114話 順番
翌日、俺は仕事の合間を縫って父のところへ向かった。
昨日、ノアと話してからずっと考えていた。
彼女が困っているのは、仕事そのものが嫌だからでも、店が忙しいからでもない。むしろ逆だ。やりたいことが多すぎるのに、それ以外の仕事に時間を取られている。
特に、会計や帳簿の整理。
そこを誰かに任せられれば、かなり違うはずだ。
ノアが言っていた条件は単純だった。
計算ができること。
そして、信用できること。
それなら、一人の人物が思い浮かんだ。
父の執務室を訪ねると、ちょうど書類を読んでいた父が顔を上げた。
「珍しいな。何かあったか?」
「少し相談があります」
「お前が俺に相談とは、ますます珍しい」
そう言いながらも、父は手にしていた書類を置いた。向かいの椅子を勧められ、俺は腰を下ろす。
「シャボンノアで、人を一人探しています」
「人?」
「会計や帳簿、それから店主の補佐ができる人です。できれば予定の管理や、今後増える外部とのやり取りも任せられると助かります」
「随分求めるな」
その通りだと思う。
ただ計算ができればいいわけじゃない。店の売上も仕入れも、場合によっては今後の商売の計画まで知ることになる。
ノアが安心して任せられる相手でなければ意味がない。
「それで、レックスをシャボンノアへ引き抜きたいと思っています」
父が一度、瞬きをした。
「……レックスを?」
「はい」
「もう目星までつけてるなら、相談というより報告じゃないか?」
「まだ引き抜いてません」
「当たり前だ」
父が呆れたように息を吐く。
レックスは、うちの家令を務めるアーノルドの三男だ。二十九歳で、今はリーベル商会の営業として働いている。
昔から知っている。
仕事はできるし、数字にも強い。口も堅く、人前に出して不安になるような男でもない。幼い頃からアーノルドのもとで家令として必要な教育を受けてきたから、帳簿や予定管理、人を補佐する仕事も一通り身につけている。
今は営業として十分な結果を出しているが、あの仕事が一番向いているかと言われれば、少し違う気がしていた。
「理由は分かった。ただ、レックスは今の部署でもかなり働いてるぞ」
「知ってます」
「給料も安くない」
「それも」
「それでも欲しいと?」
「はい」
父がしばらく俺を見る。
「……ノアさんのためか」
「そうです」
迷う理由はなかった。
最近のノアは明らかに働きすぎている。商品開発に使いたい時間まで削られているし、俺が迎えに行けば安心して残業までしてしまう。
それは困る。
もちろん、ノアの体が心配なのが一番だ。
ただ、正直に言えば――俺との時間まで減っているのも不満だった。
せっかく付き合えるようになったのに、最近は仕事が終わるのを横で待っている時間の方が長い。一緒に住む話だってまだこれからなのに、この調子では家を見る時間すらいつになるか分からない。
なら、困っている原因を一つずつ減らせばいい。
その方が早い。
「何か余計なこと考えてないか?」
「考えてません」
「そうか?」
父の視線から逃れるように、少しだけ座り直した。
「とにかく、レックス本人が了承するなら、俺は構わない。……かなり惜しいがな」
父が苦笑する。
「あいつは優秀だ。今の部署でも十分戦力になってる。ただ、こちらの従業員を引き抜くんだ。条件はきちんと提示しろよ」
「もちろんです」
「それと、先にアーノルドにも話を通しておけ」
「そのつもりです」
父の了承をもらい、その足でアーノルドのところへ向かった。
「シリル様。どうかなさいましたか」
「少し、レックスのことで相談があって」
事情を説明すると、アーノルドは黙って最後まで聞いていた。
「なるほど。シャボンノアで」
「はい。本人が嫌なら無理にとは思ってません。ただ、条件に合う人間を考えた時、一番最初に浮かびました」
「それは光栄なことです」
アーノルドはそう言ったあと、わずかに考えるように目を伏せた。
「レックスは今の仕事もきちんとこなしています。ただ……」
「ただ?」
「あれが今の仕事を生涯続けたいと思っているかどうかは、私にも分かりません」
少し意外だった。
「何か言ってたんですか?」
「いいえ。あれはそういうことをあまり口にしませんから。ただ、幼い頃から兄たちと同じ教育を受けてきました。人のそばで支える仕事の方が、性には合っているでしょう」
やはり、俺の見立ては間違っていなさそうだ。
「ですが、二十九にもなる息子の仕事を私が決めるわけにはいきません」
「もちろんです」
「話をすることに異存はありません。あとは本人にお聞きください」
これで話をするための筋は通った。
翌日、俺は商会でレックスを捕まえた。
「シリル様から話があるなんて珍しいですね」
昔から変わらない、落ち着いた口調だった。整った身なりも姿勢もアーノルドによく似ているが、父親より少しだけくだけたところがある。
「仕事の話です」
「営業なら担当を通してください」
「違います。引き抜きです」
「……俺を?」
さすがに少し驚いたらしい。
「シャボンノアで、店主の補佐をしてくれる人を探しています。帳簿や会計、予定管理、対外的な連絡。今後は王都販売も始まるので、その辺りも含めて」
「なるほど」
レックスはすぐには返事をせず、俺の話を最後まで聞いた。
「今の仕事より、あなたの得意分野を活かせると思っています」
「随分買ってくれてますね」
「できない人には声をかけません」
そう言うと、レックスが少し笑った。
「父には?」
「話しました」
「会長には?」
「先に了承をもらいました」
「……相変わらず抜け目ないですね」
褒められたと思っておく。
「それで、どうですか?」
「そうですね」
レックスは少し考えてから、俺を見る。
「店主に会ってから決めます」
「彼女に?」
「俺が仕えることになるのは、あなたじゃないんでしょう?」
「そうです」
「なら、本人を見ないと決められません」
もっともな話だ。
ただ、俺は少しだけ身を乗り出した。
「一つ、忘れないでください」
「なんでしょう」
「あなたが彼女を気に入ったとしても、彼女があなたを選ばない可能性もあります」
レックスの眉がわずかに上がる。
「今回は、あなたも選ばれる側です」
一瞬、静かになった。
それから、レックスの口元がゆっくりと上がる。
「……なるほど」
笑っている。
でも、その目はさっきまでとは少し違っていた。面白いものを見つけた時みたいに、わずかにぎらついている。
「それは、面白そうですね」
どうやら挑戦として受け取ったらしい。
「では、ぜひ会わせてください。その店主に」
「もちろんです」
「あと」
レックスが淡々と続ける。
「先に言っておきますけど、俺は安くないですよ」
「……知ってます」
思わず笑った。
ノアが聞いたら、どんな顔をするだろう。
まあ、それは会ってから考えればいい。
とりあえず、これで一つ。
ノアから時間を奪っているものを、減らせるかもしれない。




