存在
いつも泣いてばかりいるヒロコは、王の娘として強く在り続けた姉によく似ているというのに、支えてもらうというか、私が支えてやらないと今にも崩れてしまいそうな女だった。
当初は、遠い国の魔術か何かでアンケセナーメンに成り済まし、大国エジプトの王たる私に取り入ろうとしたのかと思えばそうでもなかった。抱こうとすれば泣いて嫌がられ、仕舞には思い切り頬を叩かれた。
話を聞けば、未来から来たのだと彼女は訴えてきた。信じられないことだが、泣きながら訴える相手の姿にそれが嘘だとは思えなかった。
彼女の正体や、何故ここに来たのかに対する答えはいつになっても得られない。本人も分かっていないようだった。ただ、自分がアンケセナーメンを呼んだ声に、遥か遠くの未来にいたというヒロコが何故か応えて私の上に落ちて来た事実だけははっきりしていた。
当初の約束通り、彼女を未来に探す方法を合間を縫っては探してみたが、これと言った方法を見つけることはできなかった。
そもそも何故あの時自分の声が遠くにいる知りもしないヒロコに届いたのかが分からない。あの時の力が漲るような、希望や切実な願いのような、あの不思議な感覚は何だったのか、何もかもが不明のままだった。
政務を終えて様子を見にアンケセナーメンの部屋に寄ると彼女の姿がある。
もとの持ち主の趣味で、壁画にアテンは描かれず、アメンのもとに集う多くの神々が描かれた、王家の姫君に最も相応しい一室。そんな広すぎる部屋に、彼女の背中は随分小さく見えた。
「ヒロコ」
呼べば、背中を向けた彼女が慌てたように腕で顔を擦る。振り返った彼女の目元は真っ赤で拭い切れていない涙の跡が光っていた。
これほどまでに顔は似ていると言うのに、どうしてここまで中身が違うのだろうと思わずにはいられない。
それでもそう思える中に呆れという感情は無かった。両親も友人もいた何もかもが魔術の塊のようなあの世界を一瞬にして失った彼女の気持ちを分からない訳ではない。
自分も同じだったのだ。当たり前のものを突如失うあの感情は、二度と味わいたくはない。
やがて、見知らぬところからこの世界に落ちてきたヒロコは己が置かれた状況を飲み込み、もとの世界に帰る方法が見つかるまでということを条件に、私からの提案──つまり、アンケセナーメンとしてこの宮殿に身を置くことを承諾した。
アイがアンケセナーメンとして存在しているヒロコを邪魔に思っていることは分かり切っていた。危険になることも承知の上でヒロコに王家の姫君の名を名乗らせた。
その事情をおぼろげにしか理解していないヒロコを、名乗らせている自分が守らなければならない。いつ命を狙われるか分からぬと、宮殿からの外出は一切許さず、セテムを傍につけた。
私が日中暇を見て元の世界に帰る術を探し、帰って来ては報告会という形で二人で話し合いをすることが日課となっていった。
彼女が持ってきた荷物の話も興味深い。あまり豊かな乳でもないのに、胸当てがあると教わった。その名もぶらじゃーと言う。そのことに触れるとあからさまに顔を赤らめて取り乱す彼女が面白くてよくからかった。
朝になれば、私が起きるのを待って共に朝食を取る。
全く量を食べないものだから、無理に食べさせようとしたら怒られた。朝食を取ることが楽しいと思えたのは久々だった。
次第に笑顔を見せるようになった彼女は、生き生きとあったことを話すようになった。笑顔を見せるようになった。
帰ると彼女が迎えてくれる。彼女がいる。込み上げる感情の中に懐かしさと共に嬉しさがあった。
帰るのが夜になっても、彼女は起きて私を待っていてくれた。彼女としてはもとの世界の返す方法が見つかったかどうか、聞きたかっただけかもしれない。
部屋に顔を出して彼女の寝台に腰を掛ければ、彼女は一日の出来事を話し始める。ナルメルに教わったこと。セテムの頭が固さや、ネチェルと話して初めて知ったこと。外に出たいと思っていること。
悲しくなるからだろうか。もとの世界、帰りたいと言う世界の話はあまりしなくなっていった。
