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番外編1 まだ、名前をつけていない(ルシアン視点)

ルシアン視点の番外編になります。本編時系列でいうと4話目のあたりになります。



 最初に気づいたのは、たぶん、朝だった。


 それが何日目の朝だったのかは、もう覚えていない。結婚して、同じ家で暮らし始めて、二人分の茶器が食卓に並ぶことが日常になった、その少し先のことだ。まだすべてが“新婚らしい特別さ”として意識されるほど初々しくはなく、かといって完全に空気のようになったわけでもない。そういう曖昧な時期。


 クラリスは朝の光の中で髪をまとめていた。


 ただ、それだけのことだった。


 窓から差し込む光はやわらかく、居間の空気にはまだ一日の慌ただしさが入り込んでいない。卓の上にはパンと温かな茶、切った果物が少し。いつもの光景。ごくありふれた、何でもない朝。


 その中でクラリスは、鏡を見なくても手が覚えているような動きで髪をまとめていく。指先に無駄がない。几帳面な人らしく、乱れた房を残さず整え、きっちりと留める。仕事へ行く準備としては完璧だ。飾り気はほとんどなく、それでも清潔で、凛としていて、少しも隙がない。


 なのに、その朝、ルシアンは目を逸らせなかった。


 髪をまとめる手首の角度。

 首筋に差す薄い朝の光。

 伏せられた睫毛の影。

 きっちり整っているくせに、寝起きの柔らかさがまだほんの少しだけ残っている横顔。


 何ということもない景色のはずだった。

 なのに、胸の奥が妙に静かに騒いだ。


 ああ、と思う。


 好きなのだ。


 そのときにはもう、たぶんかなりはっきりと自覚していた。

 最初は“楽だな”だった。

 その次は“安心する”になった。

 そこから“帰るとほっとする”に変わって、気づけばこうして、朝の何気ない仕草を見ているだけで胸の内側があたたかくなる。


 面倒ね、とルシアンは思う。


 面倒で、どうしようもなく愛おしい。


「何ですか」


 ふいにクラリスが言う。

 鏡越しではなく、ちゃんとこちらを向いて。


「さっきから見ています」

「あら、ばれた?」

「隠していませんでした」

「そうだったかしら」

「そうです」


 このやり取りも、もう何度目かわからない。


 たぶんクラリスは、自分が最近少しよく見ていることには気づいているのだろう。けれど、それをまだ“意味のあるもの”としては受け取っていない。だから真面目に確認してくるし、ルシアンが軽く笑って誤魔化せば、それ以上は追及しない。


 それがありがたいような、少し寂しいような。


「今日も綺麗だなと思って」


 さらりと言うと、クラリスはほんの少しだけ眉を寄せる。


「朝からそういうことを」

「事実だもの」

「あなたの事実は時々扱いに困ります」

「知ってる」

「でしたら」

「でも言いたいのよねえ」

「……」


 少しだけ黙る。


 その沈黙のあとに返ってくるのは、大抵、半分呆れたような、でも完全には嫌がっていない声音だ。


「そういうところが、よくわかりません」

「わからなくていいのよ」

「そういうわけには」

「いかない?」

「いきません」


 真面目だ。

 本当に、どうしようもなく。


 そして、こういうやり取りをしている自分の声が、少しずつ“冗談の軽さ”ではなくなってきていることも、ルシアン自身は知っていた。


 最初の頃は、もっと逃げ道のある言い方だった。軽口にしてしまえば、自分も相手も深く受け取らずに済む。そうやってずっと生きてきた。気のあるふり、遊びの距離、好意を薄い膜で包んで渡す技術。そういうものは得意だったし、得意であることに助けられてきた。


 でも、クラリスの前では、それが少しずつ難しくなっていった。


 言いたいことが、冗談では済まなくなっていく。

 綺麗だと思う。可愛いと思う。優しいと思う。好きだと思う。

 そういうものが全部、本気の温度を持ってしまう。


 だから困るのだ。


 朝だけではない。


 夜も、そうだった。


 書斎で向かい合って仕事をしているとき、クラリスは驚くほど集中する。必要な書類だけを机に出し、余計なものは脇へ寄せ、羽ペンを持つ指先に迷いがない。時折、考えるときだけ視線が少し遠くなる。その横顔がまた、やたらと綺麗だった。


