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第3話 快適すぎる結婚生活

ご覧いただきありがとうございます。



 結婚の手続きというものは、思った以上に事務的だった。


 もちろん、家同士の確認や必要な書類の整備、親族への連絡、居住先の調整など、やるべきことは多い。だが少なくとも、クラリスが想像していたような甘やかで夢見がちな雰囲気はどこにもなかった。むしろ文官として扱う案件の延長に近い。証明書を揃え、署名をし、必要な説明を受け、抜けがないかを確認する。結婚そのものより、そこに伴う諸手続きのほうがよほど自分の領分に近いと、クラリスは妙なところで落ち着いていた。


 そしてルシアンもまた、驚くほど手際がよかった。


「これ、家系証明の写し」

「ありがとうございます」

「こっちは居住変更届。あなたの通勤経路が大きく変わらない場所で探したわ」

「……早いですね」

「仕事ができる男なのよ、私」

「存じております」


 さらりと言えば、ルシアンが目を細める。


「そうやって素直に評価するところ、好きよ」

「そういう言い方は控えてください」

「もう結婚するのに?」

「だからこそです」

「あら、堅い」


 相変わらずのやり取りだった。

 それが、少しだけ可笑しかった。


 結婚を決めたからといって、急に何かが変わるわけではない。互いの態度も、言葉も、距離も、大きくは変わらなかった。ただ、二人のあいだに流れる空気にだけ、わずかな“もう決まったこと”の落ち着きがある。


 結局クラリスは、ルシアンの提案を断らなかった。

 断れなかった、というより、断る理由が見つからなかったというほうが近い。


 あのとき、食卓の向こうでルシアンは、いつもの軽さのままそう言った。


「いっそ、結婚する?」


 冗談のようでいて、冗談ではない声音だった。クラリスは、その場では答えなかった。

 すぐに判断できる内容ではなかったし、軽々しく決めていい話でもないと思ったからだ。


 だが、翌日の午後。

 執務の合間に設けられたわずかな時間で、クラリスは結論を出した。


 自分にとっての結婚とは何か。家の意向。外聞。今後の働き方。

 そして、ルシアン・ヴェルディエという人物。


 気を遣わなくていい。無理をしなくていい。

 ――この人となら、問題は起きない。


 そう判断した。

 だから、答えは簡潔でよかった。

 断る理由は、最後まで見つからなかった。


 家からの圧力は確かに面倒だったし、今後も仕事を続けるうえで、結婚をしたという事実が外向きの盾になることは理解できた。それに、相手がルシアンであることへの抵抗が、自分でも驚くほど薄かった。


 あなたとなら、問題ないと思ったの。

 あのときの言葉は、ずっとクラリスの中に残っていた。


 問題ない。

 けれど、それだけではない何かが含まれていた気がしてならなかった。


 とはいえ、その“何か”を今の時点で深く考えようとはしなかった。考えすぎても、どうせ答えは出ない。今はただ、決めたことをきちんと進めるだけだ。


 そうして、春の終わりが近づく頃、二人は正式に夫婦になった。


 式と呼ぶほど大仰なものはしていない。ごく近しい者たちの前で必要な誓約を交わし、最小限の祝宴を開き、親族たちの満足げな顔をそれぞれ一通り見届けた。それで十分だった。


 ルシアンの家族は、想像していた以上にあたたかかった。


 穏やかな物腰の母、どこか気遣わしげだが誠実な父、そして出来のよい長男らしい、落ち着いた兄。誰も無遠慮なことは言わなかったが、その歓迎の裏にある安堵の色は、クラリスにもわかった。


 それを見て、少しだけ胸がちくりとした。


 ああ、この人は、こういう期待の中にずっといたのだな、と。


 それでもルシアンは、祝いの席でもいつも通り軽やかだった。笑って、受け流して、丁寧に返す。その姿は見事というほかなかったが、クラリスは保管室前で聞いた“素”を知っているぶんだけ、かえって疲れを思った。


