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番外編5 はじめて名前を崩して呼んだ日(交互視点)

ご覧いただきありがとうございます。

ルシアンとクラリスの交互視点の番外編です。時系列は番外編4の後のお話になります。



 思いが通じ合ってしばらく経っても、クラリスは相変わらずだった。


 真面目で、几帳面で、融通が利かないように見えて、その実、驚くほど人をよく見ている。朝は決まった時間に起きて、窓を開け、湯を沸かし、必要な順に物事を整えていく。机の上はいつだって整頓されているし、書類は揃えられ、栞の位置に無駄がない。疲れていても、皿を流しに置きっぱなしにしたりはしないし、翌日の準備を怠ることもない。


 そういうところは、最初からずっと変わらない。


 そして変わらないまま、時々ひどく可愛い。


 本人はたぶん、永遠に気づかないのだろうけれど。


 その日の朝も、ルシアンは食卓の向かいで茶を飲みながら、そんなことを考えていた。


 窓の外には柔らかい春の光が差している。庭の草木はすっかり若々しい緑に変わり、朝露を残した葉が風に揺れるたび、光を細かく返していた。食卓には焼いたパンと、薄く塩をした卵、それから果物を切った皿。ごく簡素な朝食だが、丁寧に整えられているだけで、十分に気持ちがいい。


 クラリスはいつものようにきっちりと髪をまとめ、文官服の襟を整えながら席についた。


「今日は少し早いのね」


 ルシアンが言うと、クラリスはパンに手を伸ばしたまま答える。


「中央棟で朝一番に確認が入っています」

「ええ、例の件?」

「はい。南方からの報告書に修正が多かったので」

「面倒ねえ」

「面倒です」

「そういうときだけ共感が早いの、ほんと好き」

「そういう言い方は控えてください」

「今さら?」


 そう言って笑えば、クラリスは少しだけ眉を寄せる。

 この“少しだけ”がいいのだ、とルシアンは思う。


 大袈裟にむくれたりはしない。だが、ちゃんと反応はある。不快なことは不快だと顔に出るし、困ると少しだけ目元が固くなる。感情表現が豊かなタイプではないけれど、そのぶん、見つけた小さな変化は全部宝物みたいに思えてしまう。


 面倒な性分だな、と自分でも思う。

 いや、昔なら思わなかっただろう。


 誰かの表情の機微をこうして拾って、それをいちいち愛おしいと感じるなんて、自分とはあまり縁のないことだと思っていた。見目のいい男にときめくことはあったし、綺麗なものや鍛えられた筋肉を純粋に愛でることも好きだった。そういう意味での“好き”は、ずっとわかりやすかったのだ。


 けれど、クラリスは違う。


 綺麗かと言われれば、もちろん綺麗だ。すっと通った鼻筋も、伏せた睫毛の影も、きちんと結い上げた髪も、何一つ崩れていない。だが彼女の魅力は、そういう見た目の整い方だけではない。


 真面目で、融通が利かなくて、いちいち理屈を通したがるくせに、根っこがどうしようもなく優しい。しかも、その優しさを“優しさ”として扱わないのだ。


 昨日だってそうだった。


 夜遅くまで続いた書類確認のあと、ルシアンが「さすがに今日は疲れたわ」と何気なく口にしたら、クラリスは何も言わずに台所へ行き、少し濃いめの茶を淹れてきた。特別な顔もせず、ただ「本日はここまでにされたほうがよろしいかと」と言うだけで。


 優しいのよ、あなた。

 そう言えば、きっとまた眉を寄せるのだろう。

 優しさではありません、と。


 そういうところも含めて好きなのだから、もうどうしようもない。


 問題は、その“好き”を抱えているルシアンのほうが、実は案外欲深いことだった。


 クラリスは、自分のことをまだ基本的にはきちんと「ルシアン」と呼ぶ。


 仕事中も家の中でも、呼び方はほぼ変わらない。多少声の柔らかさは違うが、名前そのものはいつも変わらない。もちろん、それが不満だというわけではない。クラリスらしいし、きちんとしていて、どこか距離を守るようでもあって、それはそれで好ましい。


