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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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114/119

114話 順番

翌日、俺は仕事の合間を縫って父のところへ向かった。


 昨日、ノアと話してからずっと考えていた。


 彼女が困っているのは、仕事そのものが嫌だからでも、店が忙しいからでもない。むしろ逆だ。やりたいことが多すぎるのに、それ以外の仕事に時間を取られている。


 特に、会計や帳簿の整理。


 そこを誰かに任せられれば、かなり違うはずだ。


 ノアが言っていた条件は単純だった。


 計算ができること。


 そして、信用できること。


 それなら、一人の人物が思い浮かんだ。


 父の執務室を訪ねると、ちょうど書類を読んでいた父が顔を上げた。


「珍しいな。何かあったか?」

「少し相談があります」

「お前が俺に相談とは、ますます珍しい」


 そう言いながらも、父は手にしていた書類を置いた。向かいの椅子を勧められ、俺は腰を下ろす。


「シャボンノアで、人を一人探しています」

「人?」

「会計や帳簿、それから店主の補佐ができる人です。できれば予定の管理や、今後増える外部とのやり取りも任せられると助かります」

「随分求めるな」


 その通りだと思う。


 ただ計算ができればいいわけじゃない。店の売上も仕入れも、場合によっては今後の商売の計画まで知ることになる。


 ノアが安心して任せられる相手でなければ意味がない。


「それで、レックスをシャボンノアへ引き抜きたいと思っています」


 父が一度、瞬きをした。


「……レックスを?」

「はい」

「もう目星までつけてるなら、相談というより報告じゃないか?」

「まだ引き抜いてません」

「当たり前だ」


 父が呆れたように息を吐く。


 レックスは、うちの家令を務めるアーノルドの三男だ。二十九歳で、今はリーベル商会の営業として働いている。


 昔から知っている。


 仕事はできるし、数字にも強い。口も堅く、人前に出して不安になるような男でもない。幼い頃からアーノルドのもとで家令として必要な教育を受けてきたから、帳簿や予定管理、人を補佐する仕事も一通り身につけている。


 今は営業として十分な結果を出しているが、あの仕事が一番向いているかと言われれば、少し違う気がしていた。


「理由は分かった。ただ、レックスは今の部署でもかなり働いてるぞ」

「知ってます」

「給料も安くない」

「それも」

「それでも欲しいと?」

「はい」


 父がしばらく俺を見る。


「……ノアさんのためか」

「そうです」


 迷う理由はなかった。


 最近のノアは明らかに働きすぎている。商品開発に使いたい時間まで削られているし、俺が迎えに行けば安心して残業までしてしまう。


 それは困る。


 もちろん、ノアの体が心配なのが一番だ。


 ただ、正直に言えば――俺との時間まで減っているのも不満だった。


 せっかく付き合えるようになったのに、最近は仕事が終わるのを横で待っている時間の方が長い。一緒に住む話だってまだこれからなのに、この調子では家を見る時間すらいつになるか分からない。


 なら、困っている原因を一つずつ減らせばいい。


 その方が早い。


「何か余計なこと考えてないか?」

「考えてません」

「そうか?」


 父の視線から逃れるように、少しだけ座り直した。


「とにかく、レックス本人が了承するなら、俺は構わない。……かなり惜しいがな」


 父が苦笑する。


「あいつは優秀だ。今の部署でも十分戦力になってる。ただ、こちらの従業員を引き抜くんだ。条件はきちんと提示しろよ」

「もちろんです」

「それと、先にアーノルドにも話を通しておけ」

「そのつもりです」


 父の了承をもらい、その足でアーノルドのところへ向かった。


「シリル様。どうかなさいましたか」

「少し、レックスのことで相談があって」


 事情を説明すると、アーノルドは黙って最後まで聞いていた。


「なるほど。シャボンノアで」

「はい。本人が嫌なら無理にとは思ってません。ただ、条件に合う人間を考えた時、一番最初に浮かびました」

「それは光栄なことです」


 アーノルドはそう言ったあと、わずかに考えるように目を伏せた。


「レックスは今の仕事もきちんとこなしています。ただ……」

「ただ?」

「あれが今の仕事を生涯続けたいと思っているかどうかは、私にも分かりません」


 少し意外だった。


「何か言ってたんですか?」

「いいえ。あれはそういうことをあまり口にしませんから。ただ、幼い頃から兄たちと同じ教育を受けてきました。人のそばで支える仕事の方が、性には合っているでしょう」


 やはり、俺の見立ては間違っていなさそうだ。


「ですが、二十九にもなる息子の仕事を私が決めるわけにはいきません」

「もちろんです」

「話をすることに異存はありません。あとは本人にお聞きください」


 これで話をするための筋は通った。


 翌日、俺は商会でレックスを捕まえた。


「シリル様から話があるなんて珍しいですね」


 昔から変わらない、落ち着いた口調だった。整った身なりも姿勢もアーノルドによく似ているが、父親より少しだけくだけたところがある。


「仕事の話です」

「営業なら担当を通してください」

「違います。引き抜きです」

「……俺を?」


 さすがに少し驚いたらしい。


「シャボンノアで、店主の補佐をしてくれる人を探しています。帳簿や会計、予定管理、対外的な連絡。今後は王都販売も始まるので、その辺りも含めて」

「なるほど」


 レックスはすぐには返事をせず、俺の話を最後まで聞いた。


「今の仕事より、あなたの得意分野を活かせると思っています」

「随分買ってくれてますね」

「できない人には声をかけません」


 そう言うと、レックスが少し笑った。


「父には?」

「話しました」

「会長には?」

「先に了承をもらいました」

「……相変わらず抜け目ないですね」


 褒められたと思っておく。


「それで、どうですか?」

「そうですね」


 レックスは少し考えてから、俺を見る。


「店主に会ってから決めます」

「彼女に?」

「俺が仕えることになるのは、あなたじゃないんでしょう?」

「そうです」

「なら、本人を見ないと決められません」


 もっともな話だ。


 ただ、俺は少しだけ身を乗り出した。


「一つ、忘れないでください」

「なんでしょう」

「あなたが彼女を気に入ったとしても、彼女があなたを選ばない可能性もあります」


 レックスの眉がわずかに上がる。


「今回は、あなたも選ばれる側です」


 一瞬、静かになった。


 それから、レックスの口元がゆっくりと上がる。


「……なるほど」


 笑っている。


 でも、その目はさっきまでとは少し違っていた。面白いものを見つけた時みたいに、わずかにぎらついている。


「それは、面白そうですね」


 どうやら挑戦として受け取ったらしい。


「では、ぜひ会わせてください。その店主に」

「もちろんです」

「あと」


 レックスが淡々と続ける。


「先に言っておきますけど、俺は安くないですよ」

「……知ってます」


 思わず笑った。


 ノアが聞いたら、どんな顔をするだろう。


 まあ、それは会ってから考えればいい。


 とりあえず、これで一つ。


 ノアから時間を奪っているものを、減らせるかもしれない。

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