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第二十六話 選ぶ者


 王都の空が、裂けた。


 それは比喩でも、何かの魔法的な表現でもなかった。


 本当に空そのものが一枚の薄い膜であったかのように、王城の上空を中心として巨大な亀裂が走り、その向こう側から赤黒い光が滲み出していた。


 夜空に浮かぶ無数の鏡は、すでに鏡としての形を保っていない。


 砕けた破片が宙に浮かび、その一つ一つに別々の世界が映し出されている。


 燃える王都。


 雪に覆われた王都。


 海に沈んだ王都。


 誰もいなくなった王都。


 そして。


 今、俺たちが生きている王都。


 そのすべてが重なり合い、現実そのものを押し潰そうとしていた。


「……始まった」


 アルベルトが呟いた。


 その声は、いつものような落ち着きを失っていた。


「何が始まった?」


「世界の選択だ」


「まだ四日あるんじゃなかったのか?」


「違う」


 アルベルトは首を振る。


「四日というのは、門が完全に開くまでの時間ではない」


「じゃあ何だ?」


「こちらの世界が、こちらの世界でいられる時間だ」


 意味を理解するまで、少しだけ時間がかかった。


 けれど。


 周囲の光景を見れば、それ以上の説明はいらなかった。


 街の一角が、一瞬だけ別の場所へ変わる。


 石造りの建物が、次の瞬間には雪に埋もれた建物へ変わる。


 通りを歩いていた人間が、突然消える。


 代わりに。


 別の世界の人間が立っている。


「……!」


 ミレイアが息を呑んだ。


「人が……」


「世界同士が重なっている」


 セレナが震える声で言う。


 俺は拳を握った。


 これが。


 選ばれなかった世界。


 今まで俺たちの世界の裏側に捨てられていた可能性。


 それが今。


 こちら側へ押し寄せてきている。


「レオン!」


 ルナが叫んだ。


 振り返る。


 王城の上空から。


 何かが落ちてきた。


 人影。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 次々と。


 空から降りてくる。


 だが。


 地面へ落ちることはなかった。


 その身体は、途中で止まった。


 そして。


 ゆっくりとこちらへ顔を向ける。


「……俺?」


 そこにいたのは。


 俺だった。


 六人。


 十人。


 数え切れないほどのレオンが。


 空中に立っている。


 その姿は一人一人違っていた。


 傷だらけの俺。


 王族の服を着た俺。


 黒い鎧を身につけた俺。


 片腕を失った俺。


 そして。


 何の傷もない俺。


 その全員が。


 俺を見ていた。


「よう」


 一番前にいた俺が笑った。


「やっと会えたな」


「……」


「第七周期」


 その言葉に。


 俺の背後にいたミレイアが一歩前へ出る。


「あなたたちは……」


「俺たちは選ばれなかった」


 一人が答えた。


「世界に捨てられた」


「だから」


 別の一人が続ける。


「今度は俺たちが選ぶ」


 空気が震えた。


 俺は剣を抜いた。


「何をするつもりだ」


「簡単だ」


 中央に立つ俺が答える。


「お前の世界を、俺たちの世界にする」


「それで?」


「お前たちは消える」


 ミレイアが息を呑む。


「そんな……」


「仕方ないだろ」


 俺の顔をした男が笑う。


「どちらか一つしか残れない」


「違う」


 俺は言った。


「三つとも残せる」


 男の笑みが消えた。


「……何?」


「世界も」


 俺はミレイアを見る。


「リゼリアも」


 そして。


 自分の胸へ手を当てる。


「俺も」


「そんなことはできない」


「誰が決めた?」


「世界の法則だ」


「なら」


 俺は剣を構える。


「その法則を壊す」


 次の瞬間。


 無数のレオンが一斉に動いた。


「来るぞ!」


 ルナが叫ぶ。


 地面が爆発した。


 黒い影が王都へ降り注ぐ。


 俺は反射的に能力を発動した。


「反射――!」


 光が広がる。


 だが。


 今回は。


 ただ跳ね返すだけではない。


 俺の中で。


 何かが切り替わった。


 今までなら。


 相手の魔法を受け取り。


 同じものを返していた。


 けれど。


 今は違う。


 目の前の影。


 その奥にある魔力。


