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記憶に君を。~悠久なる君へ外伝~  作者: 雛子
3章

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17/22

傍に

 ナイルの氾濫の宴が変わらずやってきた。

 贈られた衣に身を包み、着飾ったヒロコの前に現れると、彼女ははっとするほど子供のような笑顔を浮かべ、その笑顔に自分でも驚くくらい胸が高鳴るのを感じた。


 形式的な妃となるヒロコを傍に朝から多くの祝賀の儀が続き、昼過ぎになって、増水した宮殿の中庭のナイルに舟を浮かべての舟遊びが始まる。

 皆が歌い、ナイルの神ハピを祝福するのを聞きながら視線を王宮の方に向けた。

 そこにヒロコの姿があった。飛び乗るのは苦手だと言ってこちらに来ようとしない。

 私から離れて何をしているのかと思って見てみれば、セテムとカーメスに挟まれて楽しげに話しているのが見えた。

 カーメスのことだ、おそらくくだらない冗談を言ってセテムに窘められているのだろう。それに挟まれては笑うしかなくなる。自分とて同じように笑うに違いない。

 だが、穏やかにその光景を見ていられなかった。舟に乗らないと言うヒロコの護衛を二人に頼んだのは紛れもない自分だというのに、その笑顔がこちらに向けられないことへ苛立ちの方が勝ってしまう。

 気にすることはない、形ばかりではあるがヒロコは己の妃になる娘だと自分に言い聞かせても、楽しそうに細い肩を揺らして笑う彼女がセテムやカーメスに好意を抱いていたら、と考えたこともない可能性ばかりが頭にちらついた。

 結局、屈託のない笑顔をヒロコに向けられているセテムやカーメスに嫉妬し、無理にヒロコの腕を掴んで自分の舟へ乗せた。これには彼女は拗ねたような顔をしたが、私が髪に口付けてもそれを嫌だとは言わずに受け入れた。

 沸いて出る嫉妬という感情が王たる者として相応しいものではないことが痛いほどに分かっていながら、私はヒロコを目の前にするとそういった感情がどうしようもなく剥き出しになってしまう。


 舟の中で私の向かいに座る彼女がハスの花を胸いっぱいに抱き、花を贈る女官たちに笑顔で手を振る。

 舟の下を潜る魚に目をきらきらと瞬かせ、青い天を仰ぐ。黒く艶やかな髪が、風に吹き上がる。長い黒髪と共に白い花びらが蒼穹に舞い、広大な世界のもとに太陽に照らされながら彼女だけが座っている──。

