ノイズ
変わらず、休日は観光に費やすことをした。
自分がこんなにも様々なところに出向くのは珍しい気もしたが、どこかに行かなければ気が済まなかった。まるで何かを探しているように。
それでいても、どうしたって混雑している場所に行く気にはなれなかったため、人気のある場所には夕方の閉まる間際に回ることにした。
折角エジプトに来たのだ。有名な観光地は回るべきだろう。
まず、ギザの三大ピラミッドのうち、クフ王のものを選んだ。理由は一番大きいからという単純な理由だ。
入場料は100エジプトポンド。午前午後150人ずつの合計300人限定で、定員に達するとチケット売り場が閉まるに加え、ピークシーズンだと旅行会社がチケットを買い占めてしまうため、三度目の挑戦でようやく入ることが出来た。
世界遺産の代名詞とも言える巨大遺跡を目の前にすると、そのあまりの大きさに圧倒され、いざ中に入ればその構造の精密さに驚き、加えて想像以上に暑く、王の間に関しては汗臭さに思わず顔を顰めた。
その他にサッカラの階段ピラミッドや、メンフィス博物館のラムセス2世像、少し北へ赴いてアレキサンドリアを回り、連休があれば少し南に足を伸ばして、アマルナとルクソールに泊まりがけで行った。
時間が惜しかったこともあり、カイロからルクソールへの道のりは飛行機を選択した。ホテルに滞在しながら、ホルス神殿、ルクソール神殿、カルナック神殿、ハトシェプスト葬祭殿、アマルナを何となく散歩しながら回っていく。
実際に回るとかなりのハードスケジュールだ。
アマルナの地は、その閑散とした光景に物寂しさを感じながら歩いていたものの、誰かを探しているらしいアジア人の青年を見掛け、無性にそれが気になった。
観光をしている訳ではないらしい。誰かの名だと思われる単語を回りに呼びかけている。連れとはぐれたのだろうか。
自分には関係の無いことなのだが、ほんの一瞬擦れ違ったその光景と声が無性に記憶に残った。
自分と同じように、彼も何かを探しているのだと感じたからかもしれない。
そして滞在最後に訪れた場所が王家の谷だった。見たこともない空の色、見たこともない河の色。見たこともない砂の地を越えて、自分の知らない世界を知る人々に出会う。
一人での旅は楽しかった。自分の気の向くままいつどこへでも行ける。
自分の足が行けるところならば、どこまでも行ってみたい。すべてを知りたい。
知らないことや見たことのないものが、この世界にはこれほどまでに溢れているのだ。
なんて自分はちっぽけな存在だろう。
数千年前から存在する遺跡を巡っていく中で、何かが自分の中で目覚めていく感覚が拭えない。
そうやって期待を抱いて訪れた王家の谷だが、エジプト屈指の観光名所であるそこは昼を過ぎても物凄い混みようだった。
入口のビジターセンター中に入って、市場のような土産物屋が並ぶ道を通り過ぎ、簡単な解説映像やジオラマを眺めつつ、チケット購入の列に並ぶ。
事前に調べた情報によれば、チケットを購入すればツタンカーメン王墓、ラムセス6世王墓、セティ1世王墓以外であれば三カ所まで自由に入れるらしい。
追加料金が必要であるツタンカーメン王墓、ラムセス6世王墓、セティ1世王墓の方が大分高いが、その分空いているという。
セティ1世王墓は現在修復中で見学不可との知らせも貼ってあった。
当分エジプトにいるだろうから、今回は空いている王墓を回ろうと少々値の張る二つの王墓のチケットを購入した。
まずはラムセス6世の王墓へ向かった。
ツタンカーメン王墓KV62の隣に位置し、KV9と記されている。
ラムセス6世は第20王朝の人物であり、王朝史として俯瞰すると衰退期に当たるファラオだという。
通路から広間にかけて真っ直ぐ道が続き、神々と王の姿などが「洞窟の書」などとして、太陽と生命そのものの創造を含む、天と地の起源の物語が描かれ、その美術的価値の高さに驚いた。頭上に広がる極彩色の壁画は圧巻だ。これが追加料金の理由かと納得した。
壁画を眺めつつ進み、修復された大きな石棺がある玄室まで歩いて、そこからUターンして入口方向へ戻っていく。
ゆっくり見て1時間くらいだっただろうか。時計を見れば、すでに15時を過ぎていた。想像以上に時間を使っていたらしい。
基本的に王墓の見学は17時までだ。
ツタンカーメン王墓も同じくらい広かったら回りきれないと慌てて隣の王墓に向かった。
王墓の入口に向かう際に、強めの風が吹いて思わず足を止めた。
黄金にも見える砂漠の砂が足元を踊り、目の前に吹き上がってきたのを見て、咄嗟に目を閉じれば、視界は黒に満たされた。
──王よ。
風に乗って、どこからか声が落ちてきた。
──我らの王よ。
音に成り切れない声が、風に乗って耳の傍を通り過ぎていく。
──お呼びになられないのですか。
自分に声かけられた気がして、はっと目を開けて周囲を見渡した。だが回りには誰もいない。砂が傍で舞い上がっているだけだ。
誰かがこちらに話しかけた訳ではないらしい。空耳だったかと後頭部をかきつつ、衣服についていた砂を手で払って、王墓入口に向かって足を踏み出した。
発掘至上の奇跡とまで言われた未盗掘の王墓。
弟が俺の夢の話を聞いて、この王の話ではないかと出してくれた名──ツタンカーメン。
ざっくりとした解説によれば、第18王朝の年若き王で、その寿命も短かったという。
エジプトで最も繁栄していた時代を治めていたにも関わらず、ハワード・カーターに発見されるまで、名前すら忘れられた存在だった。
彼の死因には諸説あるようだ。
入口の鉄格子のような門をすぎれば、右手に手すりと共に階段が地下へと続いている。そこまで深くはなさそうだ。
──王妃!行け!
