表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/12

番外編2 もう、名前をつけていい(ルシアン視点)

ルシアン視点の番外編になります。本編時系列でいうと5話目になります。



 あなたを選びます。


 その言葉は、ルシアンの中に、ひどく静かに落ちた。


 落ちた、というより、沈んだのかもしれない。

 深く。

 音もなく。

 そうして、あとからじわじわと全身に効いてくる類の言葉だった。


 その瞬間、何を考えていたのかと問われると、実はあまりうまく答えられない。


 嬉しい、はもちろんあった。

 信じられない、もあった。

 ようやく、という安堵も。

 なのに、どれも一言では足りなくて、頭の中が一瞬、きれいに真っ白になってしまったのだ。


 だってあのクラリスが。


 正しさを何より大事にして、わからないものをわからないまま曖昧にしておけないあの人が。

 自分の気持ちに、きちんと目を向けて。

 そのうえで、条件でも理屈でもなく、あなたといることを選ぶと言った。


 そんなの、効かないわけがない。


 ルシアンは、あの夜のクラリスの顔をたぶん一生忘れないと思う。


 少し緊張していた。

 少し怖がってもいた。

 けれど、逃げてはいなかった。


 自分の言葉を、自分の責任で置こうとする顔だった。


 ああ、本当にこの人はずるい、とルシアンは思う。


 ずるいという言葉は、たぶん少し違う。

 けれど、それ以外にちょうどいい言葉も見つからない。


 だって、ずっと欲しかったものを、いちばんまっすぐな形で差し出されてしまったのだ。

 それも、自分が最も抗えないやり方で。


 理屈ではなく。

 甘い雰囲気でもなく。

 ただ静かに、でもはっきりと。


 私は、あなたを選びます。


 それは、ルシアンにとって、どんな愛の言葉よりも深く響いた。


 あのあと、自分がどういう顔をしていたのか、正確にはわからない。


 たぶん、かなりひどい顔をしていたのだと思う。

 取り繕えていたとは到底思えない。

 余裕なんてものは一かけらもなく、たぶん安堵と嬉しさと、少しの怖さと、ようやく報われたような気持ちが全部いっぺんに出ていた。


 クラリスの前であれほど無防備になったのは、もしかすると初めてだったかもしれない。


 いや、違うか。

 初めてではない。

 初めて“見せてもいい”と思えたのだ。


 これまでは、どこかで自分を引いていた。

 好きになっても、それを全部渡してしまうつもりはなかった。

 だって怖いから。

 相手が受け取れないかもしれないし、自分でも制御しきれなくなるかもしれない。

 だからずっと、軽さの中に逃げ道を作っていた。


 けれどあの夜、クラリスがあれほど真面目に、自分の言葉でこちらを選んでくれたことで、その逃げ道がいらなくなった。


 もう、ちゃんと受け取っていいのだと思えた。


 嬉しいと言ってもいい。

 触れたいと思ってもいい。

 好きだと、何度でも思っていい。


 だから、クラリスの頬に触れたとき、ルシアンは少し震えていた。


 自分でも気づいていた。

 みっともないくらい、手が少しだけ震えていたことを。


 でも、それを恥ずかしいとは思わなかった。


 むしろ、ようやくそこまで来られたのだと思った。


 好きな人に触れて、嬉しい。

 その当たり前を、ちゃんと当たり前として感じていい。


 それがどれほど贅沢なことか、ルシアンにはよくわかっていた。


 “最初から諦めていた人”というのは、案外、自分が何を欲しがっているのかを把握していない。


 欲しがらないほうが楽だから。

 最初から手を伸ばさないほうが、傷つかずに済むから。


 ルシアンはずっとそういうふうに生きてきた。


 男が好きだった。

 それは昔からそうで、そこに迷いはなかった。

 そして貴族の世界は面倒で、求められる役割は重く、家族は愛してくれるけれどその愛は時々苦しかった。

 優秀な兄と比べられ、できることを全部出し切る前に「そこそこ」で止めておく癖も覚えた。

 本気にならないこと。

