116話 知らない店
指定された時間より、かなり早く店に着いた。
シリル様から言われていたのは閉店後。店主と話す時間を取ってあるから、その頃に来てほしいということだった。
もちろん覚えている。忘れたわけではない。
ただ、これから働くかもしれない場所を見るのに、人のいなくなった店だけ見ても仕方がないと思った。
どんな客が来るのか。どういう接客をしているのか。商品をどう売っているのか。そして何より、店主がどういう人間なのか。
シリル様には随分高く買われているようだったが、それだけで俺がここへ移る理由にはならない。
今の仕事に大きな不満があるわけではない。給料もいいし、リーベル商会という働き口にも不満はない。営業としての成績も悪くない。
だからこそ、わざわざここへ移るだけの理由があるのかは、自分の目で確かめたかった。
扉を開けると、軽いベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、若い女性だった。
あれが店主だろう。
聞いていたより若く見える。
「初めてなので、少し見せてもらっても?」
「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」
それだけ言うと、彼女はすぐに別の客のところへ戻っていった。
特別扱いはなしか。
まあ、こちらが名乗っていないのだから当然ではある。
店内をゆっくり見て回る。
最初に目についたのは、商品の並べ方だった。
棚には包装された商品が整然と並び、その前には中身の分かる見本が置かれている。客はまず見本を確認して、それから欲しい商品を自分で手に取る。
さらに、商品ごとに小さな説明が添えられていた。
文字だけではない。
「……絵?」
小さな生き物のようなイラストが、使い方を説明している。
身体のどこに使うものなのか。どう使うのか。文章を全部読まなくても、大体の意味が分かる作りになっていた。
変わったことをする。
「こちらはシャボンノアです。体全体に使っていただけますし、簡単な洗い物なんかにも使えますよ」
「こっちは?」
「こちらはフィオラ石鹸です。使い心地はシャボンノアと似ていますけど、香りを楽しみたい方向けですね」
少し離れたところから、店主の声が聞こえた。
客の質問に答えながら、商品の違いを簡潔に説明している。必要以上に喋らないが、客が迷えばすぐに補足する。
売るというより、選ばせているように見えた。
俺は次の棚へ視線を移し、そこで少し足を止めた。
「……なんだ、これ」
石鹸だ。
それは分かる。
ただし、妙な形をしている。
丸でも四角でもない。何かの生き物を模したような形で、どう見ても実用品というより飾り物に近い。
「それ、アラボン石鹸っていうんです」
いつの間にか、店主が近くに来ていた。
「アラボン?」
「はい。この子です」
指さされた先には、さっき説明書にも描かれていた生き物の絵がある。
「石鹸を……この形に?」
「かわいいでしょう?」
返ってきた答えは、それだけだった。
「中身は普通のシャボンノアと同じなんですけど、型に入れる分少し手間がかかるので、値段はちょっと高いです」
「それでも売れるんですか?」
「売れますよ。結構人気です」
店主がにこっと笑う。
中身が同じでも、形を変えれば別の商品として価値が生まれる。
そんな売り方は考えたことがなかった。
「面白いですね」
「ですよね!」
なぜか店主の方が嬉しそうだった。
そのまま別の客に呼ばれ、また店の奥へ戻っていく。
忙しい人だ。
しばらく見ていると、店先と奥を何度も往復しているのが分かった。商品を補充し、客に説明し、会計を済ませ、また裏へ戻る。
それでも、客の前では慌てた様子を見せない。
そのうち、見覚えのある商品が目に入った。
液体石鹸。
最近、リーベル商会でも扱い始めたものだ。
俺は担当ではないから詳しくは知らないが、売れ行きはかなりいいと聞いている。
横には、陶器製の妙な容器が置かれていた。
「そちら、気になりますか?」
また店主が声をかけてくる。
「はい。これは固形ではないんですね」
「液体石鹸です。髪用に作ってあります」
彼女は隣の容器を手で示した。
「こちらの液体石鹸専用ボトルに入れて使っていただくのがおすすめです」
「専用の?」
「はい。上から補充して、下を押すと一回分だけ出るようになってるんです。あちらで試せますよ」
実際に試してみる。
下の部分を押すと、決まった量が出た。
「なるほど……」
商会で見た時は、単に新しい商品くらいにしか思っていなかった。
だが、実際に使い方まで説明されると、よく考えられている。
液体を作っただけではない。
それをどう使わせるかまで、一緒に考えている。
「毎回同じくらい出るんですね」
「そうなんです。出しすぎにくいようにしてあります」
また、何でもないことのように言う。
