あの国へ
* * * * *
ある時点から、一人の女性が夢の世界で頻繁に現れるようになった。
相手の顔はあまり見えない。
何と言うべきか、夢の中では明確に見ているはずなのに、目覚めてしまうと覚えていないことが常だった。
黒い髪は記憶にある。青い空間に真っ直ぐな黒髪が映えて、風にそれが静かに揺れている。白い衣服を身に纏い、細い金の腕輪をつけた、青に佇む彼女は美しかった。彼女には青や銀の色がよく似合った。
名を呼ぶと、振り返る。
ああ、と思った時に彼女の顔は見えなくなる。夢と共にどこかへ消えて薄れてしまう。自分が呼んでいたはずの名も分からない。
自分に笑顔を向けてくれていたことは覚えているのだが、記憶の中の彼女はいつもひどく顔がぼやけて何も見せてはくれなかった。
孤独で孤高であり続けた自分の世界が、徐々に彼女で満ちて行った。
彼女が誰であるかは分からなかったが、夢の中のもう一人の自分が、彼女を愛おしいと感じていることだけは確かだった。
瞬く間に終わってしまった帰省の後、帰ってきた大学はまるで久しく訪れていなかった場所のように懐かしさを湧き立たせた。
来なかった期間はたかが1週間であるのにそう感じてしまうのは大学に入りびたりの生活を送っていたからだろうか。
話があると担当教授から呼び出されて飛んで帰ってきたものの、教授の予定に合わせ、戻った翌日に会うことになった。
面談の当日、毎日続けてみる夢のことを考えながら大学の駐輪場に自転車を停めると、向かい側からやってきた研究室メンバーが手を振って自転車でこちらへ走ってくるのが見えた。
「久しぶり」
咄嗟に出た挨拶に彼は笑って隣に音を立てながら自転車を停めた。
「何言ってんだ、たった一週間だろ」
彼が自転車の鍵をかけたのを見届けて二人揃って歩き出す。
「で、どうだった?久々の実家は」
「相変わらず弟が元気だった」
「元気なことなのはいいことだ。そういやお前、教授に呼ばれてるんだって?」
何で知っているのかと相手を凝視すると、相手はにやにやと口端を上げて俺の背中を叩いた。
「教授がお前のこと探してたからさ。帰省中だって話したら、電話するって言ってた。研究室の奴らみんな知ってるよ」
担当教授には帰省する旨を伝えていたはずだったのだが、どうやら忘れられてしまっていたらしい。自分の研究に没頭しているあの人ならば俺の話など右から左へ聞き流していてもおかしくはない気がする。
2人でああでもないこうでもないと話しながら研究室に向かうと、メンバーがほぼ全員揃っていた。研究室メンバーにラットの世話を任せた謝礼がてら手土産を渡しつつ、データの引継ぎをする。
「とりあえず、また悩まなくちゃならないようだぞ」
メンバーの一人が眉を八の字にして言った。
パソコンソフトで数値をグラフ化してくれていたのだが、明らかに数点において予想外の数値が出ていてそれに該当する部分が飛び出てしまっている。
なるほど、メンバーが頭を抱えていた理由がこれか。
これの原因究明と考察をしなければならない。場合によっては更に事象を増やしてこれが誤差範囲内に納まるものかを検討していかなければならないだろう。
自分が留守にしていた時の彼らの苦悩と、これから自分にもやってくる苦悩を思い描きながらメンバーの方を見ると彼らはこちらを見て苦笑した。
自分の机に座り、備え付けのパソコンの電源を入れ、USBを繋ぐ。机の奥に積み上げていた論文の束を取り出し、そこからぱらぱらと該当するものを探し出す。ここに答えがあればいいのだが。
「そう言えばアーティ、図書館で調べものをしたいって言ってなかったか」
データをもとに文献を漁ろうとしていた俺に、メンバーの一人が声をかけた。
「帰りがてら寄っていくよ。むしろ明日でもいいし。大した用でもないんだ」
確かに図書館に行きたいのだとぼやいた気もするが、別に後でも構わない。研究の方が大事だ。教授に指定された日程にまでに間に合わせなければならない。
「今行って来いよ。丁度区切りがいいし、残念ながらお前以外この後何の用事もないからさ」
一人がそう言い出すと、他も頷き始めた。
「教授にも呼ばれてるんだろ?何時から?」
「11時」
「あと一時間しかないなら、今からやったって中途半端になるだけだろ。俺たちのことはいいから行って来いって」
一人が立ち上がって俺の背中を押した。
「アーティ」
彼はにっと笑って見せる。
「多分お前、フィールドワーク、決まったぞ」
そういった相手を咄嗟に振り返った。
「この前博士がちらっと言ってた。お前が帰省している時だ」
「はっきりしたら俺たちにちゃんと報告しろよ」
