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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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108話 月明かり

「美味しかったですね」

「はい! 魚介のパスタ、頼んで正解でした」

「また行きましょう」

「はい」


 シリルさんと並んで歩きながら、さっきまでの食事を思い出す。


 美味しかった。本当に美味しかったんだけど、それ以上に頭に残っているものがある。


『ノア』


「……」


 うっ、思い出した。また顔が熱くなる。


「ノア?」

「ひゃい!」


 ひぃっ!


 隣を見ると、シリルさんが少し驚いた顔をしている。


「どうしました?」

「な、なんでもないです!」

「そうですか?」


 なんでそんな自然に呼べるの?


 私はまだ『シリル』なんて絶対無理なのに。


 そんなことを考えているうちに、宿へ向かう道へ入った。このまま歩けば、もうすぐ着いてしまう。


 楽しかったな。


 ご飯を食べて、いろんな話をして。明後日には仕事で会う約束までしてるし、またすぐ会えるのに、もう終わりかと思うと少しだけ寂しい。


 気づけば、歩く速度がほんの少し遅くなっていた。


「ノア」

「ん?」


 シリルさんも足を止める。少し迷うような間があってから、川の方へ視線を向けた。


「あの……少しだけ、遠回りしませんか」

「……」


 あ。それ、私も思ってた。


 嬉しくなって、ちょっとだけ意地悪を言いたくなる。


「少しだけでいいんですか?」

「……え」


 今度はシリルさんが固まった。


 ふふ。


 この前、散々からかわれたからね。たまにはいいでしょう。


 シリルさんは一瞬きょとんとしていたけど、やがて少し照れたように笑った。


「……じゃあ、もう少しと少しだけ」

「はい」


 二人で顔を見合わせて笑う。それだけで、なんだか嬉しかった。


 宿へ続く道を少し外れ、街を流れる川沿いへ向かう。少し先には小さな桟橋があり、その手前には古い木のベンチが置かれていた。夜になると人通りも少なく、聞こえるのは川の流れる音くらいだ。


「ここ、座ります?」

「はい」


 二人でベンチに腰掛ける。


 見上げると、月が出ていた。月明かりが水面に反射して、ゆらゆらと揺れている。


「綺麗……」


 その光が胸元にも落ちた。


 王都でシリルさんにもらった、小さな月のネックレス。一瞬だけ、石がきらっと光った気がする。


 なんか、幸せだな。


 隣にはシリルさんがいて、こんなふうにただ一緒に月を見ている。少し前の私なら、こんな時間が自分に来るなんて想像もしてなかった。


 しばらく二人で川を眺めていると、シリルさんがふとこちらを見た。


「そういえば、ノアさん」

「はい?」

「少しは……この世界のこと、落ち着きましたか?」


 一瞬、何のことだろうと思ってから、すぐに分かった。


 あの日のことだ。


 私が、自分は宇宙人かもしれないなんて泣きながら言った夜。


「……はい。前よりずっと」


 そう答えると、シリルさんが少し安心したように笑った。


「よかった」

「でも、まだエマさんたちには言ってないんです」

「そうなんですね」

「いつかはちゃんと話したいと思ってるんですけど……まだ、そこまでは」


 エマさんもトムさんも、私にとって大切な人だ。だからこそ、いつか自分の口からちゃんと話したい。


「だから今、本当の私のことを知ってるのは……シリルさんだけです」


 口にすると少し恥ずかしかったけど、これはちゃんと伝えておきたかった。


「一人でも知っててくれる人がいるって、私にはすごく大きかったんです。ずっと誰にも言えなくて、一人で勝手に怖がってたから」

「……」

「シリルさんが知って、それでも今までと変わらないみたいに私を見てくれたから……すごく安心しました」


「……ありがとう。私の事、すきになってくれて」


 改めて言うと、シリルさんが少しだけ笑いを収めてこちらを見た。


 言ってしまった途端、顔が熱くなる。それでも今度は目を逸らさなかった。


 シリルさんは少し驚いたように私を見たあと、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり笑う。


「……変わってないわけじゃないですよ」

「え?」

「変わったところもあります」

「……え?どこ?」


 一瞬だけ、胸がざわつく。


 そんな私を見て、シリルさんの笑みが少し深くなった。


「前より、どんどん好きになってます」

「……」


 う。


 そういう意味!?


