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記憶に君を。~悠久なる君へ外伝~  作者: 雛子
3章

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21/22

博物館

 カイロに帰ってからは、あの旅行に行ったこと自体が夢であったかのように日常を取り戻していた。

 背の高い本棚に囲まれた部屋には無機質なディスクが並び、その上には資料や論文、コピー用紙が隣のディスクにはみでるほど散乱している。

 ディスクごとに一台ずつ置かれたパソコンには、統計ソフトやら入力途中の論文やらが画面に映し出され、あたりでは同僚たちが実験室とこの部屋を行き来したり、研究から出てきたデータが何故か予想外の方向に出て頭を抱えていたり、本棚から過去の論文を探していたりする。

 これが何ら変わらないいつもの光景。決して居心地の良いものではないが、今の自分にとっては日常的な安堵できる環境だ。

 自分もそろそろ実験室へ向かわなければならない。インターンの身であるから指示されていくタスクを熟していくのが基本的な役目だ。空いた時間に自分の研究が出来る。

 目の前のパソコンを一度スリープ状態にして、ディスク上の書類を簡単に整理し、実験データが入ったUSBを白衣のポケットに突っ込んで研究室を後にした。


 無機質な廊下に自分の足音が響く。そういう瞬間、夢のようにも思えるあの旅行のことを嫌でも思い出す。

 実に不思議な体験ではあったが、今回は予定を詰め込みすぎたこともあり、今思えばやはり疲れが堪っていたのかも知れない。

 もう観光は十分だろうと思っていたのだが、先日の旅行の話をした1人の同僚に、「それだけ回ってまだカイロ博物館に行っていないのか」と驚かれた。混んでいる場所が好きではないと答えたら、混んでいても行く価値があると力説され、結局は次の休みに行ってみると約束してしまった。

 必ず感想を教えてくれと強く言われては行くしかない。

 もともと行くつもりはあったのだ。何せ世界的にも有名な博物館だ。人混みを避けたいがために、ただタイミングを逃していただけで。


 休日、比較的空いている夕方あたりを狙って、エジプト考古学博物館へ向かった。

 歴代のファラオたちの遺物が収蔵されている、あまりにも有名な博物館。

 ミイラ室もあり、かの有名なラムセス2世のミイラもここで眠っているという。

 広い館内に加え、展示物が恐ろしく多く、じっくり見るとなると何日あっても足りないらしい。

 今日一日だけ、それも日暮れが近いこの時間ではすべて見るのは無理だろうと最初から諦めての入館だった。それでだって、閉館が18時45分と書いてあるから、まだ1時間半ほどある。

 入館料は60エジプトポンド。学生であれば半額らしいが、生憎学生証は持ち合わせていなかった。


 所持品チェックから金属探知機のゲートなど厳重なセキュリティをパスして入館する。

 入るなり、ほう、と息を吐いた。想像していたよりも広そうだ。

 入口付近にあったパンフレットを取って、ざっと館内の地図を確認する。建物自体は2階建てで、ぐるりと取り囲むように展示室が並んでおり、中心部は吹き抜けになっている。大きめの所蔵品からざっと見つつ、まずは1階を眺めて回ることにした。

 古い建物だ。テレビで特集されるような有名な遺物が、規制もなくどんと置かれている。

 館内マップによれば、1階は時代別の展示で、時計回りで見て回れば、古王国、中王国、新王国と時代に沿って見学できるとのことだ。

 来世を現世の延長として捉えていた古代エジプト人にとって、埋葬に伴う副葬品は常に来世における日々の生活に役立つためのものであったため、金銀財宝だけではなく、家具や食べ物、化粧道具などの日用品も一緒に墓に埋葬したらしい。

