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第二十二話 選ぶ者、選ばれる者


 王都の地下深く。


 無数の鏡が、静かに光っていた。


 鏡の中には、それぞれ異なる世界が映し出されている。


 炎に包まれた王都。


 雪に閉ざされた王都。


 海に沈んだ王都。


 誰もいない王都。


 そして。


 俺たちが暮らしている、この王都。


 どの景色も現実のように見えた。


 鏡の向こうへ手を伸ばせば、そのまま触れられるのではないかと思うほどだった。


 だが。


 そのどれもが、俺たちのいる世界ではない。


 少なくとも。


 今までは、そう思っていた。


「……おかしい」


 アルベルトが、中央の黒い柱を見上げていた。


 その声には、これまでにないほどの緊張が混じっている。


「何が?」


 俺が尋ねると、アルベルトはすぐには答えなかった。


 黒い柱には、さっきまで存在していなかった文字が浮かんでいる。


 無数の線。


 古い文字。


 魔法陣。


 そして。


 一番上に、赤く輝く一文。


『選択対象、六名』


 その文字が、一定の間隔で明滅していた。


「六名……?」


 セレナが呟く。


「私たちは七人いるはずですが」


 ルナが数える。


「レオン、ミレイア、セレナ、私、アルベルト……」


 そこで言葉が止まった。


「リゼリアを入れても六人です」


 俺は眉をひそめる。


「俺たちの中から、六人?」


「違う」


 アルベルトが首を振った。


「選択対象として認識されているのが六名という意味だ」


「誰が対象なんだ?」


「それが問題だ」


 アルベルトが柱へ近づく。


 その瞬間。


 文字が変わった。


『第一対象――レオン』


 俺の名前。


 続いて。


『第二対象――ミレイア』


 ミレイアの名前が浮かぶ。


『第三対象――セレナ』


 セレナ。


『第四対象――ルナ』


 ルナ。


『第五対象――アルベルト』


 アルベルト。


 そして。


 最後の文字が現れる。


『第六対象――未定義』


「……未定義?」


 セレナが首を傾げる。


 俺も同じだった。


「誰だ?」


 アルベルトは答えなかった。


 ただ。


 柱を睨みつけている。


「アルベルト」


「……」


「知ってるのか?」


「分からない」


「またそれか」


「本当に分からない」


 アルベルトは低い声で答えた。


「だが、この表記はおかしい」


「何が?」


「この門は、本来なら選択対象を五名しか認識しない」


「五名?」


「ああ」


「レオンさん、ミレイアさん、セレナさん、ルナさん、アルベルトさん……」


 ミレイアが数える。


「私たち五人ですね」


「そうだ」


 アルベルトが頷く。


「第七周期において、この五人が門の中心となる」


「じゃあ、六人目は?」


「存在するはずがない」


 その瞬間。


 無数の鏡が、一斉に揺れた。


 カタカタと音を立てるわけではない。


 ただ。


 鏡の表面が水面のように波打っている。


 そこに映っていた世界が歪んでいく。


 炎の王都が崩れ。


 雪の王都が消え。


 海に沈んだ街が暗闇へ沈む。


 そして。


 すべての鏡が。


 一人の人間を映し始めた。


「……誰?」


 ミレイアが呟く。


 鏡の中に立っているのは。


 一人の少年だった。


 年齢は。


 俺より少し若い。


 黒い髪。


 細身の身体。


 白い服。


 顔立ちは。


 どこか俺に似ている。


 けれど。


 俺ではない。


「……レオンさんに似てますね」


 セレナが言った。


「俺もそう思う」


 俺は鏡を見つめた。


 少年は。


 こちらを見ていた。


 まるで。


 鏡越しに俺たちを認識しているかのように。


「誰だ?」


 俺が尋ねる。


 当然。


 返事などあるはずがない。


 そう思っていた。


 だが。


 少年が。


 ゆっくりと口を開いた。


『ようやく見つけた』


 声が。


 地下空間に響いた。


 俺の背筋に冷たいものが走る。


「……お前は誰だ」


『僕?』


 少年が笑う。


『僕は、あなたです』


「……」


 その言葉に。


 ミレイアが俺を見る。


 俺は首を振った。


「違う」


『そうでしょうね』


 少年はあっさり認めた。


『あなたは僕ではない』


「なら、何なんだ?」


『選ばれなかった可能性』


「……」


『あなたが生まれなかった世界の、あなた』


 俺は言葉を失った。


 少年は続ける。


『僕は、この世界に存在しなかった』


「どういう意味だ?」


『簡単ですよ』


 少年は鏡の向こうで笑った。


『あなたが存在することによって、僕の世界では僕が存在できなくなった』


