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第5話 選ぶということ

ご覧いただきありがとうございます。



 翌朝、クラリスはいつもより少しだけ早く目が覚めた。


 まだ空は完全には明るくなっておらず、寝台の上には薄い青みがかった光が落ちている。窓の向こうでは、夜と朝の境目が曖昧なまま揺れていて、街が目覚める前の静けさがあった。


 いつもなら、こういう時間に目を覚ましても、そのまま再び眠るか、あるいは起きて一日の準備を始めるか、迷うことはない。


 けれど今朝は、目が覚めた瞬間から、胸の奥に昨日の言葉が残っていた。

 優しくされるたび、ずっと嬉しかったのだと。


 その一文が、眠りの底まで入り込んでいたらしい。目覚めたときに最初に思い出すほどには、深く。


 クラリスは寝台の上でしばらく天井を見つめた。


 自分は優しかったのだろうか。

 それとも、ルシアンがそう受け取っただけなのだろうか。


 考えようとすれば、またそこから先へ進めなくなる。けれど、考えないままでいることもできなかった。


 結局、クラリスは静かに起き上がった。


 足音を忍ばせて部屋を出る。廊下にはまだ誰の気配もなく、家全体が眠りの余韻をまとっている。窓を開けると、ひんやりした朝の空気が頬に触れた。初夏に差しかかっているとはいえ、朝だけはまだ少し冷える。


 台所へ行って湯を沸かし、茶葉の缶を開ける。


 手を動かしているあいだは、少しだけ落ち着いた。湯気の立つ音、陶器の触れ合う小さな音、朝の決まりきった手順。そういうものは、いつでもクラリスを整えてくれる。


 けれど、茶器を二つ用意したところで、ふと手が止まった。


 二つ。


 それが、今はごく自然になっている。


 前は何も考えずに自分のぶんだけを用意していたのに、今では湯を沸かすときも、パンを切るときも、食卓に皿を並べるときも、先に「もう一人分」が頭に浮かぶ。


 それは単なる生活の慣れなのだろうか。


 たぶん、それだけではない。


 クラリスは湯気の向こうを見つめながら、小さく息を吐いた。


 少しして、廊下から足音が聞こえた。ルシアンだとわかる。以前なら、その足音だけで誰かを判別することはなかっただろう。けれど今は、不思議なくらいすぐにわかる。


「おはよう」


 背後から柔らかな声が落ちる。


「おはようございます」

「早いのね」

「目が覚めましたので」

「そう」


 それ以上は聞いてこなかった。


 ルシアンもまた、昨日のことを無理に蒸し返すつもりはないのだろう。声はいつも通りで、表情も穏やかだ。けれど、その穏やかさが、今日は少しだけ慎重に見える。


 食卓につき、向かい合う。


 パンを分け、茶を注ぎ、簡単な朝食を取る。いつも通りの光景。会話も、昨夜遅くまで残っていた書類のことや、今日の予定についての確認ばかりで、表面上はまったく変わらなかった。


 だが、変わっていないはずの空気の中で、クラリスだけがどこか落ち着かない。


 ルシアンが杯を持つ指先を見てしまう。いつも通りの所作なのに、そこへ意識が引かれる。目が合うと、すぐに逸らしたくなる。そんな自分が、自分でもよくわからない。


 何か言うべきなのかと思う。けれど、まだ言葉にならない。

 その曖昧さを抱えたまま、二人はそれぞれ官舎へ向かった。


 仕事は忙しかった。


 ありがたいことに、というべきかもしれない。忙しさは考えすぎる時間を奪ってくれる。目の前の資料を確認し、決裁の流れを整え、部下の質問に答え、必要な修正を出す。そうしているあいだは、少なくとも頭の半分以上を実務に使える。


 けれど残りの半分は、どうしても残る。


 昼前、中央棟から戻ってきたルシアンが執務室の前で誰かと話していた。相手は同部署の年若い文官だった。書類のやり取りをしながら、ルシアンはいつものようににこやかに言葉を返している。


 その光景を見て、昨日ほど強いざわつきはなかった。


 けれど、ゼロでもなかった。


 クラリスはそのことに気づいて、静かに視線を落とした。


 昨日は、誰かに袖へ触れられたのが嫌だった。今日は、そこまでではない。ただ、目で追ってしまう。気づくと探している。自分が知っているルシアンの顔と、職場で皆に見せている顔と、その間にあるわずかな違いを拾おうとしてしまう。


