黄金より
陽が暮れたカイロの街を車は過ぎていく。
目的の地へ進むほどに、世界は夜に飲み込まれる。
時折街灯が前から後ろへ過ぎていき、こちらを照らしては過ぎていった。
その光と闇が車の窓ガラスを通して自分の上へ交互に落ちてくるほどに、多くの映像のようなものが自分の脳裏を横切る。それはすべて今まで夢に出てきたものと瓜二つであり、夢よりもはっきりと映し出されていた。
夢から醒めた時には思い出せなかった、夢に出てくる人物たちの顔が次から次へと明確に映り、流れて過ぎる。
笑っていたり、ぶっきらぼうだったり、泣いていたり、困ったような顔をしていたり。
儚い彼らの姿は、泣きたくなるほどの懐かしさに溢れていた。
──ああ。
これは記憶だ。
あの夢は、今自分の中に流れていく映像は、記憶だったのだ。
記憶であればそれは誰のものなのか──あれは、自分の記憶。
さらに突き詰めるのであれば、おそらく自分の中にいるであろう、あの男の。
あの男は自分そのものなのだ。
そこで初めて、車内で顔を上げた。
理屈など分からない。そうとしか考えられない自分がいた。
得体が知れず恐怖を覚えていたものたちが、突然まるで自分自身の大切なものであったことに気付いた。
アマルナへ踏み入れれば、きっと分かるはずだ。もっと、何かが。
祈るように、再び頭を抱えて身を小さくした。
何時間そうしていたのか、ついに車が停まった。目的地に着いたのだ。
視線をあげて見た窓からは案内板を照らす照明の明かりすら見えない。
今、何時なのだろう。
「お客さん、着きましたけどこんなところで何するんです?もう深夜で遺跡見学も何もやってないですよ」
ここがアマルナ。夜というだけで、以前訪れた時の印象とは大分変わっていた。
「帰りは大丈夫ですか?用事が済むまで待ってましょうか」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」
地元の人間が心配するほどなのだから、きっと帰りには困るのだろう。
だが、自分の目的が何であるのか明確ではなく、自分の用事もどれだけ時間が掛かるものなのかも想像がつかなかった。待たせるのは悪い。
提示された金額を払って、どこか心配そうな表情を浮かべる運転手に礼を言ってタクシーを降りた。
タクシーは大きめのエンジン音を立てて、少しの砂埃を巻き立てながら走り出し、やがては見えなくなった。
そうして這うような静けさがやってくる。
改めてアマルナの地を眺めた。夜風が吹き流れていき、この土地の物悲しさが露わになる。暗闇の中に僅かな灯りが見えるが、夜に飲み込まれて意味を成さない。
何度か呼吸を繰り返して目を閉じた。
自分はここに何を求めてきたのか。
一体、何を。
そのまま一歩、砂漠の地に足を踏み出した瞬間、全身に風を感じた。
瞼の内に黄金の風が吹き荒れ、鼓膜を揺るがし、澱む霧を吹き流す。
光り輝く中に、見えるものがあった。あらゆる記憶と共に、あらゆる想い、そしてこちらに笑いかける掛け替えのない存在。
神々しい太陽に照らされた黄金の砂漠。風と共にその香りを運び、夏には豊穣な土を運ぶ、空のように青いナイル。偉大な父、共に育った兄姉たち、私を守り、支え続けてくれた者たち。
沢山の顔が見えた。もう二度と踏み入れることができない遥か遠い場所で共に生きた人々。
父が定めた唯一の神のための地。古から続く緑溢れる都。そして我が命絶えた神々の地。
悲しみや怒り、喜びや幸福。
我が子を二度にわたり失い、病に伏しながら遺していかねばならない最愛の妻の未来を案じた最期。
今はもう手が届くことはないと分かっていながら、短くも溢れんばかりの幸せに満ちたあの頃が愛おしく、自分にとってかけがえのないものだったと追慕せずにはいられない。
夜の中で震えた。
幾千のように光り輝く遠い記憶たち。
その淡い金色の螺旋の先に、美しく微笑む女性がいた──。
ヒロコ。
また、名が落ちてくる。
彼女の名は、自分の最愛の人の名は、ヒロコ。
「……弘子」
初めて口から奏でたはずの彼女の名は、思っていたよりもすんなりと音となった。