「……そんなことがあるのか?」


 アルベルトが答えた。


「可能性としては、ある」


「アルベルト?」


「世界が分岐するなら、一つの結果が別の結果を押し出すことはあり得る」


「つまり?」


「お前がこちらの世界で生きていることそのものが、別の可能性を消している」


 少年が笑った。


『その通り』


 アルベルトの顔が険しくなる。


『だから僕たちは、あなたを恨んでいる』


「俺を?」


『あなたが悪いわけではない』


「じゃあ、何で」


『それでも』


 少年の笑顔が消えた。


『僕たちは、あなたの世界を羨ましいと思う』


 その言葉には。


 怒りよりも。


 深い悲しみがあった。


『あなたには世界がある』


「……」


『仲間がいる』


「……」


『帰る場所がある』


「……」


『僕にはない』


 ミレイアが一歩前へ出た。


「あなたの世界には、誰もいないんですか?」


『いるよ』


「……え?」


『たくさんいる』


 少年は微笑んだ。


『でも、僕たちは存在する理由を失っている』


 その言葉の意味を。


 すぐには理解できなかった。


『僕たちの世界は、あなたたちの世界に負けた』


「勝ち負けなのか?」


『世界にとっては、そうなんでしょう』


 少年が鏡へ手を当てる。


『一つが残れば、一つが消える』


「でも」


 俺は言った。


「俺は、お前たちを消した覚えなんてない」


『知ってる』


「だったら」


『だから困っているんです』


 少年が俺を見る。


『僕たちは、あなたを責めることができない』


「……」


『だから』


 少年は。


 ゆっくり笑った。


『あなたたちに選んでもらうことにした』


 その瞬間。


 中央の柱が大きく振動した。


 無数の鏡に文字が浮かび上がる。


『選択対象、六名』


『選択開始まで――九十六時間』


「四日……」


 ミレイアが呟く。


 俺は柱を見る。


「つまり、四日後に何かが起きる」


『そうです』


 少年が答える。


『四日後、門が完全に開きます』


「開いたらどうなる?」


『二つの世界が重なります』


「重なる?」


『一つになるんです』


 セレナが息を呑む。


「二つの世界が……一つに?」


『はい』


「なら、どちらが残る?」


 少年は答えなかった。


 その代わり。


 鏡の中の景色が変わった。


 俺たちの王都。


 そして。


 もう一つの王都。


 二つが重なっていく。


 街並みが混ざる。


 建物が重なる。


 人々の姿まで。


 同じ場所に二つ存在し始める。


「……」


 俺は目を逸らせなかった。


 その景色は。


 あまりにも不気味だった。


 同じ場所に。


 二つの現実が存在している。


 片方では人が歩き。


 もう片方では、その同じ場所が瓦礫になっている。


 片方では子供が笑い。


 もう片方では誰かが泣いている。


 それらが。


 互いを押し退けるように重なっていく。


『世界は一つしか選べません』


 少年が言った。


『だから』


 鏡の中の少年が。


 俺を指差す。


『あなたたちが選ぶんです』


「何を?」


『どちらを残すか』


「……」


『こちらか』


 少年が自分の胸へ手を当てる。


『それとも、そちらか』


 俺は拳を握った。


「どっちも残す方法は?」


 少年が黙る。


「あるんだろ?」


『……』


「第七周期は、そのためにあるんじゃないのか?」


『あなたは、リゼリアに何を聞いたんですか?』


「……」


 その名前を聞いた瞬間。


 ミレイアが少しだけ顔を強張らせた。


 少年は続ける。


『六回の周期で、あなたは一つを選び続けた』


「……」


『世界』


『リゼリア』


『自分』


『そのどれかを』


「だから第七周期では違う答えを探す」


『違う』


「何?」


『第七周期でも、あなたは選ぶ』


「……」


『ただし』


 少年の視線が。


 ミレイアへ向いた。


『今回は、あなた一人ではない』


 ミレイアが息を呑んだ。


『彼女も選択する』


「ミレイアを巻き込むな」


『巻き込む?』


 少年が首を傾げる。


『もう巻き込まれています』


「……」


『彼女は、リゼリアの記憶を持っている』


 ミレイアが胸元を押さえる。


『そして』


 少年の声が少し低くなる。


『彼女には、あなたの世界には存在しなかった役割がある』


「役割?」


『門を選ぶ者』


 ミレイアの目が見開かれる。


『彼女がどちらの世界を選ぶかで、結果が変わる』


「そんなの」


 俺は言った。


「本人に選ばせればいい」


『……』


「俺が決めることじゃない」


『その言葉』


 少年が笑う。


『六回のあなたとは違いますね』


「何だと?」


