117話 高い人
レックスさんが帰ったあと、私は面接で使った紙をもう一度眺めていた。
経歴、できること、これまで任されてきた仕事。それから、働くことになった場合の条件。
視線が、一番下に書き込んだ数字で止まる。
「……高い」
思わず声に出た。
いや、分かっている。
前の世界の言葉で言うなら、レックスさんのことは『ヘッドハンティング』というやつだ。今すでに働いている人を、別のところから誘ってくる。
しかもレックスさんは、今の職場できちんと評価されていて、待遇にも不満がないらしい。そんな人に来てもらうのなら、今より悪い条件を提示するわけにはいかない。
分かってる。
分かってるんだけど。
「……やっぱり高いなぁ」
「そこはすいません。ただ、彼以上の人材はいないと思います」
向かいに座ったシリルさんが、少し申し訳なさそうに言った。
そこまで言うんだ。
今日話しただけでも、かなり仕事ができそうなのは分かった。
お金の管理もできる。予定も組める。外とのやり取りも任せられる。私が今、時間を取られている仕事のかなりの部分を引き受けてもらえそうだ。
聞いたことへの返事も早かったし、余計なことは言わないのに、必要なことはきちんと伝わってくる。
かなり有能な人なんだろう。
だから高いんだろうけど。
私は紙から顔を上げた。
「レックスさん、かなり有能な方だと思いますけど……リーベル商会の方はいなくなって困らないんですか?」
「そこは大丈夫です。父にも了承を得ています」
「……もう?」
「はい」
早い。
「彼の父はうちの家令です。そちらにも話は通してあります」
「…………」
「それに、彼自身が納得して今日の面接に来ています」
私はシリルさんの顔をじっと見た。
リーベル商会の方にも話を通して、家の方にも話を通して、レックスさん本人とも話をして、その上で今日ここに来てもらって。
あとは私が決めるだけ。
「シリルさん」
「はい?」
「根回し、良すぎません?」
一瞬きょとんとしたあと、シリルさんが少し笑った。
「勝手に話を進めるわけにはいきませんから」
いや。
そうなんだけど。
そうなんだけどさ。
さすがすぎる。
私が仕事が多い、時間がない、と唸っている間に、この人はそこまで動いていたらしい。
私はもう一度、面接の紙に目を落とした。
高い。
でも、払えない金額ではない。
シャボンノアだけを売っていた頃とは違う。フィオラ石鹸もある。足用石鹸もあるし、アラボン石鹸もよく売れている。液体石鹸だって、思っていた以上に好調だ。
これからは王都での販売も始まる。
売上が増えれば、当然出ていくお金だって増える。材料代、人件費、運搬費、包み紙、説明書、容器。
考え始めると、頭の中で数字がわらわら動き出す。
「雇うなら、ちゃんと払いたいです」
「はい」
「レックスさんも、今の仕事を辞めて来ることになるんですよね」
「そうなります」
そうだ。
こちらが気軽に「とりあえず働いてもらって、合わなかったらやめればいい」と考えていい話ではない。
レックスさんは、今ある仕事を手放してこちらへ来ることになる。
私だって、人を一人雇うなら、その人の生活に責任を持つことになる。
雇う私も、来てもらうレックスさんも。
ちゃんと覚悟を持って決めないといけない。
私は紙の上の数字をもう一度見た。
「……やっぱり、レックスさんを雇いたいです」
口に出してみると、不思議なくらい迷いはなかった。
高いけど。
すごく高いけど。
「私が今やってる仕事を任せられたら、かなり時間が空くと思うんです」
「商品開発の時間ですか?」
「はい」
それが一番大きい。
売ることも大事だし、お金の管理も大事。王都のことも、仕入れも、人のことも、全部大事だ。
でも私は、新しいものを考えている時間が一番好きだ。
石鹸の配合を変えてみたり、香りを考えてみたり、液体石鹸の使い心地をもっと良くできないか試してみたり。
髪がもっとさらさらになる何かを――。
そこまで考えて、昨夜、自分の髪を指に巻きつけながら考えていたことを思い出す。
違う。
今は仕事の話だ。
「それに、私が全部やる必要もないんですよね」
「そうですね」
少し肩の力が抜けた。
店を始めた頃は、何もかも自分でやるのが当たり前だった。でも、人が増えて、商品が増えて、店そのものが少しずつ大きくなってきた。
いつまでも全部を自分で抱える方が、たぶん無理がある。
「……シリルさんも、もう一回雇ってみたいなぁ」
何となく口にすると、シリルさんがこちらを見た。
「俺の給料は高いですよ」
「えー? いくらですかー?」
冗談のつもりで聞いた。
するとシリルさんは、にっこり笑った。
「ノアの全部」




