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記憶に君を。~悠久なる君へ外伝~  作者: 雛子
3章

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18/22

別れ

ヒロコは約束したとおり、絶えず私の傍にいた。

 無理強いして関係を持とうとした私に、変わらない笑顔を向けてくれる。

 共に過ごしている内に堪らず抱き寄せても、口付けても、彼女は困惑しながらも私を受け入れた。

 このままもとの時代に帰る方法が見つからなければ、いつか私を受け入れ、本当の意味での妻になってくれるかもしれない。そんな細やかな望みを描いてしまう自分に嫌悪を抱きながらも、想いを止めることはできなかった。


 仕草も表情も、声もぬくもりも、彼女の何もかもが愛おしかった。

 自分の腕の中にさえいてくれればいい。王家や国の煩わしいことを何も知ること無く、私だけにその笑顔を向けてくれていれば良い。

 自分だけが彼女に居場所を与えられるという優越感もあった。だからこそ守らなければと強く思った。彼女の事情を知り、彼女の出自を知り、己が彼女に与えた立場による危機を知り、それから守ることが出来るのも自分だけなのだと。


 これほどまでに自分が誰かに執着したことは今までになかった。

 幼少期から勇猛果敢と持て囃され、一国の王を気取っていても、今は彼女を失うことが何よりも怖い。

 自分は弱くなったのだと思った。それでいても、彼女が傍にいてくれるだけで、以前よりも世界が明るく見えたのに違いなかった。

 どんな危機が自分にあっても構わないが、彼女が傷つけられることだけはひどく恐ろしい。

 もし彼女がいなくなったら、自分はどうなるのか。それが考えられないほどに彼女の存在が大切だった。


 しかし、ヒロコはアテンからアメンへ神を戻す際に変更する私の名にひどく動揺した。

 私の名は、ヒロコの生まれた時代、つまり今から3300年前に存在し、その名に変えるということは私が早死にすることを意味するものだと泣きながら告げた。


「……もう、あなたの傍にはいられない」


 何故。


「私は、歴史を変えてしまうかも知れない……だから、私はあなたのもとにいられない」


 分からない。そんなもの、変えてしまえば良いのだ。何故それに抗おうとしない。

 遠い未来で生きるはずのお前が私のもとへ落ちてきたのは、神の為せる業であり、それを翻せということではないのか。


「私とあなたは所詮、古代人と未来人でしかなかった……絶対に、出逢うことのない関係だった」


 お前は、なんと悲しいことを言うのだろう。


「こんなに近くにいても触れ合っていても、私たちは離れている……本当の意味で触れ合えることは、決してない」


 悲しさやら怒りやらが溢れて止まらなくなる。

 この前の約束は何だったのだ。私の傍にいてくれるのではなかったのか。

 今まで向けてくれた笑顔とは打って変わって、彼女は嗚咽を漏らしながら私を突き放そうとする。


「……もし、私がこのままあなたの傍にいて、あなたが命を、その命を落とす時に、直面したら、私はきっと、あなたを救おうとしてしまう」


 何故、それが駄目なのかが分からない。

 どれだけ私が諭そうにも、ヒロコは頷かない。私を救うことはできないと私を拒絶し、涙を流すだけだった。

 共にいられない、遠くに行かせてくれと訴える彼女を、私は部屋に閉じ込めた。

 見張りをつけ、必要最低限出さぬよう侍女たちに命じた。

 会えば同じ問答を繰り返す。それが数日続いたある夜、強引にでもヒロコを妃の座に置くと本人に伝えた矢先、ヒロコが毒蛇に襲われた。


 寝台の上の彼女の右足に蛇がいた。当の本人は動転して動けないでいる。

 蛇が今にもヒロコの足を噛まんとする光景に、競り上がる焦燥と共に私は彼女に手を伸ばした。腰にあった短剣を引き抜き、ヒロコの足から引きはがした蛇の胴体に突き刺す。耳を貫くような蛇の声が響いた後に、夜の静寂が再び戻ってくる。聞こえるのは互いの荒い息づかいだけだ。