『少しだけ、期待できそうです』


 鏡が揺れた。


『では』


「待て」


『四日後に会いましょう』


「お前の名前は?」


 少年は。


 一瞬だけ考えるような顔をした。


『名前なんて、ありません』


「……」


『まだ、選ばれていないから』


 鏡が暗くなる。


 少年の姿が消える。


 そして。


 最後に一言だけ。


『だから、名前をください』


 鏡が完全に消えた。


 静寂。


 地下空間には。


 俺たち五人だけが残っていた。


「……」


 誰も口を開かない。


 やがて。


 ルナが剣を収めた。


「敵なのか?」


「分からない」


 俺が答える。


「少なくとも、今すぐ戦うつもりではなかったみたいだ」


「だが、四日後には戦いになる」


 アルベルトが言った。


「たぶんな」


 セレナが鏡のあった場所を見る。


「……あの人」


「ん?」


「レオンさんに似ていました」


「ああ」


「でも」


 セレナは少し迷ってから言った。


「どこか、寂しそうでした」


 俺も。


 同じことを感じていた。


 あの少年には。


 敵意があった。


 けれど。


 それ以上に。


 孤独があった。


「レオンさん」


 ミレイアが俺を呼ぶ。


「どうした?」


「私」


 彼女は自分の胸に手を当てた。


「さっきから、ずっと変なんです」


「記憶か?」


「はい」


 ミレイアが目を閉じる。


「知らない場所が見えます」


「どんな場所?」


「白い部屋です」


「白い部屋?」


「壁も床も全部白くて」


 彼女の眉が少し寄る。


「その中央に椅子があります」


「誰が座ってる?」


「……私」


「ミレイアが?」


「はい」


 彼女は自分でも混乱しているようだった。


「でも、今の私じゃありません」


「どういうこと?」


「もっと……」


 ミレイアが言葉を探す。


「大人です」


「……」


「髪も長くて」


「リゼリアに似てる?」


「分かりません」


 ミレイアは首を振る。


「顔は見えないんです」


「何をしてる?」


「誰かを待っています」


「誰を?」


 ミレイアが目を開く。


「レオンさんです」


 胸の奥が。


 わずかにざわついた。


「俺を?」


「はい」


「何か言ってる?」


「……」


 ミレイアが目を閉じる。


 しばらくして。


「『まだ来ないで』って」


「……」


「それから」


「何て?」


「『来たら、選ばなくちゃいけなくなる』」


 俺は黙った。


 その言葉は。


 今の状況とあまりにも一致していた。


「ミレイア」


「はい」


「それが誰の記憶なのか、分かるか?」


「分かりません」


「リゼリアかもしれない?」


「……たぶん」


 ミレイアは苦しそうに答えた。


「でも」


「何だ?」


「リゼリアさんの記憶だけじゃない気がします」


「他にもある?」


「はい」


 ミレイアは自分の手を見た。


「私自身の記憶でもない」


「じゃあ」


「誰か別の人の記憶です」


 俺はアルベルトを見る。


 アルベルトは難しい顔をしていた。


「心当たりは?」


「ある」


「何だ?」


「記憶の移植」


 アルベルトが答える。


「この門を作った者たちは、魂に記憶を重ねる技術を使っていた」


「魂に?」


「正確には、魂そのものではない」


「じゃあ?」


「記憶の器を作る」


 アルベルトはミレイアを見る。


「その器に、特定の記憶を保存する」


「……」


「だが」


「何だ?」


「本来、それは一人分の記憶しか保存できない」


 ミレイアが顔を上げる。


「じゃあ、私の中にあるものは?」


「それが分からない」


 アルベルトが答える。


「リゼリアだけではない可能性がある」


 俺はミレイアを見る。


「他に誰がいる?」


「分かりません」


「名前は?」


「……」


 ミレイアは目を閉じる。


 しばらくして。


「一つだけ」


「何?」


「名前ではありません」


「じゃあ?」


「数字です」


「数字?」


「七」


 その瞬間。


 黒い柱が。


 強く光った。


『第七対象、認識』


「……!」


 全員が柱を見る。


 さっきまで『未定義』だった文字が変わっている。


『第六対象――第七』


「第七……?」


 セレナが呟く。


「どういうことですか?」


 アルベルトが答えない。


 俺は柱へ近づく。


 その瞬間。


 頭の中に。


 声が響いた。


『見つけた』


「……!」


 あの少年の声ではない。


 もっと近い。


 もっと。


 自分自身に近い声。


『ここにいた』


 俺は頭を押さえる。


「レオンさん!」


 ミレイアが駆け寄ってくる。


「大丈夫だ」


