願い
* * * * *
ソティスが現れ、いよいよナイルの氾濫がこの国にもたらされようとしていた。
もとの世界に戻れないと悟ったあの時から、ヒロコは私の傍で過ごすようになった。
傍にいればいいという私の提案に、彼女ははっきりとした返事をしていない。未だに悩んでいるようではあった。
こちらから返答を急くことはしなかった。彼女が自分の傍にいるという事実だけで十分だった。
「氾濫がやってまいりますな」
傍にいたナルメルが夕暮れに染まる外を眺めてしみじみと告げた。
「ああ」
相槌を打つ。背後にいるセテムもナルメルと同じように感嘆を漏らした。
また一年の区切りがやってくる。そうしてまた一つ年を取る。自分も違わず、誰もが皆、同じように。
一年が終わり、また始まるのだと思うと感慨深いものがあった。
こんな風に感じたのはいつ以来だろう。
いつも淡々と過ごしてこなしてきたはずだというのに、何故か今回の星の輝きにはほっと息をつく余裕があった。
「良かった」
無意識にそう呟いた自分にナルメルが目を瞬かせたが、やがてその髭に埋もれた顔は微笑みへと変わった。
「実に、私もそう思います」
セテムも緩く口元に笑みを浮かべて頷いた。
二人と別れ、兵が守る扉の向こうにある自室に戻ると、最奥の小さな部屋から明かりが漏れていた。
ヒロコのいる部屋だ。私が帰ってきたことに気づいていないようで、間仕切りで閉ざされた部屋から出てくる気配がない。
もしかすれば、何かの書物に熱中しているのかもしれない。最近彼女は勉学に励み、その甲斐あってかなり文字が読めるようになっていた。
「ヒロコ」
「うわっ」
間仕切りを開けて呼ぶと、彼女は素っ頓狂な声をあげて飛び上がった。
「帰って来てたの?」
立ち上がったヒロコは手元にあったものを背中に隠してこちらを向いた。
「ああ」
寝台に腰を降ろして何やら作業をしていたようだった。明らかに焦っている様子で、逆にこちらが戸惑ってしまう。
「一体どうした」
「な、何でもないの。気にしないで」
彼女は言いよどみ、私から視線を外した。
何だか様子がおかしい。あからさまに何かを背後に隠している。
「後ろに何を?」
「あの、これは、その、あのね」
もごもごと口を動かしていた彼女は、やがて諦めたように自分の手元を見せた。
そこには作りかけの衣服と裁縫の道具があった。
「ナイルの氾濫がもうすぐ来るでしょう?そのための新しい服を作っていたの」
衣服を作っていたことを何故隠さねばならないのかと首を傾げた。特に恥ずかしいことでもないだろうに。
「どうぞ」と彼女は私に寝台に座るよう促した。いつものようにその隣に腰を降ろす。
「何故そのようなものをヒロコが繕っているのだ。侍女にやらせれば良いだろう」
そう尋ねると、相手は少しばかり恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ネチェルが教えてくれたの。新しい年を迎えると、新しい服を誰かのために作るものだって」
「そうだな」
「その時に願いを込めるんですって。次来る一年が良くあるように」
女ならよくやる話だ。
大体、ナイルの氾濫が始まったその日の宴で、大臣たちは自分の妻や娘から送られた衣服に身を包み、誇らしげなそれでいて少し恥ずかしげな表情でやってくる。
「……もしや、自分に作っているのか?」
尋ねてみて、それもまた変な話だと思った。
ヒロコ自身のものならば、侍女がいくらでも作ってくれるだろう。ヒロコを自分の娘のように可愛がっているネチェルに至っては頼んだら喜んで作りそうなものだ。
いや、頼まずしても、もうすでに作っているかもしれない。
ヒロコの願い事であるならば、「もとの世界に帰れるように」ということだけだろうが。
「まさか」
こちらの問いを受けて、彼女はおかしそうに眉を下げた。
「私だって自分のためにわざわざ作ることなんてしないわ」
「ならば誰に」
「ほら、見て」
ヒロコは作りかけの服を私の目の前に広げて見せた。
見せられて気づく。彼女が手にしているのは男物だった。
「あなたによ」
思いがけない返答に、次の言葉を失った。