同時に溢れてくるこの感情は何だろう。
「……弘」
泣いてしまいそうだ。あまりに苦しい。
夢の中にいた彼女の姿が浮かんだ。
黒髪の、青い中にいる、彼女。
「弘子」
喉の奥から出る声に名前が乗る。
砂と共に夜風に乗って響く。
『──誰?』
応えた。
彼女が、こちらの声に応えたのだ。
そうと分かったら、目頭が熱を持った。
ひどく懐かしい声だった。この声を、俺はずっと待っていた。
彼女がいるのだ、このどこかに。
彼女を呼び続けなければ。
「弘子」
応えて欲しい。
もう一度、その声を聞かせてほしい。
足を動かして、夜の闇の中に彼女を探した。
『──誰?』
ノイズの向こうからまた返答があった。
明らかに自分に向けられた問いかけだった。
『──あなたは誰!』
自分は誰であるのか。
俺は──。私は──。
たったひとつの答えが、自分の中に落ちてきた。
突然夜が弾けたのを見た。
光が空に飛び散り、黄金の砂が舞い上がって、金色の突風が吹き荒れた。
両腕で顔を庇いながら頭上を仰ぐと黄金の渦がそこにあった。
冷たい夜風の中に、暖かさが爆ぜ、今まであった不透明な微睡みがすべて洗い流される。息が止まるほどの黄金の風が吹き荒れ、俺は目を細めた。
黄金の中に何かがいた。
目映い光を瞼と手でどうにか遮り、光の奥を見ようとする。
人だ。
人が、こちらに落ちてきている。
長い黒髪の、女性。
女性が、こちらに引き寄せられるかのように落ちてくる。
──彼女だ。
会いたいと心から望んだ、彼女だ。
風に抗って震える腕を虚空に広げた。胸一杯に息を吸い込む。
その瞬間、衝撃があった。
衝撃をそのまま胸に抱き留め、反動でそのまま地面に倒れながらも抱き留めたものを放すまいと力を込めた。
目を開けた時には頭上にあったはずの黄金の渦は跡形もなくなっていた。
何度か呼吸を繰り返す中で、自分の腕の中にも呼吸音があった。
──ああ。
時が止まったかのような錯覚を覚える。
科学的に説明のつかないことが起きていると分かりつつも、自然と受け入れている自分がいた。
怖いほどの鼓動が胸に鳴る。信じられない思いで、己が抱き留めた存在を覗いた。
長い髪を乱し、身を麻の衣で身を包んだ彼女は浅く息をしていた。顔に垂れた黒髪を払って現れた彼女の顔に、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。
ぐったりとして辛うじて開かれた瞼は今にも閉じられようとしていて、その黒い瞳にこちらの顔が映っているかどうかは定かではない。
唇が僅かに動いたが、そのまま気を失ったように深くひとつ呼吸を落として瞼を閉じた。
知っている。
自分は知っている。
その髪も、瞳も、眉も鼻も、口元も何もかも。
身体が震えた。
夢で会った光景が現実のように脳裏に蘇り、他人事のように眺めていた物事が、自分の身に起こったこととして押し寄せる。
彼女は、『弘子』だ。
腕の中にいた彼女は、夢で自分が愛した彼女だ。
遙か昔に、自分が愛した、たった一人の女性。
深く息を吐いて、彼女を胸に抱き込んだ。
暖かさがある。呼吸が聞こえる。
彼女が今ここに生きて存在していることが、何よりも嬉しかった。
そして、これから彼女が歩むであろう未来を想った。
「──君は、覚えているだろうか」
そう呟いた自分の頬に流れていったのは一縷の涙だった。
彼女に会えて、自分は本当の意味で自分になったのだ。
「私は覚えている」
すべて覚えている。
3300年の時が経った今も。
この時を待ち侘びていた。きっと、生まれるずっと前から。
涙が止まらなかった。
砂漠に座り込んで彼女を抱き締めたまま顔を上げたら、淡く白さを湛えた空と砂漠の地平線から荘厳な光がゆっくりと姿を現している。
夜の終わりが見えていた。
太陽だ。太陽が昇る。
地平線から神が姿を現したのだ。永遠の象徴が。
自然と朝陽に手が伸びた。
「……我が、太陽と砂漠の国よ」
かざした手の指の間から、白に限りなく近い金色の光が漏れてこちらを照らした。