 それは、ただの注意ではなかった。

 個人的なものだ。


 もっと言えば——。

 そこまで考えたところで、クラリスは羽ペンを止めた。


 言葉が喉の手前まで来て、まだ形にならない。けれど、もう目を逸らし続けるのも難しかった。


 執務室の窓から差し込む昼の光は明るく、紙の上の文字をくっきりと照らしている。何一つ曖昧ではない世界の中で、自分の感情だけがこんなにも輪郭を持たないことが、少しだけもどかしかった。


 午後になって、クラリスは一度だけ手を止めた。


 書類を閉じ、椅子の背にもたれて目を閉じる。


 昨日からずっと、自分は「非合理だ」「説明がつかない」と言い続けている。そうやって、まず感情のほうを疑ってきた。けれど、それは本当に正しい順番なのだろうか。


 感情が先にあって、そのあとに理由を探すこともあるのではないか。

 そう思った瞬間、幼い頃の自分が一瞬だけ頭をよぎった。


 学院に入る前、母の鏡台の前で、こっそり櫛や髪飾りを眺めていたことがある。きらきらした細工や淡い色の石に、確かに心が惹かれていた。けれど、どう触れていいのかわからなくて、結局何もせずに離れた。


 興味がなかったわけではない。ただ、知らなかったのだ。

 自分にそういうものが似合うのかも、どう扱えばいいのかも、わからなかっただけで。


 恋も、それと似ているのかもしれない。


 興味がなかったわけではなく、ただ、自分がそこへ触れることなどないと思っていただけで。


 その相手が、たまたまルシアンだったのか。

 あるいは、ルシアンだからこそ、なのか。


 考えた瞬間に、胸が少しだけ痛むように熱くなった。


 ルシアンだから、だ。

 そう思ってしまったこと自体が、答えに近かった。


 この家に帰ってきたとき、先に灯りがついているとほっとすること。食卓に向かい合って座る時間を、面倒だと思ったことが一度もないこと。疲れているときに茶を淹れるのが、義務ではなく自然な行為になっていたこと。誰かに触れられているのを見ると、胸の奥に棘が刺さること。


 ——全部、そうだった。


 全部、ルシアンだから、だった。


 そこまで至ったとき、クラリスはようやく静かに息を吐いた。

 認めてしまえば、思っていたよりも単純だった。


 単純で——そして、どうしようもなく厄介だった。


 なぜなら、自分が今からしようとしているのは、これまで最も避けてきた種類の選択だからだ。


 正しいかどうかではない。損か得かでもない。周囲にどう見えるかでもない。

 自分が、どうしたいか。


 その一点で選ぶこと。


 それを思っただけで、指先が少しだけ冷えた。


 それでも。


 その日の帰宅は、いつもより遅くなった。


 月末の処理が長引き、中央棟からの差し戻しもあって、最後の確認を終えたころには、官舎の廊下の灯りも少なくなっていた。さすがにルシアンのほうが先に帰っているだろうと思いながら家へ戻ると、玄関の灯りはついていたが、居間は静かだった。


「……ルシアン?」


 呼んでも返事がない。


 少し不思議に思いながら奥へ進むと、書斎の扉が半分だけ開いていた。中を覗くと、机の上の灯りの前で、ルシアンがひとり書類を読んでいた。


 まだ帰っていないと思ったのではない。帰ってきてから、また仕事をしていたのだ。


 クラリスは一瞬、何とも言えない気持ちになった。


 疲れているなら休んでほしいと思う。

 けれど同時に、自分が遅く帰ってきた家で、こうして待つように灯りが残っていることに、奇妙な安堵を覚えている。


 それがどれだけ勝手な感情かも、自覚はあった。


「おかえり」


 先に気づいたのはルシアンだった。


「ただいま戻りました」

「遅かったのね」

「月末処理が長引きました」

「そう」


 そこまで言ってから、ルシアンは机の上の書類を閉じた。


「食事、温め直しましょうか」

「いえ、私が」

「いいの。今日は待ってたんだから、そのくらいさせて」


 待ってた。

 その一言が、またクラリスの胸に静かに落ちる。


 台所に立つ背中を見ながら、クラリスは玄関先で外套を脱ぐ手を止めてしまった。待っていた、というのはただの事実だ。夫婦なのだからおかしくない。そう言い聞かせても、どうしてかいつも以上にその言葉が響いてしまう。