彼女の話を、たまに相槌を打ったり、頷いたりして話を聞いていく。ふと話が途切れた時、不意に相手の不思議そうな顔に気付いた。
「どうした」
不意に目が合う。
「そんなに面白い?」
ヒロコはそんなことを尋ねてきた。
「だって、あなたずっと笑ってるんだもの」
そう言って彼女は微笑む。
「そうか?」
「ええ、とても。だから、そんなに面白い話をしているかしらって。全部日常のことよ」
今度はこちらがきょとんとしてしまう。自分が笑っているとは気づいていなかった。
「お前の視点は面白いからな」
そうかしら、と彼女はまた微笑んで首を傾げつつも話し始める。
嘘ではなかった。彼女の視点は独特だ。
こちらが気にも留めないような点に疑問を持ち、尋ねてくる。知ると嬉しそうに頷き、次の機会にはその時得た知識を吸収して自分のものにしている。こちらの説明の甲斐もあるものだ。
何より、私自身、こうしているのが楽しかった。
ヒロコは、王である私に何の躊躇いもなく本音でぶつかってきた。
だからこそ、彼女には自分も本音が出そうになった。自分の中に渦巻いているもの、兄や姉にしか零したことのないものをつい吐き出しそうになり、どうせ関係のないことだと思い直して口を噤むと、彼女は何とも悲しそうな顔をした。
話せば少なからず、彼女は巻き込まれることになる。いつか帰ると決めている人間に、ややこしい身の上にある自分のあれこれをこれ以上話す気にはならなかった。
何より、自分はエジプト王として勇猛果敢でなければならない。
ナルメルやセテムにも話さないような不安や弱音など、赤の他人である彼女には尚更零すわけにはいかなかった。
ヒロコの荷物について聞いている時、その中で初めてヨシキという存在を知った。
珍しいものが多くある荷物の中に『シャシン』なるものがある。パピルスではない不思議な薄い用紙の中に、まるで本物の人間が閉じ込められているように映っている絵であった。
描かれている人間の一人であるヒロコが傍にいるのだから、本当に閉じ込められている訳ではないのだろうが、初めてそれを目にした時は自分も吸い込まれるのではないかと警戒してしまった。
そのシャシンに描かれた人間の中にいる、年若い男──ヒロコと同じ色の肌を持った、すらりとした黒髪の男だった。ヒロコはそれをヨシキだと私に教えた。幼い頃より行動を共にした兄のような存在であると。
ならばこの男がヒロコの相手であるのかと漠然と考え付いた。
尋ねると、ヨシキは兄の様な存在であるだけだとヒロコは笑ったが、明らかにその男がヒロコに向ける眼差しには優しさがあった。このヨシキという男はおそらくヒロコに好意を持っている。
はっきりとは言わないが、ヒロコには両親の他に残してきた大事な人間がいるらしい。これはヒロコの帰りたい気持ちが必然的に強くなる理由に十分に成り得た。
ヒロコがもとの世界に戻れば、このヨシキという男はヒロコを妻とするのだろうか。それを考えた時、たとえ少しであってもヨシキに羨望した自分に驚いた。
ヒロコをここに呼んでおいて、もとの世界に帰すことも叶わず、危険な名を名乗らせ、寂しい思いをさせ、それでもって見知りもしない男にやっかみを抱くなど自分も落ちぶれたものだ。
ヒロコはいずれ帰る人間だ。
いずれ、私の傍からいなくなり、そうして私はまた一人歩き続けていかなければならない。それが自分に残された道であり、死ぬまで変わらぬ使命であった。
これが、ヒロコがやって来る前の私が当然としていたさだめだった。
ただ、自分が一人歩いて行く姿を想像した時、それが同時に酷く寂しいものであるように思えた。
ヒロコが襲われたのは、そんな日常が続いたある夜だった。
その日は遅くなるから夜の話し合いは無しとする、待たずに寝ているようにとネチェルを通じて伝えてあったのだが、帰ると無性に彼女の顔が見たくなり、寝ているだろうと分かっていて部屋に向かった。
「まあ、どうなされたのです」
訪ねるとネチェルが驚きながらも迎えてくれた。
「顔が見たくなった」