 ルシアンは何度も、自分の書類ではなくクラリスを見てしまった。


 何をしていても絵になる人というのはいる。華やかな顔立ちのことではない。姿勢とか、空気の持ち方とか、そういうもので“その人らしい絵”になる人だ。


 クラリスは間違いなくそういう人だった。


 しかも本人に自覚がない。


 そこがまた、たまらなく愛しい。


「何でもないわ」


 顔を上げたクラリスにそう返すたび、ルシアンは自分の声が少しずつ静かになっていくのを感じていた。


 たぶん、前よりもごまかしがきかなくなっていたのだろう。


 何でもないわけがない。

 見ていた。

 好きだから。

 手元の書類より、たまにその横顔のほうへ意識を持っていかれるくらいには。


 でもそれを、そのまま渡してしまうにはまだ早いと思っていた。


 まだ、この“快適さ”を壊したくなかったから。


 快適だったのだ。本当に。


 同じ家に帰って、同じ卓で食事をして、互いの仕事の疲れを流して、時々くだらないやり取りをして眠る。クラリスは必要以上に干渉してこないし、でも見ていてくれる。こちらが疲れていれば少し濃い茶を淹れ、仕事が長引けばさりげなく「本日はここまでにされたほうが」と言う。そういう優しさを、優しさとして誇らずに、ただ自然なこととして差し出してくる。


 こんな関係、失いたくないに決まっていた。


 だから、できればこのままでいたかった。


 “好き”に名前をつけてしまえば、何かが変わる。

 少なくとも、ルシアンはもう今まで通りではいられなくなる。

 クラリスだってきっと、戸惑う。困る。真面目な人だから、きちんと考えてしまう。そうなれば、この穏やかな日々に少しでもひびが入るかもしれない。


 そんなの、嫌だった。


 けれど、嫌だからといって止まるわけでもないのがまた厄介なのだ。


 たとえば、触れるとき。


 棚の上の書類を取ろうとして腕が触れたとき。

 茶器を渡すときに指先がかすったとき。

 長椅子の背に置いた手が少し近すぎて、気配が混じったとき。


 最初の頃は、そういう接触に対しても“生活の中ではよくあること”として処理できていた。実際そうだ。同じ家で暮らしていれば、物理的な距離が近くなることなど珍しくない。


 でも、ある時期から、それが少しずつだめになった。


 だめ、というのは変だが、少なくとも平然とはできなくなった。


 触れた瞬間に呼吸が一拍ずれる。

 何でもない顔をしながら、内側だけが少し熱くなる。

 クラリスのほうはたぶん“触れた”以上の意味を持たせていない。その自然さが余計に困る。


 こんなにも意識しているのは自分だけなのかと思うと、可笑しくて、少し切なかった。


 だから黙ってしまう。


 何か言えば、本音が混じる気がしたから。


 このころのルシアンは、たぶん、かなりぎりぎりだったのだと思う。


 自覚したあと。

 でもまだ、言わないと決めていたころ。

 その“言わない”を維持するために、冗談を少し増やしたり、視線を逸らす回数を増やしたり、逆に軽口で誤魔化したりしていた。


 全部、あまりうまくいっていなかったけれど。


 夜も更けたころ。

 そんな日々の中で、一度だけ、本当にどうしようもなくなった夜があった。


 月明かりが薄く差す、静かな夜だった。


 その日は仕事が少し長引いて、二人とも疲れていた。帰宅してからも食事は簡素に済ませ、互いに少しだけ会話をしたあと、それぞれ自室へ引き上げた。結婚してしばらくのあいだ、二人はまだ別室で寝ていた。最初から一つの寝台を共有するには、距離の取り方がまだ少し曖昧だったからだ。それを不自然とも思わなかったし、急ぐ必要も感じていなかった。


