101話 テイクアウト
まったく眠れなかった。
別の意味で、二日連続まともに寝られていない。いや、馬車ではかなりぐっすり寝たみたいだけど……それはそれ、これはこれだ。
鏡の前に立ち、自分の顔を覗き込む。
「くまできちゃってるなぁ……」
目元にそっと触れると、昨日まではなかったはずの影がしっかり居座っていた。寝不足のせいか顔全体もなんとなく冴えないし、この状態であの顔に会うのかと思うと、朝から地味にへこむ。
「うっ……」
鏡に映る自分から目を逸らしたくなったところで、昨夜のことが勝手に頭へ浮かんできた。
告白のあと、しばらくしてようやく足のしびれが治ると、私たちは手を繋いだままホテルまでゆっくり歩いて帰った。
行きにも手は繋いでいたはずなのに、帰りは何かが全然違った。肩が触れそうなくらい距離が近くて、手のひらから伝わる温度まで妙に気になってしまう。
私はずっとふわふわした気分のままで、ちゃんと歩いていたはずなのに、どうやってホテルまで戻ったのか細かいところはあまり覚えていない。
ただ、隣を歩くシリルさんがずっとご機嫌だったことだけは、妙にはっきり覚えている。
時々こっちを見ては笑うし、目が合えばさらに嬉しそうにする。そのたびに私の方が恥ずかしくなって前を向くのに、少しするとまた横から視線を感じる。
何回やったんだろう、あれ。
ホテルに着いてからも、シリルさんはそのまま部屋の前まで送ってくれた。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
部屋へ入り、扉のところでもう一度振り返る。
「じゃあ……おやすみなさい」
「はい。今日は疲れてるでしょうし、ゆっくり寝てください」
「ありがとうございます」
そう言って扉を閉めようとした、その時だった。
「あ、ノアさん」
「はい?」
顔を上げると、シリルさんが少しだけ身を屈めた。
「え……?」
何をするのかと思った次の瞬間、耳元に顔が近づいてくる。
近い。
息が触れそうなくらい近い。
「でも――明日から、覚悟してください」
「……え?」
何の覚悟!?
聞き返すより先にシリルさんは満足そうに笑って、一歩だけ離れた。
「おやすみなさい」
「え、ちょっ……シリルさ――」
ぱたん、と扉が閉まった。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
耳も顔も熱いし、心臓もうるさい。
明日から覚悟って、何を!?
その言葉が頭から離れなくなって、結局まともに眠れないまま朝を迎えた。
「……そりゃ、くまもできるわ」
鏡の中の自分へぼそっと呟く。
ただでさえ顔面偏差値に差があるのに、今日さらに開いてない?
「へこむ……」
そんなことを考えながらも、昨日はあまりにも濃すぎる一日だった。
はっきり言って、世界がひっくり返った。
この世界に来てからずっと胸の奥にあった、自分が何者なのか分からない不安。何も思い出せない怖さ。いつか突然、今の生活がなくなってしまうんじゃないかという恐れ。
そういうものが、昨日一日で一気に吹き飛んでしまった気がする。
私は今、ここにいる。
シャボンノアがあって、大切な人たちがいて、それから――シリルさんがいる。
ここに来て、良かったな。
そう思った、その時だった。
コンコン。
部屋の扉が鳴る。
「……っ!」
びくっと肩が跳ねた。
「ノアさん、起きてますか?」
扉の向こうから聞こえた声に、今度は心臓まで跳ねる。
やっぱり。
シリルさんだ。
昨夜あんなことがあったあとで、どんな顔して会えばいいんだろう。
でも、いつまでもここに隠れているわけにもいかない。
勇気を出して、行くか!
ぱんっと両頬を叩く。
よし。
覚悟を決めて扉を開けると――。
「おはようございます」
そこには、満面の笑みを浮かべたシリルさんがいた。
「お、おはよーござぃます……」
だめだ。
顔が見られない。
昨日までなら普通に見られていたはずなのに、一晩で難易度が跳ね上がっている。
「朝食、どうしますか?」
「えっと……あまり食欲なくて」
シリルさんが少し首を傾げ、そのまま私の顔を覗き込む。
近い。
そう思った次の瞬間、指先がさらっと目の下に触れた。
ひぃっ!
「くまできてますね。もしかして、あまり寝られなかった?」
「えっと、そうです……なんかいろいろと……ははは」
ばれた。
乾いた笑いで誤魔化そうとする私を見て、シリルさんの口元が少し上がる。
「俺のこと考えて眠れなかったんですか?」
うおーい!
分かってるなら聞くなー!