 けれど。


 ルーシーって呼んでね、と何度か言っているのに、一向に呼んでくれないのは、少しだけ寂しい。


 いや、かなり寂しい。


 そのことを表で認めるのは癪なので、ルシアンはいつも冗談めかして言うに留めているのだが、内心では本気だった。


 仕事を終えた帰り道、何気なく「ルーシー」と呼ばれて振り返ってみたい。休日の午後、台所から少し困った声で「ルーシー」と呼ばれてみたい。できれば、ちょっと照れながらとか、迷いながらとか、そういう過程が見えたらなお素晴らしい。


 ……我ながら、面倒な願望だと思う。


 クラリスはそんなことをまったく知らず、今日も真面目に朝食を食べていた。


「何ですか」


 ふいにそう言われて、ルシアンは瞬きをした。


「え?」

「先ほどからこちらを見ています」

「あら、ばれた?」

「隠していませんでした」

「あなた、そういうところだけ鋭いのよね」

「“だけ”とは何ですか」


 きっちり問い返してくる。

 その口調に、つい笑ってしまう。


「可愛いなと思って」


 さらりと言えば、クラリスの手が一瞬止まる。


「……朝からそのようなことを」

「事実だもの」

「あなたの事実は、時々扱いに困ります」

「慣れてちょうだい」

「難しい注文です」


 そう返しながら、クラリスはパンをちぎって口へ運ぶ。けれど耳が少しだけ赤いことに、ルシアンはちゃんと気づいていた。


 ねえ、そういうところよ。

 本当に、可愛いの。


 その日は、官舎での業務が普段より少しばかり長引いた。午後に急ぎの差し戻しがあり、各部署の確認が後ろへずれ込み、中央棟から戻るころには、すでに夕暮れの色が廊下へ差し始めていた。


