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記憶に君を。~悠久なる君へ外伝~  作者: 雛子
2章

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14/22

傾慕

 ヒロコを帰す方法が分からないまま、更に月日は過ぎて行った。

 私と共に王宮の外へ出てこの国の在り方を目の当たりにしてから、ヒロコはまずナルメルに習い、文字を覚えようと努めた。

 文字を覚え、しきたりを覚え、民の生活や王族の役割、他国との情勢、そして大いなる我が国の歴史を学ぼうと、あらゆる歴史書、地図や書物を、私やナルメルに助けられながら読み漁って行った。

 ただ、文字を書くにあたっては苦手なようで、何を書くにも四苦八苦とした状態だった。

 彼女は知識を得れば得る程に、一瞬ではあるが表情を凛とさせ、まるで生まれながらにして王家の一族であったかのような仕草をするようになった。

 本人は気付いていないのだろう。その姿の垣間に、アンケセナーメンの面影が見える節があることに。

 私だけではない、セテムやナルメルにもそれを感じているようで、ヒロコの存在を彼らなりに受け入れているようだった。

 ヒロコが王家の姫君に相応しい口調で言い放った時は、さすがのセテムも度胆を抜かれたらしい。

 だが、ヒロコ自身がアンケセナーメンの甦りだという話を信じようとはせず、その話をすることを嫌っていたためにあまり言及することはしなかった。意地でも自分は「ヒロコ」であってその他の何者でもない、というのがヒロコの主張だった。


 そしてヒロコはアンケセナーメンと同じ青い花を好んだ。

 外出を伴っての政務終わりにその青い花を摘んで持って帰ると、彼女はとても喜んで部屋に飾る。

 飾った青い花を眺めていた彼女は、次にナルメルから読んでくるようにと言われたパピルスの文章を一生懸命に読み始めた。あまりに苦戦しているようであったから、それを横から覗くと「教育の書」であることが分かった。学び舎に入るとまず誰もが習うものであり、自分も幼少のころに暗唱させられた記憶がある。


「数百年前、我が王家に仕えていた宰相プタハホテプの教訓だ。ナルメルも随分と懐かしい物をお前に出してきたものだな」

「あなたもこれを読んだの?」


 彼女は興味津々に尋ねてきた。


「王子だった頃に暗唱させられた。我が国は王族も民も、これを基に教育される」


 いくつか読んでみせると、彼女は「ほう」とまるで年寄りのような返事をして、こちらの手元にある書物を読もうと身を乗り出した。

 懐かしい文章を撫でて眺める。

 これを初めて習った頃は兄も姉も生きていた。父も健在だった。

 あの頃の父や兄は、この書を必ず自室に置いて持っていた記憶がある。決して愚痴を零すことはなかったが、王として悩むこともあったのだろうか。


「私も時々読み返す。道を外しそうになったり、迷った時に」


 懐かしさのままそう呟くと、彼女は目を丸くしてこちらを見てきた。


「あなたが?迷うことなんてあるの?」


 まるで人間ではないと言われているようで、私は彼女に向かって眉を顰めた。


「私は神の化身とされるが、私とて生きている内は人間だ。民と何一つ変わらぬ。死んでから別格になるのだからな」


 相手は「それもそうね」と微笑んだ。

 向かいにある微笑みがあまりに優しいものだから、喉の奥の力がふっと抜けるのを感じた。


「……今も、迷っている。改革を、するかどうか」


 気づけば、本音が出ていた。

 話を聞こうと彼女は静かに私の言葉を待っていた。聞いてくれるのだと思ったら胸が熱くなった。

 今この国が置かれた状況。父や兄が成してきたこと。姉との約束。これから私が為さねばならぬ改革のこと。それに対する恐れや不安。父や兄への敬愛。本当にこのまま改革を為して良いかどうか。私の口元は意に反して彼女に吐き出していた。


