第二十一話 選ばれなかった世界
王都の空に浮かんでいた巨大な鏡が砕けた。
音はしなかった。
無数の破片が夜空へ散っていくのに、ガラスが割れるような音も、何かが崩れ落ちる音も聞こえない。
ただ、鏡の向こうに映っていたもう一つの王都が、細かな光の粒へ変わっていく。
その中心に立っていた「俺」も。
笑ったまま。
ゆっくりと消えていった。
そして。
最後に残った一つの赤い文字だけが、夜空に浮かんでいる。
『残り――四日』
「……」
誰も声を出さなかった。
王都の人々も同じだった。
道を歩いていた者。
店の前で話していた者。
馬車を止めて空を見上げていた者。
その全員が、突然現れた異常な光景を理解できずに立ち尽くしている。
俺も同じだった。
何が起きたのか。
どうして鏡が現れたのか。
そして。
なぜ、あの俺は俺たちを見つけたと言ったのか。
何一つ分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
あの鏡は。
地下施設で見たものとは違う。
あれは俺たちに何かを見せるために存在していた。
けれど今の鏡は。
向こう側から、こちらを見ていた。
「……アルベルト」
俺は隣に立つ男を見る。
「今のは何だ」
「分からない」
返ってきた言葉は短かった。
「分からない?」
「ああ」
アルベルトは空を見上げたまま答える。
「少なくとも、私が知っている第七周期の記録には、あんな現象は存在しない」
「じゃあ、あれは予定外ってことか?」
「そうだ」
その答えを聞いた瞬間。
妙な寒気が背中を走った。
今までのアルベルトは、何かを知らないときでも、それを隠すように言葉を選んでいた。
だが。
今は違う。
本当に分からないのだ。
「……門の起動が早まったのも、あれが原因か?」
「可能性は高い」
「四日って表示された理由は?」
「分からない」
「向こう側の俺が、こっちを見つけたっていうのは?」
「分からない」
「じゃあ、何なら分かるんだよ」
「今のままでは何も分からない」
アルベルトがこちらを向いた。
「だから、王城へ行く」
「門を調べるのか?」
「ああ」
「なら急ごう」
俺が歩き出そうとしたときだった。
「待ってください」
ミレイアが俺の袖を掴んだ。
「どうした?」
「レオンさん」
彼女は俺の顔を見る。
その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「今、何か聞こえませんでしたか?」
「……何か?」
「声です」
「声?」
「はい」
ミレイアは不安そうに周囲を見る。
「さっき、鏡が消える直前に……誰かの声が聞こえた気がしました」
俺は息を止めた。
「何て?」
「……『次は』って」
「その後は?」
「聞こえませんでした」
俺は黙った。
俺にだけ聞こえた声。
『次は、選ばれなかった世界の方から、選ぶ』
ミレイアにも聞こえたのか。
それとも。
あれとは別の声だったのか。
判断できない。
「レオンさん?」
「いや」
俺は首を振った。
「俺にも聞こえた」
「……やっぱり」
「でも、今は考えても仕方ない」
「そうですね」
ミレイアは頷いた。
けれど。
俺の袖を掴んだ手は離さなかった。
俺たちは王城へ向かって歩き始めた。
王都中央へ続く大通りは、先ほどまでとはまるで別の場所になっていた。
人々が道の端へ集まり、空を見上げている。
泣いている子供もいる。
誰かに説明を求める声も聞こえる。
王城へ向かう兵士たちも、明らかに動揺していた。
「何が起きたんだ!」
「空に鏡が……!」
「城へ報告しろ!」
「門の警備はどうなっている!」
様々な声が飛び交っている。
その中を。
俺たちは黙って進んだ。
セレナは何度も後ろを振り返っていた。
「……セレナ」
「はい?」
「どうした?」