「……怪我は」


 身を小さくしているヒロコに尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。その返答にひどく安堵した。

 衛兵を呼び、寝具に蛇がいたのだろうとのことで、その調査を命じた。

 一段落しても彼女は蛇のいた足を擦っていた。感覚が残っているのだろう。

 再度死んだ蛇を眺める。まだ子供だろうが、ウアジェトの毒は強い。


「無事で、良かった」


 不意に言葉が落ちた。

 心からそう思う。彼女が噛まれていれば、彼女を失っていたかも知れない。

 片手で額を押さえる。焦燥が引き、安堵に満ちる。


「無事で、本当に……」


 視線を足元からあげると、彼女が眉を下げて私を見つめていた。

 また泣かれそうに感じて狼狽える。同時に愛しさが沸くものだから仕方が無い。

 先程まで激しく言い合いをしていたというのに、私の腕が彼女に向かって開けば、相手もそのまま私の胸に納まった。


「お前に何かあれば……どうしたら良いか分からぬ」


 本心だ。無事で良かった。

 髪を撫で、震える彼女の背を擦る。

 安堵に安堵が重なり、警戒心が一欠片も無くなったような状態になる。全身から力が抜け、自分の手元にだけ心地良いぬくもりがある。それが彼女のものであることに更に心が凪いだ。