 日用品や食べ物が途切れないように、農業や漁業の様子を壁画に描いたり、パン職人の模型などを副葬品で埋葬したりしたそうだ。

 これらを眺めていると、古代エジプト人たちの実際の生活を知ることができる。

 数千年前に生きた人々をこんなにも生き生きと感じられる。歴史も面白いものだと感心しながら、目が回るほどに溢れる展示品を眺めて回った。

 ガイドがいたらもっと面白いのだろう。次来るときは、あれだけ熱心に魅力を語ってくれた同僚に案内でも頼もうか。

 そんなことを考えながら2階へ上がってみると、最初にミイラ室を見つけた。追加料金を払っての見学になるらしいが、まだ観光客に溢れていて、次回にしようと引き返した。

 次に目についたのは、ある王のために存在している展示室だった。

 ──ツタンカーメン。

 その名が妙に引っかかるのは、先日の王家の谷でのことがあったからだろうか。

 それとも夢に出てきている存在ではないかと弟に言われたからだろうか。

 恐怖に似た感覚がありながら、惹かれるような気持ちもある。

 自分が分からない。言葉にしがたい感情だった。


 気付けば閉館時間まで残り30分を切っていた。

 他の展示を見る選択肢もあったのに、時間がないと知るや否や、自分の足先は自然とツタンカーメン王の展示室に向いた。

 45号通路と呼ばれる部屋から見ていく。やはりこの展示エリアは閉館間際であっても人が多かった。さすがはこの博物館の目玉と呼ばれるだけはある。


 ツタンカーメンは歴史に記録されているどの王よりも短命であったが、盗掘を免れた王墓からは驚くほどの埋葬品の数々が発見された。

 王自身は有名ではない。功績が記録に残っていないからだ。

 彼を有名にしたのは彼の王墓から出てきたものたちなのだ。


 目映いばかりの黄金。埋葬室に灯りを持ち込めば、反射した黄金の眩しさに目を細めずにはいられなかったと言う。

 そのどれもが、まるで三千年以上の時を感じさせないほどの保存状態を保ち、今を生きる自分の前に次から次へと現れる。

 古代人たちはこれらをどのように作ったのか。

 どこからこれほどまでの金を集めることが出来たのか。

 古代にここまでの加工技術があったのか。

 黄金とは、これほどまでに輝きを失わないものなのか。

 幾度となくテレビや本で見てきたものたちを実際に目の当たりにすると、その荘厳な美しさに圧倒される。


 そして最後の最後に姿を現す、ツタンカーメンの黄金のマスク。

 自分の目線より高い位置に、ガラスの囲まれたそれは鎮座していた。

 展示室の入口辺りに呆然と立ち尽くして、俺はそれを眺めている。

 近寄りがたい雰囲気を纏った、王者の威厳そのものが、その仮面のあたりを取り巻いている気がした。


 そうだ。

 母と幼い自分はここにいたのだ。

 父と弟から離れ、母はどこへいったのかと探していて、これを見ている母の後ろ姿を見つけた。

 母は俺を認めるなり、「一緒に見る?」と尋ね、俺はそれに頷いた。

 この仮面を見た時、自分が何を思ったかは覚えていない。

 ただ、これを眺めていた母の横顔は記憶にある。その表情を、今これでもかと思い出すのだ。


「──覚えているか」


 回想を破って背後から声がした。玲瓏な響きを伴い、鼓膜を揺すぶる人の声。

 気付けば、まばらにいるはずの観光客たちは視界の中で影となって揺れていた。

 彼らの話し声は水中を通しているかのようにくぐもり、遠いところで鳴っているようで何を言っているのか分からない。であるのに、背後の声だけは恐ろしくはっきりと耳に届いたのだ。水中で声を発したように、まるで自分の内から鳴っているようでもあった。

 だが、その問いは確かに自分にかけられたものだという確信がある。


「──お前は、覚えているか」


 まただ。

 覚えている?何を。

 自分の声のようにも聞こえる。しかし自分は一言も発していない。


「──私は覚えている」


 嫌な汗が額に滲むのを感じ、歯を噛み締める。

 得体の知れない存在が背後にいるのだと、そう分かっていながら、意を決して振り返った。

 恐怖よりも何よりも、好奇心が勝った。

 振り返るだけのただひとつの動作で、今まで生きてきた世界が知らないものへと変わる気がした。


 振り返った先。

 自分と同じ顔がそこにいた。


 声は出なかった。

 言葉を失った自分は、相手をこれでもかと見返すことしかできないでいる。


 目の前に立つ彼は、明らかに他の観光客たちとは違っていた。服装も違うのだが、雰囲気と言うべきか、彼自身がこの世のものではないように見える。

 無理に言葉にするのなら、彼はとても儚かった。夢の中を揺蕩っているような。

 館内で風など吹くはずもないのに、彼の焦げ茶の髪は揺れているのだ。


 儚い中、相手はこれでもかと強い淡褐色の眼差しでこちらを捉え、挑むような表情で僅かに口角を上げていた。

 笑んでいながら、挑む表情しながら、そこに物悲しさを感じるのは何故なのか。

 不思議と恐怖はなかった。彼のことを知りたい気持ち方が勝った。

 なのに相手に誰であるのか尋ねられないでいる。

 彼は自分なのだと思ったからだ。自分ではないのに、自分である。不思議な感覚だった。

 互いに向かい合っている時間が永遠に感じた。傍を行く他の人間の影は、我々が見えていないかのように過ぎ去っていく。自分たちはきっと、世界の狭間のようなところにいて、彼らには見えていないのだと思った。