「いえ」
彼女は少し迷ったあと、黒いペンダントを握りしめた。
「父なら、これを見て何と言うのかなって」
「……」
「王都が静かなときほど、地下では何かが起きているって言ってました」
「今は静かどころじゃないな」
「そうですね」
セレナは空を見る。
「でも、父が本当に恐れていたのは、たぶんこういうことだったんだと思います」
「こういうこと?」
「王都の上と下が、繋がること」
その言葉に。
アルベルトが足を止めた。
「……どういう意味だ?」
「分かりません」
セレナは首を振った。
「父から聞いたのは、それだけです」
「他には?」
「地下にあるものは、地上へ出してはいけない」
「それだけか?」
「はい」
アルベルトは何かを考えるように黙った。
そして。
「急ぐぞ」
再び歩き始める。
王城へ近づくにつれて、警備兵の数が増えていった。
だが。
俺たちを止める者はいなかった。
むしろ。
アルベルトの姿を見た兵士たちは、何かを察したように道を開けていく。
「アルベルト」
「何だ?」
「お前、王城ではどんな立場なんだ?」
「今それを聞くのか?」
「今だから聞いてる」
「……元騎士団長だ」
「元?」
「ああ」
「なんで辞めた?」
「後で話す」
「またそれか」
「今は時間がない」
その返事に、俺はため息をついた。
だが。
アルベルトの表情を見て、それ以上は聞かなかった。
王城の正門を抜ける。
その瞬間。
空気が変わった。
城の中は、外よりも静かだった。
静かすぎる。
廊下を走る兵士。
指示を飛ばす文官。
慌ただしく動く使用人。
それらは確かに存在している。
けれど。
どこかがおかしい。
まるで。
城全体が巨大な何かに怯えているようだった。
「こちらです」
アルベルトが廊下を曲がる。
しばらく進むと、分厚い扉の前に数人の兵士が立っていた。
「止まれ!」
一人が剣を抜く。
だが。
アルベルトが前へ出た。
「私だ」
「アルベルト……?」
「地下への入口を開けろ」
「しかし、王命が――」
「王命より優先する」
「そんなことは――」
「ならば私が責任を取る」
兵士が言葉を失った。
そのとき。
扉の向こうから。
何かを叩くような音が聞こえた。
ドン。
ドン。
ドン。
全員が振り返る。
「……今の音」
ルナが剣の柄へ手を置く。
「地下からだ」
アルベルトが答えた。
「開けろ」
兵士が鍵を回す。
扉が開いた。
その先には。
地下へ続く階段があった。
俺たちは階段を下りていく。
王城の地下。
そこは、これまで見てきた地下施設とは明らかに違っていた。
壁には王家の紋章。
古い石造りの柱。
ところどころに魔法灯が設置されている。
そして。
階段を下りるほど。
空気が冷たくなっていく。
「ここが門のある場所か?」
「ああ」
アルベルトが答える。
「だが、正確にはこの先だ」
しばらく進むと。
巨大な鉄扉が現れた。
扉の中央には。
三つの円が重なったような紋章が刻まれている。
「これは……」
ミレイアが近づく。
「何か知ってるのか?」
「いえ」
彼女は紋章をじっと見つめる。
「ただ、魔法陣に似ています」
「魔法陣?」
「はい。でも」
ミレイアが眉をひそめる。
「普通の魔法陣とは違います」
「どう違う?」
「魔力を流すためのものじゃない」
「じゃあ何のためだ?」
「……何かを、呼び込むための形に見えます」
その瞬間。
鉄扉の向こうから。
ドンッ。
大きな衝撃が響いた。
セレナが一歩下がる。
「今の……」
「中に何かいる」
ルナが剣を抜く。
俺も右手を上げた。
「待て」
扉を見つめる。
妙な感覚がある。
怖いわけではない。
むしろ。
懐かしい。
そんなはずはない。
この場所へ来たことなんてない。
それでも。
身体の奥にある何かが。
この扉の向こうを知っている。
「レオン?」