『違う』


「……」


『まだ、違う』


「何が?」


 声は答えない。


 代わりに。


 目の前の景色が歪んだ。


 地下空間が消える。


 白い部屋。


 椅子。


 そこに座るミレイア。


 そして。


 その前に立つ。


 一人の少女。


 長い髪。


 白い服。


 顔は。


 リゼリアだった。


 だが。


 その姿は。


 俺が知っているリゼリアよりも若い。


 少女はミレイアへ手を伸ばす。


『あなたに、私を渡す』


「……」


『でも、全部は渡さない』


 ミレイアが顔を上げる。


『私の記憶を持っても』


 少女は笑う。


『あなたは私にはならない』


 次の瞬間。


 景色が変わった。


 今度は。


 俺がいた。


 まだ幼い。


 知らない場所に立っている。


 目の前には。


 黒い扉。


 その向こうから。


 誰かが呼んでいる。


『レオン』


 俺は扉へ手を伸ばす。


 すると。


 誰かが後ろから俺の手を掴んだ。


 振り返る。


 ミレイアだった。


 まだ幼い。


 俺たちは。


 何も言わずに。


 その場に立っている。


 そして。


 扉の向こうから。


 声が聞こえる。


『二人で来て』


 俺は目を覚ました。


「……!」


 地下室。


 ミレイアが俺の肩を支えている。


「レオンさん!」


「……大丈夫だ」


「急に倒れたんですよ」


「どれくらい?」


「数秒です」


 また。


 数秒。


 俺は息を整える。


「何を見たんですか?」


「分からない」


 俺は言った。


「でも」


「はい」


「俺とお前は」


 ミレイアを見る。


「昔から、どこかで繋がっていたのかもしれない」


「……」


 ミレイアは何も言わなかった。


 ただ。


 その目に。


 何かを思い出そうとするような色が浮かんでいる。


 そのとき。


 アルベルトが中央の柱へ近づいた。


「全員、聞いてくれ」


 俺たちが振り返る。


 アルベルトは。


 柱の一部を指差した。


「ここに文字が出ている」


 そこには。


 今まで見たことのない文が浮かんでいた。


『第七周期の成立条件』


『二つの記憶』


『二つの意思』


『一つの世界』


 その下に。


 さらに文字が現れる。


『ただし』


 文字が一度消える。


 そして。


 新しい文章が浮かんだ。


『選ばれる者は一人』


 ミレイアが息を呑んだ。


「一人……?」


「おそらく」


 アルベルトが答える。


「最後に世界の意思を決定する者だ」


「誰なんだ?」


 俺が聞く。


 アルベルトは。


 ゆっくりとミレイアを見る。


「おそらく、彼女だ」


「……私?」


「ああ」


 ミレイアの顔が強張る。


「でも」


 俺は言った。


「さっきの話では、俺も選択対象だった」


「そうだ」


「なら、俺が決める可能性もあるんじゃないのか?」


「違う」


 アルベルトが首を振る。


「レオン、お前は選択対象ではある」


「……」


「だが、決定者ではない」


「どういう意味だ?」


「お前は選ばれる側だ」


「……」


 その言葉が。


 妙に重かった。


 俺は。


 これまでずっと。


 自分が何かを選ぶ側だと思っていた。


 世界か。


 リゼリアか。


 自分か。


 何を残すのか。


 何を捨てるのか。


 その決断をするのは自分だと。


 けれど。


 今回だけは。


 違う。


「じゃあ」


 俺はミレイアを見る。


「ミレイアが俺を選ぶ?」


 アルベルトが頷く。


「そうなる可能性が高い」


 ミレイアは黙っていた。


 しばらくして。


「……怖いです」


「うん」


「私が選んだことで」


「……」


「レオンさんが消えるかもしれない」


 俺は答えなかった。


 その可能性は。


 十分にある。


「それだけじゃない」


 ミレイアが続ける。


「もう一つの世界を消すことになるかもしれない」


「……」


「私に、そんなことを決められるんでしょうか」


「決めなくていい」


 俺は言った。


 ミレイアが俺を見る。


「え?」


「まだ四日ある」


「でも」


「俺たちは、別の方法を探す」


「……」


「二つの世界を残す方法を」


 アルベルトが俺を見る。


「簡単ではないぞ」


「分かってる」


「見つからないかもしれない」


「それでも探す」


「見つからなかったら?」


 俺は少し黙った。


 そして。


「そのときは」


 ミレイアを見る。


「そのときに二人で決める」


 ミレイアの目が少しだけ揺れた。


「二人で?」


「ああ」


「私と?」


「ああ」


「……」


 ミレイアは。


 ゆっくり笑った。