「ちょっ、シリルさん! なんか意地悪度が全開ですが!? わざと聞いてるでしょ!」
「あー、ははっ」
シリルさんは楽しそうに笑った。
「あれ……すいません。ちょっと浮かれてました」
「浮かれて……?」
「好きな子にちょっかい出したくなる人の気持ち、今なら少し分かるかもしれません」
「……っ!」
やめて。
朝からそんな顔でそんなこと言わないで。
昨日までは穏やかで優しいパーフェクトヒューマンだったはずなのに、恋人になった途端、知らないシリルさんが出てきた気がする。
いや、恋人……?
そこまで考えたところで、また顔が熱くなる。
「今日は城を見てから少し観光して、昼過ぎには帰る予定です。行けそう?」
「はい、大丈夫です! 寝不足ではありますけど、観光は別腹です!」
「……別腹って」
くすくす笑われる。
「気にしないでください!」
「はいはい。じゃあ、無理そうならすぐ言ってくださいね」
「はい!」
結局、朝食は食べる気になれず、温かいお茶だけ飲んでホテルを出た。
外へ出た瞬間、寝不足の目に朝の日差しが容赦なく刺さる。
「まぶし……」
思わず目を細めながら、用意してもらった馬車へ乗り込んだ。
そこから少し移動して、王都の城が間近に見えた瞬間――寝不足なんてどこかへ吹き飛んだ。
「わぁ……!」
大きい。
昨日、遠くから見た時も十分すごいと思ったけれど、近くまで来るとまるで印象が違う。白い壁は朝の光を受けて眩しいほどで、高く伸びた塔も、頑丈そうな城壁も、見上げるだけで圧倒された。
青空に真っ白な城。
ほんとにファンタジーの世界にいるんだなぁ。
写真が欲しい。
シリルさんと記念写真、撮りたかったなぁ……。
そんなことを考えながらしばらく城を眺めたあと、今度は王都の街を歩いて回った。
昨日買えなかった人へのお土産を選んだり、自分用のものを見たり。店を覗くたびに気になるものがあって、寝不足だったはずなのに、いつの間にかすっかり元気になっていた。
ただし、ひとつだけ昨日までと大きく違うことがある。
場所を移動するたび、シリルさんが当たり前みたいに私の手を取る。
それだけなら昨日もあった。
でも今日は、指を絡めてくる。
……これ、恋人繋ぎってやつでは?
気付いた瞬間、手のひらから一気に意識が上がってきて、顔まで熱くなりそうになる。昨日までと距離感が違いすぎるのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ嬉しくて、気を抜いたらすぐにやけそうになる自分が一番いやだ。
横を歩くシリルさんを見る勇気はなくて、繋いだ手だけをちらっと見る。
気付けば私も、ほんの少しだけその手を握り返していた。
そんな中、立ち寄った店でひとつのネックレスが目に留まった。
細い銀色の鎖の先に、小さな月の飾りがついている。月にはきらきらと光る小さな石が埋め込まれていて、光の角度が変わるたびに控えめに輝いていた。
「わ。かわいい……」
思わず足を止める。
欲しいとは思ったけれど、買うつもりまではなかった。本当に、少し見ていただけだった。
「ノアさん」
「はい?」
呼ばれて振り返ると、シリルさんがさっきのネックレスを手にしていた。
「え?」
「これ、似合うと思います」
「え、いや、でも――」
私が何か言うより先に、シリルさんはそのまま店員さんへ代金を払ってしまった。
早い。
「少し失礼しますね」
「え?」
さらっと買って、さらっと私の後ろへ回る。
そして、そのままネックレスを首につけてくれた。
「……」
首元に指先が触れるたび、また心臓が跳ねる。
留め具をつけ終えたシリルさんは一歩下がり、私を見て満足そうに目を細めた。
「うん。やっぱり似合います」
「シ、シリルさん……」
「はい?」
何その自然さ。
何その余裕。
シリルさん……。
上級者……!
昨日まで初恋であんなに悩んでた人と同一人物ですか?
少しだけ恨めしい気持ちで見上げたはずなのに、胸元で揺れる小さな月を見たら、そんなものは一瞬でどこかへ消えた。
「ありがとうございます……宝物できたかも」
嬉しくて、自然と笑顔になる。
それを見たシリルさんも、すごく嬉しそうに笑った。
私は胸元の小さな月に、そっと触れる。
王都に来た記念。
それだけじゃない。
たぶん、もっとずっと特別なものになった。
その後も少し街を見て回り、気付けば昼が近づいていた。
「長居しすぎたかな。そろそろ帰りましょうか。昼食は馬車の中で食べます?」
「いいですね!」
帰り道で食べられそうなものをいくつか買い、私たちはリーヴェへ戻る馬車へ向かった。
もちろん、そこへ向かう間もシリルさんの指はしっかり私の指に絡んでいる。
そして私も、もうそれをほどこうとは思わなかった。
昨日までなら、恥ずかしくてどうにか理由をつけて離していたかもしれない。でも今日は、このままでいい。
むしろ、もう少しだけこのままでいたい。
そうして――。
その日、王都では一組のバカップルが誕生したのであった。
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