自分らしくない驚き方だったとも思う。
そんな目を見開く俺を見て、彼女は軽く笑って肩を揺らした。
「私がここへ来てもう一年になるでしょう?いつも何だかんだでお世話になっているから、少しくらいお礼をしなくちゃって思ったの」
そこまで言うと繕っていたものを膝に置き、今度は肩を竦めて困ったような笑みを浮かべた。
「だって私、あなたにしてあげられたこと何もないんだもの。何だかんだで、あなたに色々とやってもらってばかりで……お返しをね、したいなって思ったの」
確かに、ヒロコにはこれといった功績はなかったが、気になったことはない。
懸命にこの国を理解しようとし、これをやっておけと言えばその日の内に済ませるほどの処理能力の高さがある。
手を差し出せば、掴んで転びそうになりながらも必死に歩こうとする。決してヒロコ自身が何も出来ていない訳ではない。
「ならば、どんな願いを込めて繕っている?」
「え?」
彼女は首を傾げた。
「こういうものは願いが最初にあって繕うものだ。……まさか、私の短気が治るようにではないだろうな」
「そうね。もちろん、それも」
にっこりと返されて頭を抱えたくなった。
やはり、彼女にとって自分は短気にしか見えないのだ。それが私に対する印象なのだ。何ということだ。
確かに思い出してみても、彼女に対して短気とも取れる態度をいくつもとってきた気がする。
「でも、それだけじゃないのよ」
唖然としている私を見て、彼女は付け加えた。
「怒りっぽいところが治りますように。次の年も健康で過ごせますように。怪我をしませんように。良いことがひとつでも多く起こりますように」
すらすらと流れるように目の前の彼女は衣に込めた願いを並べていく。
「それから、幸せになれますように」
ふっと、肩の力が抜け、隣に座る彼女に見入った。
柔らかな笑みをこちらに浮かべ、繕う衣を撫でている。
──幸せになれるように。
そんな言葉を、そのような願いを、自分にしてくれる人がいるとは思わなかった。
孤独な道を歩き続け、これからもその道を歩いて行くはずの自分に。
胸を突かれたように何も言えなくなった。同時に胸が熱くなり、これをどう処理すれば良いのか分からず、そのもどかしさに唇を噛んだ。
「沢山あるの。欲張りになっちゃった」
分かっているのだろうか。
そうやって自分の作ったものを贈るというのは、恋人同士や夫婦という間だけの話であると言うことを。
この調子だと分かっていないのだろう。そうと分かって、肩を落とす自分に気付いた。
「本当にあなたの抱えるものは大きいのね。王様ってもっと違うものだと思っていたから、話を聞いてびっくりした。だから、こんなに頑張っているあなたに、私から日頃の感謝を込めて贈ることにしたの」
冗談気味に、それでも気恥ずかしそうにはにかみながら彼女は手元の衣を撫でる。
「まだ出来上がってなくて……秘密で作って驚かせようと思っていたのに結局見つかっちゃった。私って間抜けね」
少し残念そうに相手は視線を落とす。
「間に合うかもちょっとまだ分からないのだけれど、遅れても許してね。一人で最後まで繕うって決めたの。ネチェルにも手伝ってもらってないのよ、凄いでしょう?」
そんなことでは怒らない。責めることなどしない。
どれだけ短気だと思われているのだと眉を顰めることもあるが、すぐにそれは解けていった。
なんと返事をしたら良いのだろう。
ずっと待っていると?遅れても構わないと?どんなものだろうと嬉しいと?それとも──。
「あなたならきっともっとちゃんとしたものを貰えるのだと思うのだけど、私ね、これしか思いつかなくて」
自分にそういうものを作ってくれる相手が、今までにいただろうか。
彼女の言う通り、自分の衣服に関しては専門の職人が毎回携わる。生地も装飾も、大層立派な誰も手に入れられないようなものを、この国で最上級、王が身に着けるものに相応しいものを、毎年頼まずとも手に入れることが出来る。
だが、幸せであれというような願いを込められたものを誰かが作ってくれることなど兄が死んで以来にあっただろうか。
