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記憶に君を。~悠久なる君へ外伝~  作者: 雛子
3章

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19/22

太陽

* * * * *


 イギリスを離れ、エジプトへやってきた今も夢は続いている。

 以前は恐ろしい光景の夢ばかり見ていたのだが、近頃はなにやら幸せなものが大半を占めていた。

 黒髪の女性がこちらに笑いかけている。顔は未だにはっきりと出てこない。

 ただ、夢の中の自分はその彼女に好意を抱いていながら、どうにもならないことにひどく苦しんでいるようであった。

 誇り高く、不器用で、自分の欲求や幸せを顧みず、ただただ国のためだけに生きてきた人間でもあった。

 そんな存在が、初めて自分のために彼女を欲した。ずっと傍にいて欲しい、自分から離れていくであろうことが張り裂けるくらいに辛い。束縛が過ぎると自分で分かっていながら止められないようだった。自分の欲求が溢れんばかりにあるのに、彼女のことが大事で右往左往している。彼女がいなくなった後のことを考えては落ち込み、彼女と出会う前の自分がどう過ごしていたのか思い出せないでいる。

 その彼女は、どこかに帰る場所があるようだった。それがどこかは分からない。

 思い出せなかった。






 エジプトの地を踏みしめるのは、幼い頃に連れて来てもらった時以来だ。

 母の後ろ姿を追っていたことしか覚えていないため、何もかもが新鮮に映った。

 カイロから見る世界最長のナイル川は想像以上に汚く、空は排気ガスにまみれて、星一つ見る事が出来ない。

 思った以上に都市だなと思っていると、イスラム教が主なこの国にはモスクがいくつかあり、想像していたエジプトの光景とはまた違ったトルコのような雰囲気を出す場所もある。

 昼間は人でごった返す雑多な市場も、夜はランプに照らされた幻想的な世界に変わり、観光客溢れる遺跡群は、遠くから眺めているだけでも今まで持っていたエジプトのイメージを凌駕するものがあった。


 エジプトに降り立った当初は施設から提供されたホテルに宿泊していたが、当然のことながらそこですれ違うのはほとんどが欧米人だった。

 職場とホテルの往復を繰り返し、観光客が大半を占める客層のホテルのロビーにいれば、自分がまるで母国に戻ってきたかのような錯覚を覚え、これは自分が求めていたエジプトでの生活だろうかと考え始めるまで、そこまで時間はかからなかった。

 一ヶ月が経ち、自分の給与と生活費もおおよそ分かってきたこともあって、施設に断りを入れ、新たに家賃の手頃なアパートを借りることにした。バス、トイレ付きのそれなりの一室だ。自分のような学生かぶれには丁度いいくらいだった。

 管理人が一階に住んでいるらしく、セキュリティの面を考えても良いように思えたのも決め手のひとつだ。

 エジプトでは、大きめなレストランであれば英語表記があり、ホテルなどの観光関係ならば英語が何となく通じるが、日常生活はアラビア語で成り立っているため、語学の勉強も欠かせなかった。

 今回の引越しも職場の同僚に手伝って貰って、どうにか成り立った契約だった。


 とにかく、エジプトはぼったくりが半端ない。完全に外国人を舐めている。

 一人での買い物だとなかなか値切りができず、不意に英語で話しかければアラビア語で話せと怒鳴られた。

 新しい仕事は研究で成り立ち、そこまで自由時間がある訳ではなかったため、最初のうちの休日は疲労で寝て一日を終えた。

 ただ、仕事は自分がやりたかった研究をすることが出来て、理想の場所であることには違いなかった。



 そしてエジプトへ来て二ヶ月が経った頃、以前より気持ちに余裕ができたこともあり、休日は観光に費やそうとようやく思いついた。

 世界遺産が多くあるこの国で、行く先々で話しかけてみれば語学の向上にも繋がるはずだ。何やら希望のようなものを抱いて、エジプトの町へ踏み出した。


 エジプト人の親睦は紅茶によって成り立っている。市場では紅茶が飲める質素な喫茶店がイギリスのバー並みに立ちならんでおり、そこに入って紅茶を頼んで飲んでいれば、自然と周りの男たちがどこから来たのかと話しかけてくる。不思議な国風だと思った。


 カイロのモスク周辺を散歩し、ギザの三大ピラミッドまで行き着いたものの、あまりの観光客の多さに入るのを諦めてしまった。この調子ではカイロ博物館の混雑も凄いのだろうと、遠くから眺めるだけに終わった。

 もともと人混みは得意ではないから、人気がない方へ足が向くのは仕方が無い。

 歩くのは嫌いではなかったから、とにかく足が伸ばせるところまで、時間が許す限り散歩した。

 そうした中で、観光客が少ない遺跡をなんの知識もないままに覗いてみた。名称は何となく読んだが、あまり頭に入ってこない。とりあえず世界遺産群の一部だ。

 よく時を越えて残ったものだと感嘆を漏らしながら、遺跡のひとつに歩み寄ると、前に出した爪先が何か柔らかいものに当たって思わず飛びのいた。

 足元に視線をやれば、遺跡の傍で腕枕をして寝転び、不機嫌そうに視線を上げている男がいた。

 あまりに驚いて言葉を失う。

 この男性は、おそらく昼寝をしていたのだ。

 しばらく口をあんぐりさせていたが、はっと我に返って咄嗟に謝ると、男は寝返りを打って背を向けた。

 周りを見渡して、遺跡の管理人はいないのかと探したものの、それらしき人物は見当たらない。まず他に人がいないのだ。

 確かにここはマイナーな小さい遺跡ではあるものの、れっきとした世界遺産だ。

 遺跡で昼寝ができるのだから、エジプトとは凄い国だ。


 遺跡で昼寝など考えたこともなく、初めて見た時は驚愕したが、様々な遺跡を訪れていくうちに、閑散とした遺跡にはそう言った地元の人々がかなりの確率でいることに気付いた。