 自分が歩んできた場所はとても暗いところだというのに、彼女がいる世界はひどく明るく眩しく映った。

 そんな彼女を、私は素直に美しいと思う。この手に欲しいと考えてしまうほどに。


「ヒロコは本当に花が好きなのだな」


 花から顔を上げた彼女はきょとんとして私を見つめた。


「花を手にしている時のヒロコの顔は、本当に柔らかくなる。いい顔だ」

「そう?」


 くすりと笑う相手に、私は深く頷く。


「泣いているよりはずっと良い」


 ヒロコの顔が僅かに赤く染まり、また白い花の中に視線を落とした。

 その仕草が、慕情を雲のように湧き起こさせることなど、彼女は心にも思っていないのだろう。



 夜の宴でもヒロコは私の隣にいたが、父から受け継いだ側室たちが来てから姿が見えなくなった。

 戻ってくるかと思い、皆に囲まれながら酒を飲んでいたのだが、待てども待てども戻らない。

 侍女を呼んで聞いてみれば、すでに部屋に戻ったと言う。気分が悪くなったのかと尋ねたのだが、そうでもないらしい。

 戻るのならば私に一言くらい言ってくれても良いのではないか。苛立ちのようなものが沸いた。


「どちらに行かれます」


 女の一人が突然立ち上がった私に驚き、声をかけた。


「奥に戻る。皆はそのまま楽しむと良い」


 周りの皆をそのままに、侍女や兵を連れて自分の部屋に続く道を行った。

 外からの風に熱い頬が冷やされる。自分が酔っているのはこれでもかと分かった。


 一人で部屋に戻り、ヒロコが自分の部屋として使っている一部屋に足を踏み入れた。

 まだ灯りはついていたが、彼女は背をこちらに向けて寝台に伏していた。

 自分の身体が動くままにヒロコの肩に手を置くと、彼女は肩をびくりと振わせ、警戒するかのように素早く身体を起こして私を振り返った。

 私だと気づくと、ほっと息をつく。


「……アンク」


 私を見て安堵するその姿への蟠りが何故のものなのか、自分ではうっすら分かっていた。

 私を危険だとも思っていない、私を一人の男だと分かっていない彼女の素振りが腹立たしいのだ。

 信頼を置いてくれているのは分かっている。なのに止められない。

 歯止めが利かない。酔いのせいだろうか。


「どうして一人で戻った。私がいるというのに」


 何故、私はこんな高圧的な言い方しか出来ないのだろう。


「だって、あなた、側室の人たちと」

「あれは母親のようなものだと言ったはずだ」


 彼女は嫉妬しくれていたのだろうか。

 ──何故、私はそんな自分の都合の良い方へ考えしか出来ないのだろう。


「席を立つならば私に断るべきだろう。なのに何故」


 ヒロコも同じように私を睨み付けた。何故全部言わなければならないのかという怒りが彼女の表情から読み取れた。

 いつもならそこまで怒ることもしない彼女がここまであからさまに素っ気ない態度を取るのも珍しい。その目元はやがて悩ましげなものに変わる。彼女自身、自分の態度に戸惑っているようでもあった。

 彼女の黒い瞳に、私がいる。潤んだ瞳は美しかった。その視線がふっと私から逸らされる。


「今日は疲れていたの。だから戻った。それだけ」


 こうして目を逸らされたままでいると、遠くへ行ってしまいそうな気がした。


「私、もう寝るわ。話なら明日にして」


 そう言って私を押しやり、こちらに背を向ける。


 ヒロコを、ここに縛り付けてしまいたい。

 姿を見れば見るほど、その顔がこちらに向けられるほど、彼女を目の前にしてそんな欲求が募った。

 身体が怖いほどに疼き出す。


 私はヒロコが欲しいのだ。どうしようもないほどに。


「ヒロコ」


 彼女は私を振り返る。こちらを捉えた相手が息を飲むのを感じた。


「私の妃となれ」


 彼女の手を絡め取り、返事も待たぬまま寝台に押し倒して相手に覆い被さる。

 驚くほどにその動作は容易いものだった。

 当の本人は何が起きているか分かっていない表情を浮かべ、こちらを唖然と見つめている。


「……今夜、私のものになれ」


 もう一度告げる。

 彼女の胸が大きく上下した。

 意味を理解したのだろう、彼女は慌てて身を起こそうともがいた。


「ま、待って。冗談言わないで」

「冗談など言わぬ」


 身を捩って私の胸を押し返そうとしたヒロコの腕を再び捉え、寝台に押さえつけた。彼女の小さな呻きが聞こえた。


「ヒロコ」


 何度想ったか分からない名をこの声で紡ぐ。呼び名に縛られたかのように彼女は抵抗しなかった。

 私を揺れる瞳に映している。戸惑いを孕んだ眼差しだ。


「あ、あの、アンク」


 私を呼ぶために開き欠けた相手の桃色の唇に、自分の唇を押しつけた。

 ただ重ねるものから、苦しさに悶えた彼女の唇をこじ開けて深いものへと変えていく。その柔らかな口唇を舐め、怯えるようにして奥にあった舌を追いかけ、絡め取り、何度も腔内を掻き乱す。

 なんて甘いのだろうと酔いしれた。呼吸のために唇が離れる一瞬一瞬に漏れる彼女の苦しげな声が、どうしようもなく情欲をかき立てた。

 顔を離し、身体を少し浮かせて上から見た彼女はぐったりとして、肩で刻むように息をする。

 彼女の恍惚とした眼差しが薄い瞼の中に収まっている。髪を寝具の上に乱し、闇の中にその白い肌を揺らめかせている。頬はほんのりと赤く染まり、色めいた唇にはどちらものものか分からない零れた唾液で艶やかに光っていた。


