番外編4 起きていないと思って、触れてしまった(ルシアン視点)
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ルシアン視点の番外編です。時系列は番外編3の後のお話になります。
朝の光は、やわらかかった。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、寝台の端を静かに照らしている。まだ完全に目覚めきっていない時間帯の、少しだけ白く薄い光だ。鳥の声も遠く、家の中はしんと静まっている。
同じ部屋で眠るようになって、まだ数日。
最初の夜ほどの緊張はない。けれど、慣れたとも言い切れない、この曖昧な距離に、ルシアンは未だに時折、呼吸を忘れそうになる。
目を覚ましたとき、隣にクラリスがいる。
それが当たり前になったわけではない。
ただ——もう、奇跡のように驚く段階ではなくなった、というだけだ。
ルシアンは、静かに視線を横へ向けた。
そこに、クラリスがいる。
——ああ。
それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
規則正しい呼吸。
少しだけほどけた髪が、頬にかかっている。
寝ているときは、本当に無防備だと思う。
いつもはきちんとしていて、隙がなくて、姿勢も言葉も整っているのに。
今は、その全部が少しだけほどけている。
睫毛の影が頬に落ちている。
口元はわずかに力が抜けている。
呼吸に合わせて、胸がゆっくり上下する。
その一つひとつが、やけにやわらかく見えた。
ルシアンは、そっと息を吐いた。
見ているだけで、胸が満たされる。
それと同時に、少しだけ苦しくなる。
好きだな、と思う。
あまりにも自然に。
あまりにも当たり前に。
この人がここにいること。
こうして隣で眠っていること。
それを見ている自分がいること。
そのすべてが、少し前までは想像でしかなかったのに。
「……本当に、ずるいわね」
小さく呟く。
もちろん、クラリスは起きない。
ルシアンは、ほんの少しだけ身を起こした。
近い。
数日前よりは、この距離にも慣れたはずなのに。
それでもやはり、こうして静かに見つめていると、距離の近さが意識に上ってくる。
手を伸ばせば届く距離。
実際、これまでにも触れたことはある。
手をつないで眠った夜もあったし、朝、自然な流れで髪を整えたこともある。
けれど——
それとは違う衝動が、今、胸の奥にあった。
触れたい、と思う。
ただ、触れるだけではなく。
もっと、確かな形で。
その衝動に、ルシアンは一度だけ目を閉じた。
だめだ、と理性が言う。
まだ早い。
この関係は、ようやく一歩進んだばかりだ。
相手の気持ちも、完全に確かめたわけではない。
ここで踏み込むのは——違う。
そう思って、手を引こうとした、そのとき。
クラリスが、ほんの少しだけ動いた。
呼吸が変わる。
まぶたがわずかに震える。
完全には目を覚まさない。
ただ、眠りの浅いところへ浮かび上がってきたような、そんな状態。
そのまま、わずかにこちらへ顔を向けた。
距離が、さらに近くなる。
ほんの少しだけ。
けれど、その“ほんの少し”が、決定的だった。
寝起き直前の、まだ意識の戻りきっていない顔。
力の抜けた目元。
呼吸に合わせて、わずかに開いた唇。
——だめだ。
そう思ったときには、もう遅かった。
積み重なっていたものが、ほんのわずかに、溢れる。
衝動というほど強くはない。
ただ、止めきれなかっただけだ。
気づけば、距離を詰めていた。
そして——
触れる。
本当に、触れるだけのキスだった。
押しつけるでもなく、奪うでもなく、ただ、そこにあった距離がゼロになるくらいの、ごく軽いもの。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
触れて、すぐに離れる。
——しまった。
その言葉が、ほとんど同時に浮かぶ。
何してるの、私。
許されないことではないかもしれない。
けれど、これは——まだ、早い。
そう思った、そのとき。
クラリスの目が、開いていた。
完全に覚醒しているわけではない。
けれど、確実に“今起きた”顔をしている。
そして、その視線が、まっすぐこちらを見ている。
静かな、驚き。
声は出ていない。
でも、何が起きたのかは理解している目だった。
ルシアンは、一瞬だけ言葉を失った。
どう言えばいいのかわからない。
謝るべきか。
誤魔化すべきか。
何も言わないほうがいいのか。
どれも違う気がして、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「……ごめんなさい」
結局、出てきたのはそれだった。
「起こすつもりはなかったのだけど」
言い訳にもならない言葉。
でも、それ以上に適切な言葉が見つからなかった。
クラリスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。
怒っているわけでも、拒絶しているわけでもない。
ただ、確かめているような、少し戸惑っているような目。
やがて、ゆっくり瞬きをする。
そして、小さく息を吐いた。
「……今のは」
声はまだ、少し寝起きのまま。
「はい」
「……起きていないと思って、ですか」
「……」
一瞬だけ迷って、正直に答える。
「……そうね」
そこで、ほんのわずかに言葉を継いだ。
「でも」
「はい」
「……起きていたとしても、たぶん同じことをしたと思うわ」
言ったあと、自分で少しだけ驚いた。
もっと軽く流すこともできたはずなのに。
けれど、誤魔化したくなかった。
クラリスは、それを聞いて少しだけ黙る。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
こうなる可能性を、まったく考えていなかったわけではない。
同じ部屋で眠り、同じ時間を過ごす中で、距離が縮まっていることは理解していた。
けれど——
実際にそうなったとき、どうすればいいのかまでは、準備できていなかった。
少しだけ考えてから、顔を上げる。
「……嫌ではありません」
静かな声で、そう言った。
ルシアンは、そこでようやく息をした気がした。
「ですが」
「うん」
「……驚きました」
「それはそうでしょうね」
「はい」
少しだけ間を置いて。
「……考える時間は、必要です」
その言い方が、あまりにもクラリスらしくて。
ルシアンは、ほんの少しだけ笑ってしまう。
「ええ、もちろん」
「……」
「ちゃんと待つわ」
「はい」
その返事に、クラリスの肩の力が、ほんの少し抜けた。
そして、しばらくしてから。
「……ただ」
「何?」
「……その」
「うん」
「……悪くは、なかったです」
一瞬、思考が止まる。
それから、ゆっくりと笑いがこみ上げる。
ああ、この人。
本当に、どうしてこんなに。
「それ、かなり破壊力あるわよ」
「……そうでしょうか」
「ええ」
「事実です」
「知ってる」
朝の光が、少しずつ強くなる。
部屋の中が明るくなっていく。
夜の余韻が、ゆっくりと溶けていく中で。
ルシアンは、もう一度クラリスを見た。
さっきよりも、少しだけ意識している顔。
でも、逃げていない。
ちゃんとここにいる。
ああ、と思う。
たぶんこの先も、こうやって一つずつ進んでいくのだ。
少しずつ。
でも、確かに。
その一歩一歩が、どうしようもなく愛おしかった。
お付き合いいただきありがとうございます。
次回番外編は明日18時に投稿予定です。