「神を替えるとはどれだけ恐ろしいかを知った。どれだけ国を揺るがすかを知った。どれだけエジプトという国が外国から今か今かと狙われているのかを知った」


 止まらなかった。


「そして神を替えること──これは民を心から愛し、すべての平等を説いた父を否定することになる。あれほど民を思った父をだ。異端と呼ばれようと父は父だ。何も変わらない……」


 今まで自分の中で押し込んでいたものが溢れだすようだった。静かに耳を傾けてくれている彼女に、誰にも言ったことがないことを、吐き出すように訴え続ける。


「だが、やらねばならぬ。父が造り出したアテンに、終わりを告げなければならぬ。我が王家を、我がエジプトを守るために」


 そこまで言って、黙り込んだ。

 同時に後悔が出てきた。話すつもりは毛頭なかったのだ。

 こんな自分ではならぬと頭を抱えたくなり、今話したことは忘れるよう告げて去ろうとすると、ヒロコは私を呼び止めた。


「大丈夫よ」


 たった一言。


「あなたなら出来る」


 神を替えること、都を遷さなければならないと悩む私に対して、彼女は優しく微笑んでそう言った。

 時折見せるその強い眼差しに、一瞬姉の面影を感じるのだ。決して姉ではなかったが、どこか奥深いところが似ていると感じる瞬間がある。


「だって、こんなにもあなたは民を想ってる。こんなにも国を想ってるじゃない。あなたは王、この国を治める雄々しきファラオよ。やらないで終わったら負けだわ。どうせ変えて行かなくちゃいけないんだもの。何かしらやらなくちゃ」


 彼女の無謀とも言える助言に、肩の荷が下り、なんだかついには笑ってしまいそうになった。


「……宗教はあまりよく分からないけれど、私はあなたを応援する。それだけは確かよ」


 ヒロコは自分の意見を何の参考にもならないと言うが、私にとっては味方だと言って傍にいてくれている、そのことだけで十分だ。なんと心強いことだろう。

 私は立ち上がり、ヒロコの手を取った。彼女は目を瞬かせた。


「決めたぞ」


 何かをやらねば始まらない。やるかやらないかで悩み、何もやらぬまま終わってしまったらそれでこそ屈辱だ。

 彼女の言葉で解決までには至らなくとも、彼女の言葉で決意は固まった。


「決めたぞ、ヒロコ」


 神を替え、都を戻す。

 父の改革を、私の改革を以て閉じるのだ。


 私はナルメルやセテムたちを集わせ、ついに改革を行う旨を発案した。

 まだテーベの修復が終わるまでの期間、まず古に都として存在した都市メンネフェルに都を遷すことを後日の宴の席で明言し、アイは理解を示さなかったものの、他の多くから賛同を得た。

 もともと言い出したからには賛同が多かろうが少なかろうが遂行するつもりではいたが、アイに言い包められた者も少なくないと聞いていたこともあり、賛同が多いことに安堵した。

 今回行うことで民の反感はそれほどではないとここから推測できる。アテンからアメンへ変えること、アメン復古は亡き兄や姉をはじめ、おそらくは多くの者たちの願いでもあったのだ。

