。
言葉を失った。
「……観測者側?」
ミレイアが呟く。
その瞬間。
本のページが。
一気にめくられた。
大量の文字が。
目にも止まらない速度で流れていく。
そして。
最後のページで。
止まった。
『第一部・第七周期』
『成立』
『第二部・第八周期』
『開始』
その下。
赤い文字で。
『観測対象、反転』
俺の右手が。
激しく光った。
「……!」
頭の中へ。
大量の記憶が流れ込んでくる。
見知らぬ場所。
巨大な塔。
無数の世界を見下ろす黒い空間。
そこに。
一人の人間が立っている。
いや。
人間なのかすら分からない。
顔は見えない。
ただ。
声だけが聞こえた。
『世界がこちらを見た』
その声に。
俺は恐怖を感じた。
今まで戦ってきた敵とは。
まるで違う。
魔力も。
殺意も。
怒りもない。
ただ。
観測している。
それだけ。
『ならば』
声が続く。
『次は、こちらから選ぶ』
視界が。
一気に暗くなる。
そして。
最後に。
一つの名前が浮かんだ。
『レオン』
俺は。
目を開いた。
「……っ!」
床に膝をついていた。
「レオンさん!」
ミレイアが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
「何を見たんですか?」
「……分からない」
息を整える。
「でも」
俺は本を見る。
「第二部は」
その表紙へ手を置く。
「俺たちから始まるんじゃない」
「え?」
「向こうから始まる」
アルベルトが。
静かに頷いた。
「そういうことか」
「知ってたのか?」
「知らなかった」
「じゃあ何でそんな顔してる?」
「ようやく理解した」
「何を?」
アルベルトは。
禁書庫の奥を見た。
「第零記録が、なぜ存在してはいけないと言われていたのか」
「……」
「これは」
アルベルトが言う。
「世界を救うための記録ではない」
「じゃあ何のため?」
アルベルトは。
俺を見る。
「世界の外側へ行くための記録だ」
俺は。
しばらく何も言えなかった。
窓の外では。
王都の鐘が鳴っている。
人々が。
いつものように一日を始めている。
昨日。
俺たちは。
世界を救った。
そう思っていた。
けれど。
本当は。
世界を救ったからこそ。
次の世界へ。
足を踏み入れてしまったのかもしれない。
俺は本を閉じる。
「……行くしかないな」
ミレイアが俺を見る。
「どこへ?」
俺は。
黒い表紙を見る。
「世界の外側」
その言葉を口にした瞬間。
禁書庫の奥から。
カチリ。
小さな音がした。
誰かが。
鍵を回したような音。
全員が振り返る。
そこには。
今まで存在しなかった。
もう一つの扉があった。
黒い扉。
三つの鍵穴。
その中央に。
新しい文字が浮かんでいる。
『第二部』
その下に。
『境界の外』
さらに。
赤い文字。
『第一接続――完了』
扉の向こうから。
誰かが。
ゆっくりと。
こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
俺は剣を抜く。
ミレイアが魔法を構える。
ルナも。
セレナも。
アルベルトも。
それぞれが身構えた。
そして。
扉の向こうから。
聞き覚えのある声がした。
『――久しぶり』
俺の背筋が凍る。
その声は。
俺自身の声だった。
けれど。
昨日までの。
どの「俺」とも違う。
『今度は』
扉の向こうの俺が。
笑った。
『俺が、お前を選ぶ』
扉が。
ゆっくりと。
開いた。