 けれど、その夜、ルシアンはどうしても寝つけなかった。


 疲れているはずなのに、目を閉じるとクラリスの顔ばかり浮かぶ。朝、髪をまとめていた横顔。夜、茶器を受け取るときの指先。書斎でほんの少しだけ目元を和らげた瞬間。


 好きだな、と思う。


 それがもう、どうしようもなく、はっきりしていた。


 そして、その好きが、静かに胸の内側を満たしすぎて、眠りのほうへ落ちていけなかった。


 ルシアンはしばらく寝台の中で天井を見ていた。


 見ていて、馬鹿ね、と思う。

 こんなことで眠れないなんて。

 しかも、相手はすぐ隣の部屋にいる。扉一枚向こうで、たぶんもう眠っている。


 そこまで考えたところで、だめだと思った。


 行くつもりなんてなかった。

 起こすつもりも、もちろんない。

 ただ、本当にただ、顔を見たかっただけだ。


 それがどれほど理性のない行為か、自覚はある。あるのだけれど、その夜のルシアンには、自覚が抑止力にならなかった。


 寝台を抜け出し、足音を忍ばせて廊下へ出る。


 家の中は深く静まっている。窓の外で風が葉を揺らす音だけが、かすかに聞こえていた。クラリスの部屋の前まで来て、ルシアンは一瞬だけ立ち止まる。


 ここで引き返せば、何もなかったことにできる。

 そう思ったのに、手はもう扉に伸びていた。


 鍵はかかっていない。

 ほんのわずかに開ける。


 部屋の中は暗く、カーテンの隙間から入る月の光が床を細く照らしていた。寝台の上には、静かに眠るクラリスの輪郭がある。


 ルシアンは、その場でしばらく動けなかった。


 眠っている。


 本当にただ、眠っているだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろうと思う。


 起きているときの彼女は、いつだってきちんとしている。姿勢も、言葉も、視線も、全部が整っている。けれど眠っていると、その輪郭が少しだけほどける。呼吸は穏やかで、口元の緊張もなく、睫毛が頬に静かに影を落としている。