 食卓につくと、温め直された料理から穏やかな香りが立った。ルシアンはいつも通り、仕事の延長のような雑談を少しだけした。今日の会議の愚痴、差し戻しの癖、次の巡察の面倒。けれど、互いに昨日から何かを抱えたままでいることも、きっとわかっていた。


 だから、食事が終わると、どちらからともなく沈黙が落ちた。


 茶を淹れたあと、ルシアンは居間の窓辺に立ち、外の暗さを眺めている。灯りの届かない庭には、夜の匂いだけが静かに漂っていた。


 クラリスはその背中を見た。


 この人は、昨日、もう自分の中を言葉にした。困るのよ、と。保てそうになかったから、と。対象外だったわ、と。全部、自分の責任で言った。


 ならば、自分も同じようにしなければならない。

 それが正しいからではなく、そうしたいと思ったから。


 クラリスは立ち上がった。


「ルシアン」

「……何?」


 振り返った顔は、穏やかだったが、どこか構えてもいた。たぶん、今までのルシアンなら、相手が何を言うか大体読めたのだろう。けれど今は、少し違う。彼もまた、待っているのだ。


 そのことがわかって、クラリスは自分の手のひらがわずかに湿るのを感じた。


 緊張しているのだ、と遅れて気づく。

 けれど、逃げたくはなかった。


「昨日、あなたが言ったことを考えていました」

「……ええ」

「仕事中も、帰り道も、ずっと」

「そう」

「最初は、ただ困っていました」

「それも知ってるわ」

「ですが」


 そこで一度、息を吸う。


 喉の奥が少しだけつかえる。剣を持つわけでもないのに、こんなにも呼吸が重くなるのは不思議だった。


「私はずっと、正しくあることを優先してきました」

「ええ」

「正しければ間違えないと、そう思ってきました」

「……うん」

「結婚も、あなたとの生活も、最初はそういうものの延長だと考えていました」

「合理的な判断」

「はい」


 ルシアンは黙って聞いていた。

 途中で遮らない。目を逸らさない。そのことが、今はありがたかった。


「あなたとなら問題ない、と。そう思ったのも本当です」

「ええ」

「ですが、それだけではなかったと、今日ようやくわかりました」


 ルシアンの睫毛が、かすかに震えた気がした。

 クラリスは続ける。


「私は、あなたといるのが楽です」

「……」

「安心します。疲れません。帰って、あなたがいると、ほっとします」


 言いながら、自分でようやく、その一つひとつの重みを理解していく。


「あなたが疲れていれば気になりますし、軽く扱われるのは嫌でした」

「……クラリス」

「昨日、それを嫉妬だと言われて、否定しました」

「ええ」

「ですが、おそらく、あれはそういうものだったのだと思います」


 そこで初めて、ルシアンが小さく息を呑んだ。

 クラリスは自分の中の最後の抵抗がほどけていくのを感じた。


 認めるのは怖い。

 けれど、認めないままでいたくない。


 その違いが、今ははっきりとわかる。


「……合理的ではありません」


 そう言うと、ルシアンの口元がわずかに動いた。泣きそうなのか、笑いそうなのか、判然としない顔だった。


「ええ」

「説明しきれないことも多いです」

「うん」

「ですが」


 クラリスはまっすぐルシアンを見た。


「私は、あなたを選びます」


 言った瞬間、家の中がひどく静かになった気がした。


 外で風が木を揺らす音がする。燭台の火がわずかに揺れる。けれど、その一言が落ちたあとの沈黙だけが、何よりも鮮明だった。


 ルシアンは何も言わなかった。

 ただ、こちらを見ている。


 その目の奥にあるものが、一度に動きすぎて、言葉に追いついていないように見えた。

 クラリスは少しだけ唇を湿らせる。


「条件が合うからではありません」

「……」

「周囲が納得するからでもありません」

「……」

「あなたといることを、私が望んでいるからです」


 そこまで言って、ようやく、自分の頬が熱くなっていることを自覚した。

 だが、不思議と恥ずかしさより先に安堵があった。


 言えた。

 逃げずに、言えた。


 ルシアンがようやく目を閉じ、小さく額に手を当てた。