 さらにその奥にある存在そのもの。


 それらが。


 まるで一つの構造として見えていた。


「……これが」


 無限化。


 今まで何度も使ってきた能力。


 けれど。


 俺は初めて。


 その本当の意味を理解した。


 反射とは。


 ただ攻撃を返す能力じゃない。


 相手の存在を。


 こちら側へ写し取る力。


 なら。


 逆もできる。


 こちら側のものを。


 向こう側へ。


「レオン!」


 ミレイアの声が聞こえた。


 俺の前に。


 別の俺が迫っていた。


 拳が振り下ろされる。


 俺は避けなかった。


 受け止める。


 衝撃が腕を痺れさせる。


「弱いな」


 目の前の俺が笑う。


「お前はまだ、俺たちの力を知らない」


「そうかもな」


 俺はその腕を掴んだ。


「でも」


 光が。


 手のひらから広がる。


「俺も、お前のことを知らないわけじゃない」


「……何?」


「お前は俺だ」


 その瞬間。


 相手の記憶が流れ込んできた。


 燃える王都。


 死んでいく人々。


 リゼリア。


 何度も繰り返した選択。


 そして。


 最後に。


 自分一人で全てを決めた。


「……」


 俺は目を閉じた。


 その痛みが。


 自分のもののように感じられた。


 だから。


 殴れなかった。


「……お前も」


 俺は呟く。


「ずっと苦しかったんだな」


 男の表情が変わった。


「何を……」


「ずっと、自分だけで決めてきた」


「……」


「世界を残すために誰かを殺して」


「黙れ」


「誰かを救うために世界を壊して」


「黙れ!」


「最後には、自分だけが悪いと思って」


「黙れ!」


 男が叫びながら拳を振るう。


 俺は。


 その拳を受け止めた。


「もういい」


「……」


「お前たちの世界を捨てるつもりはない」


「なら何をする!」


「一緒に残す」


 光が。


 俺と男の間で広がった。


「それを証明する」


 男の身体が。


 少しずつ光へ変わっていく。


「待て……」


「お前は」


 俺は手を離さなかった。


「俺だから」


「……」


「俺が、お前を捨てるわけないだろ」


 男の目から。


 涙が一筋落ちた。


「……そんな答え」


「遅かったか?」


「……ああ」


 男は笑った。


「でも」


 その姿が消えていく。


「……悪くない」


 光になった。


 その瞬間。


 空に浮かんでいた鏡の一枚が。


 砕けた。


 俺は顔を上げた。


 その鏡の向こう側にあった世界が。


 消えたわけではない。


 むしろ。


 こちらの世界と重なった。


 燃える王都が。


 今の王都へ吸い込まれていく。


 火は消えた。


 雪も消えた。


 海も消えた。


 けれど。


 世界そのものは消えなかった。


「……何だ?」


 アルベルトが呟く。


 俺自身にも分からない。


 ただ。


 一つだけ。


 確信していた。


 俺が。


 選ばなかったからだ。


 選ばなかったのではない。


 切り捨てなかった。


 それだけだった。


「ミレイア!」


「はい!」


「リゼリアと繋がってるんだろ!」


「……!」


 ミレイアが胸元を押さえる。


「分かりません!」


「分からなくてもいい!」


「え?」


「お前は、お前のままでいろ!」


 ミレイアの目が見開かれる。


「それだけでいい!」


「……はい!」


 ミレイアが両手を広げた。


 魔力が溢れ出す。


 彼女の背後に。


 巨大な魔法陣が展開された。


 その中心には。


 見覚えのある紋章。


 リゼリアのもの。


「これは……」


 ミレイアが驚く。


「私が作ったんじゃない……」


『違います』


 声がした。


 俺にも。


 ミレイアにも聞こえた。


 リゼリアの声。


『あなたが選んだんです』


「……リゼリア」


『ミレイア』


「はい」


『あなたは私ではありません』


「……」


『だからこそ』


 声が優しくなる。


『あなたにしかできない』


 ミレイアの目に涙が浮かんだ。


「何をすればいいんですか?」


『扉を開いて』


「どこへ?」


『全部の世界へ』


 ミレイアが息を呑む。


『そして』


 リゼリアの声が響く。


『閉じないで』


 魔法陣が輝いた。


 無数の鏡が。


