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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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103/106

103話 心配

お兄ちゃん回

 今日は午後から出張だ。


 そのため、いつもより少し遅く起きて、一人で朝食を取っていた。出発まではまだ時間もあるし、今日は珍しく静かな朝になりそうだと思っていたのだが、食事を終える頃にはどこからか話し声が聞こえてきた。


「……客人か?」


 声のする方へ向かうと、どうやら応接室から聞こえているらしい。


「もう少し庭が広い方がいいですね」

「こちらですと庭は十分ございます。ただ、少し中心部から離れますね」

「店までの距離は?」

「馬車ならそれほどかかりませんが、徒歩ですと少々……」

「それは困りますね。……いや、ある意味馬車の方が安全か。雨の日もありますし……でも店の近くなら、その方が便利ですね」


 聞き覚えのある声に足が止まる。


 シリル?


 朝から何をしているんだ。


「……店舗兼住宅という案も捨てがたいですね」

「それでしたら、また条件が変わってまいりますが……」

「そうですね。そちらも何件か見てみたいです」


 何の話をしてるんだ、こいつ。


 応接室を覗くと、机いっぱいに紙を広げたシリルと、見知った不動産屋の男が向かい合っていた。俺の姿に気付いた不動産屋が、慌てて椅子から立ち上がろうとする。


「これは、ライネル様――」

「いや、いい。そのままで」


 片手を上げて制すると、不動産屋は途中で動きを止め、その場で丁寧に会釈だけした。


「失礼いたします」


 その隣で、シリルも顔を上げる。


「あ、兄さん。おはようございます」


 満面の笑みだった。


 しかも爽やかだ。朝から何がそんなに楽しいんだと言いたくなるくらい、見事に振り切った笑顔をしている。


 は?


 お前誰?


 危うく口から出そうになった言葉を、なんとか飲み込んだ。


「……おはようじゃない。朝から何してる」

「家を探してます」

「家?」

「はい」


 シリルは何でもないことのように一枚の紙を持ち上げた。机の上には間取りや立地、庭の広さ、価格まで細かく書かれた資料が何枚も並んでいる。


「できれば庭付きで、店からもあまり遠くなくて。部屋数もある程度欲しいんです」

「……店?」


 店とは?


 俺が知らないうちに、こいつまた何か始めたのか。


 思わず聞き返すと、シリルは不思議そうにこちらを見た。


「シャボンノアですが?」

「……シャボンノア?」

「はい。ノアさんの店です」


 なんで俺が分かってない方がおかしいみたいな顔してるんだ。


 しかも、また笑った。


 朝からずっとこの調子なのか?


「店から遠いとノアさんも大変でしょうし、できれば徒歩でも通える範囲がいいかなと思ったんですけど、毎日歩かせるより馬車の方が安全かもしれませんね。さっき話していた店舗兼住宅も悪くないですし」

「……お前、家なんかどうするんだ?」

「ノアさんと暮らそうと思ってて」

「……は?」


 思考が止まった。


「いや、おい待て。その話、ノアさんは……」

「まだ知りません」

「……」


 おい!


 こいつマジか!


 思えば、昨日の時点で様子がおかしかった。


 王都から帰ってきたシリルは、今まで見たこともないくらい気持ち悪いにやけ顔をしていた。あまりにも分かりやすいので理由を聞けば、どうやら初恋が叶ったらしい。


 要するに、ただの浮かれ野郎だった。


 父と母はずいぶん喜んでいたし、リシェルなんて目を輝かせて興味津々だった。まあ、このところノアさんのことで散々一喜一憂していたんだ。付き合えたとなれば、多少浮かれるくらいは分かる。


 分かるが。


 少し前まで自分の部屋を暗黒洞窟化していた男が、今や朝から不動産屋を呼んで、ノアさんと暮らす家を探している。


 しかも相手の承諾なしに。


「……お前、それ大丈夫か?」

「何がですか?」

「全部だよ」


 シリルは本気で分からないらしく、きょとんとしている。その顔がさらに腹立たしい。


 くそっ!


 ここはまた、長男として俺が正さねばならない時がきた!


「待て待て待て待て。シリル、お前の判断だけで家を決めたらいけない」

「?」

「ノアさんのための家なんだろ? なら、ノアさんの意見を聞くべきだ。庭が欲しいか、どんな家がいいか、店からどれくらい離れててもいいか、そういうのは本人と相談して決めるもんだ」

「ふむ……そうですね」


 ようやく分かったか。


 そう思ったのも束の間だった。


「では、場所だけ何ヶ所か押さえておいて、あとでノアさんの好みに合わせて改装すればいいですね」

「……」


 違う。


 そうじゃない。


「お前、何軒買う予定なんだよ……」

「良さそうな場所があれば、いくつか」

「いくつか!?」

「使わなければ別の用途にもできますし、立地のいい物件なら持っていて損はないでしょう」

「そういう問題じゃない」


 思わず頭を抱える。


 不動産屋がものすごく静かになっていた。さっきからこちらを見ないようにしている。


 賢明だ。


 俺だって今、この弟と目を合わせたくない。


「そもそも付き合って何日目だ」

「二日目です」

「即答するな」


 しかも嬉しそうに言うな。


 シリルは机の上の資料を一枚取り、また機嫌よく眺め始めた。


「でも、条件のいい物件はいつ出るか分かりませんから、早めに探しておいた方がいいと思うんです。庭は広い方がいいですよね。ノアさん、何か育てたくなるかもしれませんし」

「だからまずノアさんに聞けって言ってるんだ」

「もちろん聞きますよ。候補を見てもらえばいいんですよね?」

「買う前にな!」


 危ない。


 こいつ、完全に何軒か買って、その中からノアさんに選ばせるつもりだった。


 少し前まで暗黒洞窟できのこを生やしかけていた男が、今や相手の承諾もなく新居候補を何軒も買おうとしている。しかも店舗兼住宅まで検討し始めている。


 付き合って、まだ二日目だぞ。


 恋が叶うと、人はここまで変わるものなのか。


 いや、たぶんこいつだけだ。


 なぜなら――俺はこうじゃなかった!!


 机いっぱいに広げられた物件資料と、その向こうで朝から爽やかに笑っている弟を交互に見る。


 ……ノアさんが心配になってきた。

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