番外編3 初めて同じ部屋で眠る夜の話(ルシアン視点)
ルシアン視点の番外編です。
時系列としては、第五話のすぐあとあたりになります。
そのことを、最初に言い出したのはクラリスだった。
夕食のあとだった。
春を越えて初夏へ入りかけた夜の空気は、昼間の熱を少しだけ残しながら、窓を開けておくにはちょうどいい程度に落ち着いていた。居間の灯りはやわらかく、食卓の上には食後の茶器がまだ置かれている。片づけは終わっていたが、二人とも何となく立ち上がるきっかけを掴みそこねて、そのまま向かい合って座っていた。
最近はそういう時間が増えた。
何かを話していなければいけないわけではない。沈黙が重たくない。互いに別のことを考えながら、でも同じ場所にいる。そのことが自然になってきている。
それは心地いい変化だった。
もっとも、今夜のクラリスは、その静けさの中で少しだけ落ち着かないように見えた。
茶器に視線を落としたまま、指先がほんのわずかに揃えたソーサーの縁をなぞっている。考え事をしているときの癖だ。しかも、かなり真面目に考えている顔をしていた。
ルシアンはその様子を見ながら、何かしらと思っていた。
仕事の話なら切り出し方がもっと早い。家のことならすぐに「相談が」と言うだろう。今のこれは、少し違う。言うべきかどうかを迷っている顔だ。
それを見ているだけで、胸の奥が妙にくすぐったくなる。
だって、こういうときのクラリスは大抵、可愛い。
「……ルシアン」
ようやく名前を呼ばれて、ルシアンは目を細めた。
「何かしら」
「一つ、相談があります」
「ええ」
「その前に」
「うん」
「……笑わないでください」
「内容によるわ」
「では、やはり少し笑うつもりなのですね」
「だってあなた、そう前置きする時点でちょっと可愛いのよ」
クラリスは一瞬だけ目を閉じた。
ああ、だめね。
今のは完全に“困った”顔だ。
しかも逃げずにちゃんと話そうとしてる。
ほんとうに、どうしてこんなにいちいち愛らしいのかしら。
「……続けてもいいでしょうか」
「ええ」
クラリスは小さく息を吸った。
「今後のことを考えると」
「ええ」
「部屋を分けたままでいるのは、やや不自然かと」
一瞬、ルシアンは自分が聞いた言葉を頭の中でゆっくり反芻した。
今後のことを考えると。
部屋を分けたままでいるのは、やや不自然。
それを、クラリスが。
自分から。
きっちりした言葉を選んで。
どうしよう。
嬉しすぎる。
でも、ここで顔に出しすぎると、たぶんクラリスはさらに真面目に困る。そういうことは、もうよく知っている。
だからルシアンは、できる限り落ち着いた声を作った。
「……それはつまり」
「はい」
「同じ部屋で?」
「……はい」
最後の“はい”は、最初より少しだけ小さかった。
視線はまだ茶器のほうにある。けれど逃げてはいない。自分で言い出したことを、きちんと最後まで言葉にするつもりでいるのがわかる。
その真面目さに、胸がいっぱいになる。
嬉しい。
本当に嬉しい。
ずっと欲しかったことだったから。
でも同時に、ルシアンはこの瞬間を少しだけ神聖なもののようにも感じていた。
これは、単に“同じ部屋で眠る”という事実だけではない。
クラリスが、自分で考えて、自分の意思で、もう一歩こちらへ来てくれたということだ。
それが大きい。
「……嫌でしたら」
クラリスが、ぽつりと言った。
「嫌?」
「その、急すぎる、など」
「まさか」
ルシアンは思わず少し強く返してしまった。
「嫌なわけないでしょう」
「……そうですか」
「そうよ」
そこではじめて、クラリスがほんの少しだけ顔を上げた。
目が合う。
その目の奥に、緊張と、でもどこかほっとしたような色が見えた。たぶん、断られるとは思っていなくても、確認はしたかったのだろう。この人は、そういうところが誠実だ。
「ただ」
ルシアンは声を少し和らげた。
「無理してない?」
「していません」
「本当に?」
「はい」
「“自然だからそうすべき”って、自分を説得してるわけじゃなくて?」
クラリスはそこで少しだけ黙った。
正直な人だ。
こういう問いを投げると、本当に自分の中を確認しにいく。
少し間があってから、彼女は静かに言った。
「最初は、そういう理屈から考えました」
「うん」
「ですが」
そこで視線が、今度はちゃんとルシアンへ向く。
「今は、それだけではありません」
「……」
「同じ部屋で眠ることを、嫌だとは思いません」
その言い方が、いかにもクラリスらしかった。