 ああ、と思う。


 この人は、自分の知らないところでもちゃんと生きていて、眠って、疲れて、明日になればまた起きて、真面目に働いて、さりげなく優しくして、そして自分を困らせるのだ。


 そんな当たり前のことが、ひどく愛おしかった。


 ルシアンは扉にもたれるようにして、ただその寝顔を見ていた。


 近づきはしない。

 触れもしない。

 それだけは守る。


 でも、本当は頬にかかった髪をそっと払いたかったし、寝台の縁へ膝をついて、名前を呼ばないまま好きだと呟いてしまいたかった。


 当然、そんなことはしない。


 できない。

 してはいけない。


 クラリスは今、何も知らずに眠っている。その無防備さに甘えるような真似をしたくはなかった。

 だからルシアンは、ただ目に焼きつけるように見て、それからほんの少しだけ笑った。


「……本当に、困るわね」


 小さな独り言は、眠りを邪魔しないくらいの声だった。


 クラリスは当然、起きない。


 そのことにほっとしたような、少し寂しいような気持ちになる自分に、また苦笑する。


 そして結局、その夜はそれだけで部屋を出た。


 扉を静かに閉めて、自室へ戻る。

 何もしていない。

 ただ見ただけ。

 それなのに、やけに心臓がうるさくて、寝台へ戻ってからもしばらく眠れなかった。


 翌朝、クラリスはいつも通りだった。


 何も知らない顔で起きてきて、髪を整え、茶を淹れ、食卓につく。ルシアンはその様子を見ながら、昨夜の自分を少しだけ恥じた。


 何してるのかしら、私。

 寝顔を見に行くなんて。

 しかもこっそり。


 理性はちゃんとそう言う。

 けれど、もう一人の自分は、でも見たかったんだから仕方ないじゃない、と開き直っている。


 どうしようもない。


 ただ、その朝のクラリスは本当に綺麗だった。


 朝の光の中で髪をまとめている。

 昨日の夜、月明かりの中で見た寝顔の余韻がまだ残っているせいか、その一つひとつが余計に胸へくる。


 だからたぶん、クラリスには“最近、視線が長い”と感じられていたのだろう。


 そうでしょうね、とルシアンは今なら思う。


 抑えようとして抑えきれていなかった。

 見たいと思うたびに、ちゃんと見てしまっていた。

 何でもない顔はしていたけれど、たぶん、前よりずっと静かな目をしていたのだ。


 そして、決定打はやはりあの日だった。


 職場の廊下。

 誰かが自分の袖へ触れたとき。

 その様子を見たクラリスの顔が、ほんの一瞬だけ変わった。


 それは派手なものではなかった。睨んだわけでも、怒ったわけでもない。ただ、本当にほんの少しだけ、空気が固くなった。胸の内側で何かが引っかかったのを、自分でも持て余しているような顔だった。


 その瞬間、ルシアンは悟った。


 ああ、もうだめだ。


 このまま“快適なまま”でいようと思っていたけれど、たぶんもう、自分だけの問題ではなくなり始めている。

 この人はまだ言葉にできていない。

 でも、何も感じていないわけじゃない。

 それが見えてしまった以上、こちらだけが何も言わずに整った顔をし続けるのは、もう無理だった。


 そして同時に、少しだけ救われたのだと思う。


 だって、少なくとも“何もない”わけではなかったから。


 それが、あの言葉につながった。


 私、軽くないのよ。

 最初は、本当に対象外だったわ。

 でも、あなたは違った。


 口にしてしまったとき、ほっとしたような、怖いような気持ちだった。


 もしクラリスが本気で困り、拒絶し、距離を取ろうとしたら——その可能性も当然あった。だが、それでも言わずにいるよりはましだと思ったのだ。


 そして実際、クラリスは困った。


 ひどく真面目に困った。

 その顔を見たとき、ルシアンは、やっぱりこの人を好きだと思った。


 困るときも、逃げるのではなく、ちゃんと立ち止まって考えようとする。自分のわからなさを、わからないまま見ないふりはしない。


 だから、待てた。

 待とうと思えた。


 たぶんこの人は、急がせれば壊れる。けれど、考える時間を渡せば、ちゃんと自分の足で答えまで来る人だ。


 それを信じられたから。


 あのあと部屋で一人になって、ルシアンはしばらく天井を見ていた。


 言ってしまった。

 保てなくて、言ってしまった。

 でも後悔は、少しもなかった。


 怖さはあった。もちろんある。

 けれど、それ以上に、自分がようやく嘘をやめたような気がしたのだ。


 そして、その夜。


 書斎で向かい合ったクラリスが、何も言えないまま困っているのを見て、胸が痛んだ。困らせたいわけじゃなかった。でも、困っているということ自体が、ルシアンには少しだけ救いだった。


 何も感じていないなら、困らない。

 あれは本当に、その通りだった。


 だからあのとき、最後にもう一つだけ本音を落とした。


 本当は、あなたに優しくされるたび、ずっと嬉しかったのよ。


 あれは少し、反則だったかもしれない。


 でも、言いたかった。

 ずっと伝えたかった。

 あなたが自分では“事実を述べているだけ”だと思っている言葉や行動が、どれだけこちらの心に届いていたかを。


 そうして、あの翌日へつながる。


 クラリスが自分で考えて、自分で選んで、自分の意思でこちらへ来るあの日へ。


 だから振り返ってみれば、あのころのルシアンは、たぶんずっとぎりぎりで、でもどこか幸福だったのだろうと思う。


 好きだと知っている。

 相手はまだ知らない。

 けれど、何もないわけでもない。

 その曖昧さの中で、朝の髪をまとめる姿を見つめ、書斎で目が合えば何でもないふりをして、小さな接触にいちいち息を止め、眠る姿をこっそり見に行ってしまう。


 情けないと言えば情けない。


 でも、あれはあれで、かけがえのない時間だった。


 だって、あのころの自分にしか知らないクラリスがいたからだ。


 まだ自分の気持ちを知らずにいて、でも知らないまま少しずつこちらへ近づいてきていた、あのころのクラリス。


 その一つひとつを見つけるたびに、ルシアンはたぶん、何度も恋をしていたのだと思う。



ご覧いただきありがとうございました。

次回の番外編は明日18時投稿予定です。

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