 書類を抱えて自席へ戻る途中、ルシアンは同僚に呼び止められた。年配の秘書官で、家同士の付き合いもある人物だ。


「ルシアン殿、少しよろしいかな」

「ええ、何でしょうか」

「今度の夜会の件だが……その前に」


 相手はどこか言いにくそうに咳払いした。


「最近は夫婦仲もよろしいようで」

「まあ、ええ」

「それは何よりだ。いや、失礼ながら、君のことだから、もう少し形だけの関係になるかと思っていた」

「ずいぶん率直ですね」

「親しいつもりで言っている」


 悪意はない。

 だからこそ、少しだけ面倒だった。


 形だけの関係。

 たしかに最初はそのつもりでもあった。少なくとも、そういう理屈で始まった関係だ。だが今、それを他人の口からあっさりと言われると、妙に引っかかる。


「形だけであんな顔はしないだろう」

「……どんな顔でしょうか」

「君が、だよ。あの堅物の奥方を見ているときの顔だ」


 一瞬、ルシアンは言葉を失った。

 そんな顔をしていたのだろうか、自分は。


 いや、していたのかもしれない。していたのだろう。気づかないうちに。だとしたら、少しばかり気恥ずかしい。


「気をつけたほうがよろしいですよ」


 背後から声がして、振り返る。

 そこにいたのは、資料を抱えたクラリスだった。

 いつ来たのか、まったく気づかなかった。


「おや」


 ルシアンが目を瞬く。


「聞こえていた?」

「最後のほうだけ」

「それは困ったね」

「問題ありません」


 そう言いながらも、クラリスはどこか少しだけ落ち着かない顔をしていた。ほんの少し目線が泳ぎ、口元が微かに固い。その変化が、あまりにも愛おしい。


 秘書官は気まずそうに一礼し、早々にその場を去っていった。


 廊下に二人きりが残る。

 ルシアンは資料を抱えたクラリスを見て、つい口元が緩んでしまった。


「何ですか」

「いえ。あなた、今ちょっと困ってるでしょう?」

「否定はしません」

「そういうところが好き」

「……そういうことを軽々しく言わないでください」

「軽くないのよねえ、これが」


 ぼそりと返すと、クラリスの視線がわずかに揺れた。

 その反応にまた笑ってしまいそうになるが、さすがに職場なのでやめておいた。


 結局その日は、二人とも仕事が遅くなった。


 家へ戻ったころには外はすっかり暗く、庭の木々もほとんど影になっていた。食事を済ませ、片づけをし、ようやく一息ついたころには、時計はもうかなり遅い時間を指している。


 居間の灯りは落ち着いた色で、窓辺の薄布が夜風にわずかに揺れていた。


 クラリスは食後の茶器を洗い終え、布巾で丁寧に水気を拭き取っている。ルシアンは長椅子に座ってその様子を眺めていた。こういう時間が好きだと思う。


 特別な会話があるわけではない。

 劇的な何かが起きるわけでもない。

 ただ、同じ家の中で、それぞれが自然に動いている。


 その光景の中に自分がいることが、今では信じられないくらい当たり前になっていた。


「クラリス」


 何気なく呼ぶ。


「はい」

「そろそろ、ルーシーって呼んでくれてもいいんじゃない?」

「……」

「だって、もう結婚してそれなりに経つのよ?」

「それと呼び方は別です」

「ええー、どうして?」

「どうしてと言われましても」


 布巾を畳みながら、クラリスはきっちりした口調で言う。


「あなたはルシアンです」

「それはそう」

「でしたら、ルシアンと呼ぶのが自然です」

「でも私はルーシーって呼ばれたいの」

「その願望は理解しています」

「理解だけで終わらないでほしいわね」

「……善処はします」


 善処。

 なんて堅い返事なのだろう。


 けれど、その“善処”に本気で悩んでいそうなところがクラリスらしくて、ルシアンはつい頬杖をついたまま眺めてしまう。


「何ですか」

「いえ。あなた、本気で検討してるんだなと思って」

「軽く流してよい内容ではないので」

「呼び名くらい、もっと軽く扱っていいのよ」

「そういうわけにはいきません」

「真面目ねえ」

「知っているでしょう」

「ええ、知ってる」


 知っている。

 だから、余計に待ってしまうのだ。


 この人が、自分の中でちゃんと納得して、腹に落として、それからほんの少し勇気を出して呼んでくれる瞬間を。


 そんなもの、待たずに半ば強引に引き出したっていいのかもしれない。けれど、それでは意味がない。クラリスの不器用な真面目さが、きちんとその一歩を選んでくれるからこそ、ほしいのだ。


 自分でもどうかしていると思う。

 でも、恋なんて大抵どうかしているものだ。



 *****



 数日後の休日、二人は揃って街へ出ることになった。


 主な目的は買い物だった。書斎用の紙が足りなくなっていたし、台所の保存瓶も一つ蓋が緩んでいる。ついでに季節の茶葉を見たいとルシアンが言い、クラリスも必要な細々した品があったため、珍しく昼前から二人で家を出た。


 初夏の日差しは明るく、風には少しだけ甘い花の匂いが混じっていた。市場の通りには色とりどりの果物や布、焼き菓子が並び、人々の声が穏やかに行き交っている。休日の街は、官舎の空気とは別の軽さがあった。


 クラリスは隣を歩きながら、街へ出るときのルシアンはまた少し雰囲気が違うなと思った。


 職場ほどきっちりしていない。家の中ほど力も抜きすぎていない。ほどよく洒落て、ほどよく気安い。店先の花や仕立てのいい外套を見て「あら、素敵」と自然に口にするし、通りかかった騎士団員の鍛えられた体つきに一瞬だけ目を奪われていたりもする。