「分かりました」


 その笑顔は。


 どこか無理をしているようにも見えた。


 けれど。


 今はそれ以上何も言わなかった。


 俺たちは。


 門の内部を調べることにした。


 無数の鏡。


 黒い柱。


 床に刻まれた魔法陣。


 壁に残された古い文字。


 それらを一つずつ確認していく。


 セレナは父親の記録を探していた。


 ルナは入口付近を警戒している。


 アルベルトは古代文字を読み解いていた。


 そして。


 俺とミレイアは。


 鏡を見ていた。


「この鏡」


 ミレイアが一枚の鏡を指差す。


「何?」


「少し変です」


「どこが?」


「私たちが映っていません」


 俺は鏡を見る。


 確かに。


 その鏡だけ。


 何も映していない。


 真っ黒だ。


「壊れてるのか?」


「違います」


 ミレイアが手を伸ばす。


「待て」


 俺が止める。


「危ないかもしれない」


「でも」


「俺が触る」


 鏡へ手を伸ばす。


 指先が触れた。


 何も起きない。


「大丈夫そうだ」


「私も」


 ミレイアが鏡へ触れる。


 その瞬間。


 鏡が光った。


「……!」


 俺の手が弾かれる。


 ミレイアだけが。


 鏡の中へ引き込まれる。


「ミレイア!」


 俺は手を掴む。


 だが。


 彼女の身体は。


 ゆっくり鏡の向こうへ沈んでいく。


「レオンさん!」


「離すな!」


「はい!」


 俺は彼女の手を強く握った。


 けれど。


 力が抜けていく。


 鏡の向こうから。


 何かが。


 ミレイアを引っ張っている。


「くそっ……!」


 能力を発動する。


「反射!」


 光が鏡へ叩き込まれる。


 だが。


 反射できない。


「何で……!」


 ミレイアの身体が。


 さらに沈む。


「レオンさん!」


「ミレイア!」


「手を!」


「掴んでる!」


「もっと!」


「分かってる!」


 俺は両手で彼女の手を握った。


 その瞬間。


 鏡の向こうから。


 声が聞こえた。


『選んで』


「……!」


 少年の声。


『どちらを残す?』


「うるさい!」


『選んで』


「まだ決めない!」


『なら』


 鏡の向こうに。


 別の景色が映る。


 燃える王都。


 そこに。


 ミレイアがいる。


 次の瞬間。


 別の世界。


 穏やかな王都。


 そこには。


 俺がいる。


 そして。


 さらに別の世界。


 誰もいない王都。


 その中央に。


 リゼリアが立っている。


『一人を選んで』


「嫌だ」


『選ばなければ』


「嫌だと言ってる!」


『この女が消える』


「……!」


 ミレイアの身体が。


 さらに鏡へ沈んだ。


「レオンさん!」


 俺は歯を食いしばった。


 力を込める。


「ミレイア!」


「はい!」


「俺を見るんだ!」


「……!」


「鏡じゃない!」


「……」


「俺を見ろ!」


 ミレイアが。


 俺を見る。


「私は……」


「ああ」


「どうすれば……」


「何もしなくていい!」


「でも!」


「俺が引っ張る!」


 俺は。


 自分の能力を。


 もう一度発動した。


 反射ではない。


 これまで使ってきた。


 無限化でもない。


 ただ。


 自分の中にある力を。


 全部。


 一つへ集める。


「……っ!」


 右手が熱くなる。


 光が。


 腕を覆う。


 鏡が震える。


『無駄です』


「うるさい」


『これは世界の選択』


「知るか」


『あなた一人では』


「一人じゃない」


 俺は。


 ミレイアの手を握る。


「今は二人だ」


 その瞬間。


 鏡が。


 大きく砕けた。


 音はなかった。


 ただ。


 世界が一瞬だけ白く染まる。


 次に目を開けたとき。


 ミレイアが。


 俺の腕の中にいた。


「……」


「……」


 しばらく。


 何も言えなかった。


 ミレイアが。


 ゆっくり顔を上げる。


「レオンさん」


「大丈夫か?」


「はい」


「怪我は?」


「ありません」


「よかった」


 俺は息を吐く。


 すると。


 ミレイアが少し笑った。


「……さっき」


「ん?」


「二人だって言ってくれましたよね」


「ああ」


「嬉しかったです」


「……」


「私」


 ミレイアは胸元へ手を当てる。


「ずっと、自分の中に誰かがいる気がして怖かったんです」


「……」


「でも」


 彼女は俺を見る。


「今は少しだけ、自分が自分だって思えました」


 俺は。


 何も言わず頷いた。


 そのとき。


 背後から。


 アルベルトの声が聞こえた。


「見つけたぞ」


「何を?」


