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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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118/119

118話 羽生える

「ノアの全部」


「…………」


 一瞬、意味が分からなかった。


 でも、分かった途端に顔が熱くなる。


 全部って。


 全部って……。


 私は反射的に自分の身体をぎゅっと抱きしめた。


「……エッチ」


 ぼそっと呟いてから、少し潤んだ目でシリルさんを見上げる。


「……っ!」


 今度はシリルさんの顔が一気に赤くなった。


「いや、ちがっ……」


 片手をこっちに向けて制するようにしながら、顔を背ける。耳まで真っ赤だ。


「俺が悪かったです。ごめんなさい」

「……」

「そういう意味で言ったんじゃなくて……いや、言い方が悪かったです」


 さっきまで平然としてたのに。


 急に慌ててる。


 ちょっとだけ面白くなって、私は抱きしめていた腕をほどいた。


 ……勝った。


「ふふ」

「……笑ってます?」

「別に」


 まだ顔が赤い。


 たまにはいいでしょう。


 いつも私ばっかり照れさせられてるんだから。


「じゃあ、仕事の話に戻ります?」

「……お願いします」


 私は笑いをこらえながら、面接で使った紙を持ち直した。


 経歴、できること、これまで任されてきた仕事。それから、働くことになった場合の条件。


 視線が、一番下に書き込んだ数字で止まる。


「……高い」


 思わず声に出た。


 いや、分かっている。


 前の世界の言葉で言うなら、レックスさんのことは『ヘッドハンティング』というやつだ。今すでに働いている人を、別のところから誘ってくる。


 しかもレックスさんは、今の職場できちんと評価されていて、待遇にも不満がないらしい。


 そんな人に来てもらうのなら、今より悪い条件を提示するわけにはいかない。


 分かってる。


 分かってるんだけど。


「……やっぱり高いなぁ」

「そこはすいません。ただ、彼以上の人材はいないと思います」


 向かいに座ったシリルさんが、少し申し訳なさそうに言った。


 そこまで言うんだ。


 今日話しただけでも、かなり仕事ができそうなのは分かった。


 お金の管理もできる。予定も組める。外とのやり取りも任せられる。私が今、時間を取られている仕事のかなりの部分を引き受けてもらえそうだ。


 聞いたことへの返事も早かったし、余計なことは言わないのに、必要なことはきちんと伝わってきた。


 かなり有能な人なんだろう。


 だから高いんだろうけど。


 私は紙から顔を上げた。


「レックスさん、かなり有能な方だと思いますけど……リーベル商会の方はいなくなって困らないんですか?」

「そこは大丈夫です。父にも了承を得ています」

「……もう?」

「はい」


 早い。


「彼の父はうちの家令です。そちらにも話は通してあります」

「…………」

「それに、彼自身が納得して今日の面接に来ています」


 私はシリルさんの顔をじっと見た。


 リーベル商会の方にも話を通して、家の方にも話を通して、レックスさん本人とも話をして、その上で今日ここに来てもらって。


 あとは私が決めるだけ。


「シリルさん」

「はい?」

「根回し、良すぎません?」


 一瞬きょとんとしたあと、シリルさんが少し笑った。


「勝手に話を進めるわけにはいきませんから」


 いや。


 そうなんだけど。


 そうなんだけどさ。


 さすがすぎる。


 私が仕事が多い、時間がない、と唸っている間に、この人はそこまで動いていたらしい。


 私はもう一度、面接の紙に目を落とした。


 高い。


 でも、払えない金額ではない。


 シャボンノアだけを売っていた頃とは違う。フィオラ石鹸もある。足用石鹸もあるし、アラボン石鹸もよく売れている。液体石鹸だって、思っていた以上に好調だ。


 これからは王都での販売も始まる。


 売上が増えれば、当然出ていくお金だって増える。材料代、人件費、運搬費、包み紙、説明書、容器。


 考え始めると、頭の中で数字がわらわら動き出す。


「雇うなら、ちゃんと払いたいです」

「はい」

「レックスさんも、今の仕事を辞めて来ることになるんですよね」

「そうなります」


 そうだ。


 こちらが気軽に「とりあえず働いてもらって、合わなかったらやめればいい」と考えていい話ではない。


 レックスさんは、今ある仕事を手放してこちらへ来ることになる。


 私だって、人を一人雇うなら、その人の生活に責任を持つことになる。


 雇う私も、来てもらうレックスさんも。


 ちゃんと覚悟を持って決めないといけない。


 私は紙の上の数字をもう一度見た。


「……やっぱり、レックスさんを雇いたいです」