 宴が終わった後、安堵してげっそりする私を、けろりとしたヒロコは「偉い」と褒めた。


「だが父の神を否定し、自分こそが神だなどと言ってしまった。何か罰が下るやもしれぬ」

「罰なんて弾き返せばいいのよ。あなたは正しいと思うことをしただけだもの、それくらいできるでしょ」


 時折突拍子もないことを彼女は平然と言う。


「ヒロコは実に神をも恐れぬ女なのだな。最早、お前が強いのか馬鹿なのかも分からなくなってきた」


 そう返すと彼女はむんと胸を張った。その滑稽な仕草に頬の筋肉が緩む。


「無神教ほど強いものはないのかもしれないわ」


 神を信じないというのも不思議な話だ。恐れる神もいないとなればそれはおそらく愚かなほどに強いのかもしれない。私には出来ないことだ。


「ヒロコがいると隣にアンケセナーメンがいるようだった。だからあそこまで言えたのだぞ」


 こうして感謝するのも、これが初めてかもしれない。

 暗殺を企んでいるはずのアイが同じ広間にいる中、ヒロコは私の傍にいてくれたのだ。私以上に恐ろしかったに違いない。


「お役に立てたのなら、光栄ですわ」


 冗談交じりに相手は言った。冗談はよせと笑い合っている内に夜が深まったのに気付いた。

 外は星々が瞬き、月は空の高い頂点に輝く時間だ。いつもなら眠りについている頃だろう。ヒロコも感じたことは同じだったらしく、彼女は立ち上がってぐっと伸びをした。


「……私、もう寝るわ」

「もう寝るのか」

「明日も朝早くからナルメルに文字を教えてもらうから。早く一人で読めるようになりたいの」


 そうかと呟いて、視線を足元に落とした。


「今日は本当にお疲れ様。……じゃあ、おやすみなさい」


 自分の部屋に去ろうとする彼女の腕を、思わず掴んだ。

 ここで別れるのは惜しい気がした。これだけでは足りない、もっと言いたいことがある。

 腕を急に後ろに引かれてよろめいた彼女をそのまま受け止めた。


「……どうしたの。びっくりするじゃない」


 戸惑いながらも彼女は私と向かい合ってこちらを覗き込む。心配そうに見つめてくる瞳を見つめ返した。


「もう一つ、聞いてほしいことがある」


 相手の黒髪を撫でる。出会った頃よりも幾分か伸びた髪は艶やかで柔らかかった。


「どうしようもなく願う」


 そう。ひたすらに願い続けている。


「お前が本当にアンケセナーメンの甦りだったならばと」


 私が望むのは、彼女が望んではいないこと。

 大きく瞳を揺らす彼女の額に口付けた。ヒロコは驚いたように身を竦めたが、離れがたく感じた私はそのまま彼女を腕に閉じ込めた。


「帰る場所など無く、ここで生きる存在ならばと」


 アンケセナーメン本人であるか否かではない、彼女が私の傍で生きていくはずの存在であったならばと、願い続けて止まないのだ。

 腕の中に納まるこの存在が私は愛おしい。共に戦ってくれる、この道を歩んでくれると微笑む彼女の存在が、何物にも代え難い。


「ヒロコ」


 名を呼ぶと、彼女は戸惑った表情を私に向ける。それでもその眼差しを反らすことはなかった。

 彼女の頬に触れ、己の本能が進むままに自分の唇を彼女の唇に重ねた。彼女は逃げなかった。拒むこともしなかった。

 お互いに求め合う様に触れる口先の感触。熱を持った吐息。もっと味わいたいと思えてならない。彼女の唇の湿り気のある柔らかさが、何より心地よかった。

 相手の強張った身体から力が抜けるのに反して、彼女を抱く腕の力は強まった。

 相手が苦し気に声を漏らしたのを聞いて口先を離すと、恍惚としていた彼女は突然はっとしたように瞳を揺らした。


「わ、私……」


 こちらから目を逸らし、私から距離をとって呆然としたように立ち尽くす。


「私……!」


 小さく身を震わせて首を横に大きく振り、私を押しやり自分の部屋へと駆けて行った。

 一人になった空間で、彼女の熱が残った手を握りしめながら、間違ったことをしただろうかと自分に問いかける。

 間違っていたかもしれない。だが、この胸に燻る想いを、伝えないままでもいられなかった。





 翌朝、ヒロコは起きてこなかった。ネチェルはひどく心配したが、無理に起こさないよう命じて政務に赴いた。

 こちらの想いを押し付けられて、ヒロコがいつものように接してくれる気はしなかった。前のような心地よい関係はもう戻ってこないかもしれない。

 ヒロコはもとの世界に帰ることを心から望んでいる。昨夜の行動は、それを私は望んでいないと告白したも同然だった。

 夕暮れ時に政務を終えて部屋へ戻ろうとすると、まだ部屋に閉じこもったままであることをネチェルから聞いた。いつも通り接することを自分に言い聞かせ、部屋に入る。奥に進むと、自分の部屋に寝間着のままのヒロコはいた。