ミレイアの声。
「……大丈夫だ」
俺は扉へ近づく。
その瞬間。
右手の甲に。
薄い光が浮かび上がった。
「……!」
俺は手を見る。
見覚えのある光。
反射・無限化を使ったときに現れるものと同じだった。
「どうしてここで……」
ミレイアが俺の手を見る。
アルベルトの顔が険しくなる。
「触るな」
「何?」
「その扉には触れるな」
「理由は?」
「分からない」
「またそれか」
「だが」
アルベルトが俺の前へ出る。
「今まで、私が見た中で一度も反応したことがない」
「何が?」
「門だ」
その言葉と同時に。
鉄扉の向こうから声が聞こえた。
『――レオン』
俺は凍りついた。
俺の名前。
確かに。
呼ばれた。
「誰だ?」
返事はない。
代わりに。
『こちらへ』
声は。
俺自身のものだった。
ミレイアが俺の腕を掴む。
「レオンさん」
「ああ」
「行かないでください」
「……」
「嫌な感じがします」
俺は扉を見る。
行くべきではない。
頭では分かっている。
けれど。
声は続く。
『お前は、ここを知っている』
「知らない」
『知っている』
「俺は初めて来た」
『身体は知っている』
その瞬間。
右手が勝手に動いた。
扉へ向かって。
「……!」
俺は慌てて手を止める。
心臓が激しく鳴っていた。
「今のは……」
セレナが呟く。
俺は答えられない。
アルベルトが俺の手を見る。
「やはり」
「何が?」
「門は、お前を認識している」
「どうして?」
「分からない」
「……」
俺はため息をついた。
「もういい」
「レオン?」
「分からないなら、調べる」
俺は扉に手を置いた。
ミレイアが息を呑む。
瞬間。
世界が反転した。
音が消える。
光が消える。
そして。
俺の目の前に。
一つの景色が現れた。
王都。
だが。
今の王都ではない。
建物は崩れ。
空は赤く染まり。
王城の中央から巨大な光が噴き出している。
街には誰もいない。
ただ。
遠くに一人だけ立っている。
俺だった。
「……またか」
その俺は。
こちらを見ていない。
目の前にはリゼリアがいる。
彼女は何かを叫んでいる。
けれど。
声が聞こえない。
俺は映像へ近づく。
すると。
別の光景が重なった。
雪の王都。
砂に埋もれた王都。
水に沈んだ王都。
植物に覆われた王都。
そして。
完全な闇に包まれた王都。
六つ。
六つの世界。
それぞれに。
違う結末があった。
「……」
俺は目を逸らせなかった。
その中で。
一つだけ。
見たことのない世界があった。
王都が壊れていない。
人々が暮らしている。
空は青い。
城もある。
そして。
ミレイアがいる。
リゼリアもいる。
セレナも。
ルナも。
アルベルトも。
全員が。
生きている。
「……」
俺は息を呑んだ。
そんな世界が。
存在する。
その事実だけで。
胸が苦しくなった。
けれど。
次の瞬間。
その世界の空に。
亀裂が走った。
巨大な鏡が現れる。
その向こう側から。
何かがこちらの世界へ手を伸ばしている。
俺は思わず叫んだ。
「やめろ!」
手を伸ばす。
だが。
触れられない。
鏡の向こうで。
一人の俺が。
こちらを見た。
そして。
笑った。
『見つけた』
また。
あの言葉。
俺は反射的に能力を発動しようとした。
だが。
その俺は。
手を上げた。
『今度は』
その瞬間。
俺の目の前の景色が砕けた。
『お前たちが、俺たちを選ぶ』
「……!」
視界が戻る。
俺は床に膝をついていた。
「レオン!」
ミレイアが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
俺は息を整える。
アルベルトが険しい顔で俺を見る。
「何を見た?」
「六つの世界」
「それだけか?」
「違う」
俺は立ち上がる。
「七つ目があった」
アルベルトの顔色が変わった。