 その視線を見つけて、クラリスは少しだけ眉を寄せた。


「何?」


 ルシアンがすぐに気づく。


「いえ」

「今、ちょっと呆れたでしょう」

「呆れてはいません」

「じゃあ何」

「……見ておられるのだな、と」

「何を?」

「筋肉を」


 そう言ってしまうと、ルシアンはぱちぱちと瞬きをしたあと、吹き出した。


「ああ、もう、正直ねえ」

「事実です」

「ええ、見てたわよ。きれいに鍛えてたもの」

「そうですか」

「何その反応」

「別に」

「あら、もしかして」


 そこでルシアンは、面白そうに目を細めた。


「気にしてる?」

「していません」

「そういう否定、最近ちょっと怪しいのよね」

「気のせいです」

「ふふ」


 絶対に納得していない笑い方だった。


 クラリスは少しだけ落ち着かなくなり、先へ進もうと足を速める。すると、すぐ後ろから人の波が押し寄せた。休日の通りは思ったより混んでいて、後ろから走ってきた荷車避けの通行人が、勢いのまま二人の間に入り込みそうになる。


 そのときだった。


「危ない」


 ルシアンがとっさにクラリスの手首を引いた。


 強くではない。けれど、しっかりと。

 人波を避けるために、街路樹の影のほうへ少し引き寄せられる。


 それ自体はほんの一瞬のことだった。クラリスもよろめいたりはしないし、危険と言うほどでもなかった。けれど、引かれた手首に残った体温が、妙にはっきりしていた。


「大丈夫?」

「……はい」

「ごめんなさいね、急に」

「いえ」


 ルシアンが手を離す。


 その瞬間、クラリスはなぜか、ほんの少しだけ惜しいような気持ちになった。


 惜しい?何が。


 自分で自分に戸惑う。

 だが、もっと困ったのは、その直後だった。


「クラリス?」


 ルシアンが少しだけ身を屈めるようにしてこちらを見た。


「顔、赤いわよ」

「……気のせいです」

「気のせいじゃないと思うけど」

「日差しのせいです」

「今、木陰よ?」


 逃げ場がない。


 クラリスは視線を逸らし、それからほんの少しだけ唇を引き結んだ。


 こういうとき、どう反応するのが正しいのかわからない。手首に残る感触を意識していることも、少し惜しいと思ってしまったことも、どちらもあまりに説明がつかない。


 するとルシアンが、ふと表情を和らげた。


「……ねえ」

「何ですか」

「無理に説明しなくてもいいのよ」

「……」

「わからないなら、わからないままでいてもいい」

 

 その言葉は、驚くほどやさしかった。


 クラリスは思う。


 この人は、本当にこういうところがずるい。


 自分は、わからないことをそのままにしておくのが苦手だ。整理して、名前をつけて、立場を決めて、それからようやく落ち着ける。けれどルシアンは、そういう自分に向かって、無理に急がなくていいと言う。


 その言葉に、いつも少しだけ救われてしまう。


 買い物を終え、家へ戻る頃には日が少し傾き始めていた。荷物を整理し、台所へ保存瓶を収め、書斎には新しい紙を運ぶ。ルシアンが買った茶葉の包みは、香りの移らないよう戸棚の上段に置かれた。


 穏やかな休日だった。


 何でもない。

 何も起きていないとも言える。


 ただ、自分の中ではささやかな波がいくつも立っていた。


 夜になり、食事を終えたあと、ルシアンは珍しく早めに湯浴みへ行った。クラリスはそのあいだに台所を片づけ、居間の卓上に散らばっていた紙片をまとめていた。ふと、長椅子の脇に小さな革の手帳が落ちているのが目に入る。