「……ア、ンク」


 その表情で掠れた声音に己の呼び名を紡がれ、疼くような熱が身体全身に走る。

 彼女の手が伸ばされる。こちらへ。


 ──ああ。どうにかなりそうだ。


「ヒロコ」


 欲しいのだ。何をしても。この存在が。


 激しく高ぶってくるものに耐えきれず、片手で伸ばされた相手の手を掴み、もう片方の手で白い肩を掴むと、そこに留められた肩紐を解いて露わになった肩に口付けた。

 ヒロコの身体が大きく跳ね、震えた。


「や、やだ……!」


 自分の手が彼女のずり落ちた衣に入り込み、その背に触れる。

 滑らかな、暖かな肌だった。

 そのまま衣を引き下ろせば彼女の首筋が、肩が、鎖骨が、乳房が、落ちていく衣の内から現れた。

 誰も触れたことのない、自分が愛しいと思う女の肌。

 全部、自分の物にしてしまいたい。縛り付けてしまいたい。


「お願い、やめて……!」


 首筋に口付け、そこに顔を埋めてしまえば、彼女の香りに包まれる。

 すべてが欲しかった。こんなにも狂おしくなるとは思わなかった。

 同時に、もとの世界に帰れるとなれば何もなかったかのように自分のもとから去って行くであろう彼女の姿を想像すると胸が押し上げられるように苦しくなった。


 もしこのまま自分との子が出来たら、ヒロコのことだ、その子を愛さずにはいられないだろう。そうすれば、ヒロコは我が子と共に私の傍に残ってくれるかもしれない。

 私はこんなにもお前を──。


「アンク……!」


 悲痛な呼び声に、頭を強く打たれたかのように我に返った。

 自分が組み敷く彼女の顔を、ようやくはっきりと自分の視界が捉えた。

 彼女は顔を背けて泣いていた。それに気づいた自分の手の力がようやく抜けた。


 愕然とした。顔を赤く染めたヒロコは私に怯え、身を震わせ、目尻に涙を伝わせていた。


 ──自分は、何をしているのだ。


 自分自身に腹が立ち、同時に幻滅した。

 泣かせたいわけではなかった。己の行為で泣いている彼女を見ていられず、俯いた。

 拳が寝台の上で硬く握られ、大きな皺を敷布に作る。


 愚かだ。彼女を苦しめたかったのか、私は。


 もっと別な方法もあっただろうに、今まで関係を持たずにここまでやってきたというのに、信頼を置いてくれていたというのに、こんなやり方で彼女を傷つけて縛り付けようとするなど。