 一斉にこちらへ向きを変える。


 そこに映っていた世界が。


 一つずつ。


 今の王都へ重なっていく。


「そんなことをしたら!」


 アルベルトが叫ぶ。


「世界が混ざるぞ!」


「だったら!」


 俺が叫び返す。


「混ざればいい!」


「何?」


「今まで、どちらか一つしか残せないって決めてたのは世界じゃない!」


 俺は空を見上げる。


「俺たちだ!」


 反射の光が。


 王都全体へ広がった。


 俺の能力が。


 これまでにない速度で膨れ上がる。


 身体が熱い。


 魔力が溢れる。


 けれど。


 痛みはなかった。


 むしろ。


 今まで感じたことのないほど。


 静かだった。


 無限化。


 それは。


 何かを無限に増やす力ではなかった。


 可能性を。


 可能性のまま存在させる力だった。


 一つを選ぶ必要なんてない。


 世界を一つに決める必要もない。


 リゼリアか。


 ミレイアか。


 世界か。


 俺か。


 そのどれかを捨てる必要もない。


「全部だ」


 俺は呟いた。


「全部、残す」


 その瞬間。


 世界が。


 反転した。


 音が消える。


 色が消える。


 時間が止まる。


 そして。


 俺は。


 無数の世界を見た。


 六つではない。


 七つでもない。


 数え切れないほどの世界。


 そこには。


 それぞれの俺がいた。


 それぞれのリゼリアがいた。


 それぞれのミレイアがいた。


 違う選択。


 違う人生。


 違う結末。


 それらすべてが。


 俺を見ている。


『どうする?』


 声が響いた。


 誰の声なのか。


 もう分からなかった。


 世界の声なのか。


 リゼリアなのか。


 俺自身なのか。


 あるいは。


 もっと別の何かなのか。


「決まってる」


 俺は答えた。


「選ばない」


『……』


「全部を選ぶ」


 その言葉と同時に。


 無限の世界が。


 一斉に光った。


 ――。


 轟音が。


 王都を包んだ。


「レオン!」


 誰かが叫んだ。


 俺は目を開けた。


 王都の中央広場。


 そこに。


 俺たちは立っていた。


 空は。


 青かった。


 夜が明けている。


 さっきまであれほど荒れていた空が。


 何事もなかったように晴れ渡っていた。


 瓦礫も。


 鏡も。


 亀裂も。


 全部消えている。


「……終わった?」


 セレナが呟く。


「たぶん」


 ルナが剣を収めた。


「たぶん?」


「私は、確実なことしか言わない」


「今のは確実じゃないだろ」


「だから、たぶんだ」


 そんなやり取りをしている二人を見て。


 俺は思わず笑った。


 身体が重い。


 立っているだけでも疲れる。


 けれど。


 生きている。


 王都も。


 ミレイアも。


 セレナも。


 ルナも。


 アルベルトも。


 みんな。


 生きている。


「レオンさん」


 ミレイアが隣に来た。


「大丈夫ですか?」


「ああ」


「本当に?」


「たぶん」


「……」


 ミレイアが笑う。


「それ、ルナさんの真似ですか?」


「違う」


「ふふ」


 ミレイアは笑った。


 その笑顔を見て。


 俺は胸の奥から力が抜けていくのを感じた。


 勝った。


 そう思った。


 何に勝ったのかは。


 まだ分からない。


 けれど。


 少なくとも。


 あの六つの世界とは違う。


 俺たちは。


 誰も捨てなかった。


 その事実だけは。


 確かだった。


 アルベルトが。


 空を見上げる。


「……門が閉じた」


「終わったんだな」


「ああ」


 アルベルトは答える。


 だが。


 その顔は。


 完全には安心していなかった。


「どうした?」


「いや」


「何かあるのか?」


「……最後に一つだけ」


「何だ?」


 アルベルトは。


 俺の右手を見る。


「お前の能力」


「反射?」


「ああ」


「どうした?」


「最後に使ったとき」


「……」


「何を見た?」


 俺は少し考えた。


「無数の世界」


「それだけか?」


「それと」


 俺は。


 ほんの一瞬だけ見えたものを思い出す。


「黒い場所」


「黒い場所?」


「ああ」


「何があった?」


「……誰かがいた」