「……困るわね」


 その声音は、ひどく掠れていた。


「何がですか」

「そんなふうに言われたら」


 少しだけ肩を揺らす。


「本気になっちゃうじゃない」


 思わずクラリスは瞬きをした。


「すでに、本気ではなかったのですか」

「そういう意味じゃないのよ、もう」


 ルシアンは顔を上げた。

 そのときの表情を、クラリスはたぶん忘れない。


 いつもの軽やかな笑みではない。余裕も、飾りも、巧く整えるための薄い膜もない。ただ、嬉しさを隠しきれない人の顔だった。安堵と、愛しさと、少しばかりの困惑が混じった、どうしようもなく無防備な顔。


 それを見て、クラリスの胸はまた静かに熱くなる。


 ああ、と思う。

 この人の、こういう顔を見たかったのだと、今さらのように気づく。


「……ルシアン」

「何?」

「一つ、訂正があります」

「まあ、何かしら」

「私は、自分が思っていたよりずっと前から、あなたのことを特別に扱っていたのかもしれません」

「……ええ」

「それを、今まで理解できていなかっただけで」

「そう」

「ですから」


 そこで少しだけ言葉を探す。


「昨日のあなたの言葉に、責任を感じているわけではありません」

「……」

「あなたが言ったから、応えようとしているのでもありません」

「クラリス」

「ただ、私が、あなたを失いたくないと思いました」


 今度こそ、ルシアンは完全に言葉を失ったらしい。


 しばらく黙ったあと、彼はゆっくりとこちらへ歩いてきた。足音が近づく。止まる位置は、手を伸ばせば触れられる距離だった。


「……触れても?」


 その問いに、クラリスはわずかに目を見開く。


 夫婦になってから、肩が触れることも、指先がかすることも、いくらでもあった。なのに今、改めてそう尋ねられると、そこに全く別の意味が生まれる。


 それでも、クラリスは迷わなかった。


「はい」


 ルシアンの手が、そっと頬に触れる。


 驚くほど丁寧な触れ方だった。壊れものに触れるように、確認するように、遠慮がちでいて、それでも確かな温度がある。指先が少しだけ震えていることに気づいて、クラリスは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。


 この人も、こんなふうに緊張するのだ。

 いつも余裕があって、誰より上手く立ち回れるように見えるのに。


「……あなた、本当にずるいわ」


 ルシアンが小さく言う。


「そうでしょうか」

「そうよ。そんな真面目な顔で、そんなこと言うんだもの」

「思ったことを言っただけです」

「それが一番効くのよ」


 ルシアンは苦笑した。


 それから、頬に触れていた手をゆっくり下ろし、今度は指先でクラリスの手を取る。指と指が重なる。その感触は、これまでの何気ない接触とはまるで違った。


 触れている、ということが、はっきりとわかる。

 互いに選んで、触れているのだと。


「……私ね」


 ルシアンが静かに言う。


「自分がこんなふうになるなんて、思ってなかったの」

「はい」

「男性が好きで、それで十分だと思ってたし、それ以外を望んだところで面倒になるだけだと思ってた」

「……」

「だから、最初にあなたを見たときも、本当にただ“真面目で可愛い部下だわ”くらいだったのよ」

「可愛い、ですか」

「そうよ。今も可愛いわ」

「それは、どう反応すれば」

「そのままでいいの」


 少しだけ笑って、それから真顔になる。


「でも、一緒にいるのが楽で。安心して。あなたにだけは、ちゃんと雑に扱われないって、いつの間にか思ってた」

「雑には扱いません」

「知ってる。だから困ったの」

「……」

「自分にはない真面目さとか、ちゃんと人を見てるところとか、そういうの全部、眩しかったのよ」


 その一言が、ひどく深く落ちた。

 眩しかった。


 そんなふうに言われたことは、たぶん今まで一度もない。真面目だとか、堅いとか、融通が利かないとか、そういう評価なら慣れている。けれど、自分の在り方を“眩しい”と受け取る人がいるなんて、考えたこともなかった。