ほとんど追い出されるようにして研究室を出た俺は、一時あっけらかんと突っ立っていることしかできなかった。
皆が望んでいるフィールドワークが決まったかもしれない。希望がこんなにも早く現実になるとは思いもせず、じわじわと自分の中に嬉しさが溢れてくるのを感じた。
まだ、決まったわけではない。どこに行けるかも分からない。
沸き立った気持ちを抑えつつ、腕時計を見つめて時間を逆算し、彼らの好意に甘えて図書館への道に足先を向けて歩き出した。
学部棟を出た瞬間、夏風が吹き込んだ。一瞬息を止めてしまうくらいの突風に驚きながら空を仰ぐ。以前とは僅かに違う風に、秋も近いように思えた。
今回図書館へいく目的は研究テーマに関することではなく、夢の中に現れる女性が身に着けている衣服に関して調べることだった。
衣服にも歴史がある。あの衣装はやはりエジプト文明の古いものだろうか。ならばいつの時代のものか。
砂、青い花、太陽──彼女が佇むあの風景はエジプトのどこに行けば目にすることができるのか。
弟は、夢に出てくる俺が史実に存在しているのではないかと言った。
あまり現実的ではないが、夢が史実を表しているのなら夢に出てくる女性も実在なのではないかと考えるようになった。俺は、彼女が誰であるのか無性に知りたくてたまらないのだ。
とりあえず、まず唯一覚えているともいえる衣服と装飾品から年代を割り当てられればと考えていた。多くの学部を抱えるこの大学の図書館になら、そのあたりの文献もあるだろう。
大学の通りをずっと歩いた先に一段と古めかしい建物あり、その門をくぐると学生証の提示が求められる。大学関係者以外の立ち入りが制限されているからだ。ICチップ内蔵の学生証をかざすことで改札のようなゲートが開き、利用できる仕組みだった。
足を踏み入れた先は、巨大な本棚がまるで立ち憚る壁のように並んでいる。入り込んだら自分がどこに入ったか分からなくなりそうだ。
空間の中央部分には開けているところがあり、真っ直ぐに並べられた長い机には学生が黙々と資料を広げて勉強をしていた。
恐ろしく静かな空間だ。キーボードを打つ音も、本のページをめくる音さえもが響いてしまうため、自分には合わず一度しかここで勉強をしたことがなかった。
さて、と息をついて本棚を仰いだ。
今までは自分の専門であった科学や医学分野の多い、入口から向かってすぐ右側の本棚を目指していたが、今回の分野は全く異なるものだ。
どこにその分野が所蔵されているかもわからないため、まず初めに図書館のマップを眺めた。
民族史、地理学、歴史学、考古学。
何とか探し当てて、示されている方向へ足を進めていく。どうやら自分の求める分野は随分と奥まったところにあるようだ。
今まで覗いたこともなかった分野を片端からざっと見ていく。とりあえず教授との約束の時間には遅れてはならないと時計を何度も見ながらの作業だった。
エジプト考古学のところで、古代エジプト人に関する分厚い本を見つけた。衣装や生活、行事、信仰など多くの分野にわたり、王族と一般人に分けて事細かに記されている。それを証明する写真や、その写真を撮った遺跡と場所に関しても書かれていた。
それを見てやはり夢に見た景色は古代エジプトなのだと確信する。
ならばいつの時代のものか。
エジプト史は、自分が思っていたよりもずっと長い歴史を持っていた。
紀元前3000年頃に始まった第1王朝に始まり、紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの歴史を古代エジプト史と一般的に呼ぶ。
その歴史は大きく8つに分けられ、初期王朝、古王国、第一中間期、中王国、第二中間期、新王国、第三中間期、末期王朝時代とされる。その後にローマ侵略、そしてキリスト教の布教による大きな歴史変貌を遂げ、古代エジプトは終焉を迎えていく。
その内、ピラミッド建造の時代は古王国時代、最も繁栄したとされるラムセス2世たちの時代は新王国時代に相当するようだ。
更に、紀元前5000年からエジプトに住んでいた人々は農耕を始めていたとも記されているのだから、それを含めると気の遠くなる歴史を目の前にしているような心地になる。
そんなに昔から人はいたのだと、自分たちと同じように生きる人々がいたのだと、何とも信じがたい気持ちになる。
何せ、誰もこの歴史の真実を知ることは叶わない。
その時代に生きていた彼らはすでに死に、もう声も届かない遠くにいる。とても、遠くに。
だが、遥か遠い過去に生きた人々がいたからこそ、自分が今を生きているのも事実なのだ。