 アルベルトの表情が変わる。


「誰だ?」


「分からない」


「姿は?」


「見えなかった」


「何をしていた?」


「こっちを見てた」


 アルベルトは黙った。


 その沈黙が。


 妙に気になった。


「知ってるのか?」


「……いや」


「今、明らかに何か知ってるだろ」


「知らない」


「アルベルト」


「本当に知らない」


 俺は目を細める。


 だが。


 それ以上は聞かなかった。


 今は。


 まだ。


 終わったばかりなのだから。


 そのとき。


 空から。


 一枚の紙が落ちてきた。


 風に乗って。


 俺の足元へ。


 拾い上げる。


 そこには。


 一行だけ。


 文字が書かれていた。


『第七周期 成立』


 その下に。


 もう一つ。


 小さな文字。


『観測を継続する』


「……」


 俺は紙を握り潰した。


 そして。


 空を見上げる。


「まだ終わってないってことか」


 誰にも聞こえないように呟いた。


 けれど。


 不思議と。


 嫌な気分ではなかった。


 今までなら。


 新しい謎が見つかれば。


 それだけで不安になっていたかもしれない。


 だが。


 今は違う。


 まだ知らないことがある。


 まだ戦うことになるかもしれない。


 また世界を選ばなければならない日が来るかもしれない。


 それでも。


 今度は一人じゃない。


「レオンさん」


 ミレイアが呼ぶ。


「帰りましょう」


「ああ」


 俺は紙を懐へ入れた。


 俺たちは。


 王城を後にした。


 ――。


 それから三日後。


 王都には。


 少しずつ日常が戻っていた。


 壊れた建物の修復。


 倒れた街灯の交換。


 割れた窓の修理。


 王都の人々は。


 自分たちが経験したことを完全には理解していない。


 空に巨大な鏡が浮かんだ。


 王城の上空に亀裂が走った。


 そして。


 気づいたときには。


 全部が消えていた。


 多くの人間にとっては。


 それだけの出来事だった。


 けれど。


 俺たちは知っている。


 あれは。


 ただの災害じゃない。


 世界そのものが。


 俺たちを選ぼうとしていた。


「……で?」


 食堂のテーブルを囲みながら。


 ルナが言った。


「結局、今日は何をするんだ?」


「何って」


 俺はパンをかじる。


「休むんだよ」


「休む?」


「ああ」


「敵は?」


「いない」


「門は?」


「閉じた」


「世界は?」


「たぶん残った」


「たぶん?」


「アルベルトに聞け」


「アルベルト」


「私を見るな」


 アルベルトは静かにスープを飲んでいた。


「私は今、食事をしている」


「戦いの後に食事する余裕があるとは思わなかった」


「戦いの後だから食事をするんだ」


「……なるほど」


 セレナが笑う。


「なんだか、普通ですね」


「普通が一番だろ」


 俺は答える。


「そうですね」


 ミレイアが頷く。


 テーブルの上には。


 焼きたてのパン。


 スープ。


 肉料理。


 簡単な野菜料理。


 戦いの前なら。


 こんな食事をしている余裕なんてなかった。


 世界が終わるかもしれない。


 門が開くかもしれない。


 選択を迫られるかもしれない。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど。


 今は。


 パンを食べている。


 それだけだった。


「レオンさん」


「ん?」


「これ、美味しいですよ」


 ミレイアが皿を差し出す。


「食べてみます?」


「もらう」


 俺が手を伸ばすと。


 ミレイアが少しだけ笑った。


「……何?」


「いえ」


「何かあるだろ」


「戦っているときのレオンさんとは、全然違うなと思って」


「俺だって飯くらい食う」


「そういう意味じゃないです」


「じゃあどういう意味だ?」


「なんでもありません」


「気になるな」


「秘密です」


「……」


 俺はミレイアを見る。


 ミレイアも笑っている。


 その笑顔が。


 以前より少しだけ自然になっていた。


 リゼリアの記憶を持つ器。


 そう呼ばれていた彼女。


 けれど。


 今ここにいるのは。


 リゼリアではない。


 ミレイアだ。


 それでいい。


「そういえば」


 セレナが口を開く。