「むしろ」
「むしろ?」
「……安心するのではないかと、思っています」
ルシアンは、心の中で何度目かわからない悲鳴を上げた。
ああもう、本当にだめ。
そういうところ。
そういうふうにしか言えないのに、その一言一言が全部深いの。
安心する。
それはたぶん、クラリスにとって最大級に近い肯定だ。
好きだとか、甘えたいとか、そういうわかりやすい言葉じゃない。
でも、もっと根の深いところで自分を受け入れている響きがある。
「……ねえ、クラリス」
「はい」
「それ、たぶん私が思ってるよりずっと破壊力あるわよ」
「何の話でしょうか」
「あなたの言葉選びの話」
クラリスは少しだけ困った顔をした。
そう、そういう顔。
可愛いのよ、本当に。
その夜、二人は居間を片づけたあと、少しだけ落ち着かない空気のまま廊下を歩いた。
別々の部屋を使っていたといっても、距離があったわけではない。互いの気配はいつも感じていたし、夜に廊下で顔を合わせることもあった。だから“同じ家にいる”こと自体はとうに慣れている。
ただ、今夜は違う。
これからは、同じ部屋で眠るのだ。
それがこんなにも静かに意識へ迫ってくるものだとは、ルシアン自身も少し驚いていた。
寝台は広かった。もともと二人で使うことを想定して整えた部屋だから、物理的な問題は何もない。灯りの位置も、窓の配置も、書き物机も、小さな卓も。すべて最初から二人用だった。
なのに、“そう使う”までには少し時間がかかった。
その時間を、ルシアンは嫌いではなかった。
急がずに来られたことは、むしろこの二人には必要だったと思う。
けれど、だからこそ今夜が少し特別に感じる。
クラリスは部屋へ入ると、いつもより少しだけ動きが慎重になった。
寝る前の支度は同じだ。髪をほどき、必要なものを片づけ、明日の準備を確認する。けれど、その一つひとつの動きが、わずかに意識的だった。たとえば鏡台の前で髪をほどく指先。たとえば上着を椅子へかけるときの間。たとえば、どこへ視線を置くべきか少し迷うような瞬間。
ああ、緊張しているのだ、とルシアンは思った。
当然だ。
自分だって緊張している。
嬉しさのほうが勝っているだけで。
「……何ですか」
鏡越しにクラリスが言った。
「また見ています」
「あら、だめ?」
「だめではありませんが」
「じゃあ見てる」
「そういう問題では」
そこまで言って、クラリスは自分で言葉を切った。
たぶん、“見られて困る”とは言い切れないのだろう。
その曖昧さが、今の二人にはちょうどよかった。
「髪、下ろすとまた違うわね」
ルシアンが言う。
「そうでしょうか」
「ええ。仕事のときよりずっと柔らかい」
「……」
「綺麗よ」
「……ありがとうございます」
以前より、受け取り方がほんの少し自然になった。
完全に慣れたわけではない。相変わらず少し耳は赤いし、視線もほんの少し泳ぐ。けれど、“困るだけ”ではなくなってきている。その変化が嬉しい。
支度を終えて寝台のそばへ来たとき、クラリスはほんの少し立ち止まった。
灯りはまだ落としていない。薄い琥珀色の光が部屋の中を静かに満たしていて、夜の始まりにしては少しだけ温かい。窓の外では風が木々を揺らし、そのたびに影がかすかに動く。
「……広いですね」
クラリスがぽつりと言った。
「今さら?」
「いえ、その」
「うん」
「……実際に二人で使うとなると、少し印象が違います」
「そうね」
ルシアンは、寝台の端に腰を下ろした。
「でも狭くはないでしょう?」
「はい」
「なら大丈夫」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題でもあるわよ」
クラリスは少し考えるようにしてから、反対側へ静かに腰を下ろした。寝台がほんのわずかに沈む。その感覚だけで、ああ本当に同じ場所にいるのだなと思う。
ルシアンはあえて急がなかった。
たとえば手を伸ばすこともできる。名前を呼ぶことも、軽口を叩いて空気を和らげることも。けれど今は、クラリスが自分のペースでこの距離に慣れていくほうが大事だと思った。
だから二人はしばらく、そのまま静かに座っていた。
やがて、クラリスがぽつりと言う。
「……あなたは」
「うん?」
「思ったより、落ち着いていますね」
「あら」
ルシアンは少し笑った。
「そう見える?」
「はい」
「じゃあ、たぶん頑張ってるのよ」
「……」
「本当はすごく嬉しいし、かなり落ち着いてないわ」
「そうなのですか」
「そうよ」