時計を見た。約束の時間まで15分を切っている。
ここから指定された場所までかなりの距離がある。馬鹿みたいに広いこの大学の欠点の一つだ。そろそろここを出なければ遅刻してしまう。
自分の初心者並の知識を伴ってでは数千年という長い歴史の中から彼女を見つけることは難しいようだった。ある程度の見当をつけられればまだましなものを、自分にはそれに足る知識は皆無に等しい。
一旦切り上げようと手にしていた本を棚に戻し、足早に出口に向かうと、出入り口の近くに設けられた雑誌の新刊を並べたマガジンラックが見えた。何気なく目に入ったその内の一つの雑誌に、足を止めた。
地理学、人類学、自然・環境学、ポピュラーサイエンス、歴史、文化、最新事象、写真などの記事を掲載している雑誌だった。
時折、表紙の写真が独特で目を引くために本屋で見ることもあった。有名な雑誌なのだろうが、こうやってこれほどまでに魅入るのは初めてだった。
その表紙を飾る写真は、エジプトの古代壁画──レリーフのようだ。数千年前に作られたとは思えないほどに美しい。
手に取って表紙に記されている特集を目で追う。取り上げられているのは、古代エジプト最盛期に王家に仕えていた書記官の墓が発見されたという内容のようだ。
じっと、レリーフを食い入るように見つめた。
新王国時代、第18王朝のエジプト──これではないか。
直感としか言いようのない何かが、自分の中でそう言った。
この壁画。レリーフ。描かれた人物。読み解くことは叶わない、流れる象形文字。
中を開く。特集の冒頭に第18王朝について大まかに書かれていた。
男装の女王。異端の王。都の変遷、神を変える改革。写実性に優れた美術。そしてあまりにも有名な少年王。
恐ろしいくらい鼓動が早くなった。何故だかは分からない。恐ろしいものを見ているような、懐かしいものを、見ているような。
頭痛がする。酷くなる痛みに額を抑えると、冷汗が出た。ページを捲る手が震えた。だが俺は、これを手放したくはないのだ。
時計を見てそのままカウンターに雑誌を持って行き、借りる手続きを終えるとそれを脇に抱えて図書館を出た。
息も整わないまま、担当している教授の部屋の前に辿り着く。脇に抱えていた雑誌を鞄に押し込み、年代物の扉をノックした。
「先生、ウィナーです」
数秒経つと、ゆったりとした声で「お入り」と返事があった。
「失礼します」
扉を押し開くと、温和な顔をした老人が奥の机を前に腰を掛けていた。論文でも作成していたのか、パソコンの傍に大量の資料が置いてある。あの中に自分たちが作成したデータも含まれているのだろう。
「よく来たね、そこに座っていなさい。一通り終わらせるから」
パソコンの明かりが相手の眼鏡に反射している。
「実家に帰っていたそうじゃないか」
言葉に甘えて手前のソファに腰かけた俺に、教授は尋ねた。
「ええ、父と弟に久々に会ってきました」
「お元気だったかね」
「十分すぎるほどに」
そこまで答えると、一段落ついた様子の相手が腰を浮かせてこちらへやってきた。
相手はすでに70歳を超えているが、しっかりと背筋を伸ばす姿はまだ40代と言ってもいいくらいに若々しい。
「それは良かった」
向かいに座った教授は白い髭を蓄えた口元に微笑をたたえる。
「本を、借りてきたのかね」
本題に入るかと思いきや、教授は俺の鞄を指さした。そこにあるのは、先程図書館で借りた雑誌が、内容が分かるくらいに飛び出してしまっている。
「少し気になって借りた雑誌です。大したものではありません」
今の研究ではまったく関係のないものだ。
「どれどれ、見せてみなさい」
相手が見せるよう手を出してくるものだから、渡さざるを得なくなる。
こんな忙しい時期にそんな雑誌を借りる余裕があるのかと言われそうだと思いながら渡すと、思いの外相手は興味がありそうな面持ちで雑誌を捲っていた。
「古代エジプトだ。全く専門外だが、私もこの時代は好きだよ。非情に興味深い」
数分してから相手が言った。
「初耳です」
「言ったことがないからね。妻しか知らないよ」
「そう、ですか」
差し障りのない返事をして、ページを捲る相手を眺めていた。
「君には私の話そうとしていたことが分かっていたのだろうか」
「え?」
唐突に本題に入ったようで、素っ頓狂な声を上げた。
「以前から卒業後はフィールドワークに出たいと言っていただろう」
「ええ」
「条件が良いところから誰か紹介してくれないかと頼まれてね、君はどうだろうかと思ったんだ。君が提示していた希望になかなか沿っている。これがその資料だ」