「この門を止める方法だ」


 俺たちは振り返った。


 アルベルトは。


 一冊の古い本を持っている。


 表紙には。


 三つの円が重なった紋章。


「それ、どこにあった?」


「黒い柱の裏だ」


「何が書いてある?」


 アルベルトが本を開く。


「門は、世界を繋ぐための装置ではない」


「じゃあ?」


「選択を保存するための装置だ」


「……保存?」


「ああ」


 アルベルトがページをめくる。


「世界そのものを移動させるのではない」


「なら何を?」


「選択された結果を固定する」


 俺は眉をひそめる。


「つまり」


「門が開くと」


 アルベルトが言った。


「どちらか一方の世界が、この世界の『正しい結果』として固定される」


「もう一方は?」


「記録になる」


「……」


「選ばれなかった世界は、完全に消えるわけではない」


 アルベルトが俺を見る。


「記録として残る」


 俺は。


 21話で見た白い空間を思い出した。


 無数のレオンたち。


 選ばれなかった可能性。


 あれと。


 同じだ。


「じゃあ」


 俺は本を指差す。


「止めるには?」


「門を開く前に、選択そのものを無効にする」


「どうやって?」


 アルベルトは。


 ページの最後を開いた。


 そこには。


 一つの文だけが書かれていた。


『二つの世界が、互いを選ばないこと』


「……」


 俺は言葉を失った。


「これ」


 ミレイアが呟く。


「さっきのリゼリアさんが言っていたことと同じ……」


「ああ」


 俺は頷く。


「世界を選ばない」


 それが。


 第七周期の答えなのかもしれない。


 だが。


 アルベルトは首を振った。


「問題は、もう一つある」


「何だ?」


「この方法を実行するには」


 アルベルトがページの最後を指す。


「双方の世界に、一人ずつ『選ばない者』が必要だ」


「双方に?」


「ああ」


「つまり」


 俺は鏡を見る。


「こっち側と、向こう側に一人ずつ?」


「そうだ」


「向こう側は誰だ?」


 アルベルトが答える。


「それを探す必要がある」


 その瞬間。


 鏡の一枚が。


 突然光った。


 そこに。


 さっきの少年が映る。


『僕です』


 俺たちが振り返る。


『向こう側の選ばない者は』


 少年は。


 自分の胸を指した。


『僕です』


「……」


『だから』


 少年は笑う。


『あなたが、こちら側の選ばない者になってください』


「俺が?」


『はい』


「どういう意味だ?」


『あなたが世界を選ばない』


「……」


『僕も、僕の世界を選ばない』


 少年が言う。


『そうすれば、門は閉じる』


「なら」


 俺は言った。


「簡単じゃないか」


『いいえ』


 少年の表情が。


 初めて曇った。


『条件があります』


「何だ?」


『どちらかが、自分の大切なものを手放さなければならない』


「……」


『世界を選ばないということは』


 少年が言う。


『自分の世界を捨てるということです』


「……」


『僕は』


 少年が目を伏せる。


『もう捨てました』


「……」


『だから、残るのはあなたです』


 俺は拳を握った。


「俺が、この世界を捨てる?」


『はい』


「それで門が閉じる?」


『閉じます』


「じゃあ俺はどうなる?」


 少年は。


 しばらく答えなかった。


 そして。


『消えます』


 ミレイアが息を呑む。


「そんなの……!」


『だから』


 少年がミレイアを見る。


『彼女が選ぶ』


「……」


『レオンを選ぶか』


 少年の声が。


 静かに響く。


『世界を選ぶか』


 ミレイアの顔から。


 血の気が引いた。


「……」


 俺は。


 彼女を見る。


 そして。


 ゆっくり首を振った。


「ミレイア」


「……はい」


「今は答えなくていい」


「でも」


「まだ四日ある」


「……」


「探そう」


 俺は言った。


「俺が消えなくて済む方法も」


「……」


「お前が選ばなくて済む方法も」


「……」


「全部探す」


 ミレイアは。


 しばらく黙っていた。


 そして。


 小さく頷いた。


「はい」


 鏡の向こうの少年が。


 そんな俺たちを見ていた。


『……不思議ですね』


「何が?」


『あなたは、六回のあなたとは違う』


「当然だろ」


『でも』


 少年が微笑む。


『少し、羨ましいです』


「……」


『僕も』


 少年は目を閉じる。


『そんなふうに言ってくれる人がいたらよかった』


 鏡が暗くなる。


 最後に。


 少年の声だけが残った。


『四日後までに』


『答えを見つけてください』


『でなければ』