 床に何やらパピルスを広げ、食い入るようにそれに見入っていた。どうやら私の書物を読んでいるようだった。


「……おん、み……き、」

「──御身、生きてある限り」


 たどたどしい彼女の読みを先導するように、何度も己の中で繰り返した文句を唱えた。彼女が読んでいるのは、自分にとって大事な言葉だった。


「心正しくあれ。人は皆すべて死後に世界ありて」


 ゆっくり彼女の背後に近づくよう歩を進めていく。私に気づいたヒロコは、パピルスに走らせていた指を止めた。


「なせる業ことごとく屍の傍らに降り積むなればなり」


 同時に彼女は私を振り返って見上げた。背後から洩れる夕陽が彼女を橙に染め上げている。


「アンケセナーメンが私に贈った言葉だ。それを教訓とし、私は生きてきた」


 彼女の傍に屈みこみ、彼女が求めるままに、その意味を答え、もう一度その言葉を唱えた。すると彼女は何か重大なことに気づいたかのように身を震わせ、目に涙を浮かべた。


「それ、だわ……」


 ヒロコは私の腕を掴んだ。


「それとは何だ。これのことか?」


 私がパピルスを指差すと彼女は大きく頷く。


「この言葉が……私を、連れて来たの……私をここに落した言葉」


 はっと息を呑む。


「私の声を聞いてヒロコが叫んだというあの言葉か。呪文のようなものだと、思い出せぬと言っていた……」

「アンク、私……!」


 彼女は私の腕を掴む手に力を込めた。その手は震えていた。


「私、帰れるかもしれない……!!」


 ヒロコをもとの世界に戻すことができると言う言葉は、父から兄へ、兄から姉へ、そして私へ受け継がれた大事な言葉だった。

 生まれて初めて、この言葉を憎いと思った。

 それと同時に、この言葉でここへ来たのだと言うヒロコに、今までうっすらとしていた可能性が明らかな形を帯びて自分の前に浮かび上がっていた。彼女は間違いではなく、必然的に私の呼びかけに応えたのではないかと。約束を交わした、姉の代わりに。

 だが、それを彼女に指摘する気にはなれなかった。ヒロコは帰ることを願い続けて、ようやくこの言葉に辿り着いたのだ。ここに残って欲しいとは、口が裂けても言えるものではない。

 初めから、帰る方法が分かるまでアンケセナーメンとして存在する、というのが互いの約束だった。突然いなくなったと騒ぎになるとしても、この約束だけは違えてならないものだと分かっていた。

 ネチェルは悲しむだろうが、私から言えば分かってくれるだろう。アンケセナーメンの存在を失った自分の立場も危うくなるだろうが、神を戻せば何とかなるような気もしてくる。