 帰りの馬車の中で、思わず口をついて出たのは、そんな言葉だった。


「……お疲れではありませんか」


 向かいに座るルシアンが目を瞬く。


「まあ」

「本日は、ずっと気を張っておられたように見えました」

「よく見てるのね」

「見ていなければ気づきません」

「それはそう」


 くすっと笑ってから、ルシアンは窓の外へちらりと目をやった。夕暮れの光が横顔を淡く照らしている。


「疲れてないと言ったら嘘になるわ」

「やはり」

「でも、予想してたよりはずっと楽だった」

「そうなのですか」

「ええ。あなたがいたから」


 その言葉に、クラリスは小さく息を止めた。


 ルシアンはさも当然のように続ける。


「だって、隣にあなたがいるだけで、余計な言葉を足さなくて済んだもの」

「……それは」

「すごく助かったのよ」


 助かった。


 そう言われると、なぜか少しだけ肩の力が抜ける。


 何か特別なことをしたわけではない。ただ隣にいただけだ。けれど、その“いるだけ”に意味があったのだとしたら、それは悪くないことのように思えた。


 新居は、官舎と同じ区域にある中層の邸宅だった。貴族としては大きすぎず、文官夫婦としては十分すぎる広さがある。派手な装飾はなく、日当たりのよい居間と、使い勝手のいい書斎、必要なだけの客間。庭は広くないが、窓辺に小さな花壇を作れる余地があり、裏手には背の低い果樹が植わっていた。


 初めて中へ入ったとき、クラリスは素直に「いい家だ」と思った。

 落ち着いている。無駄がない。それでいて、温かみがある。


「気に入った?」


 隣でルシアンが尋ねる。


「はい」

「よかった。あなた、無駄に豪華な家は疲れそうだもの」

「事実です」

「でしょうね。私もよ」


 家具はすでに一通り揃えられていたが、細かな配置はこれからだった。どの棚をどちらの書斎に置くか、食器はどこへ収めるか、備品は何が足りないか。そうした細かい確認をしていると、奇妙な実感が少しずつ生まれてくる。


 ここで暮らすのだ。ルシアンと。


 それは紙の上の契約や、親族たちの納得とは違う、もっと具体的な感覚だった。

 それでも、不思議と落ち着かない感じはしなかった。


 むしろ、自然だった。


 たとえば最初の数日。朝は先に起きたほうが窓を開け、台所へ行き、湯を沸かす。朝食は簡素でもよかったが、ルシアンは思ったよりしっかり食べる人だったし、クラリスも仕事前にきちんと口に入れておくほうが体調が整うことは知っていた。だから自然と、パンと卵、季節の果物と温かい茶という型ができていった。


 初めて同じ食卓についた朝、クラリスは妙な気分だった。


 昨夜まで別々の家にいたのに、今朝はこうして向かい合っている。しかも、それが不自然ではない。ルシアンは寝起きだというのに髪の乱れ方まで見栄えがよく、少し悔しいくらいだったが、当人はそんなことに気づいていないのか、眠そうに茶を飲みながら「朝ってどうしてこんなに早いのかしらねぇ」とぼやいた。


 クラリスはパンに手を伸ばしながら、それを聞いて少しだけ口元を緩めた。


 職場では見ない顔だ。


 疲れた顔も、力の抜けた声も、こうして同じ家で暮らすようになると、いっそう自然なものに見えてくる。


「何?」

「いえ」

「今、笑ったでしょう」

「笑ってはいません」

「笑ったわよ」

「気のせいです」

「そういうことにしてあげる」


 そんな朝が、数日も続けば、それが日常になる。


 そしてクラリスは、自分が思っていた以上に、この生活に馴染んでいることに気づき始めた。


 気を張らなくていい。それが一番大きかった。


 自宅というのは本来そういう場所なのかもしれない。けれどクラリスにとって、これまでは“ひとりで整える空間”だった。物は定位置へ戻し、食事は簡潔に済ませ、翌日の予定を確認して眠る。誰かの気配を前提としない静けさの中で、自分を整える。


 それが、今は少し違う。


 居間には誰かがいて、灯りがついていて、帰宅すると「おかえり」と声がかかる。自分の机だけではなく、もう一つ別の書類の山があり、茶器も二つ並ぶ。けれど、その変化は煩わしくなかった。


 むしろ、心地いい。


 認めてしまうと少し不思議だが、それが事実だった。


 ルシアンもまた、家では仕事中よりずっと気楽だった。


 靴を脱いだ瞬間に肩の力が抜けるのがわかるし、書斎で書類を広げながらでも、気軽にくだらない話をする。職場での彼は、軽やかで余裕があって、どんな相手にも一定の距離感を保てる人だ。けれど家では、その距離がもっと近い。