 見慣れ始めれば、時折彼らの隣に座ってみて、話しかけたりすることもした。

 話を聞いていると、彼らは毎日とまでいかないものの、屋根の上で月の光を浴びながら寝ることもあるそうだ。自分なら考えもしない自由な発想に感心しながらも、それもまたいい、やってみたいと考えたりするのは楽しかった。

 そういった知らない世界を垣間見てから、次会えるかも分からない男性に「また」と別れを告げ、夕方には帰路につく。


 喫茶店で紅茶を飲んだあとに自分のアパートに戻ると、一階のエントランスが閉め切られていた。門限はなかったはずだというのに、どうしたものかと愕然とした。

 一階にいるはずの管理人に電話をしてみたが繋がらない。同じアパートに知り合いもいない。もう他に術がなかった。おそらく気まぐれで管理人が締め切ってしまったのだ。

 同僚からはそういうこともあるから気を付けろと言われていたのに、と肩を落としながらも、「今日は夜も外で過ごすのだ」と言っていた名も知らない中年男性を思い出し、食べ物をそこらで購入して、1時間歩いて彼のもとへ戻った。職場の同僚に泊めてもらうよう連絡してもよかったのだが、それをしなかったのはこれもまた好機だと思ったからだ。

 戻ってきた俺から事情を聞いた彼は腹を抱えて笑いながら、「仕方が無い、一緒に過ごそう」と迎えてくれた。


 昼間は気づかなかったが、男が寝ていた遺跡の近くには、砂漠の上に佇んでいるような小さな村があり、そこに男は住んでいるようだった。

 男は一度自分の家に行き、家畜として飼っているロバと牛を連れて戻ってきた。

 牛の黒い背にはゴザと毛布が積まれ、何故かアヒルも乗っている。今日寝転ぶ場所にいい草が生えていたから食べさせるのだそうだ。

 ゴザの上に毛布を敷いて、買ってきた細やかな食事を、男性が持っていた紅茶と一緒に胃に流し込む。

 道路が近くにないせいか、都市部から離れた場所のせいか、ここは星が見えた。決して多いわけではないが、見惚れるくらいには夜の闇に煌めきが散っている。

 夜の寒さに震えつつ、一段落して毛布に包まり、もう寝ようとする自分の傍で、ロバとアヒルと牛が一晩中むしゃむしゃ草を食べ続け、夜12時過ぎくらいから鶏が遠くで鳴き出すのを聞く。その中で男は大きないびきをかいて寝続けていた。

 寝心地は相当悪いが、こういう日もいいのだろう。笑えてくるほど賑やかな夜だった。


「あんたはあれだな、なんだかエジプト人って感じだな」


 夜明け近くになって隣に寝転ぶ男が言った。


「他のイギリス人とここで寝ながら喋ったことがある。でもそいつらはやっぱり外国人だった。でもあんたはちょっと違う気がする」

「それは祖父がエジプト人だったからかもしれませんね」


 不思議とこの国に馴染む自分がいるのは確かだ。

 懐かしささえ感じるのは、昔に来たことがあったからだろうか。


「そうだったのかあ」


 間の抜けた声が返ってくる。


「この肌の色は祖父譲りです。弟は違いますが俺だけこれを受け継ぎました」


 ふうん、と声を漏らしながら男は身体を起こした。こちらのことにはとことん興味は無いようだ。そんな様子にまた笑えてきてしまう。逆に潔くていい。


「ほら、見てみろ。太陽が出てきたぞ」


 そう言われて、自分ものっそりと身体を起こした。

 ゴザの上で横になっていた身体は節々が痛んだが、暁の爽やかな薄明が、星々のまどろみを東の空へ消し去っていく様子に息を飲んだ。


「太陽……」


 多くの人々がまだ眠りにつくこの時間、この世界が生きていることを知らしめる。


「綺麗だなあ。いつ見ても俺はこの光景が好きだよ。だから時々ここで寝るんだ」


 彼はへらへらと笑いながら自慢げに言った。

 今なら彼の気持ちがよく分かる。

 目の前に現れたのは、夜の闇を払拭する荘厳な光。昇り始めた太陽に醒まされるように、近くの村はその姿を、次第にくっきりと現していく。

 涼やかな風が側を通り過ぎ、髪を揺らす。それは眠気を攫っていくかのようだった。

 何度か呼吸を繰り返し、自分の鼓動が高鳴るのを聞く。


 ああ、と息を吐いた。

 暖かな陽光に、全身が震える気がした。

 何かが身体の奥底から溢れ出す。

 まるで、目覚めるように。


 長い歴史の中、人々を照らし続けてきたであろう、黄金の光。

 どうしてこの国で見る太陽はこれほどまでに違うのだろう。


 何よりも美しい。

 恐ろしいほどに、懐かしい。


 そうして眺めているうちに、涙が一筋落ちていった。



 ──私は、帰ってきたのだ。



 自分の奥底、誰かがそう、呟いた。




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