 鏡が完全に消える。


『世界は一つになります』


 静寂。


 俺は。


 黒い柱を見上げた。


 そこには。


 新しい数字が浮かんでいる。


『残り――九十五時間五十九分』


 秒単位で。


 時間が減っている。


 もう。


 待ってはくれない。


「……行こう」


 俺は言った。


「どこへ?」


 セレナが聞く。


「この門について、まだ知らないことがある」


「でも、ここには――」


「ここじゃない」


 俺はアルベルトを見る。


「地下施設に戻る」


 アルベルトが目を細める。


「第零記録か」


「ああ」


 21話で消えた。


 そう思っていた。


 けれど。


 あれが本当に消えたとは思えない。


 むしろ。


 あの声。


 あの鏡。


 そして。


 今の少年。


 全部が。


 一つの場所へ繋がっている気がした。


「第零記録が何なのか」


 俺は言った。


「確かめる」


 アルベルトが頷く。


「分かった」


 俺たちは門の前室を出た。


 長い階段を上る。


 王城地下の空気が。


 少しずつ暖かくなっていく。


 地上へ戻る途中。


 セレナが隣を歩く俺へ言った。


「レオンさん」


「ん?」


「さっきの人」


「ああ」


「本当に、レオンさんじゃないんですか?」


「……」


 俺は少し考えた。


「分からない」


「でも」


 セレナが続ける。


「もし、別の世界のレオンさんだったら」


「うん」


「敵にしたくないですね」


「俺もそう思う」


「じゃあ」


 セレナは少し笑った。


「名前をつけてあげたらどうですか?」


「名前?」


「はい」


「どうして?」


「本人が欲しいって言ってましたから」


 俺は。


 少しだけ考えた。


「……そうだな」


 だが。


 名前は思いつかなかった。


 そのとき。


 後ろからミレイアの声がした。


「レオンさん」


「何?」


「一つだけ」


「ん?」


「私」


 ミレイアは。


 少し恥ずかしそうに笑う。


「もう一度、あの人に会いたいです」


「向こう側の俺に?」


「はい」


「どうして?」


「ちゃんと話をしたいから」


「……」


「敵になる前に」


 俺は。


 その言葉を聞いて。


 少しだけ笑った。


「分かった」


「ありがとうございます」


「でも」


「はい?」


「次に会ったら」


 俺は言う。


「俺も、お前も、一人で話すな」


「……はい」


「二人で話す」


 ミレイアが頷く。


「はい」


 階段を上りきる。


 王城の廊下へ出る。


 窓の外は。


 まだ夜だった。


 だが。


 空の端が。


 ほんの少しだけ白み始めている。


 夜明けが近い。


 俺たちは。


 気づけば一晩近くを地下で過ごしていた。


 それでも。


 休むことはできない。


 残り。


 九十五時間。


 四日もない。


 王都の外では。


 何が起きているのか。


 まだ分からない。


 けれど。


 少なくとも。


 俺たちが立っているこの世界だけは。


 今も続いている。


 人々が眠っている。


 誰かが明日を待っている。


 その一人一人に。


 世界がある。


 だから。


 簡単に捨てることなんてできない。


 そして。


 鏡の向こうにも。


 同じように。


 誰かの世界がある。


 なら。


 どちらかを選ぶことだけが答えではない。


 俺は。


 そう信じたかった。


 王城の廊下を進む。


 すると。


 突然。


 ミレイアが足を止めた。


「……どうした?」


「声が」


「また?」


「はい」


 彼女は。


 遠くを見る。


「今度は」


 その顔が。


 少し青ざめた。


「誰の声?」


「……私です」


「ミレイアの?」


「はい」


 ミレイアは。


 目を閉じた。


 そして。


 小さな声で言った。


『レオンを選ばないで』


 俺は息を止めた。


「……何?」


 ミレイアが目を開ける。


「今」


「何て言った?」


「分かりません」


 彼女自身も困惑している。


「私が言ったんですか?」


「いや」


 俺は首を振る。


「お前の口からは聞こえなかった」


 だが。


 確かに聞こえた。


 ミレイアの声だった。


『レオンを選ばないで』


 そして。


 もう一つ。


 その直後。


 別の声が。


 俺の耳元で囁いた。


『彼女は、もう一人じゃない』


 俺は振り返る。


 誰もいない。


 ただ。


 廊下の奥に。


 一枚の小さな鏡が落ちていた。


「……」


 こんなもの。


 さっきまでなかった。


 俺は近づく。


 鏡には。


 俺が映っている。


 ミレイアも。