そこでクラリスが、ようやく少しだけこちらを見た。
その目に、ほんの少しだけやわらかいものが宿っている。
たぶん、安心したのだろう。
自分だけが緊張しているわけではないのだと。
「……それを聞いて、少し安心しました」
「でしょうね」
「はい」
「あなた、そういうところは正直よね」
「隠す必要がないので」
「ええ」
しばらくの沈黙。
けれど、それは気まずいものではなかった。むしろ、どこか穏やかだ。少しずつ、部屋の中に新しい形の静けさが落ち着いていく。
ルシアンはそこで初めて、そっと手を伸ばした。
「……触れても?」
「はい」
指先が重なる。
以前ならそれだけで互いに少し意識して、でもすぐに離れてしまったかもしれない。けれど今夜は、そのまま手をつないだ。強くではない。確認するように、ただ確かめるように。
クラリスの手は少しだけ冷たい。けれど、その冷たさが嫌だとは思わない。むしろ、ああこの人だと妙に実感する。
「……クラリス」
「はい」
「こうしてると、本当に叶ったんだなって思うわ」
「何がですか」
「いろいろ」
「曖昧です」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、少し具体的に言うと」
ルシアンはつないだ手をほんの少しだけ持ち上げた。
「こういうふうに、夜に同じ部屋で、同じ寝台の上で、あなたと手をつないでること」
「……」
「前は、想像してもたぶん途中でやめてたもの」
「なぜですか」
「欲張りになるとつらいでしょう」
クラリスが、ゆっくり瞬きをした。
その言葉の意味を、たぶんちゃんと受け取っている。
「今は?」
小さく問う。
「今は」
ルシアンは、素直に答えた。
「少しくらい欲張ってもいいのかもしれないって思ってる」
「……」
「あなたがそうしてくれたから」
クラリスはしばらく黙っていた。
それから、つないだ手にほんの少しだけ力がこもる。
握り返したのだとわかる程度の、ごく小さな変化。
でもルシアンにとっては、それだけで十分すぎるくらいだった。
「……私も」
クラリスが静かに言った。
「何?」
「こうしていると、安心します」
「ええ」
「落ち着かないのに、安心します」
その表現があまりにもクラリスらしくて、ルシアンは思わず笑ってしまった。
「何ですか」
「ううん、あなたらしいなと思って」
「事実です」
「知ってる」
「……」
「でもね、すごくいいわ、その言い方」
「そうですか」
「ええ。落ち着かないのに安心するって、たぶん今の私も同じ」
それを聞いて、クラリスはわずかに目を細めた。
こういうとき、二人は不思議と同じ場所に立てる。
表現の仕方は違う。
ルシアンはもっと柔らかく、感情の輪郭ごと抱える。
クラリスは慎重に、一つずつ確かめながら言葉にする。
でも、行き着くところはちゃんと重なる。
それが、とても嬉しかった。
灯りを落とす前、ルシアンは少しだけ迷ってから言った。
「……ねえ」
「何ですか」
「もし嫌じゃなければ」
「はい」
「今夜は、このまま手をつないでてもいい?」
クラリスは一瞬だけ目を見開いた。
無理もない。少し子どもっぽい願いかもしれない。けれど、今夜はそうしたかった。最初の夜に、少しでも確かなものを手の中に感じていたかった。
やがてクラリスは、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「……はい」
「本当に?」
「はい」
「嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
「それ、かなり好きな返事だわ」
「そうですか」
「ええ、とても」
灯りを落とす。
部屋はすぐに夜のやわらかな暗さへ沈んだ。窓の外の月明かりが薄くカーテンを透かし、寝台の輪郭だけを静かに浮かべている。
横になる。
同じ寝台の上で、互いの気配がすぐそばにある。
呼吸が少し聞こえる。
寝具の布がわずかに擦れる音。
つないだ手の、ゆるやかな体温。
それだけなのに、世界がひどく静かに感じられた。
「……ルシアン」
暗がりの中で、クラリスが小さく呼ぶ。
「何?」
「眠れますか」
「どうかしら」
「……私も、少し難しそうです」
その返事に、ルシアンは小さく笑った。
「そりゃそうよね」
「はい」
「でも、悪くないでしょう?」
「……はい」
「ええ」
しばらくして、また静けさが落ちる。
眠れないほどではない。
