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第2話 合理的な提案

ご覧いただきありがとうございます。



 仕事のあとに誰かと食事をする、という行為そのものが、クラリスにはあまり馴染みがなかった。


 学院時代も、勉強会や資料の確認ならよくしたが、ただ「一緒に食事をする」ためだけに時間を取ることはほとんどなかった。文官になってからはなおさらだ。昼は執務の合間に手早く済ませ、夜は帰宅してから簡単な食事を取る。規則正しく、無駄がなく、翌日に支障が出ない生活。そういうものだと思っていたし、それで困ったこともなかった。


 だから、その日も最初は少しだけ落ち着かなかった。


 約束したのは、三日前の夕刻だった。中央棟の保管室前での一件のあと、ルシアンが軽い調子で持ちかけてきた食事の誘いを、クラリスは断るほどの理由もなく受けた。時間は業務終了後、場所は官舎から少し離れた通りにある小さな食堂。高級店ではなく、文官や書記官たちもよく使う、静かで味のいい店らしい。


 そこまで聞いて、少しだけ意外だった。

 ルシアンなら、もっと洒落た店でも知っていそうだったからだ。


 けれど考えてみれば、むしろそういう“気取りすぎない場所”を選ぶあたりが、彼らしいのかもしれないとも思う。誰とでも軽やかに付き合いながら、相手が気負わない程度の距離を心得ている。そういう人だ。


 約束の刻限に合わせて仕事を終え、普段より少しだけ早足で官舎を出る。春先の夕暮れは思ったよりも空気が冷たく、吐く息がかすかに白い。街路樹の枝先にはまだ若い芽がついているだけで、夜の色に溶け込むように揺れていた。


 待ち合わせの場所へ向かう途中、クラリスは自分の服装を一度だけ見下ろした。


 文官服のままだった。仕事帰りなのだから当然だが、ふと、こういう場では少しくらい着替えるものなのだろうかと考えてしまう。学院時代の友人たちの中には、街へ出る前に髪を整えたり、襟元に小さな飾りをつけたりする者もいた。クラリスはそういうことにほとんど関心を向けてこなかったから、今さら少し戸惑う。


 別に、着飾りたいわけではない。

 ただ、礼を失してはいないだろうか、という気持ちがあるだけだ。


 ……いや、仕事の延長のようなものだろう。そこまで考える必要はない。


 自分の中でそう結論づけて、足を止めずに進む。


 待ち合わせの店は、大通りから一本入った場所にあった。外壁は古いが掃除が行き届いていて、窓辺には鉢植えの小さな花が並んでいる。扉の上に掲げられた木の看板には、店名が控えめな字体で記されていた。派手さはないが、穏やかな雰囲気の店だ。


 入口のそばには、すでにルシアンが立っていた。


 濃い色の外套を肩にかけ、文官服の上から首元だけ軽く整えている。仕事中よりほんの少しだけ肩の力が抜けて見えるのに、不思議と崩れた感じはしない。むしろ、そういう抜け方まで含めて様になっているのだから、やはりこの人は見た目がいいのだな、とクラリスは思った。


 向こうもすぐにこちらに気づき、口元にやわらかな笑みを浮かべる。


「いらっしゃい、クラリス」

「……お待たせしました」

「いいえ、私も今来たところよ」

「それは社交辞令ですか」

「半分くらいは」

「なるほど」


 ルシアンはくすりと笑った。


「あなた、本当にそういうところ変わらないわね」

「必要以上のやり取りは好みませんので」

「ええ、知ってる。だから安心するのよ」


 そう言って扉を開ける。店内は予想していた以上に静かだった。夕食時にはまだ少し早いからか、客はまばらで、奥の席には二人組の書記官らしき女性たちが座っているだけだ。温かな灯り、磨かれた木の机、厨房から漂う煮込みの香り。落ち着いた空気に、クラリスは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 案内された窓際の席に向かい合って座る。


 こうして正面からルシアンを見るのは、職場とはまた違う妙な感覚があった。いつもは机越しか、執務室の中で並んで立つか、廊下で短く言葉を交わすだけだ。向かい合って、仕事以外の目的で時間を取るのは、やはり少しだけ新鮮だった。


「何か苦手なものはある?」

「特には」

「助かるわ。ここ、魚の煮込みも美味しいけど、今日は季節の鶏料理がいいって聞いたの」

「お詳しいのですね」

「たまに来るのよ。ひとりでも入りやすいし、店主が過剰に話しかけてこないのが気に入ってるの」

「それは大事ですね」

「あなた、そういうところはすごくわかってくれそう」


 注文を済ませて、水の入った杯が運ばれてくる。店の中は穏やかで、外の冷たい空気が嘘のように温かい。厨房からは、脂が焼ける音と、煮込み鍋の蓋が触れ合う小さな音が聞こえる。