「ああもう、今日の会議ほんっとうに無駄だった」

「何があったのです」

「同じ話を三回したのよ? 三回よ? 一回でわかりなさいよって思わない?」

「思います」

「あなた、そういうときだけ共感が早いわね」

「無駄は削減されるべきですから」

「ええ、本当にね」


 居間の長椅子にだらりともたれかかる姿は、官舎で見れば誰もが驚くだろう。


 クラリスは書類をまとめながら、その様子を横目で見ていた。別に見慣れたわけではない。けれど、驚きもしない。ただ、今日はずいぶん疲れているのだろうな、と自然に思う。


 だから、そんな夜には決まって少し濃いめの茶を淹れた。


「本日はここまでにされたほうがよろしいかと」

「……あなたって、本当にそういう言い方しかしないのね」

「事実ですので」

「でも、その一言の中に“休みなさい”も“無理しないで”も入ってるの、知ってる?」

「入れているつもりはありません」

「入ってるのよ、これが」


 言いながら茶器を受け取り、ルシアンはどこか嬉しそうに目を細める。


 クラリスは、その表情の意味を深く考えなかった。


 ただ、疲れている相手には休息が必要だと思うだけだ。無理を重ねて判断を鈍らせるのはよくないし、明日に差し支える。合理的に考えても、そのほうがいい。


 そう、自分に言い聞かせていた。


 ある日の帰り道、二人で馬車を降りたところで、知り合いの女官にばったり会ったことがあった。彼女はルシアンを見つけるなり、慣れた調子で近づいてきた。


「まあ、ルシアン様。ご結婚なさってからますますお忙しそう」

「ええ、おかげさまで」

「でも少し安心しましたわ。あなた、ずっと結婚なさらないんじゃないかと思ってましたもの」

「そんなふうに見えていたかな?」

「だって、どなたにもするすると逃げていくんですもの」


 冗談めかして笑う。


 悪意はない。だがその言葉に、ルシアンの笑みがほんのわずかに薄くなるのを、クラリスは見逃さなかった。


「今はちゃんと彼女に捕まってますよ」


 ルシアンは軽く返した。


「あら、クラリス様がしっかりなさってるものね。お似合いですわ」

「ありがとうございます」


 クラリスはそう返したが、女官はさらにルシアンへ顔を寄せるようにして言った。


「でも本当に意外でした。あなたみたいな方、もっと華やかな奥様を選ぶかと思っていましたのに」

「それはどういう意味かな?」

「嫌だ、褒めてるのですわよ。地に足のついた、堅実なご夫婦で」


 言い方は柔らかい。けれど、“華やかではない”を遠回しに言っていることくらい、クラリスにもわかる。自分が着飾ることに無頓着なのは事実だし、今さらその程度で傷つくこともない。だから流そうと思った。


 だが、その前に口を開いていたのはクラリスだった。


「失礼ですが」


 女官が目を瞬く。


「それは褒め言葉としては不適切です」

「え……」

「私たちの関係に対して何か評するのであれば、もう少し正確な言葉を選ばれたほうがよろしいかと」


 女官は明らかに面食らっていた。悪意がなかったぶん、余計に。

 横でルシアンが、わずかに目を見開いている気配がする。


 数秒の沈黙のあと、女官は曖昧に笑い、気まずそうに別れの挨拶をして去っていった。


 夜道に静けさが戻る。

 少し歩いてから、ルシアンが小さく吹き出した。


「……まあ」

「何ですか」

「あなた、今の、庇ってくれたの?」

「庇ったわけではありません」

「じゃあ何?」

「不正確な評価は訂正すべきです」

「ふふ……ふふふ」

「そんなに可笑しいことを言いましたか」

「だって、あなた、すごく真面目な顔で言うんだもの」

「事実です」

「ええ、ええ。だから余計に効いたのよ」


 笑いながら、ルシアンはふと声を和らげる。


「……でも、ありがとう」

「必要なことを述べただけです」

「それでもよ」


 その“ありがとう”は、仕事の礼とも、社交辞令とも違っていた。


 クラリスは一瞬だけ言葉に詰まる。


 礼を言われるほどのことではないと思う。だが、ルシアンの声音には確かに何か柔らかいものが滲んでいて、それを無視するのも違う気がした。


「……あなたが軽く扱われるのは、好ましくありません」


 考えた末に出てきたのは、その程度の言葉だった。


「……」


 今度はルシアンが黙る。


 クラリスはなぜか少し落ち着かなくなって、視線を前へ向けた。石畳の先に自宅の灯りが見える。夜風が頬に冷たい。


 しばらくして、隣から静かな声がした。


「あなたって、本当に優しいのね」

「違います」

「どうして否定するの」

「優しさではありません」

「じゃあ何?」

「……」

 

