113話 足りない時間
「ノア、そろそろ帰りませんか」
「あとちょっと!」
「昨日もそう言ってましたよ」
「……」
「一昨日も」
「……」
「その前も」
「シリルさん、記憶力いいですね」
「褒めてません」
思わず口をつぐむ。
店の営業はもうとっくに終わっている。ノエルも帰ったし、製造を手伝いに来てもらっている人も帰った。
残っているのは、私とシリルさんだけ。
最近は、こんな日が増えていた。
王都での販売準備が始まってから、確認しないといけないことが一気に増えた。売上の整理、仕入れの記録、王都へ送る商品の数、販売員さんへ渡す説明書。それに、もちろん普段の店の仕事もある。
やることはたくさんある。
でも、正直に言うと、少し甘えているところもあった。
シリルさんが迎えに来てくれるからだ。
帰りが遅くなっても一人じゃないし、暗くなってから帰る心配もしなくていい。
だからつい、ここまでやったら帰ろう、あとこれだけ、もう少しだけ――と、仕事を続けてしまう。
「これだけ終わらせたら帰ります」
「その言葉、最近何回聞いたと思います?」
「……そんなに?」
「かなり」
シリルさんは呆れたように言いながら、私の机の上を見る。
今日の売上を書いた紙。その横には仕入れの記録と、王都へ送る商品の数を書いた紙。さらに、その向こうには小さなリーヴェルで使う説明書の下書きまである。
「最近、忙しすぎませんか?」
「まあ……ちょっとは」
「ちょっと?」
「……そこそこ?」
「ノア」
「はい」
だめだ。
ごまかせない。
私は筆記具を置き、椅子の背にもたれた。
「でも、嫌な忙しさじゃないんですよ。王都で売れるようになるのも嬉しいし、店が忙しいのも嬉しいし」
「それは分かってます」
「やりたいこともいっぱいあるんです」
「だから余計に心配なんですけどね」
「え?」
「やりたいことが多すぎて、全部自分でやろうとしてません?」
「……」
言われて、机の上を見る。
店のこと。石鹸を作ること。仕入れ。売上の確認。お金の計算。王都へ送る商品の管理。説明書。売り場。販売員さんへの説明。
……確かに、多い。
もちろんノエルもいるし、製造を手伝ってくれる人もいる。前よりずっと楽になったはずなのに、それでも一日が足りない。
「……時間が足りない」
「やっぱり」
「でも、仕事減らしたくはないなって」
「そこは予想してました」
「なんですか、それ」
少し笑ってから、もう一度机の上を見る。
「というか、やりたい仕事に使う時間が減ってるのが嫌で」
「やりたい仕事?」
「商品開発です」
答えはすぐに出た。
「私、やっぱり新しい商品考えてる時が一番好きなんです。新しい材料を試したり、どうしたらもっと使いやすくなるかなって考えたり、こういうのがあったら便利かもって考えたり」
もちろん、失敗することもある。
でも、それも含めて楽しい。
「本当は、そこに一番時間使いたいんです」
シリルさんが小さく頷いた。
「でも最近は、それ以外の仕事が増えた?」
「うん……」
私は売上の紙を持ち上げる。
「特にこれ」
「会計ですか?」
「はい。これ、結構時間かかりすぎちゃって」
嫌いなわけじゃない。
むしろ、お金の計算は好きだ。今月はいくら売れて、材料にいくら使って、どれくらい残ったのか。数字を見るのは楽しい。
ただ、店が小さかった頃とは違う。
商品が増えた。仕入れも増えた。王都へ送る分まで増えた。
計算して、確認して、間違ってないかもう一度見る。
気づいたら、それだけでかなり時間が経っている。
「この時間があったら、新しい石鹸考えられるのになぁって思っちゃって」
「なるほど」
「Excel欲しい……」
「えくせる?」
「あ、なんでもないです」
なんだったっけ。
言葉だけは出てくる。
たぶん、こういう計算をする時に便利な何かだった気がする。
ものすごく欲しい。
今ここに。
「誰かに任せられたら、かなり楽になるんですけどね」
「なら、任せるのは?」
「それが簡単じゃなくって」
「どうして?」
「だって、お金ですよ」
シリルさんが少し黙る。
「売上も仕入れも、店のお金全部見ることになるじゃないですか。だから、計算ができる人なら誰でもいいってわけじゃないし」
「そうですね」
「頭が良くても、それだけじゃ無理です」
一番大事なのは、そこじゃない。
「信用できる人じゃないと」
「……はい」
「でも、信用できるかなんて最初から分かんないじゃないですか」
そこが一番困る。
商品を任せるのとは、また少し違う。
お金は店そのものにつながっている。シャボンノアを続けていくために必要なものだ。
「だから結局、自分でやるしかないかなって」
「なるほど……」
シリルさんが少し考え込む。
「まあ、今すぐどうにかしなきゃってほどじゃないから」
「……」
「シリルさん?」
「いえ」
何かを考えていたシリルさんが顔を上げた。
「ノアが安心して任せられる人ならいいんですよね」
「え?」
「いえ。なんでもないです」
「……?」
何か言いかけた気がする。
でも、それ以上は何も言わなかった。
その代わり、シリルさんは私の前に積んであった紙を、すっと横へ寄せる。
「今日はもう終わりにしましょう」
「えっ」
「続きは明日です」
「でも、あとちょっとだけ――」
「ノア」
「……はい」
だめだ。
今日はもう逃げられないらしい。
「最近、俺が迎えに来るからって、遅くまで残ってません?」
「……」
ばれてる。
「だって、一人で帰らなくていいし……」
「やっぱり」
「いや、でも! シリルさんが来てくれるから安心して仕事できてるっていう意味ですよ?」
「それは嬉しいですけど」
シリルさんは少し困ったように笑った。
「迎えに来るのは、ノアを残業させるためじゃないですよ」
「……はい」
「無理して倒れたら、商品開発どころじゃなくなります」
「それは困る」
「でしょう?」
ものすごく困る。
私は机の上の紙を見て、それからシリルさんを見る。
「……じゃあ、今日は帰ります」
「はい」
筆記具を片付けながら、さっきの話をもう一度考える。
商品開発に、もっと時間を使いたい。
そのためには、自分じゃなくてもできる仕事を少しずつ誰かに任せていかないといけない。
でも、お金を任せられるくらい信用できる人。
そんな人、どうやって探せばいいんだろう。