 しばらく沈黙があった。

 けれど、気まずくはなかった。


 この感覚に、クラリスは少しだけ意外さを覚える。相手がルシアンだからだろうか。無理に会話を繋がなくても、沈黙のまま落ち着いていられる。これは職場での信頼感の延長なのかもしれないし、それだけではないのかもしれない。まだよくわからない。


「それで」


 先に口を開いたのはルシアンだった。


「こうして来てくれて、ちょっとほっとしたわ」

「ほっと、ですか」

「ええ。あなた、仕事以外の誘いは断りそうだったから」

「断る理由がありませんでしたので」

「理由があったら断ったのね」

「当然です」

「潔いこと」


 笑われる。からかわれているのはわかるが、不快ではない。


「ルシアン様こそ、こういう形で部下を誘うことは多いのですか」

「あら、牽制?」

「確認です」

「どちらでもいいけど、そう多くはないわね」

「そうなのですか」

「ええ。だって、大抵の子は気を遣うもの。私が少し気を抜くと、それだけで必要以上に恐縮するし」

「それは、ルシアン様が上司としてよくできているからでは」

「その言い方、褒めてるようで面白くないわね」

「事実です」


 ルシアンは杯を持ち上げながら、少しだけ肩をすくめた。


「でも、あなたは違うでしょう?」

「何がですか」

「気を遣いすぎないの」

「……必要以上には、という意味であれば」

「それが楽なのよ」


 その言葉に、クラリスは少しだけ目を上げた。


 ルシアンは本当に、そう思っているらしかった。社交辞令の軽さではなく、肩の力を抜いた人間の声音だった。


 不思議な人だと思う。


 誰にでも上手く合わせられそうなのに、むしろ“合わせすぎなくて済む相手”を好むのかもしれない。そう考えると、中央棟の保管室前で聞いてしまったあの愚痴も、少しだけ理解できる気がした。期待に応える顔、愛想よく整えた声、ちょうどよく無難な振る舞い。そういうものを無意識に求められ続ければ、疲れもするだろう。


「……私は」


 クラリスは少しだけ考えてから言った。


「気を遣っていないわけではありません」

「そう?」

「はい。ただ、過度に遠慮しすぎるのも不自然かと」

「ふふ……真面目ね」

「よく言われます」

「ええ、知ってる」


 そこで料理が運ばれてきた。香草の香りが立つ鶏料理に、温かなスープ、焼きたての小さなパン。見た目は素朴だが、湯気の匂いだけで胃が温まるようだった。


 ひと口食べて、クラリスは素直に思った。


 美味しい。


 味付けは濃すぎず、けれど物足りなくもない。丁寧に火を通された肉はやわらかく、添えられた野菜も甘い。こういう店を選ぶところまで含めて、やはりルシアンは抜け目がない。


「お気に召した?」

「はい」

「よかった。あなた、まずそうな顔をしない代わりに、美味しくても顔に出なさそうだから少し心配したの」

「出ていますか」

「いつもより少しだけ目が緩んでる」

「そうですか」

「ええ、少しだけね」


 またそういうことを言う。


 クラリスは杯に口をつけてから、自分の表情がそこまで読みやすいだろうかと少しだけ考えた。職場では感情を顔に出さないつもりでいる。けれどルシアンは、案外そういう微細な変化を拾うのが上手い。


 あるいは、自分が思うほど隠しきれていないのかもしれない。


 食事をしながら、話題は自然と仕事のことに移った。北方の予算配分、官舎内の人員調整、書記官たちの癖、次の月例会議の面倒さ。互いに事情がわかっているので説明が少なくて済むぶん、会話が楽だった。


 ルシアンは職場でも話し上手だが、こうして私的な場で聞くと、言葉の選び方が少し違う。柔らかくはあるが、もっと率直で、飾りが少ない。時折、保管室前で聞いたのと同じ、あの少し崩れた話し方が滲む。


「本当にね、あの部署の調整役は誰がやっても苦労するのよ」

「ですが、実際に回しているのはルシアン様です」

「そこがまた腹立たしいのよね。できるからって押しつけられるの、損だと思わない?」

「少しは」

「でしょう? あら、珍しく共感してくれた」

「事実ですから」

「あなた、本当に事実しか言わないわね」

「そういうものです」

「そういうもの、便利よね」


 言いながら笑う。


 クラリスもつられて、ほんの少しだけ口元がゆるんだ気がした。


 楽しい、のだと思う。

 その自覚が生まれて、少しだけ戸惑う。


 職場の延長としてではなく、単純に、この時間が不快ではないどころか、心地いい。余計な神経を張らずに済むし、沈黙が落ちても気まずくない。会話が途切れても、そこで無理に別の話題を探さなくていい。


