103話 心配
お兄ちゃん回
今日は午後から出張だ。
そのため、いつもより少し遅く起きて、一人で朝食を取っていた。出発まではまだ時間もあるし、今日は珍しく静かな朝になりそうだと思っていたのだが、食事を終える頃にはどこからか話し声が聞こえてきた。
「……客人か?」
声のする方へ向かうと、どうやら応接室から聞こえているらしい。
「もう少し庭が広い方がいいですね」
「こちらですと庭は十分ございます。ただ、少し中心部から離れますね」
「店までの距離は?」
「馬車ならそれほどかかりませんが、徒歩ですと少々……」
「それは困りますね。……いや、ある意味馬車の方が安全か。雨の日もありますし……でも店の近くなら、その方が便利ですね」
聞き覚えのある声に足が止まる。
シリル?
朝から何をしているんだ。
「……店舗兼住宅という案も捨てがたいですね」
「それでしたら、また条件が変わってまいりますが……」
「そうですね。そちらも何件か見てみたいです」
何の話をしてるんだ、こいつ。
応接室を覗くと、机いっぱいに紙を広げたシリルと、見知った不動産屋の男が向かい合っていた。俺の姿に気付いた不動産屋が、慌てて椅子から立ち上がろうとする。
「これは、ライネル様――」
「いや、いい。そのままで」
片手を上げて制すると、不動産屋は途中で動きを止め、その場で丁寧に会釈だけした。
「失礼いたします」
その隣で、シリルも顔を上げる。
「あ、兄さん。おはようございます」
満面の笑みだった。
しかも爽やかだ。朝から何がそんなに楽しいんだと言いたくなるくらい、見事に振り切った笑顔をしている。
は?
お前誰?
危うく口から出そうになった言葉を、なんとか飲み込んだ。
「……おはようじゃない。朝から何してる」
「家を探してます」
「家?」
「はい」
シリルは何でもないことのように一枚の紙を持ち上げた。机の上には間取りや立地、庭の広さ、価格まで細かく書かれた資料が何枚も並んでいる。
「できれば庭付きで、店からもあまり遠くなくて。部屋数もある程度欲しいんです」
「……店?」
店とは?
俺が知らないうちに、こいつまた何か始めたのか。
思わず聞き返すと、シリルは不思議そうにこちらを見た。
「シャボンノアですが?」
「……シャボンノア?」
「はい。ノアさんの店です」
なんで俺が分かってない方がおかしいみたいな顔してるんだ。
しかも、また笑った。
朝からずっとこの調子なのか?
「店から遠いとノアさんも大変でしょうし、できれば徒歩でも通える範囲がいいかなと思ったんですけど、毎日歩かせるより馬車の方が安全かもしれませんね。さっき話していた店舗兼住宅も悪くないですし」
「……お前、家なんかどうするんだ?」
「ノアさんと暮らそうと思ってて」
「……は?」
思考が止まった。
「いや、おい待て。その話、ノアさんは……」
「まだ知りません」
「……」
おい!
こいつマジか!
思えば、昨日の時点で様子がおかしかった。
王都から帰ってきたシリルは、今まで見たこともないくらい気持ち悪いにやけ顔をしていた。あまりにも分かりやすいので理由を聞けば、どうやら初恋が叶ったらしい。
要するに、ただの浮かれ野郎だった。
父と母はずいぶん喜んでいたし、リシェルなんて目を輝かせて興味津々だった。まあ、このところノアさんのことで散々一喜一憂していたんだ。付き合えたとなれば、多少浮かれるくらいは分かる。
分かるが。
少し前まで自分の部屋を暗黒洞窟化していた男が、今や朝から不動産屋を呼んで、ノアさんと暮らす家を探している。
しかも相手の承諾なしに。
「……お前、それ大丈夫か?」
「何がですか?」
「全部だよ」
シリルは本気で分からないらしく、きょとんとしている。その顔がさらに腹立たしい。
くそっ!
ここはまた、長男として俺が正さねばならない時がきた!
「待て待て待て待て。シリル、お前の判断だけで家を決めたらいけない」
「?」
「ノアさんのための家なんだろ? なら、ノアさんの意見を聞くべきだ。庭が欲しいか、どんな家がいいか、店からどれくらい離れててもいいか、そういうのは本人と相談して決めるもんだ」
「ふむ……そうですね」
ようやく分かったか。
そう思ったのも束の間だった。
「では、場所だけ何ヶ所か押さえておいて、あとでノアさんの好みに合わせて改装すればいいですね」
「……」
違う。
そうじゃない。
「お前、何軒買う予定なんだよ……」
「良さそうな場所があれば、いくつか」
「いくつか!?」
「使わなければ別の用途にもできますし、立地のいい物件なら持っていて損はないでしょう」
「そういう問題じゃない」
思わず頭を抱える。
不動産屋がものすごく静かになっていた。さっきからこちらを見ないようにしている。
賢明だ。
俺だって今、この弟と目を合わせたくない。
「そもそも付き合って何日目だ」
「二日目です」
「即答するな」
しかも嬉しそうに言うな。
シリルは机の上の資料を一枚取り、また機嫌よく眺め始めた。
「でも、条件のいい物件はいつ出るか分かりませんから、早めに探しておいた方がいいと思うんです。庭は広い方がいいですよね。ノアさん、何か育てたくなるかもしれませんし」
「だからまずノアさんに聞けって言ってるんだ」
「もちろん聞きますよ。候補を見てもらえばいいんですよね?」
「買う前にな!」
危ない。
こいつ、完全に何軒か買って、その中からノアさんに選ばせるつもりだった。
少し前まで暗黒洞窟できのこを生やしかけていた男が、今や相手の承諾もなく新居候補を何軒も買おうとしている。しかも店舗兼住宅まで検討し始めている。
付き合って、まだ二日目だぞ。
恋が叶うと、人はここまで変わるものなのか。
いや、たぶんこいつだけだ。
なぜなら――俺はこうじゃなかった!!
机いっぱいに広げられた物件資料と、その向こうで朝から爽やかに笑っている弟を交互に見る。
……ノアさんが心配になってきた。