店を見始めた時より、少しだけ興味が湧いていた。
やがて閉店時間が近づき、客が少なくなっていく。
最後まで残ってしまった俺に、店主は嫌な顔一つせず声をかけた。
「お待たせしてしまってすいません。もうすぐ閉店なんですけど、どれか気に入ったものはありましたか?」
本来なら、こちらが待たせてもらっている立場だ。
そう答えようとしたところで、扉のベルが鳴った。
「こんばんは」
シリル様だった。
俺を見るなり、少し眉を寄せる。
「……レックスさん」
「どうも」
「早いですね」
「そうですか?」
「閉店後に来てもらう話だったと思いますけど」
「時間を間違えたんじゃないですかね」
「……わざとですよね」
「何のことでしょう」
横で、店主が俺たちを交互に見ている。
「えっ。この方がレックスさんだったんですか?」
ようやく気づいたらしい。
驚いてはいるが、嫌そうな顔はしない。
「あなたがレックスさんだったんですね。気づかず普通に接客してしまって、すいません」
「いえ。むしろ、その方がよかったです」
「え?」
「店の様子も見られましたし」
「そうだったんですね」
それだけ言って、あっさり納得した。
店主――ノアさんは「少し片付けしますので」と言って、また仕事へ戻っていった。
しばらくして店が閉まり、従業員たちも帰っていく。
小さなテーブルを挟んで、俺とノアさんが向かい合った。シリル様は少し横に座っている。
「改めまして。シャボンノアの店主をしています、ノアです」
「レックスと申します。シリル様よりお話をいただきました」
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
ここまでは普通だった。
俺も、軽い顔合わせと仕事内容の確認くらいだと思っていた。
ノアさんが一枚の紙を取り出すまでは。
「では、いくつか質問させてください」
紙を見る。
項目が並んでいる。
かなり並んでいる。
「まず、現在のお仕事について教えていただけますか?」
「……営業です。主に取引先との交渉や、新規の商談を担当しています」
「今のお仕事はどれくらい?」
「五年ほどです」
「それ以前は?」
「商会内で別の部署をいくつか経験しています」
ノアさんは答えを聞きながら、紙へ何かを書き込んでいく。
「帳簿や金銭管理の経験はありますか?」
「あります」
「どの程度まで?」
「日々の収支確認から月単位の集計、仕入れや支払いの確認までなら問題ありません」
「予定管理は?」
「できます」
「外部との交渉は今のお仕事で?」
「はい」
質問が途切れない。
俺はちらりとシリル様を見る。
……聞いてない、という顔をしていた。
どうやらシリル様も知らなかったらしい。
「では次です」
まだあるのか。
「仕事をする上で、一番大事にしていることは何ですか?」
少し考える。
「信用です」
「理由を聞いても?」
「仕事は一度きりではないので。目先で得をして信用を失うより、長く付き合える相手を増やす方が、結果的に利益になります」
ノアさんが頷き、また書き込む。
「では、帳簿の数字に不自然なところを見つけた場合は?」
「まず自分の見落としがないか確認します。それでも合わなければ、元の記録まで遡ります」
「誰かのミスだと分かったら?」
「隠しません。店主に報告します」
「相手が自分より立場が上でも?」
「関係ありません」
ノアさんの筆が止まり、少しだけ笑った。
「分かりました」
なんだ、この面接。
小さな石鹸屋の店主と話をするだけ。
そんなつもりで来た自分を、そろそろ完全に訂正した方がよさそうだった。
「次に、こちらで働くことについてなんですが」
ノアさんが紙をめくる。
「レックスさんがシャボンノアで働きたいと思った理由を聞かせてください」
「……」
言葉が止まった。
横でシリル様が、ほんの少しだけ口元を緩めた気がする。
腹が立つ。
「シリル様から話をいただいたのがきっかけです」
「はい。それは聞いてます」
ノアさんは普通に頷いた。
「でも、それはここへ来たきっかけですよね。レックスさん自身は、ここで働くことについてどう思ってますか?」
痛いところを突く。
俺は店主を見る側のつもりで来た。
俺がこの店で働く価値があるかを判断する。そのつもりだった。
だが、向こうからすれば当然だ。
俺を雇う価値があるのかを判断する。
シリル様が言っていた通りだ。
俺も、選ばれる側だった。
「正直に言えば」
少し姿勢を直す。
「来るまでは、それほど興味はありませんでした」
「そうなんですね」
怒りもしない。
ただ、続きを待っている。
「今の職場に不満があるわけでもありません。待遇もいい。仕事もそれなりに評価されています」
「はい」
「ただ、自分が一番向いている仕事かと聞かれると、以前から少し疑問はありました」
営業はできる。