 ルシアンのものだった。


 中を見るつもりはなかった。ただ、濡れる場所に置きっぱなしも良くないと思い、書斎へ持っていこうと手に取る。


 すると、ちょうどそのとき書斎の扉が少しだけ風で閉まりかけた。慌ててそちらへ向かおうとして、足元の敷物の端に躓く。


「っ……」


 手帳を落としそうになった拍子に、思わず声が出た。


 すると、浴室のほうからすぐに反応があった。


「クラリス? どうしたの?」

「いえ、大丈夫です」

「本当に?」

「問題ありません」


 そう返したものの、書斎の扉は半端に閉まりかけたままだし、手帳も危うく落とすところだったしで、少しだけ手間取る。そこでまた、浴室の扉が開く音がした。


「何があったの?」


 半ば濡れた髪のまま、ルシアンが顔を出す。


「……その」

「怪我してない?」

「していません」

「ほんと?」

「はい。ただ、書斎の扉が」

「もう、だから呼んでって言ってるでしょう」

「呼びました」

「呼んでないわよ」


 そのやり取りの最中だった。

 クラリスは、手帳を抱えたまま、半ば咄嗟に言った。


「ルーシー」


 空気が止まった。


 ぴたり、と。


 ほんの数秒のことなのに、家全体が急に静まり返ったように感じる。窓の外の風の音まで遠くなる。


 クラリス自身も、言ってから硬直した。


 今、自分は何と言った?


 呼んだのか。

 あれを。

 その名前で。


 しかも、何の心の準備もないまま、ごく自然に、助けを呼ぶみたいに。


 ルシアンが、浴室の前で固まっていた。

 濡れた髪の先から水滴が一つ、床に落ちる。そのくらいの時間が経って、ようやく彼が瞬きをする。


「……今」


 声が少し掠れていた。


「はい」

「今、何て?」

「……」


 クラリスはもう一度、言うべきかどうかで一瞬だけ迷った。

 迷ったのに、さっきよりは少しだけ簡単に言葉が出た。


「ルーシー、と」


 今度は、きちんと意識して。

 ルシアンの喉が目に見えて上下した。

 次の瞬間、彼は片手で顔を覆った。


「……だめ」

「何がですか」

「ちょっと待って」

「待つ必要が」

「あるの」


 その声が、ひどく真剣だった。

 クラリスは手帳を持ったまま、その場に立ち尽くすしかなかった。


 ルシアンはしばらく顔を覆っていたが、やがて深く息を吐いて手を下ろした。その表情は、見たことがないくらい困っていた。嬉しいのか、恥ずかしいのか、信じられないのか、全部が一度に来ている顔だった。


「……あなた、ずるい」

「なぜですか」

「そんな、何でもないみたいに呼ぶ?」

「何でもないわけでは」

「あるでしょう、十分」

「ですが、必要な場面でした」

「必要だったから余計にだめなのよ……」


 ルシアンは壁に軽く額をつけた。

 本当に困っているらしい。


 クラリスは少しだけ目を見開いた。まさか、ここまで大きな反応が返ってくるとは思っていなかったからだ。


「そんなに、ですか」


 思わず尋ねると、ルシアンがゆっくりこちらを見る。


「そんなによ」

「……」

「だって、ずっと呼んでくれないんだもの」

「……善処はしていました」

「知ってる」

「今のは、その」

「うん」

「咄嗟に」

「うん」

「……出ました」

 

 言いながら、クラリスは頬が熱くなるのを感じた。


 咄嗟に、出た。

 それはつまり、自分の中でその名前がもう“あり得る呼び方”になっていたということだ。今まで何度も拒んできたわけではない。ただ、口にするタイミングが見つからなかっただけで。