「この後、どうするんですか?」


「この後?」


「はい」


「何か予定あるのか?」


「王都を出る予定は?」


「まだないな」


「なら」


 セレナが少し嬉しそうに言う。


「私、行ってみたい場所があります」


「どこ?」


「市場です」


「市場?」


「はい」


「なんで?」


「……普通に買い物したいからです」


 俺は笑った。


「いいんじゃないか」


「本当ですか?」


「ああ」


「ルナも行く?」


「食べ物があるなら」


「それだけ?」


「重要だ」


「アルベルトは?」


「私は遠慮する」


「えー」


 セレナが不満そうな顔をする。


「たまには一緒に来てくださいよ」


「私は買い物が苦手だ」


「何を買うか決めてから行けばいいじゃないですか」


「そういう問題ではない」


「じゃあ何ですか?」


「……人が多い」


「子供みたいですね」


 セレナが笑う。


 アルベルトは困ったように眉を寄せた。


 その光景を見ながら。


 俺も笑った。


 戦いの間。


 何度も。


 この日常を失うかもしれないと思った。


 だから。


 こうして笑えることが。


 妙に嬉しかった。


 食事を終える。


 俺たちは王都の市場へ向かった。


 街には。


 まだ修復中の建物が多い。


 けれど。


 人々の声が戻っている。


 店の呼び込み。


 子供たちの笑い声。


 馬車の音。


 パンを焼く匂い。


 それら全部が。


 生きている証だった。


「レオンさん」


「ん?」


「こっちです」


 ミレイアに腕を引かれる。


「ちょっと待て」


「早く」


「何を買うんだ?」


「見てから決めます」


「それ、絶対買いすぎるやつだろ」


「大丈夫です」


「その言葉は信用できない」


「ひどいです」


 ミレイアが笑う。


 その横で。


 セレナとルナが店を覗いている。


 アルベルトは少し離れたところから。


 こちらを眺めていた。


「……なあ、アルベルト」


「何だ?」


「こういうのも悪くないな」


「そうだな」


「戦いが終わったって感じがする」


「ああ」


 アルベルトは街を見る。


「だが」


「ん?」


「終わったのは、第七周期だけだ」


 俺は黙った。


「まだ何かあるのか?」


「ある」


「何だ?」


「第零記録」


 その言葉に。


 俺は足を止めた。


「……」


「それから」


 アルベルトが続ける。


「お前の能力」


「俺の?」


「ああ」


「何か問題があるのか?」


「分からない」


「またそれか」


「だが」


 アルベルトは。


 空を見上げた。


「無限化は、世界を繋ぐ力だった」


「……」


「なら」


「なら?」


「最初から誰が、その力をお前に与えたのか」


 俺は答えられなかった。


 風が吹く。


 市場の旗が揺れる。


 遠くから。


 ミレイアの声が聞こえた。


「レオンさん!」


「今行く!」


 俺はアルベルトを見る。


「その話は」


「ああ」


「次にしよう」


「分かった」


 俺はミレイアたちのところへ走った。


 その背中を。


 アルベルトは静かに見送っていた。


 そして。


 誰にも聞こえない声で。


 一言だけ呟く。


「……第零記録は、誰が書いた?」


 答える者は。


 いなかった。


 ――。


 その夜。


 王都の外れ。


 誰も使っていない古い塔の最上階で。


 一人の少女が。


 窓から王都を見下ろしていた。


 長い黒髪。


 白い服。


 そして。


 首元には。


 見覚えのない黒いペンダント。


「……成立した」


 少女が呟く。


 その隣に。


 黒い影が現れた。


「はい」


「第七周期は?」


「予定とは異なる結果になりました」


「そう」


 少女は笑う。


「彼は選ばなかった」


「はい」


「それが一番厄介」


「ですが」


「何?」


「第七周期が成立したことで、条件は整いました」


 少女は振り返る。


「条件?」


「次の段階へ進めます」


「……そう」


 少女は窓へ視線を戻す。


「レオン」


 その名前を。


 まるで昔から知っているかのように。


 静かに呼んだ。


「次は」


 少女の瞳が。


 赤く光る。


「あなたが、選ばれる番」


 ――。


 同じ頃。