結果も出せる。
だが、父や兄たちと同じように学んできたものは、それだけではない。
帳簿を管理し、人の予定を整え、必要になる前に準備をする。誰かが本来やるべき仕事に集中できるよう、その周囲を整える。
そういう仕事の方が、昔から性に合っていた。
「今日、店を見て少し考えが変わりました」
「どういうところで?」
俺は店内を見回した。
「まず、見たことのないものが多い」
「見たことのないもの?」
「アラボン石鹸。絵で使い方を説明している紙。それから液体石鹸の専用ボトル」
「ああ」
ノアさんにとっては、それほど特別なことではないらしい。
「液体石鹸と、あのボトルもノアさんが考えたんですか?」
「はい。液体石鹸は私が作りました。ボトルは、こういうものが欲しいって職人さんにお願いして、試作品を作ってもらったんです」
「……やっぱり」
リーベル商会で最近扱い始めた商品。
売れ行きがいいとは聞いていた。
その開発者が、目の前にいるこの人だったのか。
客が分かりやすいように絵を使う。
石鹸をかわいい形にする。
液体にしたなら、それを使いやすくする容器まで考える。
俺には、どれも見たことのない発想だ。
なのに本人は、それを大げさなことだと思っていない。
「面白い店だと思いました」
素直にそう言った。
「ありがとうございます」
ノアさんが嬉しそうに笑う。
面接は、さらに続いた。
希望する仕事内容。勤務できる日。今の仕事を辞めるならいつ頃になるのか。希望する給与。秘密にすべき情報をどう扱うか。
給与の話では、俺も遠慮しなかった。
安く働くつもりはない。
その数字を聞いたノアさんは一瞬だけ目を見開いたが、それでも「分かりました」と紙に書き込んだ。
値切らないのか。
そこも少し意外だった。
しばらくして、ノアさんが紙を置いた。
「私から聞きたいことは以上です。レックスさんから、こちらに何か質問や疑問はありますか?」
今度はこちらの番らしい。
聞きたいことはいくつかあった。
仕事内容。給与。休み。
だが、その前に一つ確かめたかった。
「この店を、これからどうしたいと思っていますか?」
ノアさんが少し目を丸くする。
横にいたシリル様も、こちらを見た。
「店の未来、という意味です」
「未来……」
ノアさんは少し考えたあと、店内を見回した。
「まずは、王都でちゃんと売れるようにしたいです。それから、必要としてくれる人にもっと商品を届けられるようにはしたいです」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、大きくすること自体が目的ではないんです」
「というと?」
「店舗を何十個も増やしたいとか、とにかく大きな商売にしたいとか、そういうことじゃなくて。私は新しいものを考えたり、作ったりする時間をちゃんと持っていたいんです」
少し困ったように笑う。
「便利なものとか、使って楽しくなるものとか。そういうのを考えるのが一番好きで」
なるほど。
その答えを聞いた瞬間、俺の中で何かが繋がった。
この人は、店を大きくしたくないわけじゃない。
大きくすることそのものに、興味がないのだ。
だが、この店はたぶん、本人が望むかどうかに関係なく大きくなる。
商品に力がある。
他では見ない発想がある。
王都での販売も始まる。
今日一日見ただけでも、客は次々やって来ていた。
問題があるとすれば、店そのものではない。
仕組みだ。
今のままでは、店主本人が全部を抱えすぎている。
商品を考える人間が、帳簿や予定や連絡に時間を取られている。
それでは、いずれ回らなくなる。
だが。
俺が入れば。
帳簿を整理できる。
予定を管理できる。
外との連絡も、交渉もできる。
店主が新しいものを作ることに集中できるよう、周囲を整えられる。
その先で、この店がどこまで育つのか。
見てみたい。
いや。
育ててみたい。
気づけば、口元が少し上がっていた。
「レックスさん?」
「いえ」
少しだけ笑いを抑える。
「働くとしたら、退屈はしなさそうだと思っただけです」
「退屈は……しないと思います」
ノアさんが真面目な顔で答えた。
たぶん本人は、冗談ではない。
俺は椅子に座り直した。
来る前とは、ずいぶん気分が変わっていた。
今の職場は悪くない。
給料もいい。
それでも、ここなら今まで身につけてきたものを全部使えるかもしれない。
誰かを支えるための仕事。
仕組みを整える仕事。
まだ小さいものを、自分の手で育てていく仕事。
俺がやりたかったことが、ここには妙に詰まっている。
……多少給料が下がったとしても。
それでも、やってみたい。
そんなことを考えている自分に、少し驚いた。
最初は、俺がこの店を選ぶつもりだった。
今は違う。
この人に、自分を選ばせてみたい。
そして、その先で。
この店がどこまで大きくなるのか、見てみたくなっていた。