「……何?」
「壊れていない王都だ」
「そんなはずはない」
「でも見た」
「誰がいた?」
「俺たち全員だ」
アルベルトが黙る。
「それだけじゃない」
「何だ?」
「その世界にも、鏡が現れた」
「……」
「向こう側から、こっちへ来ようとしていた」
アルベルトはしばらく考え込んだ。
「選ばれなかった世界が」
「……」
「こちらへ干渉している?」
「たぶん」
俺は自分の手を見る。
「向こうの俺が言っていた」
「何と?」
「『今度は、お前たちが俺たちを選ぶ』」
アルベルトは。
初めて。
完全に言葉を失った。
「……まずい」
「そればっかりだな」
「冗談を言っている場合ではない」
「分かってる」
そのとき。
地下全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴ……。
天井から埃が落ちてくる。
「何だ!」
セレナが叫ぶ。
アルベルトが扉を見る。
「門だ」
「起動してるのか?」
「ああ」
「でも、まだ四日だろ」
「四日後ではない」
「何?」
アルベルトが。
ゆっくりと首を振った。
「四日しかない」
その言葉の意味を。
俺は理解した。
残り四日。
門が完全に開くまでの時間ではない。
世界が。
選択を終えるまでの時間だ。
扉の向こうから。
大量の光が漏れ始めた。
「全員、下がれ!」
アルベルトが叫ぶ。
俺たちは後ろへ下がる。
次の瞬間。
鉄扉が。
内側から。
ゆっくり開いた。
その先にあったのは。
巨大な空間だった。
中央には。
黒い柱。
その周囲を。
無数の鏡が浮かんでいる。
鏡の一つ一つに。
違う景色が映っている。
燃える王都。
雪の王都。
砂に埋まった王都。
見たことのない街。
知らない人々。
そして。
俺たちがいる王都。
「……これが門」
ミレイアが呟く。
「違う」
アルベルトが答える。
「これは門の前室だ」
「じゃあ、門は?」
アルベルトが中央を見る。
黒い柱の奥。
そこに。
巨大な円形の空間があった。
だが。
そこには何もない。
ただ。
真っ暗な穴がある。
「……あれが」
セレナが息を呑む。
「境界だ」
アルベルトが言った。
その瞬間。
一つの鏡が光った。
俺は反射的に振り向く。
そこに映っていたのは。
俺たちではない。
一人の少女。
黒い髪。
白い服。
そして。
首元には。
黒いペンダント。
「……セレナ?」
セレナが驚く。
「私……?」
鏡の中の少女は。
今のセレナより少し幼かった。
そして。
その隣には。
父親らしき男が立っている。
セレナは鏡へ近づいた。
「お父さん……」
男は何かを話している。
今度は。
声が聞こえた。
『セレナ』
「……!」
『もし、この記録を見ているなら』
男は苦しそうな顔をしていた。
『私はもう、この世界にはいない』
セレナの目が大きく見開かれる。
『だが、これだけは覚えておけ』
男は黒いペンダントを見る。
『それは、お前を守るためのものじゃない』
セレナが息を止める。
『世界を閉じるための鍵だ』
「……」
鏡の中の父親は続ける。
『そして、その鍵を持つ者が門を開けることになる』
セレナは首を振る。
「違う……」
『だが』
父親の表情が変わった。
『もし、レオンという男に出会ったなら』
「……!」
『絶対に、彼から離れるな』
俺は目を見開いた。
『彼が門を開く』
セレナが鏡を見る。
『そして』
映像が乱れる。
『彼が、門を閉じる』
そこで。
記録が途切れた。
「……」
セレナは動かなかった。
しばらくして。
「父は……」
震える声で呟く。
「私がレオンさんと会うことを知っていた?」
「たぶん」
俺は答えた。
「でも、三年前に死んでる」
「はい」
「だったら、どうやって?」
誰も答えられなかった。
そのとき。
別の鏡が光った。
今度は。
