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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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102話 ただいま

 宿の扉を開けると、見慣れた空気が一気に押し寄せてきた。


「ただいま〜!」

「ああ! おかえり! 疲れただろ!」


 すぐにエマさんの大きな声が飛んでくる。その声を聞いただけで、ようやく帰ってきたんだと肩の力が抜けた。


 私に続いて、シリルさんも両手いっぱいに荷物を抱えて入ってくる。


「お邪魔します」

「にいちゃんもお疲れさん! 荷物までありがとねぇ。お茶でも飲むかい?」

「ありがとうございます。でも、荷物を置いたら今日は帰ります」

「そうかい? まあ無理すんじゃないよ!」


 王都でいろいろ買ったせいで、帰りは思った以上の大荷物になってしまった。お土産に、自分用に買ったもの、それから旅の荷物まで合わせると、行きより明らかに増えている。


「シリルさん、そこ置いてもらったら大丈夫です!」

「はい」


 荷物を下ろしてもらうと、私はさっそくその中を探った。


「どれだどれだ! エマさん、トムさん、お土産ありますよ!」

「おや! あたしたちにかい?」

「もちろんです!」


 王都で二人の顔を思い浮かべながら選んだ包みを、それぞれ取り出す。


「エマさんにはこれです。花の刺繍が可愛くて、絶対似合うと思って」

「まあ!」


 包みを開いたエマさんが、ぱっと顔を明るくした。


「これは上等なもんだねぇ! 嬉しいよ。なあ、あんた!」

「ああ、よかったな」


 トムさんが隣から覗き込み、エマさんはさっそくハンカチを広げて嬉しそうに眺めている。


「それで、トムさんにはこっちです。革の小銭入れ」

「俺にもあるのか?」

「もちろんです! 毎日使えるかなって思って」


 包みを渡すと、トムさんは少し驚いた顔をしてから中身を確かめた。手に取って革の厚みや縫い目をじっくり見たあと、満足そうに頷く。


「……こりゃいいな。革もしっかりしてる」

「使えそうですか?」

「ああ。長く使えそうだ」

「よかった!」


 思わず笑うと、エマさんがすかさず横から覗き込んだ。


「ほら、あんたも嬉しそうじゃないか」

「そりゃ嬉しいさ」

「ふふ、二人とも喜んでくれてよかったです!」


 トムさんは少し照れくさそうに笑い、エマさんはまだ自分のハンカチを嬉しそうに眺めている。


 やっぱり買ってきてよかった。


「あ、そうだ! まだあります!」

「まだあるのかい?」


 エマさんが目を丸くする。


「これはお土産っていうより、王都で見つけたから買ってきたんですけど……」


 荷物の奥へ手を突っ込み、包みをいくつかまとめて取り出す。そのままテーブルの上へ、ばさっと並べた。


「リーヴェではあんまり見ない調味料です! こっちは香りの強い塩で、これは少し辛いやつ。それから、こっちはお肉に合うって店の人が言ってました」

「へぇ、面白そうじゃないか」


 エマさんがひとつ手に取り、包みをひっくり返しながら興味深そうに眺める。


 私はにこっと笑って、並べた調味料をトムさんの方へ少し押した。


「よろしくお願いします」

「ああ、任せろ」


 トムさんがにやりと笑う。


 その横で、エマさんが私とトムさんを見比べ、やれやれとした顔をした。


「あんたたち、最初から食べる気じゃないか」

「もちろんです!」

「ははっ」


 トムさんまで笑い出し、エマさんは呆れたように肩をすくめた。


「まったく。今度なんか作ってやるよ」

「やった!」


 王都で見つけた時から、絶対ここで使ってもらおうと思っていたのだ。どんな料理になるのか、今からちょっと楽しみになってきた。


 そんなことを考えていると、ふとエマさんの視線を感じた。


「……」


 私を見て、次にシリルさんを見る。そして、また私を見る。


