110話 午後の紅茶
昼下がり。店の奥で作業をしていても、ふとした拍子に昨夜のことが頭をよぎる。
『俺と一緒に住みますか?』
……。
だめだ。
思い出したらまた仕事にならない。
まだ何も決まってない。ただ家や土地を見てみようって話になっただけ。それなのに、朝から何度「同棲」という言葉が頭に浮かんだことか。
ぱんっと軽く頬を叩き、目の前の作業へ意識を戻したところで、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
聞き慣れた声に顔を上げると、シリルさんが立っていた。
「シリルさん。こんにちは」
「迎えに来ました」
「ありがとうございます。ちょうど準備できたところです」
そう答えながら鞄を手に取る。
その横では、ノエルが目を見開いたまま、なぜかシリルさんの顔をじーっと見つめていた。
……?
ちらっとシリルさんを見る。
特に変なところはない。
というか、今日もやたら機嫌がいい。
にこにこしているだけだ。
ノエル、どうしたんだろう。
「じゃあノエル、あとよろしくね」
「……はいっす」
少し遅れて返事が返ってきたけれど、ノエルの視線はまだシリルさんの方へ向いている。私はそこには触れず、作業場にも顔を出した。
「少し出ますので、あとよろしくお願いします」
「はい。いってらっしゃい」
通いで来てもらっている人にも声をかけてから、店を出る。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃいっす!」
扉が閉まる直前まで、ノエルがまだこちらを見ていた気がした。
まあ、いいか。
今日は王都でのシャボンノア販売について、これからのことを詰める日だ。
昨夜のことはいったん置いておこう。
……いったん。
私は気持ちを仕事へ切り替え、シリルさんと並んでリーベル商会へ向かった。
商会へ着くと、すぐにライネルさんのところへ案内された。
「ノアさん、こんにちは」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。王都はどうでした?」
席につきながら聞かれ、私は自然と背筋を伸ばした。
「王都を見ることは、本当に勉強になりました。行く機会をいただけて、すごく感謝しています」
「それは良かったです。店の方はどうでした?」
「はい。小さなリーヴェルも素晴らしかったですし、エドガーさんとミリアさんもすごく感じのいい方で。あのお店にシャボンノアの商品を置かせてもらいたいと思いました」
「いい店だったでしょう? 私どもの自慢の店です」
「はい。ぜひお願いしたいです」
そこからは、王都で扱う商品や量、販売を始める時期など、これから必要になることを順番に話していった。
王都で販売を担当する人には一度こちらへ来てもらい、店の雰囲気や商品の特徴、接客について私から直接説明したいこと。販売が始まったあとも、私自身が何度か王都へ行って店頭に立ちたいこと。そして、最初の商品陳列や売り場の飾り付けは、私自身が王都へ行って行いたいことも伝えた。
ただ商品を棚に並べるだけではなく、小さなリーヴェルの一角を見ただけでシャボンノアだと分かるような売り場にしたい。
持ってきた売り場の案を机に広げると、ライネルさんとシリルさんが揃って覗き込んだ。
「この辺りに色を入れるんですね」
「はい。シャボンノアのイメージに合わせたいなと思ってます。それと、商品ごとに簡単な説明も置きたいです。全部を口頭で説明しなくても、ある程度は分かるようにしたくて」
「いいと思います。この辺りはエドガーとも相談しながら進めましょう」
「お願いします」
売り場の広さも限られているので、最初からすべての商品を大量に置くわけにはいかない。どの商品をどれくらい用意するか、王都までどう運ぶか。細かいところを一つずつ確認していくうちに、頭の中にあった「王都でも売れたらいいな」というぼんやりした想像が、少しずつ現実の形になっていく。
こういう話をしている時間は、やっぱり好きだ。
「必要なものがあれば遠慮なく言ってください。今回の王都販売はシリルが担当しますから」
「はい。シリルさんから聞いてます」
隣を見ると、シリルさんも頷いた。
「では、販売員がこちらへ研修に来る日程を調整して、決まり次第連絡しますね」
「よろしくお願いします」
一通り話がまとまった頃には、机の上に用意されていた紅茶も少し冷めていた。
ひとまず、大きな方向は決まった。あとは準備を進めながら、その都度調整していけばいい。
ほっとしてカップを手に取り、紅茶を一口飲む。
「それと、ノアさん」
「はい?」
ライネルさんも紅茶を飲みながら、ごく自然な顔で言った。
「シリルのこと、よろしくお願いしますね」
「んぐっ」
危ない。
本当に吹くところだった。
慌ててカップを机へ戻し、口元を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
びっくりした……。
さっきまで完全に王都販売の話だったよね?
頭が仕事一色になっていたところへ、突然まったく違う話を放り込まれて、心臓が変な跳ね方をした。
「す、すいません。挨拶が遅れました」
反射的に姿勢を正す。
「このたび、シリルさんとお付き合いさせていただくことになりました」
口にした途端、自分で言っておいて顔が熱くなる。
ライネルさんは一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑った。
「いやいや、そんなに改まらなくて大丈夫ですよ。もう聞いてますから」
「……ですよね」
そりゃそうだ。
隣に本人いるし。
「もうシリルの浮かれっぷりといったら、本当に――」
「兄さん」
横からすぐに声が飛んだ。
ライネルさんの口がぴたりと止まり、ゆっくりシリルさんを見る。
「……なんだよ」
「余計なこと言わないでください」
「まだ何も言ってないだろ」
「言おうとしてましたよね」
二人の間に一瞬だけ沈黙が落ちる。
私はカップを持ったまま、そのやり取りを見つめた。
……?
何を言おうとしたんだろう。
ものすごく気になる。
でも、聞いたら聞いたで、今度こそ紅茶を吹くような話が出てきそうで怖い。
ライネルさんはシリルさんの視線を受けながら、少しだけ口元を緩めた。
「まあ、それは置いておくとして」
「捨てといてください」
即答だった。
思わず口元が緩む。
「一度、うちにも遊びに来てください。家族もノアさんに会いたがってます」
「みなさんが?」
「はい。特に母上とリシェルが」
「兄さん」
「これはいいだろ」
また止めようとするシリルさんに、ライネルさんが笑う。
そういえば、私はシリルさんの家族と会ったことがない。
ライネルさんとは今まで何度も仕事の話をしてきたし、こうして向かい合って話すことにも慣れている。それなのに、付き合い始めた途端、今までとは少し違って見えるから不思議だ。
リーベル商会のライネルさん。
そして、シリルさんのお兄さん。
そう考えた瞬間、急に「彼氏のお兄さん」という言葉が頭に浮かんだ。
……彼氏のお兄さん。
なんか、急に緊張してきた。
「もちろんです。ぜひ」
「よかった。みんな喜びますよ」
ライネルさんは満足そうに頷いた。
隣を見ると、シリルさんは少しだけ居心地が悪そうな顔をしている。店に迎えに来た時は、あんなににこにこしていたのに。
……ふふ。
なんか、ちょっと面白い。