 期待に応えきれない自分を、最初から少し軽くしておくこと。

 それが一番楽だと知ってしまった。


 だからルシアンは、自分の人生をきれいに整えた“そこそこ”の中で回してきたのだ。


 仕事も。

 社交も。

 恋も。


 楽しむことはできる。

 可愛いものも、綺麗なものも、整った顔も、鍛えられた身体も好きだ。

 自分のことだって好きだし、人生の機嫌を自分で取る術も知っている。

 けれど、本気になりすぎないところで止めることにも慣れていた。


 クラリスだけが、その外へ出てきた。


 最初は本当に対象外だった。

 女性だから、ではない。

 もっと根本的に、あまりに“違う生き方をしている人”だったからだ。


 真面目で、堅くて、正しくて、地道に積み上げることを信じている。

 そういう人を、ルシアンはどこか眩しく思っていた。


 自分にはないものを持っている人。

 たぶん少し羨ましくて、でもきっと相容れないと思っていた。


 それが、一緒に働き、少しだけ素を見せ、同じ卓で食事をして、同じ家で暮らすうちに、まるで水が染み込むみたいに変わっていった。


 楽だった。

 安心した。

 雑に扱われなかった。

 気を抜いた顔を見られても、軽蔑されないどころか、ただそのまま受け止められた。


 そんな相手、人生でそう多くはない。


 そして気づけば、相手が誰と話しているかが気になり、帰ると灯りがついているだけでほっとし、疲れているときに淹れられる濃い茶に胸がやわらかくなっていた。


 どう考えても、手遅れだった。


 だから、あの夜にクラリスから“選ばれた”ことは、ただ恋が実ったという以上の意味を持っていた。


 自分はもう、諦めなくていいのだと。

 この人の前では、本気になってもいいのだと。

 そう許されたような気持ちにすらなった。


 あのあと、クラリスと別れて自室に戻ったとき、ルシアンはしばらく扉にもたれたまま動けなかった。


 胸の内側が、まだざわざわしている。


 嬉しい。

 嬉しすぎる。

 どうしようもなく。


 そして、じわじわとあとから来る。


 クラリスが、自分で考えて、自分の意志で、こちらを選んだ。

 それは、気まぐれでも、場の勢いでも、情に流された結果でもない。

 あの人はそういうことをしない。

 だからこそ、その言葉の重みが恐ろしいほど大きい。


 ルシアンはゆっくりと寝台へ腰を下ろした。


 部屋の中は静かで、窓の外では風が木を揺らしている。夜の匂いが薄く漂っていた。

 こんな夜に、ひとりでいるのが少しだけ信じられなかった。


 さっきまでクラリスがいた。

 言葉があった。

 体温があった。

 頬に触れたとき、逃げずにこちらを見ていた。


 それを思い返すだけで、また胸が苦しくなる。


「……困るわね」


 呟いた声は、少し笑っていた。


 もう、ずっと前から困っていたのだ。

 好きになって。

 言えなくて。

 でも快適な日々を壊したくなくて。

 そうして、どうしようもなくなって、結局自分からこぼしてしまった。


 その先で、クラリスはちゃんと来てくれた。


 それだけで十分なはずなのに、ルシアンの胸の中にはもう少し欲深い気持ちもあった。


 もっと名前を呼んでほしい。

 もっと自然に手を取れるようになりたい。

 こういう夜に、同じ部屋で眠れたらと思う。

 朝、目が覚めたとき、最初に見るのがクラリスだったらどうしよう、なんてことまで考えてしまう。


 だめね。

 そういうところ、本当に欲深い。


 けれど今は、その欲深さすら嫌ではなかった。


 ずっと“そこそこ”で止めてきた自分が、ようやく、もう少し先を望んでいる。

 それは少し怖いが、悪いことではないと思えた。


 その夜、ルシアンはなかなか眠れなかった。


 でも、一人でクラリスのことを思っていたあのころの“眠れなさ”とは違う。


 あのころは、胸の中にあるものをまだ一人で抱えきれなくて、苦しさと幸福が半分ずつ混ざっていた。

 今は違う。

 幸福のほうが多い。

 圧倒的に。


 ただ、それが大きすぎて、眠気が追いついてこないだけだ。