ミレイアが映っていた。
「私……?」
鏡の中のミレイアは。
何かの部屋で一人立っている。
そして。
目の前には。
一冊の本がある。
その表紙には。
『反射魔法・基礎理論』
と書かれていた。
「これ……」
ミレイアが呟く。
「私の本です」
「知ってるのか?」
「はい」
ミレイアは鏡を見る。
「私が初めて魔法を勉強したときの本……のはずです」
「のはず?」
「でも」
彼女は眉をひそめる。
「こんな部屋、知りません」
鏡の中のミレイアが。
本を開く。
そこには。
無数の文字が書かれていた。
そして。
一つだけ。
赤い文字が浮かび上がる。
『リゼリアの記憶、移植完了』
ミレイアが息を呑む。
「……」
俺は鏡を見る。
「これは何だ?」
鏡の中のミレイアは。
自分の胸に手を当てた。
そして。
ゆっくり顔を上げる。
『私は』
その声は。
ミレイアのものだった。
『私なの?』
俺は息を止めた。
鏡が暗くなる。
ミレイアが。
何も言わずに立っている。
「……ミレイア」
「はい」
「大丈夫か?」
「分かりません」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「さっきから」
「……」
「知らない記憶が、少しだけ浮かんでくるんです」
「どんな?」
「誰かが泣いている」
「誰?」
「分かりません」
「他には?」
「王都」
「……」
「それから」
ミレイアは俺を見る。
「レオンさんが」
「俺が?」
「誰かに剣を向けています」
胸の奥が冷たくなった。
「誰に?」
「分かりません」
ミレイアは目を閉じる。
「でも」
「……」
「すごく悲しいです」
俺は何も言えなかった。
そのとき。
中央の黒い柱が。
ゆっくりと光り始めた。
無数の鏡が。
一斉に俺たちを映す。
そして。
全ての鏡に。
同じ文字が浮かび上がった。
『選択開始』
セレナが息を呑む。
「始まった……」
ルナが剣を構える。
「何が来る?」
アルベルトが答える。
「分からない」
俺は苦笑した。
「今日はそればっかりだな」
「だが」
アルベルトが続ける。
「一つだけ分かる」
「何だ?」
「この場所にいる限り」
アルベルトは鏡を見る。
「私たちは、向こう側から干渉を受ける」
「つまり?」
「向こうの世界が、こちらを選ぼうとしている」
「どうやって?」
その瞬間。
鏡の一枚が。
こちら側へ飛び出した。
ガラスではない。
黒い影だった。
人の形をしている。
「敵!」
ルナが叫ぶ。
剣を振る。
だが。
影は剣をすり抜けた。
「なっ……!」
影がルナへ手を伸ばす。
俺は反射的に能力を発動した。
「反射!」
光が弾ける。
影が吹き飛ぶ。
だが。
消えない。
床を滑った影が。
ゆっくり立ち上がる。
「……効いてない?」
俺は構える。
影は。
俺の顔をしていた。
「……」
俺自身。
だが。
目だけが。
真っ黒だった。
『返して』
「何を?」
『俺の世界を』
「……」
『お前が持っている』
「俺が?」
『そうだ』
影が笑う。
『お前が選んだせいで、俺たちは残された』
「違う」
『何が違う?』
「俺は何も選んでない」
『選んだ』
影が一歩近づく。
『生まれた時点で』
俺の心臓が跳ねた。
『お前は、この世界を選んだ』
「……」
『だから俺たちの世界は捨てられた』
影が腕を伸ばす。
『返せ』
俺は拳を握った。
「知らない」
『なら』
影の口元が歪む。
『奪う』
影が飛びかかってくる。
俺は反射を発動した。
だが。
今度は。
影が俺の能力を反射した。
「……!」
俺の身体が吹き飛ばされる。
「レオン!」
ミレイアの声。
背中から壁へ叩きつけられる。
肺の空気が抜ける。
「ぐっ……」
立ち上がろうとした。
影が迫ってくる。
その瞬間。
ミレイアが前へ出た。
「来ないで!」