 このまま眠ってしまいそうだ。

 ──と、不意に右腕に鋭い痛みが走った。

 彼女の髪を撫でていた手の動きが止まり、それを不自然に感じたらしい彼女が不思議そうにこちらを見た。

 何の痛みであるか、分かりたくない気持ちがあった。

 恐る恐る蛇の死体側にあった己の右腕に視線を動かす。


「アンク!!」


 悲鳴をあげたのはヒロコだった。

 死んだと思っていた蛇が頭だけを持ち上げて私の手首に近い部分に噛みついていた。

 反射的に蛇を自分の右腕から引き剥がし、突き刺していた短剣を引き抜いて、蛇の頭部に素早く突き刺した。血が飛び散り、今度こそ蛇はだらりと垂れ、息絶える。

 ヒロコが慌てて毒を吸い出そうとしたが、すでに身体が熱かった。

 動揺しているのか、毒のせいなのか、動悸がして視界をあっという間に歪ませる。

 朦朧としたまま、ヒロコの悲鳴を聞きつけた衛兵や侍女たち、セテムが駆け込んでくるのを感じていた。


 これで自分も死ぬのかと思った。

 蛇の解毒はできない。幼少の頃に教わったことだ。だから気をつけろと教えられてきた。

 侍医たちが寝台の周りで右往左往しているのを見る中に、ヒロコの姿を見つけた。


「ヒロコは、傍にいろ」


 自分のせいだと己を責めるヒロコを慰め、大丈夫だと笑って見せた。

 それでもヒロコは泣きそうな顔を崩さない。

 そんな顔をさせるつもりはなかった。このまま死ぬのなら、もっと楽しい話でもしていれば良かった。最後に交わした会話と言えば、くだらない問答ばかりだった。


 兄や姉との約束も、何も果たせていない。

 次の王もいないというのに。

 志半ばだ、何もかも。

 苦しさに目を閉じたら、兄や姉、そして父の顔までが浮かぶ。まだ合わせられる顔などないのに。


 その時だった。ヒロコがふらりと立ち上がり、あたりに何かを探し始めたのだ。


「姫様?いかがなさいました」


 ネチェルがヒロコを心配して声をかけた。

 だがヒロコは聞こえていないかのように、あちらこちらに視線を向けている。何かを探しているかのようだった。


「誰……?」


 ヒロコは何かに問いかけた。

 誰、とは何だ。ヒロコは何を探している。

 天井を仰ぎ、よろよろと彼女は歩を進め、私から離れていく。

 ただならぬ何かを感じるのは気のせいか。


「ヒロコ」


 掠れすぎてしまっているこの声は、彼女に届いてないらしかった。彼女の瞳は私を捉えようとしない。

 彼女には何かが聞こえているのだろうか。そう感じて耳を澄ませる。

 耳を突くのは、ネチェルの声と神官や侍医たちの声。皆の喧噪。


 ──いや。その他に一つ。

 音に鳴り切れてない何かがあった。


 何か。

 何だろうか、この異様な心地は──。


「誰なの?」


 ヒロコは誰に問うているのか。誰にその声を掛けているのか。

 あまりに切なげな声だ。その声に誰を見ているのか。


 ──駄目だ。

 本能と言うべき何かが自分を掻き立てる。


「ヒロコ」


 熱い身体を無理に起こしながら、彼女に手を伸ばした。


 そちらに行ってはいけない。行って欲しくない。戻ってこい。

 何故かは分からない。得体の知れない何かが彼女を呼んでいる気がした。

 求めているのだ。何かが。彼女を。


 すると、どこからともなく風が巻き起こった。

 嫌な予感がした。これは、ヒロコが私の上へ落ちてきたあのときと同じ感覚──。


「ヒロ……」

「あなたは誰……!」


 ヒロコが私を遮り、悲痛に誰かを呼んだ時だった。

 あたりが、闇に埋もれた世界から黄金の世界へ変わっていく。彼女の髪を吹き上げ、息が止まってしまうくらいの黄金の風が声を上げる間も与えず、彼女を包んだ。


 ネチェルが悲鳴をあげた。兵たちが騒ぎに部屋へ駆け込み、セテムやカーメス、ナルメルまでが身構える。

 突如強くなった、黄金の粒を煌めかせ舞う突風に、誰もが顔を覆った。


「……アンク!」


 彼女は黄金の中で私を呼んだ。己の状況をようやく飲み込んだように。

 彼女の手がこちらへ伸ばされる。身体を起こして、私も手を伸ばした。

 彼女は、連れて行かれる。得体の知れない何かに。


「ヒロコ!行くな!」


 伸ばした手は届かず、黄金は強く風を成して、私の前から跡形もなくヒロコを奪っていった。


 そうして何事もなかったかのように先程までの空間が戻ってくる。

 誰もが静まり返っていた。皆、先程のことを飲み込めないでいるようだった。自分もその例外ではなかった。

 先程までと何も変わらない──いや、ヒロコがいない。ヒロコだけが。


「……姫」


 最初に声を発したのは、カーメスだった。


「姫は、いずこに」

「姫様!!」


 カーメスの声を引き金に、セテムからネチェル、それに続いて他の者たちも騒ぎ始めた。


「探せ!姫君を探せ!!」


 彼女がどこへ行ったのか、連れて行かれたのか、私にだけは分かっていた。


 ヒロコは帰って行ったのだ。もとの世界に。

 我々が生きるこの時の中のどこにも彼女はいない。

 気怠さも息苦しさも越えて、ただ茫然と彼女が消えた場所を見つめていた。


 私のこの手は、届かなかった。


 ──ここに居る限り、あなたの傍に。


 そう言って微笑んでくれた唯一の人は最早いない。この世のどこにも。

 どこを探しても、名を呼んでも、決して巡り会えない。

 彼女と自分の間に流れている長い年月というものを、ここで初めて、苦しいくらいに思い知る。

 3300年。なんと遠い時間だろう。


 だが。

 これで、良かったのだ。


 もとの時代に帰ること。それが彼女の何よりの望みだったのだから。


「……ヒロコ」


 父や兄、姉との時もそうだったように、別れは思いがけずやってくるのだ。

 別れの言葉も、礼も、想いも、何も言えぬままに。




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