 口に出してみると、不思議なくらい迷いはなかった。


 高いけど。


 すごく高いけど。


「私が今やってる仕事を任せられたら、かなり時間が空くと思うんです」

「商品開発の時間ですか?」

「はい」


 それが一番大きい。


 売ることも大事だし、お金の管理も大事。王都のことも、仕入れも、人のことも、全部大事だ。


 でも私は、新しいものを考えている時間が一番好きだ。


 石鹸の配合を変えてみたり、香りを考えてみたり、液体石鹸の使い心地をもっと良くできないか試してみたり。


 髪がもっとさらさらになる何かを――。


 そこまで考えて、昨夜、自分の髪を指に巻きつけながら考えていたことを思い出す。


 違う。


 今は仕事の話だ。


「それに、私が全部やる必要もないんですよね」

「そうですね」


 少し肩の力が抜けた。


 店を始めた頃は、何もかも自分でやるのが当たり前だった。


 でも、人が増えて、商品が増えて、店そのものが少しずつ大きくなってきた。


 いつまでも全部を自分で抱える方が、たぶん無理がある。


「店の方も考えないとですよね」

「店?」

「はい」


 今まで、店主だから私が店にいるのが当たり前だと思っていた。


 接客をして、商品を作って、仕入れをして、お金を見て、人を雇って、新しい商品も考える。


 ……多い。


 よく今まで全部やってたな、私。


「ノエルに、店長をお願いしようかな」


 シリルさんが少し目を見開いた。


「店長ですか」

「はい。もう四か月くらい働いてくれてますし、私がいない時もほとんど店を任せてますし。王都の販売員さんが研修に来た時も教えてくれたし」


 ノエルはもう、最初に来た頃とは全然違う。


 商品のことも分かっているし、お客さんへの対応もできる。私が奥にいても、安心して店を任せられる。


 何より、シャボンノアをちゃんと自分の働く店として大事にしてくれている。


「いいと思います」

「ですよね」


 口にしたら、急にしっくりきた。


 私が店主として全部を見るんじゃなくて、私はもっと店全体のことを考える。


 ノエルには、店のことを任せる。


「ただ、店長になってもらうなら、お給料も上げないと」

「それは必要でしょうね」

「責任増えますもんね」

「はい」


 また人件費が増えた。


 レックスさん。


 ノエルの昇給。


 私は面接の紙を見つめた。


「……人って、高いですね」

「有能な人材は高いですよ」

「うぅ」


 正論だった。


 でも、そこで一つ気づく。


「あ」

「どうしました?」

「ノエルを店長にしたら、販売する人も増やさないと」


 店長にしたのに、一日中ずっとレジと接客に立たせていたら、今までと何も変わらない。


 ノエルだって毎日働けるわけじゃないし、休みも必要だ。


 それに王都での販売が始まれば、こっちの店の仕事だってもっと増えるかもしれない。


「販売員、一人じゃ足りないですよね」

「そうでしょうね」

「二人くらい……」


 言った瞬間、頭の中で人件費がさらに膨らんだ。


 レックスさん。


 ノエルの昇給。


 新しい販売員が二人。


 材料費。


 王都への運搬費。


「…………」

「ノア?」

「お金って、羽が生えてますね」


 シリルさんが吹き出した。


 でも、私は机の上の紙を指でなぞった。


 前なら、人を雇うお金がもったいないと思っていたかもしれない。


 自分でできるなら、自分でやればいい。その方がお金はかからない。


 でも今は、そのせいで新しい商品を考える時間までなくなっている。


 私が一時間帳簿とにらめっこしている間に、レックスさんならもっと早く終わらせられるかもしれない。


 ノエルがずっと店頭に立ち続けなくてもよくなれば、店全体を見る余裕ができる。


 販売員が増えれば、誰かが休んでも店を回せる。


 その分、私は新しいものを作れる。


 全部を自分でやることが、一番安いとは限らないのかもしれない。


「……販売員、募集してみようかな」

「ギルドに頼みますか?」

「それも考えたんですけど」


 前はギルドに助けてもらった。


 でも今度は、店の前に出してみてもいい気がする。


「『販売員募集』って、店に貼ってみようかな」

「いいと思います」

「シャボンノアで働きたいって思って来てくれる人がいたら、その人に会ってみたいです」


 私は新しい紙を一枚取った。


 販売員募集。


 勤務日。


 時間。


 お給料。


 どこまで書けばいいんだろう。


「……面接も、ちゃんとしないと」


 今日のレックスさんの面接は、思っていた以上に疲れた。


 でも、ああやっていろいろ聞いてみると、その人がどういうことを考えているのか、少しだけ分かる。


 今度は、どんな人が来るんだろう。


 私はそんなことを考えながら、紙の一番上に大きく文字を書いた。

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