 ようやく少しだけ眠りに落ちたころには、窓の外の空がうっすら白み始めていた。


 そして翌朝。


 目が覚めた瞬間、ルシアンはしばらく天井を見つめた。


 夢ではない。

 昨夜のことはちゃんと現実だ。

 クラリスは確かに言った。

 あなたを選びます、と。


 思い返しただけで、また胸の奥が温かくなる。


 それは昨夜の熱とは少し違う、朝らしい静かな幸福だった。


 いつもより少しだけ早く部屋を出る。

 廊下に出ると、家の中はまだ静かだ。

 でもほどなくして、台所のほうから小さな物音が聞こえた。


 クラリスが起きている。


 その事実だけで、どうしようもなく嬉しい。


 大げさだと思う。

 でも、嬉しいものは仕方ない。


 居間へ行くと、クラリスが湯を沸かしていた。朝の光の中で、横顔はいつも通り落ち着いて見える。けれどルシアンには、昨夜のあとだからこそわかるわずかな緊張も見えた。


 ああ、この人もたぶん少しだけ落ち着かないのだ。

 それがまた愛おしい。


「おはよう」

 声をかける。

「おはようございます」


 振り返る。

 いつも通りの挨拶。

 でも、昨日までと全く同じではない。


 それがたまらなく嬉しくて、ルシアンは少しだけ目を細めた。


「……何だか、あなたの顔を見るだけで嬉しいわね」

 言葉が、そのまま出た。

 クラリスは一瞬だけ目を瞬く。

「朝からそのようなことを言うのですか」

「事実だもの」

「……そうですか」

「ええ。あなたも、早く慣れてちょうだい」


 そう言いながら、ルシアンは自分でも少し笑ってしまった。


 慣れる日はたぶん来ない。

 少なくとも、しばらくは。

 この人に少し目を向けられただけで、ちゃんと嬉しいし、何気ない一言で一日機嫌よく働けるくらいには、もうだめなのだ。


 でも、それでいい。


 それを、クラリスが“いい”としたのだから。


 朝食を向かい合って食べる。

 同じ卓。

 同じ茶器。

 同じ家。

 昨日までと何も変わらないようでいて、全部が少し違って見えた。


 クラリスがパンを取る指先。

 茶を飲むときの目の伏せ方。

 言葉を選ぶあいだのわずかな間。


 ルシアンは、そんな一つひとつをまた見てしまう。


 でも今日は、見ていても苦しくない。

 少なくとも、第4話のころみたいに“見てしまう自分をどうしよう”という切迫感はなかった。


 嬉しいだけだった。


 この人を好きだ。

 この人も、自分を選ぶと言ってくれた。

 そう思いながら見つめられる朝が、どれだけ幸せなことか。


 食事のあと、クラリスが茶器を片づけながら小さく言った。


「……昨夜のことですが」

「ええ」

「今朝になっても、撤回するつもりはありません」

 

 ルシアンは一瞬、完全に息を止めた。


 ああ、もう。

 そういうところなのよ。

 きっちりしてる。真面目。可愛い。どうしようもない。


「撤回なんてされたら泣くわ」

「泣かせるつもりはありません」

「知ってる」

「……本当です」

「うん」

「私は、昨夜申し上げた通りです」

「ええ」

「ですから」


 クラリスは少しだけ迷って、それから静かに続けた。


「あなたが、その……嬉しいのであれば」

「嬉しいわよ」

 即答だった。

「ものすごく」

「……」

「ものすごく嬉しいの」


 クラリスは数秒黙ってから、ほんの少しだけ目元をやわらげた。


 その小さな変化だけで、また胸の奥があたたかくなる。


 たぶんこれからも、ルシアンは何度もこうして満たされるのだろう。

 名前を呼ばれるたびに。

 手を取れるたびに。

 真面目に、でもちゃんとこちらへ来ようとするクラリスを見るたびに。


 そしてたぶん、そのたびに思うのだ。


 ああ、自分はこの人に選ばれたのだと。


 それは、何度確かめても足りないくらい、幸せなことだった。



お付き合いいただきありがとうございます。

次回番外編は明日18時に更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