 クラリスは手を握られたまま、静かにルシアンを見る。


 この人は、自分が思っている以上に、ずっと前からこちらを見ていたのだろう。


 表情の少しの変化を拾って、言葉の端を聞いて、受け止めて。そうして、ずっと。


「……私も」


 自然に言葉が出た。


「あなたに、救われていたのかもしれません」

「私に?」

「はい」


 自分でもまだ全部は整理しきれていない。けれど、今なら少しだけわかる。


「私は、正しくありたかったのです」

「ええ」

「正しければ、間違えないと思っていました」

「うん」

「ですが、あなたといると、少しくらいわからないことがあっても、そのままでいていい気がしました」

「……」

「すぐに答えが出なくても、責められないのだと」

「それは」


 ルシアンの目が柔らかく細まる。


「初めて聞いたわ」

「自分でも、今やっと気づきました」


 ルシアンはしばらく黙ってから、ふっと息を吐いた。


「それ、すごく嬉しい」

「そうですか」

「ええ。想像以上に」


 そう言って、ほんの少しだけ距離を詰める。

 クラリスは逃げなかった。逃げたくなかった。


「……クラリス」

「はい」

「今度は、ちゃんと口説かせて?」

「今までは、ちゃんとではなかったのですか」

「少なくとも、結婚の提案の仕方は最悪だったと思うわ」

「そこは同意します」

「でしょう?」

「ですが」


 クラリスはほんの少しだけ迷ってから、続けた。


「私は、あれがあなたらしいとも思っています」

「……そんなこと言われると、また好きになるわね」

「もう十分では?」

「人を好きになるのに、上限なんてないのよ」


 さらりと言われて、クラリスはとうとう視線を逸らした。


 耳まで熱くなっている自覚がある。こういう言葉に慣れていない。けれど、不思議と嫌ではない。むしろ、その熱さごと受け入れてしまいたいような気分だった。


 ルシアンは、そんなこちらを見て笑った。


 今度の笑みは、以前のようにどこか余裕のあるものではなく、もっと深く、静かな満足を含んでいる。ようやく、自分の手で欲しいものに触れられた人の顔だった。


 その夜、二人はしばらく同じ場所に立っていた。


 窓の外では夜風が庭を揺らしている。灯りの届く部屋の中だけが、穏やかに暖かい。互いの手の温度が、何より確かなものに思えた。


 もう、ただの合理ではない。

 快適だから一緒にいるのでもない。


 それでももちろん、快適ではあるのだろう。安心するし、疲れないし、家に帰ればほっとする。それはきっと、これからも変わらない。


 ただ、その土台の上に、ちゃんと名前のある気持ちが置かれた。

 それだけで、世界の見え方は少し変わる。


 翌朝、クラリスが目を覚ますと、窓からは初夏の明るい光が差し込んでいた。鳥の鳴き声が近い。いつもと同じ朝だ。けれど、同じではないことも知っている。


 隣の部屋から、控えめな物音が聞こえた。

 ルシアンが起きている。


 そのことが、どうしようもなく嬉しいと思ってしまって、クラリスは寝台の上で小さく息を吐いた。


 非合理だ。説明しきれない。

 けれど、それでいいのだと思う。


 初めて、自分の意思でそう思えた。


 着替えて居間へ向かうと、ルシアンがすでに茶の支度をしていた。こちらを見るなり、少しだけ目を細める。


「おはよう」

「おはようございます」

「……何だか、あなたの顔を見るだけで嬉しいわね」

「朝からそのようなことを言うのですか」

「事実だもの」

「……そうですか」

「ええ。あなたも、早く慣れてちょうだい」


 慣れる日が来るのだろうか、とクラリスは思う。

 たぶん、来ないかもしれない。けれど、それも悪くない。


 少しずつ、何度でも驚いて、そのたびに受け入れていけばいいのだろう。


 食卓につき、湯気の立つ茶器を前に向かい合う。

 日差しは明るく、風は穏やかで、庭の花は昨日より少しだけ開いていた。


 何でもない朝だった。

 けれど、クラリスはその何でもなさを、たしかに自分で選んだのだと思う。


 正しいからではなく、望んだから。

 そのことが、胸の奥を静かに満たしていた。



END

これで完結になります。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

番外編として、ルシアン視点を明日投稿予定です。興味がある方はのぞいていただけると嬉しいです!!

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