魔法陣が展開する。
炎が影を包む。
影が後退した。
『……器』
「え?」
『まだ目覚めていない』
影がミレイアを見る。
『なら、今は殺さない』
「……!」
影が鏡へ戻っていく。
俺は立ち上がった。
「待て!」
追いかけようとした。
だが。
鏡が閉じる。
その直前。
『四日後に』
声が響いた。
『お前たちは、どちらの世界を残すか決める』
鏡が消えた。
静寂が戻る。
「……」
誰も動かなかった。
俺はミレイアを見る。
彼女はまだ魔法陣を維持したままだった。
「ミレイア」
「はい」
「今の影」
「……はい」
「お前を『器』って呼んだ」
「そうですね」
「どういう意味だ?」
「分かりません」
ミレイアは俯いた。
「でも」
「……」
「少しだけ、分かる気がします」
彼女が自分の胸に手を当てる。
「私の中に」
小さく息を吸う。
「私じゃない誰かがいる」
俺は黙った。
「怖いです」
「……」
「でも」
ミレイアが俺を見る。
「それでも、私は私です」
その言葉に。
俺は少しだけ安心した。
「そうだな」
「はい」
アルベルトが中央の柱へ近づいた。
「急ぐ必要がある」
「四日しかないからか?」
「それもある」
「他に?」
アルベルトは柱に刻まれた文字を見る。
そして。
「門が完全に開く前に、向こう側との接続を断つ必要がある」
「できるのか?」
「分からない」
「……」
「だが」
アルベルトが俺を見る。
「方法は一つある」
「何だ?」
「反射だ」
俺は自分の手を見る。
「俺の?」
「ああ」
「どう使う?」
「それを調べる」
「今から?」
「今からだ」
アルベルトは歩き出す。
俺たちも続いた。
巨大な門の内部には。
まだ俺たちが知らないものがいくつも存在していた。
無数の鏡。
古い文字。
見たことのない魔法陣。
そして。
それぞれの鏡の中に存在する。
選ばれなかった世界。
俺はその一つを見た。
そこには。
穏やかな村があった。
別の鏡には。
海に沈んだ都市。
また別の鏡には。
空に浮かぶ王都。
どれも。
現実なのか。
ただの可能性なのか。
分からない。
けれど。
確かに存在している。
少なくとも。
俺にはそう見えた。
そして。
その中の一つに。
俺は見覚えのある姿を見つけた。
リゼリア。
彼女は。
一人で立っていた。
こちらを見ている。
俺は足を止めた。
鏡の中のリゼリアも。
同時に足を止めた。
「……」
声は聞こえない。
それでも。
彼女の口が動いた。
何と言ったのか。
分からない。
ただ。
最後に。
彼女は笑った。
悲しそうに。
けれど。
どこか嬉しそうに。
そして。
鏡が暗くなる。
「レオン?」
ミレイアの声がした。
「ああ」
俺は振り返る。
「行こう」
「はい」
歩き出す。
そのとき。
背後で。
一枚の鏡が。
ほんの少しだけ光った。
俺は振り返らなかった。
だから。
気づかなかった。
その鏡の中で。
一人の男が。
こちらを見ながら。
静かに口を開いていたことに。
『次は、ミレイアを選ばせる』
その声は。
誰にも届かなかった。
王都の地下深く。
無数の鏡が。
静かに輝き始める。
そして。
その一つ一つに。
異なる世界が映り始めた。
世界。
リゼリア。
レオン。
ミレイア。
セレナ。
ルナ。
アルベルト。
今まで選択肢として存在していなかったものまで。
鏡の中へ現れていく。
まるで。
世界そのものが。
新しい選択肢を作り始めているかのように。
俺はまだ知らない。
四日後。
門が開くことよりも。
その前に。
俺たち自身が。
選択される側になることを。
そして。
選ばれなかった世界の中には。
俺たちが知らない「レオン」だけではなく。
俺たちがまだ出会っていない。
もう一人の存在がいることを。
その存在が。
すでに。
こちらの世界を見つめていることを。