でも、すぐには眠りへ落ちていけない程度には、互いの存在が近い。
ルシアンはそのことがただ嬉しかった。
そのまま、つないだ手の温度を確かめるように指先を少しだけ動かす。すると、クラリスもそれに応えるように、ごくわずかに指を絡めた。
ああ、と思う。
この人、本当に、少しずつちゃんとこちらへ来てくれる。
その歩幅がたまらなく愛おしい。
「……クラリス」
「はい」
「ありがとう」
「……何に対してですか」
「今夜の全部」
少し間があいてから、クラリスが静かに答える。
「……どういたしまして」
その声音は、眠る前の夜にちょうどいいくらい穏やかだった。
やがて、少しずつ呼吸が落ち着いていく。先に眠ったのがどちらだったのか、ルシアンにはよくわからない。ただ、途中で一度だけ目が覚めたとき、隣にクラリスの気配があって、つないでいた手はほどけていたけれど、そこにちゃんと誰かが眠っているあたたかさがあった。
夢ではないと思った。
もう、願うだけの話ではないのだと。
そして朝。
目を開けた瞬間、最初に見えたのは、薄い朝の光と、その中で静かに眠るクラリスの横顔だった。
ルシアンはしばらく、まったく動けなかった。
ああ、これ。
これが見たかったのよね。
ずっと、たぶん。
寝起きの柔らかい輪郭。
ほどけた髪が頬に少しかかっている。
いつもより少しだけ無防備で、静かな顔。
あのころみたいに、こっそり扉の隙間から覗き見る必要はない。
目の前にいる。
同じ部屋で眠っていた。
それがどれほど幸福なことか、朝の光の中で改めて思い知らされた。
ルシアンは、そっと息を吐いた。
触れたい。
頬の髪を払いたい。
でも、起こすのは惜しい。
そんなふうに迷っていると、クラリスの睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと目が開く。
まだ眠気の残る目で、少しだけこちらを見る。
そして、一拍遅れて、自分がどこにいるのかを思い出した顔になった。
その変化まで可愛いのだから、本当に困る。
「……おはようございます」
少し掠れた声でクラリスが言う。
「おはよう」
「……」
「何?」
「……近いですね」
「同じ寝台だもの」
「そうでした」
その返しがあまりにも素直で、ルシアンは声を立てずに笑った。
クラリスはまだ少し眠たそうで、でも逃げるでもなく、ちゃんとこちらを見ている。その静かな受け入れ方が、朝にはひどく優しく感じられた。
「どう?」
ルシアンは小さく尋ねる。
「何がですか」
「昨夜」
「……」
クラリスは少し考えて、それからゆっくり言った。
「……よく眠れた、とは言いません」
「ええ」
「ですが」
「うん」
「悪くはありませんでした」
その答えに、ルシアンは目を細めた。
悪くはありませんでした。
なんてクラリスらしい肯定なのだろう。
「それ、かなり嬉しいわ」
「そうでしょうか」
「ええ、とても」
「……そうですか」
「ええ」
そう答えたあと、ルシアンは少しだけ身を寄せた。
頬にかかった髪を、今度こそそっと払う。朝の光に透けるその髪はやわらかく、触れると指先がくすぐったかった。
クラリスは驚いたように瞬いたが、避けなかった。
「……ルーシー」
「何?」
「朝から、そのような顔をしないでください」
「どんな顔?」
「……とても嬉しそうです」
ルシアンは笑ってしまった。
「だって、嬉しいんだもの」
「……」
「あなたがここにいて」
「……はい」
「起きたら最初に顔が見えて」
「……はい」
「悪くないって言ってくれたのよ?」
「……」
「嬉しすぎるわ」
クラリスはしばらく黙っていたが、やがて、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「……慣れません」
「私もよ」
「あなたも?」
「ええ」
「そうは見えません」
「頑張ってるの」
「……」
「でも、たぶん」
ルシアンは朝の光の中で、静かに言った。
「こういうの、何度あっても嬉しいままだと思う」
クラリスはそれを聞いて、小さく息を吐いた。
呆れたのか。
照れたのか。
その両方かもしれない。
けれど、そのどちらでもよかった。
朝の光が、二人のいる寝台の端をやわらかく照らしている。外では鳥が鳴き、庭の葉が風に揺れた。何でもない朝だ。けれど、何でもなくはない。
願っていたことが叶った朝で、その先がまた静かに始まる朝だった。
お付き合いいただきありがとうございます!
次回番外編は明日18時に更新予定です。