 セレナも。


 ルナも。


 アルベルトも。


 だが。


 一人だけ。


 知らない少女が映っていた。


「……誰だ?」


 鏡の中の少女が。


 こちらを見る。


 長い黒髪。


 白い服。


 そして。


 赤い瞳。


 その少女は。


 俺たちを見ながら。


 微笑んだ。


『やっと』


 声が聞こえる。


『見つけてくれた』


 ミレイアが。


 突然。


 胸を押さえた。


「……っ!」


「ミレイア!」


 俺が駆け寄る。


 彼女の身体が震えている。


「大丈夫か?」


「……この人」


「知ってるのか?」


 ミレイアは。


 苦しそうに鏡を見る。


「知りません」


「じゃあ、何で」


「でも」


 ミレイアの目から。


 一筋の涙が落ちた。


「この人が」


 彼女は震える声で言う。


「ずっと私の中にいた気がします」


 鏡の中の少女が。


 微笑んだ。


『ようやく』


『第七の器が』


『目を覚ます』


 鏡が。


 赤く染まった。


 そして。


 王城全体に。


 一つの鐘の音が響き渡った。


 ゴーン。


 ゴーン。


 ゴーン。


 まだ朝ではない。


 時刻を知らせる鐘ではない。


 それなのに。


 王都の鐘が。


 次々と鳴り始める。


 窓の外を見る。


 空に。


 赤い光が走った。


 そして。


 王都の上空に。


 再び巨大な文字が浮かび上がる。


『残り――三日』


「……!」


 俺は息を呑む。


 九十五時間あったはずなのに。


 まだ数時間しか経っていない。


 なのに。


 表示は。


 三日へ変わっていた。


 アルベルトが。


 初めて声を荒らげた。


「全員、王城から出るぞ!」


「何が起きてる!」


「時間そのものが、こちらの世界に合わせて縮んでいる!」


「どういう意味だ!」


「門が世界を重ね始めたんだ!」


 その瞬間。


 王都の空に。


 無数の鏡が現れた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 十枚。


 百枚。


 数え切れないほどの鏡。


 その全てに。


 別の世界が映っている。


 人々が叫び始める。


 街が騒然となる。


 そして。


 鏡の一つ一つから。


 誰かの声が。


 重なって聞こえてきた。


『選んで』


『選んで』


『選んで』


『どちらを残す?』


 俺は。


 その声を聞きながら。


 ミレイアの手を握った。


 彼女も。


 強く握り返した。


「レオンさん」


「ああ」


「私」


 ミレイアが空を見る。


「まだ、選びません」


「……」


「何も」


 その声は。


 震えていた。


 それでも。


 はっきりしていた。


「私は」


 ミレイアが言う。


「まだ、何も選びません」


 その瞬間。


 空に浮かぶ無数の鏡の一つが。


 大きく揺れた。


 鏡の中から。


 あの少年が。


 こちらを見た。


 そして。


 初めて。


 嬉しそうに笑った。


『それでいい』


 声が。


 王都中へ響く。


『それが』


『僕たちが待っていた答えだ』


 鏡が。


 一斉に暗くなる。


 だが。


 完全には消えない。


 その奥に。


 一つだけ。


 赤い光が残っている。


『三日後』


 少年の声。


『僕たちは、もう一度ここへ来る』


『そのとき』


『あなたたちに』


『最後の選択をしてもらう』


 俺は空を見上げる。


 ミレイアの手を握ったまま。


 静かに答えた。


「その前に」


 俺は。


 鏡の向こうを睨んだ。


「俺たちが答えを見つける」


 少年は。


 笑った。


『楽しみにしています』


 鏡が消える。


 空が。


 少しずつ明るくなっていく。


 夜が終わろうとしている。


 けれど。


 俺たちにとっては。


 これからが始まりだった。


 選ばれた世界と。


 選ばれなかった世界。


 選ぶ者と。


 選ばれる者。


 そして。


 そのどちらにも属さない。


 まだ名前のない存在。


 俺たちは。


 それが何なのか。


 まだ知らない。


 ただ。


 一つだけ。


 確かなことがあった。


 三日後。


 世界は。


 必ず答えを求める。


 そのとき。


 俺は。


 一人では決めない。


 ミレイアも。


 一人では決めさせない。


 世界を捨てることも。


 誰かを殺すことも。


 自分を消すことも。


 まだ選ばない。


 それが。


 第七周期で。


 俺たちが初めて選んだ。


 最初の答えだった。

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