まただ。砂嵐の奥から響くような、ノイズのような音。
頭痛がする気がして額に手を当てる。
周囲の観光客にこの音が聞こえている素振りはない。疲れからの空耳だろうか。
それにしては現実味を帯びた、悲痛な声だ。
──出来ない!駄目、駄目よ!
気にすることはない。
音を振り切って、手摺を掴み、階段を降り始めた。
入口から始まる14mほどの通路が目の前に伸びている。
王家の谷には入口から玄室までが100m以上ある大型の墓がいくつもある中で、2000点近くの副葬品を納めた墓にしては非常に小規模に思えた。
──未来へ!帰れ!!
頭痛が一層酷くなる。王墓内に進んでいくほどに悪化している気がした。
脳のあらゆる血管が、まるで心臓そのものになったかのように脈打っている。
嫌な汗が額から顎先に流れた。
──私を呼んで!!
呼ぶ。誰を。
女性の声だが、知らない声だ。
──アンク!!
誰かの名。
それを聞いた途端堪らなくなって、前室に着く前に出入り口へ急いで戻った。
我武者羅に飛び出した王墓の外は日暮れに近い光景だった。
何度も呼吸を繰り返し、手で汗を拭う。ここを離れなければと思った。
王墓とあのノイズが関係しているかは分からない。
ただ、夢の中の光景を現わしているものでもないようだった。
王墓から離れ、近くの小さな売店で水分を購入し、ベンチに腰を掛けて呼吸が落ち着くのを待った。
しばらくそうして、何度も先程の出来事を反芻する。
ただの空耳だとして、何故そこまで自分が動揺したのか分からなかった。
生活環境が大きく変わって落ち着いてきたとは言え、きっとここで疲れが出たのだ。ストレスだ。そうであるに違いない。
陽が傾いていくのをぼんやりと眺めていた。
辺りは暗がりが世界の半分を支配し、茜色の太陽が谷の向こう側に隠れようとしていた。
時計を見ればもう17時を過ぎている。
王墓も、王家の谷自体も閉まる。そろそろ帰らなければ。いや、でも──。
ベンチから立ち上がり、KV62をもう一度眺めた。
砂嵐の季節でもないのに、風が吹く度に砂がオーロラのように舞っている。
後ろ髪を引かれるようなこの気持ちは何だろうか。あの王墓の中に何かがあるような気がしてならない。自分に今足りない、探している何かが。
そもそも声は、「呼べ」と言っていたのだ。だが、呼ぶべき相手が分からない。
俺は一体、誰を呼ばなければならないのか。
途方に暮れていると、一人の男がこちらを見ているのに気づいた。
砂嵐で視界が霞む。
目を凝らしてみて、東洋の、アジア人だと分かる。
彼を追いかけるようにエジプト人の若い女性が彼の背後からやってきた。
自分と同い年ほどの青年と目がかち合った時、どこかで会ったことがあるような感覚に突如襲われた。
先日訪れたアマルナの地。誰かを探していた男性ではないか。
いや、アマルナよりずっと前。自分はどこかで彼と会っている。
同時に何かが自分の奥から競り上がってくるような恐怖感があった。
それに、飲み込まれる──。
早まる鼓動と共に、風が吹き上がった。
その瞬間、自分を飲み込もうとしているものから逃げるように出口へ踵を返した。
声が掛けられた気がしたが、砂嵐の中にノイズとなってそれは掻き消されていった。