 ……なんだろう。


 ものすごく何かを察した顔をしている。


「エマさん?」

「いやぁ? なんでもないよ」


 そう言いながら、口元がにやにやしている。


 絶対なんか思ってる。


 問い詰めようかと思った、その時。


「ふぁ〜……」


 大きなあくびが出た。


「なんだい、寝れてないのかい?」

「はい……なんか、ここ帰ってきたら安心しちゃって、急に眠気が……ふぁ〜」


 言っている途中でもう一度あくびが出る。


 馬車の中ではそれなりに起きていたし、王都では寝不足なんて忘れて歩き回っていたのに、ひだまり亭へ帰ってきた途端、体が一気に力を抜いたみたいだった。


「急ぎの用がないなら、もう寝てきな!」

「でも荷物が……」

「そんなもん後でいいよ! ほら、さっさと行きな!」

「はーい……」


 完全に眠気に負けながら返事をする。


 荷物は確かに明日でもいい。そういえば明日は店の定休日だし、急いで起きる必要もない。


 ……もう寝よう。


 ふらふらしながら部屋へ向かいかけて、はっと振り返る。


「シリルさん、また……です。ごめんなさい。今日はもう、おやすみなさい……」

「はい。おやすみなさい」


 シリルさんが笑って手を振る。


 その顔を見ただけで、昨夜のことが一瞬頭をよぎった。


 ……だめだ。今それ思い出したら、眠気と恥ずかしさでどうにかなりそう。


 私は逃げるように自分の部屋へ向かった。


 やっぱり、ここに帰ってくると安心する。


 部屋へ入ると、靴だけ脱いでそのままベッドへ倒れ込んだ。柔らかい布団に体が沈んだ瞬間、もう起き上がれる気がしない。


「今日はもう……寝よ……」


 二日分の寝不足を取り戻すように目を閉じると、そのまま一気に眠りへ落ちていった。


◇


 ノアが部屋へ戻ったあと、宿の中には少し妙な沈黙が残っていた。


「……」

「……」


 エマが、じーっとシリルを見ている。


 その視線に気付いたシリルは一瞬だけ固まり、すぐにはっとしたように姿勢を正した。


「トムさん、エマさん。ご報告があります」

「なんだい、改まって……」


 エマが腕を組む。トムも手を止め、シリルへ視線を向けた。


「このたび、ノアさんと交際させていただくことになりました」


 一瞬だけ、しんと静かになった。


 次の瞬間。


「あっはっは! そうかいそうかい!」


 エマが豪快に笑い、そのままシリルの背中をばんばん叩く。


「あの子をよろしく頼むよ!」

「はい!」


 シリルがしっかりと頷く。


 その横で、トムは腕を組んだまま、しばらくシリルを見ていた。


「……冒険者を辞めたのは、あの子のためか?」


 シリルは迷わなかった。


「そうです」


 はっきりと言い切る。


 トムはしばらくその顔を見つめたあと、小さく頷き、ぽんと肩を叩いた。


「よく決断したな」

「ありがとうございます」


 そこで話が終わるかと思ったが、シリルは少しだけ間を置いたあと、改めて二人を見た。


「……お二人は、ノアさんのことをどこまでご存知なんですか?」


 今度は、エマとトムが顔を見合わせる。


「……」

「……」


 少しの沈黙のあと、エマがゆっくり口を開いた。


「あの子から言ってくれるのを、ずっと待ってるさ」

「……気づいていたんですか?」

「そりゃあねぇ。記憶がないってことは聞いてるよ。でも、それ以上は聞いてない」


 トムも静かに頷いた。


「話したくなった時に、あの子から話せばいい。俺たちから無理に聞くことじゃない」

「……そうですか」


 シリルは少し視線を落とした。


 ノアが自分から話していないのなら、自分が口にすることではない。それだけは考えるまでもなく、はっきりしていた。


「でしたら、俺からお話しすることはありません」

「ああ。それでいい」

「あの子が話したくなったら、その時ちゃんと聞くよ」

「はい」


 エマの言葉に、シリルは静かに頷いた。

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