 いつもであれば具体的な対策がいくつも思いつくのに、こういうときばかり何も浮かばない。悲しいほどに何も思いつかなかった。

 何もできないまま、陽が落ちた夜にヒロコを神殿へ連れて行った。



「……帰るのか」


 ヒロコが落ちてきた場所に二人で立ち、向かい合う。

 出会った頃とは違い、この神殿の中は殺風景に見えた。


「帰らなくちゃ」


 彼女は微笑んで頷く。


「その言葉で本当に……」


 ──戻れるのか。

 そう言い掛けて、続きの言葉を呑み込んだ。

 帰れる可能性をようやく見出して嬉々としている彼女に、今ここで絶望を与えてどうしようと言うのだ。泣き顔を見るのはもううんざりだと思っていたのに。

 「元気で」と一言、声をかけることがこんなにも難しい。

 素直に喜べない自分が嫌だった。相手が湛えているような笑顔をどうしても作れず、彼女の目を真面に見ることが出来なかった。


「ここに来て、1年近く生きてこられたのはあなたのおかげ。本当にありがとう」


 礼を言うのは、こちらの方だ。何度助けられたか。


「──ヒロコ」


 こんなにも急に、別れが来るとは思っていなかった。もっと共にいられると勝手に思い込んでいた。自分は、彼女が戻ることがなければいいと利己的に願っていたのだ。利己的だと分かっていながら、これから去ろうとする彼女を目の前にするとどうしようもなく別れがたく、咄嗟に引き留めようと彼女の手を掴むと、彼女はあの言葉を唱え始めた。

 ──戻るのだ。

 そう悟って離しがたい相手の手を掴んでいた力を緩める。ゆったりと手が離れ、互いの視線が交差する。

 彼女は戻ることを決意したのだ。柔らかな相手の微笑の中に、淋しさのようなものが見えるのは自惚れだろうか。

 少しでもこの別れを寂しいと思ってくれたならいい。離れても私の存在を片隅にでも置いてくれていたら、それ以上のことは望むまい。

 もう会うことはない。これから彼女のいない世界が始まるのだと知った。




 だが、結局ヒロコはその言葉を持ってしても未来に戻ることは出来なかった。

 母を思い、父を思い、帰ることのできない事実を突き付けられ、彼女はその場に崩れて泣いた。


「……どこで、生きればいいの」


 茫然と彼女は神殿の夜の闇に呟く。


「私の傍にいればよい」


 彼女の傍に膝をついた。


「帰る場所を失ったのなら、私のもとで生きればよい」


 私を映した瞳を曇らせ、また大粒の涙をぼろぼろと生み出していく。

 身を震わせる彼女が今にも消えてしまいそうで、思わず手を伸ばしてその身を抱き締めた。


「お、父さん……お母さん」

「ああ」


 分かっている。お前が誰よりも会いたいのはその二人だということは。


「……帰り、たいの」

「分かっている」


 お前が望んでいることは、何より、生まれ育った世界に戻ることだと言うことは。

 つくづく自分は我儘な人間だと思い知らされる。ヒロコが消えなかったことに、僅かにでも安堵を覚えてしまったのだ。


「ヒロコ」


 上げられた顔は涙がずっと伝っていて、目元はひどく赤らんでいた。


「まだ帰れぬと決まった訳ではない。ここへ来たのなら、帰る方法も必ず存在する、そうだろう」


 彼女は唇を震わせる。


「もし、お前が帰ることが出来ぬとも、お前には私の傍にいるという選択肢があることを忘れるな」


 未来に帰ることが出来なかったならば私の傍という居場所を与えよう。永久に失われることのない確固たる身分を。王の正妃という、揺らぐことのないただ一つの地位を。

 だが、お前はそれを望んでいないのだろう。お前が真実欲しているものを、私はしてやれない。


「帰れぬのなら、私がお前の面倒を見よう。この命が尽きるまで」


 こちらの言葉に、彼女は頷くことも拒むこともしなかった。返答に迷っているようだった。

 彼女のこれほどまでに泣いている姿を見ていればその理由が分からない訳がない。家族がいるのなら捨てられるはずもないだろう。

 彼女はこちらが望む言葉をくれなかった。それでも自分は彼女に居場所を与えられる。彼女を救う術がある。彼女のためにしてやれることがある。

 私は彼女が大切なのだ。今何よりも、愛おしいのだ。


「今は泣けば良い」


 もう一度自分の腕の中に抱き締めた。彼女はこちらに身を任せて涙を流し続けた。


「思う存分、私の胸に泣け。いくらでも貸してやる。大丈夫だ」


 その明け方、ついにナイルの氾濫の兆しとも言えるソティスが青い光をもって現れた。

 ナイルの氾濫が、一年の終わりと始まりが、すぐそこにまで来ていた。




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