差し出された資料に記された名を目に通す。
拠点がエジプトにあるアフリカの感染症研究所。前々からやりたいと希望していたことが、ここならば出来ることが一目で分かった。
「もし、君が良ければこの話を進めるつもりでいる。あちらはすぐにでも研修という形でも良いから人手が欲しいらしい。今後の研究にも役立つだろう、在学中だが行ってみたらどうだろうか。給料も出る。衣食住は面倒を見てくれるそうだ」
授業はもうない。あとは卒業に向けた研究論文だけだ。ここならば研究を思う存分できるに違いない。勿体ないくらいの環境だ。
そして何より、この国に行く好機が図ったかのようにやってきたのだ。エジプトという国へ。
一瞬閉じた瞼の裏に、また夢に出た女性の長い髪が見えた。青に揺れる、その黒髪──。
彼女はきっと、そこにいる。
「……行きます」
乾いた声だった。
「ここに、行かせてください」
即答した俺に、教授は少し驚いた顔をした。
「決断が早いね。親御さんに相談しなくていいのかね」
「行きたいんです、ここへ。どうしても」
答えると、嬉しそうに相手が頷いた。
「では、この話を進めることにしよう」
「宜しく、お願いします」
膝に置いていた手を握る。
エジプト。この国へ行ける。
どこから湧いてくるかも分からない期待と興奮が、自分を取り巻いて離れなかった。
話があった2週間後、研究室のメンバーに「良かった」と背を押されて見送られながら、実家へ向かい、父に今回のことを話した。
父は俺の決断を快く受け入れ、弟は気ままな様子で、「気が向いたら遊びに行くよ」と明るく笑った。
翌朝、ようやく太陽が出始めたくらいの早朝に、思いつく限りの荷物をつめたスーツケースを手に、自分の部屋を出て下の階へ降りた。
誰も起こさずに行こうと思っていたのだが、一階のリビングに明かりがついている。父がすでに起きているようだった。
「父さん」
ドアを開けてそこにいるだろう父を呼んだ。
父は案の定、ソファに座って新聞を読んでいた。父はこちらを見て、新聞をテーブルに置いて立ち上がる。
「行ってくるよ」
そう言うと、父は少し心配そうな顔をした。
「朝食はどうするんだ」
「そこらで買って食べるつもり」
もう子供じゃない、と笑うと、父は「そうだな」と言った。
「忘れ物はないのか」
「財布はある。金さえあればなんとでもなる」
今度は「そうか」と父が頷いた。
「兄さん!」
父と話しながら家を出ようとしていた俺の前に、寝起きの弟が目を擦りながら階段を下りてきた。
「なんだ、起きてきたのか」
「兄の門出だ、見送らないなんて選択肢はないよ」
そう言って胸を張る弟の髪は寝ぐせだらけだ。
「それにしても随分嬉しそうだなあ。たまには帰ってきなよ?」
相手に指摘されて笑ってしまった。楽しみにしていることには違いない。
「土産を携えて帰ってくるよ」
「だといいけど。ほんと、兄さんって思い立ったら即行動なんだからなあ。この前久々に帰ってきたと思ったら今度はエジプト?急すぎるでしょ。とにかく何かあったらちゃんと連絡しなよ?」
「気を付ける」
スーツケースの取っ手を握り直し、息を吐く。
「じゃあ、行ってくる」
「体には気を付けてな」
いつもは固い表情の父は朗らかに笑った。
「母さんの命日には帰ってくるから」
二人に手を振り、見送られながら家を出た。
空港直通のバスに乗り込み、ロンドン・ヒースロー空港に入ったのは昼頃だった。 チケットを確認しながら搭乗手続きを終え、その足で搭乗口へ向かう。
座席は窓側だった。景色が見られる窓側は素直に嬉しい。
間もなく飛行機は空へ飛び上がる。窓から見慣れた風景が小さく映り、初めて目にする光景のように見えた。
膝の上には教授から渡された先方の資料と、図書館で惹かれてしようのなかったあの雑誌がある。結局ゆっくり読んでいる暇がなく、借りていたものは返して、書店で買ってしまったのだ。目まぐるしい展開の中で未だに読むことが出来ていなかったため、これから飛行機内で読むつもりだった。
表紙を撫で、それから外を見やる。
何かが、自分を呼んでいる。
その「何か」が、何であるかは分からない。
ただ、自分がこれから向かう先に何かがあるような気がしてならなかった。
この期待の、この興奮の意味が、あの国へ行けば分かるだろうか。
ぐっと瞼を閉じるとまた、黒髪の彼女が見える。青い世界に長い髪を靡かせ、こちらに微笑んでいるのに顔はよく見えないままだ。そのもどかしさに唇を引き結ぶ。
──我が国へ。
声が。
──我が、太陽と砂漠の国へ。
自分の中。
ずっと深く、奥まったところから、声がした。