 だがこの想いをどうしたらいいか分からないのだ。

 私に幻滅しても良いはずの彼女は、息を乱しながら心配そうにこちらを見つめている。

 そして私を優しく呼んだ。


 耐え切れそうにない。彼女がいなくなることに。


「ヒロコ……!!」


 愛しいと言う感情のまま彼女の身体を抱きしめた。

 何度も彼女の名を呼び、抱く腕に力を込めた。


「お前を、帰したくはない!」


 心からの叫びだ。

 返したくはない。もとの世界に。


「3000年も先になど、帰したくはない!」


 初めて、彼女に対して伝えた。

 帰す方法を探してやると言っていながら、この有様に自分でも呆れてしまう。


 そのまま彼女に、自分の秘めていた本心を告げた。

 繋ぎ止めておきたかったこと。このまま欲しいと想ったこと。どれだけ自分が必要としているかと言うこと。


「……だから、こんなことを?」


 腕の中でこちらに視線を向ける彼女は掠れた声で私に尋ねた。

 呆れただろう。軽蔑しただろう。それだけ自分が彼女にしようとしたことは愚行だ。


「だから、私を……」


 そうだ、無理に抱こうとした。

 頷いて「すまぬ」と言葉を返すと、彼女は喉を震わせてひとつ息を吐いた。

 目尻に涙を溜めたまま、あまりに悩ましげな表情をする。


「お前さえ構わぬのなら、私は……」


 今も、私は彼女を求めている。

 切っても切れぬものを彼女との間に杭打ってしまいたい。


「……アンク」


 彼女は私を非難することなく私の髪を撫で、頬を撫でた。優しい手だった。


「あなたのことは好きよ。このまま傍にいられたらと思う」


 嬉しさに、この瞬間が永遠に続けばいいとさえ思ってしまう。


「でもね、私はやっぱりお父さんとお母さんを忘れられない。未来に帰ることを、まだどうしても諦められない」


 ああ、やはり。

 そうだろう。分かっていた答えだ。


「そんな中半端な気持ちであなたと関係なんて持ちたくない……ううん、持ってはいけないんだわ」


 彼女はゆっくり身を起こして真っ直ぐ私を見て、それにと付け加える。

 うっすらと相手の表情が陰った。


「あなたが見ているのはアンケセナーメンであって、きっと私じゃない」


 言われて驚いた。

 彼女が姉のことを引きずっていることを初めて知った。

 確かに出逢った当初の頃は姉とヒロコのことを比較し、あまりの違いに落胆したことも伝えたことはある。

 だが、ヒロコがアンケセナーメンとは別人であることは私が一番よく分かっている。そうであると分かっていても、傍にいてほしいと願ったのは紛れもなく私自身だ。


「あなたが帰したくないと思っているのは、私をアンケセナーメンだと思って……」

「違う」


 徐々に悲しげに表情を歪ませる彼女を遮って否定した。


「私が欲しいのはヒロコだ」


 決して姉と瓜二つの娘だからというわけではない。

 ヒロコという唯一無二の存在を失う日がやってくることが辛くなるほどに愛おしいのだ。


「お前が、欲しかった」


 大きく見開かれた黒の瞳に更に涙の膜が張る。


「3000年後に生まれ、そして今、時を越えて私のもとにいるお前が欲しかった。今でも欲しいと思う」


 そこまで言い終えて、こちらに向けられる眼差しを見つめる。

 相手は下唇を噛み、泣きそうな顔をする。

 そっと、彼女の頬に触れた。拒むことはしなかった。

 望んでいた答えではなくとも、彼女の想いを聞くことが出来た。こんなことをした私を、彼女は責めることなく好きだと言ってくれる。それだけでいいではないか。

 前から彼女は絶えず傍にいてくれていたというのに、それだけでいいと思っていたこともあったのに、何故それ以上を求めてしまうのだろう。

 何故、もっと欲しいと欲張りになるのだろう。自制が利かないほどに。

 いつの間にここまで愛おしく思えるようになったのだろう。


 ならば、と一度目を伏せる。

 たとえそうであっても。せめて。


「いつか、帰ると言うのならば」


 生まれた世界が違う。だがその中で出逢った。この出逢えた時を、ほんの一瞬でも大事にしていきたい。


「その時が来るまで、ずっと傍にいて欲しい。そう、約束してほしい」


 ずっと、傍に。

 ヒロコは息を飲むような仕草をする。魅入られるかのような面持ちに、こちらが惹かれてしまう。


「ヒロコ」


 呼びかけ、潤んだ彼女の唇を親指でなぞる。

 その唇がゆっくりと動き出す。


「……この時代にいる限り、あなたの傍に」


 彼女は蕩けそうなほどに甘く微笑んで、柔らかな声で私に告げた。

 その返事だけで胸が熱くなり、彼女の頬を撫で、額に口付け、彼女を抱くようにして寝具に横たわった。

 彼女は抗わなかった。私の鼓動を聞くように胸に頬を寄せ、目を静かに伏せる。

 夢心地のような感覚があたりに浮いている。

 しばらく愛おしさに互いを見つめ、彼女の長くなった黒髪を指で梳いた。


「このまま眠れ」


 腕の中にいる存在が愛おしくてたまらない。誰の目にも触れさせたくない。私だけを見ていてほしい。そんな自分の欲求で頭がおかしくなりそうだ。こんな気持ちは初めてだった。

 ヒロコを抱き込み、彼女の息づかいを胸の内に感じながら、私は沈むように眠りについた。

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