 そう思った瞬間、自分の中でも妙に納得がいった。


 ルシアンはまだ少し呆然としたままだったが、やがて、どうしようもなく嬉しそうに笑った。


「……もう一回」

「何ですか」

「呼んで」

「今ですか」

「今がいいの」

「……」

「お願い、クラリス」


 その頼み方がずるいのだ、とクラリスは思う。


 いつもの余裕ある上司の顔でも、軽口を叩く夫の顔でもない。ただ、ほんの少しだけ期待して、傷つきたくないような、それでいて諦めきれない目をしている。


 そういう顔をされると、拒む理由がなくなる。


「……ルーシー」


 今度は静かに、ちゃんと彼を見ながら呼ぶ。

 するとルシアンは、その一言だけで本当に嬉しそうに目を細めた。


「ああもう」


 小さく笑って、それから一歩近づいてくる。


「嬉しすぎるんだけど、どうしたらいいのかしら」

「そのままでよろしいのでは」

「冷静ねえ」

「あなたが動揺しすぎです」

「だって、クラリスがルーシーって言ったのよ?」

「はい」

「夢じゃない?」

「現実です」

「そういうところも好き」


 もう、ほとんど反射みたいに返ってくるその言葉に、クラリスは少しだけ視線を逸らした。

 けれど今夜は、不思議とそれを受け流したい気分ではなかった。


「……私も」


 ぽつりと、言葉が落ちる。


「ん?」

「あなたが、そうやって嬉しそうにするのは」


 そこまで言って少しだけ詰まる。


「……嫌いではありません」


 ルシアンが、完全に言葉を失った。

 数秒、まったく動かない。

 それから、ゆっくり、すごくゆっくりと片手を胸元に当てた。


「だめ」

「またですか」

「今のはもっとだめ」

「何が」

「可愛すぎて心臓に悪いの」


 その言い方に、クラリスはようやく少しだけ笑った。

 ほんのかすかな変化だったが、ルシアンはそれを見逃さない。


「……あ、今笑った」

「少しだけです」

「可愛い」

「その評価から離れてください」

「無理よ」


 そう言って、ルシアンは今度こそ自然にクラリスのそばまで来た。さっきのような劇的な沈黙はもうない。ただ、すっと近づいて、クラリスの手から手帳を受け取る。


「これ、届けてくれようとしたの?」

「はい。落ちていたので」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 そのまま指先が少しだけ触れた。


 以前ならそこで終わったのだろう。

 けれど今日は、ルシアンがほんの少しだけ指を絡めるようにして止まる。


 握る、というほど強くはない。

 ただ、そこに留まる。


 クラリスは一瞬だけその手を見下ろし、それから視線を上げた。


「……離しませんね」

「離したほうがいい?」

「いえ」

「なら、少しだけこのままで」


 濡れた髪から、石鹸と湯気の残り香がする。近い。けれど、息苦しくはない。むしろ、この距離が前より自然になっていることに、クラリスは自分で少しだけ驚く。


「ねえ、クラリス」

「はい」

「今度から、二人のときだけでもそう呼んで?」

「……努力します」

「そこは“はい”でいいのよ」

「即答できる段階ではありません」

「もう十分呼べてたでしょう」

「咄嗟に、です」

「じゃあ、その“咄嗟”を増やしていきましょう」

「……それは計画的なのですか、偶発的なのですか」

「どっちでもいいじゃない」


 そう言って笑う顔が、あまりにも楽しそうで。

 クラリスは少しだけ考え、それから小さく息を吐いた。


「……わかりました」

「まあ」

「二人のときだけであれば」

「うん」

「努力します」

「嬉しいわ」


 本当に、心から。


 その顔を見ると、また胸の奥がやわらかくなる。


 この人はきっと、自分が思う以上に、こういう小さなことで幸せそうな顔をするのだろう。大きな約束や派手な言葉よりも、積み重ねの中にある些細な変化を、ちゃんと拾って喜ぶ人なのかもしれない。