「──思い出せ」


 声と共に、時は動き出す。

 ふっと、彼の褐色の手がこちらへ伸びた。

 視界が彼の手一色になる。頭を鷲掴みしようとしているのだと知った。

 拒む余地無いままに彼の指先が自分の額に触れたと思ったら、その指先が自分の中へ消えていくのを見た。

 指から腕へ、どんどん相手の顔が近づき、そうして自分が彼を飲み込んでいるのだと知った。

 遠い過去、どこかで落としてきたものに再会し、己の中に吸収するような。


 自分の胸に、一際大きな鼓動を聞く。

 同時に身を隠していたはずの恐怖が体内で爆発した。

 ようやく体が動いて、彼を避けようと後退った時、後ろにいた何かにぶつかって視界が揺れた。


「兄ちゃん、大丈夫か?」


 声に顔を上げたら、世界が元に戻っていた。

 自分がぶつかったのは、警備員の姿をした中年の男性だったらしい。俺の肩を支えて怪訝そうにこちらを覗き込んでいる。

 いや、それよりも。

 急いで彼がいた方向へ視線を向けたが、先程まで彼がいたところには誰もおらず、黄金のマスクだけが遠くを見つめている。

 その目に誰も映すことなく、孤独とも言える雰囲気を纏って、展示室の中央に置かれている。

 また、夢でも見ていたか。空耳と言い今回のことと言い、最近の自分は何だか変だ。

 荒い呼吸音だけが体全体に響いている。うるさいほどに。


「本当に大丈夫か?」

「……すみません、何でも無いんです」


 額を抑えて、男性にぶつかったことを謝罪した。


「顔色が悪い。救護室に案内しようか」

「いいえ、大丈夫です」


 数度首を横に振って断ったが、男性は訝しげにこちらを見ている。


「ならいいんだが……」


 腑に落ちないと言った表情だが、彼はそれだけ呟いて意味深にマスクを眺めた。

 そんなに心配されるほど、自分の顔色は悪いのか。


「いやあ、ここで叫んだ子がいたんだよ。丁度1年くらい前の話だ」


 少し笑いながらそう言った相手に聞き返すと、彼はゆっくりとこちらに視線を向けた。


「日本人の女の子だよ。その後に行方不明になったって父親が騒いでたけどな。あれからどうなったんだか……まあ、あんたにゃ関係の無い話だな」

「……はあ」

「やっぱりファラオの呪いってあるのかもなあ」


 冗談気味に彼は笑う。


「気を付けて帰れよ」


 じゃあな、と手をひらひらさせて去って行く彼の背中を見送った。


 閉館時間を迎えた博物館の外へ出た。夜のエジプトは昼間からは想像つかないほどに冷える。その冷気に身震いしながらも、俺は呆然とライトアップされた博物館の外観を眺めていた。

 博物館を後にする観光客たちの中で、自分だけが博物館に向かって立ち竦んでいる。

 何だか足が重く、動かせないでいた。夕飯の時間も過ぎたというのに、不思議と空腹感はない。博物館の見学を終えたら帰路につく予定だったのだが、その気持ちも半ば薄れている。

 ならば自分はここに突っ立って一体何がしたいのか。


──思い出せ。


 あの亡霊のような男の言葉が、脳内に響いた。

 紛れもなく自分に向けられた言葉だ。


 思い出す。だが何を。

 何を、思い出せば良いのだろう。


 ぐっと瞼を閉じた。閉じた瞼の裏の暗闇に、あの男の顔が浮かんだ。

 自分の顔立ちによく似た褐色の肌の男。その薄い唇がゆっくりと闇の中で動く。


──弘子。


 彼の声で紡がれた、聞き慣れない短い単語。誰かの名前なのだと何故か直感する。

 ヒロコ。

 脳内で繰り返したら、ざわりと肌が沸き立った。何故だかは分からない。

 行かなければと、ここで初めて足が動いた。


 どこへ──アマルナへ。


 尋ねれば、自分の中に答えがあった。

 あの土地へ、行かなければ。


 バスや飛行機に今の時間から乗って行けるか。いや、今から調べるよりもタクシーの方が確実か。突っ立っていただけの足が、タクシーを探し出すために動き出した。

 何故今アマルナなのかは分からなかった。ただただそこへ行かなければと何かが急き立てて仕方が無い。

 今までも同じような感覚があったが、これほどまでに衝動が湧いたことはなかった。

 自分のものとは思えない足の軽さだ。どこまでも行ける気がするほどに。

 道路に出て、近くで客待ちをしていた観光客向けのタクシーの窓を叩いた。

 今からアマルナに行きたいことを告げると運転手に驚かれ、1台目は断られたが、2台目の運転手は「金が払えるなら」と了承してくれた。

 礼を言ってタクシーに乗り込み、両膝に両肘をつけて蹲るような姿勢でエンジン音が大きく響くのを聞いていた。



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