 答えに迷う。


 ただ、嫌だったのだ。ルシアンが軽い人間のように扱われるのが。彼の軽口や余裕の裏にある疲れや諦めのようなものを、少しだけ知ってしまった今では、なおさら。


 その感覚をうまく説明する言葉が見つからなかった。


 結局、クラリスは小さく眉を寄せて言った。


「不快だっただけです」

「ふふ」

「何ですか」

「それ、ほとんど独占欲みたいなものよ」

「違います」

「そうかしら」


 また笑われる。けれど、不思議と腹は立たなかった。


 家に着くと、ルシアンは外套を脱ぎながら「今日はあなたの勝ちね」と言った。


「何に対してですか」

「私を嬉しくさせた回数」

「数えていたのですか」

「まさか」

「では意味がわかりません」

「そのうちわかるわ」


 その“そのうち”が何を指すのか、クラリスにはわからなかった。


 だが、その言い方にどこか余裕のないものが混じっていたことだけは、ぼんやりと感じ取っていた。


 それからまた、日常は穏やかに続いた。


 朝に同じ卓を囲み、昼はそれぞれ職場で働き、夜になれば同じ家へ帰る。書斎の灯りを分け合い、時々遅くまで仕事をし、疲れた夜には互いの愚痴を適度に聞き流す。休みの日には必要な買い物へ出かけ、庭の花壇に何を植えるか相談し、台所の戸棚が少し使いにくいだの、書斎の椅子はもう一脚増やしたほうがいいだの、そういう細かなことを話し合う。


 夫婦らしい、と言えばそうなのかもしれない。

 ただクラリスには、その実感はまだ薄かった。


 恋ではない。少なくとも、自分の中では。


 では何かと言えば、非常に快適な共同生活だった。快適で、気安くて、少しだけ温かい。

 それで十分だと思っていたし、たぶんルシアンも同じだろう、と。


 そう、思っていたのに。


 ある夜、書斎で資料を読んでいたルシアンが、ページをめくる手を止めてこちらを見た。


「ねえ、クラリス」

「何ですか」

「一つだけ、確認してもいい?」

「内容によります」

「あなた、今の生活、嫌じゃない?」

「……嫌?」

「ええ。結婚したこととか、この家とか、私と暮らすこととか」


 その問いは、思った以上に真面目な声で発せられた。


 クラリスは羽ペンを置き、少しだけ考える。

 嫌かどうか。答えは、驚くほど簡単だった。


「いいえ」

「本当に?」

「本当です」

「……即答ね」

「事実ですので」

「そう」


 そこでルシアンは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 それが安堵なのか、別の何かなのか、クラリスにはまだわからない。


 ただ、その横顔が妙に静かで、いつもの軽やかさが少しだけ薄れて見えた。


「あなたは?」


 気づけば、クラリスのほうから尋ねていた。


 ルシアンは目を上げる。


「私?」

「はい」

「……嫌じゃないわよ」

「そうですか」

「むしろ」


 そこで言葉を切って、小さく笑う。


「快適すぎて困るくらい」


 その一言に、クラリスはほんの少しだけ息を止めた。


 快適すぎて困る。


 何でもないようでいて、その言い回しは妙に引っかかる。困る、というのはどういう意味だろう。楽すぎて後戻りできない、ということなのか。それとも、他の何かを含んでいるのか。


 聞こうと思えば聞けたはずだ。


 けれど、その夜のクラリスは結局それ以上追及しなかった。


 ただ、自分の中に小さな波紋だけが残る。


 この生活は快適だ。それは間違いない。

 けれど、快適という言葉だけで片づけていいのかどうかが、少しだけ、わからなくなり始めていた。


 その違和感に名前がつくのは、まだ少し先のことだった。



お付き合いいただきありがとうございます。

次回4話目は明日同時刻に投稿します!

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