 そういうところもまた、愛おしいと思った。


「……ルーシー」


 今度は、試すようにもう一度呼んでみる。

 すると、ルシアンはまた目を細めた。


「ええ、何?」

「……別に」

「それでもいいの」

「呼んでみただけです」

「最高ね」


 何が最高なのか、クラリスにはよくわからない。

 けれど、呼んだだけでこんなにも嬉しそうにされると、悪い気はしなかった。


 その夜、寝台に入ってからも、ルシアンはしばらく機嫌がよかった。


 灯りを落とす前、窓の留め具を確認しながら、やたらと鼻歌まじりだ。あまりにわかりやすいので、クラリスはつい言ってしまう。


「……そんなに、ですか」

「そんなに、よ」

「名前を呼ばれただけで」

「“だけ”じゃないの」


 振り返ったルシアンは、やわらかく微笑んだ。


「あなたが、ちゃんと私のためにその名前を選んでくれたってことでしょう?」


 クラリスは、一瞬だけ言葉に詰まった。

 確かにそうなのかもしれない。


 呼んだのは咄嗟だった。けれど、その咄嗟の中に、今まで積み重なってきた時間がある。ルシアンと一緒に過ごして、話して、困らされて、救われて、何度も顔を見てきたから、自然にその名前が口から出たのだ。


 それを“選んでくれた”と言うのなら、たぶん間違ってはいない。


「……そうかもしれません」


 静かにそう返すと、ルシアンは満足そうに笑った。


 灯りを落とす。


 部屋は夜のやわらかな暗さに包まれる。窓の外では風が木を揺らし、遠くで誰かの馬車が通る音がかすかにした。


 寝台に入って目を閉じると、今日の自分の声がまだ耳の奥に残っている気がする。


 ルーシー。


 不思議な響きだった。まだ少し慣れない。けれど、もう他人事のようにも感じない。

 その名前で呼ぶときのルシアンの顔を思い出して、クラリスは暗がりの中で小さく息をついた。


 たぶん、これからも何度か困るのだろう。

 照れたり、どう反応していいかわからなくなったり、顔が熱くなったり。


 けれど、それでもいいのかもしれない。

 そう思えるようになったことが、少しだけ嬉しかった。



 *****



 一方、その隣で目を閉じていたルシアンは、もちろん眠れてなどいなかった。


 正確には、眠れないほど幸福だった。


 名前を呼ばれただけでこんなにも満たされるなんて、自分でもどうかしていると思う。しかも、それがあのクラリスだ。真面目で不器用で、慎重に慎重を重ねてようやく一歩踏み出すあの人が、咄嗟にとはいえ、自分のためにその名前を口にした。


 思い返すだけで胸が温かい。

 ああ、本当に好きだな、と改めて思う。


 綺麗なものも、可愛いものも、筋肉も、今でも好きだ。自分のことも好きだし、それなりに人生を楽しむ術も知っている。けれど、こんなふうに一人の人の小さな変化に一喜一憂するのは、やっぱりクラリスだけだ。


 彼女が不器用に踏み出した一歩を、これからもちゃんと受け止めていきたいと思う。


 無理に急がせず、けれど待つだけでもなく。

 少しずつ、何度でも。


「……クラリス」


 暗闇の中で小さく呼ぶ。


「何ですか」


 思いがけず、すぐに返事があって、ルシアンは笑ってしまう。


「起きてたのね」

「あなたもでしょう」

「ええ」

「何か」

「……おやすみ、って言おうと思って」

「それだけですか」

「それだけよ」

「そうですか」


 ほんの少しの沈黙のあと、クラリスが静かに言う。


「おやすみなさい、ルーシー」


 ルシアンは今度こそ、本気で天を仰ぎたくなった。


 だめだ。

 これはだめ。

 嬉しすぎる。


「……ねえ、ほんとにずるいわ」

「またですか」

「またよ」

「意味がわかりません」

「そのうちわかる」


 暗闇の中で、クラリスが小さく息をつく気配がした。呆れているのか、少し笑っているのかはわからない。けれど、そのどちらでもきっと構わない。


 その夜、ルシアンはしばらく眠れなかった。


 幸福で、どうしようもなく。



お付き合いいただきありがとうございます。

次回番外編は明日18時に投稿予定です。

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