誰の、とは言わずとも女官長はすぐに察したようだった。
「もうお休みになられておりますよ」
分かっている、と言いつつ相手を見ると、相手は仕方ないと言わんばかりに眉を下げて微笑み、部屋への道を示した。
「ぐっすりお休みでしたから、起こさぬよう願います」
「承知の上だ」
ネチェルが嬉しそうに日中のヒロコの様子を話しているのを聞きながら奥の部屋へ向かう。
もとから面倒見の良いネチェルはヒロコをアンケセナーメンだと信じて疑わず、生前の記憶を失っていることを大いに哀れみ、我が子のように可愛がり、支えようと努めていた。
途中、ふとその傍目に別の侍女がヒロコの寝室に入って行くのを見た。同時にその姿を見たネチェルは眉を潜めた。
「どうした」
尋ねると、ますます女官長が不可解そうな表情を浮かべる。
「いえ、あの侍女がこの時間に姫様の寝室に入るのは少し妙だと……」
言い淀んだネチェルを傍に、はっとして私は駆け出した。
「ファラオ!?」
何に対しても危機感を持っていなければならなかった。その直感と言うべき何かが自分の中で駆け抜け、身体を動かしていた。
勢いに任せて入った寝室で、先程の侍女にヒロコが馬乗りになって襲われていた。背後でネチェルが悲鳴を上げた。そのままネチェルの引きつるような大声が兵を呼び、私は咄嗟にヒロコの上に伸し掛かって首をしめている女を突き飛ばした。
助け出した時は手遅れだったかと慌てて揺さ振ると、ヒロコは大きく息をして咳込み、私を涙ぐむその目に捉えた。大きな安堵と共に、彼女を腕に抱き込んだ。
それでも尚、ヒロコを襲った侍女は再びヒロコを襲おうとし、王家に対する逆賊として私はその侍女を切り捨てた。
ヒロコは初めて目にした死体に大きく動揺し、私の腕から逃れ、悲鳴を上げて蹲った。
自分の部屋に匿った彼女はやはり泣いていた。
「帰りたい……」
寝台に身を横たえながら彼女はそう零す。これが本心、これが心からの彼女の願いなのだ。
「必ず、帰そう」
私の呟くような一言に、彼女は少し驚いたように私を見た。
「お前が帰るまで、私が守ってやる。アイの陰謀のまま無闇に殺させたりはせぬ。生きて、未来に帰そう」
偽りはない。彼女を呼んだつもりはなくとも、ここへ呼んだ張本人は私であることに違いないのだ。
「……できるの?」
泣いていた彼女は驚いたように尋ねてきた。
「偉大なるファラオに出来ぬことなどありはせぬ」
笑い返してもう一度彼女の髪を撫でた。
「約束だ」
私の断言に、彼女は何も答えなかった。
もとの世界の利器だと言う、ケータイを胸に抱いて彼女は目を閉じる。
髪を撫でている間にヒロコは眠りに落ちて行った。すうすうと静かな寝息を立てる彼女の頬には涙の跡がくっきりと残っている。目元は赤く、睫毛には涙の雫があった。
もともと王家の娘として生まれた訳ではないヒロコにとって、ここにいることは、私の傍にいることは、苦痛でしかない。
ここにアンケセナーメンとしている限り、ヒロコは狙われ続けるだろう。今日の取り乱し様を見て、このままでい続ければヒロコはいずれ壊れてしまうかもしれない。
彼女はここにいるはずの存在ではない。私の側は、彼女の居場所ではない。
分かっていたことだ。帰さなければと言うことは。
だが、果たしてどうやって。
色々と考えている内に、寒さを感じたらしい彼女がこちらに身を寄せてきた。
ヒロコの肩が呼吸に合わせてゆっくり動いている。腕を伸ばしてそっと肩に触れたら、優しい温かみが指先に伝わってきた。
彼女が生きていて良かったと強く思う。助けることが出来て良かった。失っていたらと考えると恐ろしかった。
急に何とも言えない感情に襲われ、両腕を横になる彼女の身体に覆うように回した。
少し呻きながらも、ヒロコは私の腕に納まる。感じる柔らかさと温かさに泣きそうになり、いずれは元の世界に帰すと約束を交わしたヒロコの髪に軽く額を付けてぐっと目を閉じた。
視界が黒に染まる中、自分の奥底に、ある感情がぽつりと湧いていたことに気付いた。
──私は、ヒロコを帰したくないのだと。