「それ、変わったって言わないでください! 一瞬めちゃくちゃ怖かったです!」

「すいません」


 そう言いながら、全然反省してなさそうに笑っている。


「でも、本当ですよ。知れば知るほど、もっと好きになってます」

「……」


 もう無理。


 顔が熱すぎる。


 私は何か言い返す代わりに、繋いだ手を少し強く握り返した。


 しばらくそのまま川を眺めていると、シリルさんが話題を変えるように口を開いた。


「王都から戻ったあと、何してたんですか?」

「私ですか?」

「はい」

「すっごく寝てました」

「そんなに?」

「自分でもびっくりするぐらいです」


 二日分の寝不足を取り返す勢いだった。ベッドに入ってからの記憶なんて、ほとんどない。


「でも、起きてからは……」

「はい」

「えっとね……」


 言うの、ちょっと恥ずかしいな。


 でも、今なら言ってもいい気がした。


「ずっと、シリルさんのことばっかり考えてました」

「……」


 シリルさんが黙った。


 あ。


 自分で言っておいて恥ずかしくなってきた。


「なんか、嬉しくて。幸せで。ずっとぽやぽやしてて」

「……俺も」

「え?」

「似たような感じでした」


 そう言って、シリルさんが照れくさそうに笑った。


 そっか。


 私だけじゃなかったんだ。


 それがまた嬉しい。


「だから何回も思ったんですよ。携帯があればいいのになぁって」

「携帯?」

「あ、そっか。携帯知らないですよね」

「はい」


 私は少し考えてから、どう説明しようか言葉を選ぶ。


「私の元の世界にあったものなんですけどね。遠くにいても声が聞けるんです」

「遠くにいても?」

「はい。それだけじゃなくて、文字で連絡を取ったり、映像で顔を見ながら話したりもできるんですよ」

「……そんな便利なものがあるんですか?」


 シリルさんが本気で驚いている。


「あるんです。だから、会えなくても話せるんですよ。離れてても顔も見れるし」

「すごいですね……」

「便利でしたよ」


 そこまで言ってから、川へ視線を戻した。


「だから今、ちょっと恋しくなる時があります。この世界では、会わないと会えないから」


 もちろん、その分、会えた時はすごく嬉しい。


 今日だって、シリルさんがお店に来た時、本当に嬉しかった。


 そう話している途中、繋いだ手の親指がゆっくり動いた。手の甲を撫でるみたいに、すりすりと往復する。


「……なにしてんの? シリルさん?」


 じとっと横目で見ると、シリルさんは何食わぬ顔でにこにこしている。


「ん?」


 ん? じゃない。


 しかも、また親指がすりっと動いた。


 なにこれ手繋ぎ上級コース?!


「私、初心者なんだよ?」

「ふはっ」


 シリルさんが吹き出す。


「嫌だった?」

「……嫌じゃ、ないですけど……」


 じとっと睨んでも、シリルさんはまだ楽しそうに笑っていた。


 まったく。


 でも、その手を離したいとは思わなかった。


「でもね」

「はい?」

「嬉しいこともあるんです。最近、少しずつ昔のことを思い出してきたんです」


 携帯のこともそう。


 全部じゃない。まだ自分がどんな人生を送っていたのかは分からないけど、こうして何かの拍子に、元の世界にあったものや知っていたことが浮かんでくる。


「そうなんですね」


 シリルさんの声が少し明るくなった。


「それは良かった」

「はい」

「きっと、これからもっとたくさん思い出せますよ」


 私はシリルさんを見る。優しい顔で、まっすぐこちらを見ていた。


「私もそう思います」


 なんとなく、本当にそうなるような気がしていた。


 すると、シリルさんの表情が少し変わった。さっきまでの柔らかい顔ではなく、真剣な目で私を見る。


「俺が思い出させてみせます」

「……え?」


 思わず聞き返した。


 シリルさんは何も冗談を言っているようには見えない。


 でも。


 どうやって?


「ノア」

「はい?」

「携帯はないけど」


 シリルさんが少しだけ笑った。


「毎日会うことはできますよ」

「……え?」


 毎日?


「そんなことできるんですか?」

「はい」

「どうやって?」


 シリルさんは少しだけ息を吸って、私をまっすぐ見た。


「よかったら」


 一瞬、言葉を切る。


「俺と一緒に住みますか?」


「…………え?」

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