「……ヨシキには、作ったことがあるのか」
作りかけの衣を眺めながら、ぽつりと呟いた。
ヒロコが持っている写し絵の男。兄のような存在だと言っていた、「ヨシキ」という名のあの男がちらついた。
「良樹に?服を?」
兄のような存在となれば最も夫に近い存在だと思うのだが、ヒロコはそれを否定する。
どうやら、ヒロコの世界で兄はそういう存在ではないらしい。
だが、嫉妬は拭えない。同じようにヒロコが衣を作っているのではないかと思うと、王らしからぬ感情ばかりが生まれてしまう。
「そんな、無いわ。あちらにはこういう服を作って送る習慣はないの。勿論、作る人もいるけれど、私は作るよりも買う派ね。作るのはこれが初めてよ」
「そうか、そう言うものなのか」
何故か、安心した。ヒロコの言葉に一喜一憂する自分もどうかと我に返った。
ヒロコは好意がないのだろうが、あのヨシキのシャシンとやらを見ていると、ヒロコを見つめる目は明らかにヒロコに好意を持った目だ。
シャシンの中にある、奇妙な世界。その世界へ彼女は帰ることを望んでいる。家族が、友がいる。
こうした日々にいつか終わりが来るのだ。
彼女が帰ったのなら自分は一体どうなるのだろう。また出口の見えない道の上をただひたすらに歩き続けるのか。たった独りで。
「ねえ、アンク」
彼女は楽しげに笑って、今日あったことを話してくれる。
帰したくないと、彼女を眺めて強く思ってしまう。
別れの日を思うほどに、そういった利己的な感情が募ってどうしようもなかった。
私の傍にいると、その声で言ってはくれないだろか。
そう心から望む自分の存在が日に日に大きくなって膨れ上がっていくのを知らないままではいられなかった。
数日後、ヒロコは「間に合った」と言って、完成した衣を私に渡してくれた。
ナイルの氾濫を祝う宴を前日に控えた夜だった。
受け取ったものの何を言えばいいか分からず、簡単に礼を言って終わってしまった。
懸命に時間の合間を見つけて繕ってくれたのだろう。いつも身につける最上級のものと比べれば見劣りはするが、どんな衣よりも彼女が自分のために、願いを込めて繕ってくれたことが嬉しかった。今自分が持っている中でこれに勝る物はない。
「姫様から頂きましたか」
周りの支度をしていたネチェルが、ヒロコから貰った衣を眺めている私に気づき、嬉しそうに頬を綻ばせて尋ねてきた。
「お前、ヒロコに何と言って作らせたのだ」
「いいえ、何も。お世話になっている大切な人々に一年の無事を祈って作るものだとお教えしましたら、ご自分も作りたいと仰ったのです」
そうなのかと呟いて衣を撫でる。
「素直にお喜びになられたらいかがです。あまり喜んでくれていないようだと肩を竦めていらっしゃいましたよ。作った身にもなって差し上げて下さいな」
素直になれなかったのだ。こういうものを、貰ったことがない。
いや、貰ったことはあったが、自分が傍に居て欲しいと思える相手から貰ったことがなかった。
悪いことをしたと、気まずくなる。どおりで衣を渡してくれた後の彼女は気落ちしたようにしていたのだ。
礼は言ったつもりなのだが、言葉が足りなかったらしい。
「一生懸命にお作りになられていました。それはもう、微笑ましいくらいに。喜んでくれるだろうかと繰り返しご心配なさって……ファラオに知られてしまった時は驚きが半減してしまうと落ち込んでいらっしゃいました」
彼女が懸命に衣を繕ってくれている姿を思い浮かべた。
私に渡してくれた時の顔。あの姿。あの手。
「ヒロコは……私を好いているのだろうか」
何気なく口をついて出てきた言葉に、ネチェルは弾かれたように顔を上げた。
「ファラオともあろうお方が何を仰せです。どうなさいました」
ネチェルは笑っていたが、何も言い返すことができなかった。
「姫様はあなた様のお妃になる存在でいらっしゃいますのに」
ヒロコは私のことなど想っていない。
想っていたとしても、おそらくもとの世界に帰ることを選ぶ。
私のことなど忘れて。
「大丈夫ですよ。姫様はとてもあなた様をお慕いしていらっしゃいますもの」
お前は何も知らないから、そんなことが言えるのだ。