 俺は。


 宿の屋根の上に座っていた。


 夜空を見上げる。


 星が見える。


 亀裂はない。


 鏡もない。


 ただ。


 普通の夜空だった。


「……終わったんだよな」


 誰に言うでもなく。


 呟く。


「はい」


 隣から声がした。


「うわっ!」


 ミレイアだった。


「お前、いつからいた?」


「少し前からです」


「気配消すなよ」


「消してません」


「いや、普通に気づかなかった」


「じゃあ、レオンさんがぼーっとしてたんですね」


「……」


「ふふ」


 ミレイアが笑う。


 俺は空を見る。


「なあ」


「はい」


「リゼリアのこと」


「……」


「何か感じるか?」


 ミレイアは少し考える。


「前ほどではありません」


「前ほど?」


「はい」


「今は?」


「眠っているような感じです」


「眠ってる?」


「でも」


 ミレイアは胸に手を当てる。


「消えたわけじゃないと思います」


「そうか」


「たぶん」


 その言葉に。


 俺は笑った。


「お前までアルベルトやルナみたいになったな」


「どういう意味ですか?」


「たぶんが多い」


「仕方ないじゃないですか」


 ミレイアも笑う。


 しばらく。


 俺たちは何も話さなかった。


 夜風が吹く。


 王都の明かりが。


 遠くまで続いている。


「レオンさん」


「ん?」


「私」


 ミレイアが言う。


「これからも一緒にいていいですか?」


「……」


 俺は彼女を見る。


 ミレイアは少し不安そうだった。


「何でそんなこと聞くんだ?」


「分かりません」


「なら」


 俺は答える。


「聞く必要ないだろ」


「え?」


「勝手にいればいい」


「……」


「俺も勝手にいる」


 ミレイアが。


 ゆっくり笑った。


「はい」


 その瞬間。


 俺の右手が。


 ほんの少しだけ光った。


「……?」


 見る。


 光は。


 すぐに消えた。


「どうしました?」


「いや」


 俺は空を見る。


 何もない。


 けれど。


 ほんの一瞬。


 星の間に。


 一つだけ。


 見たことのない光が浮かんだ気がした。


 それは。


 星ではなかった。


 目だった。


 巨大な。


 何かの目。


 俺たちを。


 いや。


 世界そのものを。


 観測しているような目。


 瞬きをした瞬間。


 消えた。


「……」


「レオンさん?」


「何でもない」


 俺は立ち上がる。


「そろそろ戻ろう」


「はい」


 二人で階段へ向かう。


 その途中。


 俺は一度だけ。


 振り返った。


 夜空は。


 何も変わらない。


 穏やかだった。


 だから。


 俺は知らなかった。


 この世界の外側で。


 まだ誰かが。


 俺たちを見ていることを。


 そして。


 第零記録が。


 まだ存在していることを。


 それが。


 過去の記録ではなく。


 これから始まる物語のために残されたものだということを。


 それでも。


 今は。


 それでいい。


 第七周期は終わった。


 俺たちは。


 誰も捨てなかった。


 世界を。


 リゼリアを。


 ミレイアを。


 そして。


 自分自身を。


 選ばなかった。


 ただ。


 全部を残した。


 それが正しい答えだったのかは。


 まだ分からない。


 けれど。


 少なくとも。


 今、隣にいる人間を守ることができた。


 笑っている声を聞くことができる。


 明日の朝を迎えられる。


 それだけで。


 今は十分だった。


 ――第七周期。


 終結。


 そして。


 世界の外側で。


 まだ誰にも知られていない扉が。


 静かに。


 開いた。


『第八周期への移行条件を確認』


『観測対象――レオン』


『観測対象――ミレイア』


『観測対象――リゼリア』


『世界線――安定』


『異常――一件』


『無限化能力の起源――未確定』


『第零記録――未回収』


『観測者権限――解除』


 最後に。


 一つの文字だけが。


 暗闇の中へ浮かび上がる。


『接続開始』


 そして。


 その文字すら。


 静かに消えた。


 ――第一部・完。

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