 こんな相手は、今まであまりいなかった。


「……珍しいですね」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


「何が?」

「こうしていて、疲れないのが」

「あら」


 ルシアンがわずかに目を瞬く。


 クラリスは自分の言葉を反芻して、少しだけ言い方が足りなかったかと思った。疲れる相手が多い、という意味に聞こえたかもしれない。けれど、訂正する前にルシアンがふっと笑った。


「それ、すごく嬉しい褒め言葉だわ」

「褒めたつもりは」

「でも、私は嬉しいの」


 その声音が、少しだけやさしかった。


「私もよ」

「……何がですか」

「あなたといると、疲れない」


 その一言に、クラリスは手にしていたナイフを置いた。

 何でもないように言われたのに、なぜか少しだけ胸の奥が動いた気がした。


 疲れない。

 その言葉は、思っていたより重かった。


 仕事のできる人間ほど、他人といることに少なからず気を使うものだ。貴族ならなおさらだろう。言葉選び、態度、相手の立場、周囲の目。そうしたものの中で“疲れない相手”というのは、案外、得難い存在なのかもしれない。


 ルシアンにとって自分がそうなのだとしたら、それは少しだけ……誇らしいことのようにも思えた。


 なぜ誇らしいのかは、よくわからないけれど。


 料理を食べ終える頃には、外はすっかり夜になっていた。


 食後に温かい茶が運ばれてくる。湯気の向こうに揺れる灯りを見ながら、ルシアンがふと指先で杯の縁をなぞった。


「ねえ、クラリス」

「はい」

「あなた、縁談は?」

「……唐突ですね」

「ええ、唐突に聞いてるもの」

「ありません」

「本当に?」

「紹介自体はあります」

「でしょうね」

「ですが、お断りしています」

「仕事を理由に?」

「それが一番角が立ちませんので」

「うわあ、真面目」


 けれど、その茶化すような声の奥に、少しだけ共感めいた色があった。


「ルシアン様こそ」


 今度はクラリスのほうが問う。


「先日、その……面倒だと仰っていましたが」

「ああ、結婚の話?」

「……はい」

「面倒よ」


 即答だった。

 それも、思いのほかあっさりと。


「貴族って、一定の年齢になると急に周囲が騒がしくなるでしょう。“そろそろ落ち着いてはどうか”とか“良いお相手が”とか“家のためにも”とか。親族も友人も、悪気なく言うのよ。悪気がないぶん余計に面倒」

「それは……少しわかります」

「でしょ?」


 ルシアンは茶をひと口飲んでから、少しだけ目を細めた。


「私は別に、ひとりで困ってないのよ」

「はい」

「仕事もあるし、生活も整ってるし、社交だって必要分はやってる。なのに“結婚していない”ってだけで何か足りないみたいに見られるの、不思議だと思わない?」

「……思います」

「でしょう?」


 その“でしょう”には、妙に親しみが滲んでいた。


 クラリスは小さく頷いた。


 自分の場合は、ルシアンほどあからさまに圧をかけられているわけではない。だが、親族の集まりに顔を出すたび、そろそろ良い話の一つも考えたほうが、という視線や言葉に晒されることは増えていた。仕事一辺倒ではいけない。女性としての幸せも考えるべきだ。家に恥をかかせるなとまでは言われなくとも、そういう“空気”はある。


 それが煩わしいとまでは、今まであまり口にしたことがなかった。

 口にしたところで、解決するとも思えなかったからだ。


 けれど今、向かい側にいるルシアンが、まるで茶会の愚痴でもこぼすように「面倒」と言ってのけるのを聞いていると、その感覚が少しだけ軽くなるような気がした。


「……面倒ですね」


 クラリスはぽつりと言った。


「あら」

「そういうことを、仕事の能力とは無関係に評価に混ぜられるのは」

「うふふ」

「何ですか」

「あなたのそういうところ、本当に好きだわ」

「そういう言い方は誤解を招きます」

「誤解する相手もいないわよ、今ここには」

「そういう問題ではありません」


 すぐに返すと、ルシアンは楽しそうに肩を揺らした。


「でも、そうね……」


 そう言って少しだけ視線を落とす。


「お互い、面倒なのは確かだわ」


 その一言に、空気がほんの少し変わった気がした。


 それまでは他愛のない愚痴だった。仕事の延長のような、気の抜けた会話。けれど今の言葉には、妙に現実味があった。お互い。面倒。そういうものを共有している、という響き。


 クラリスが黙っていると、ルシアンは杯を指先で軽く回した。


「……そもそも私、結婚そのものに強い期待があるわけでもないのよ」


 何でもないことのように言う。


「昔から、そういう意味での関心は薄くてね」


 その声音は軽い。けれど、ただの気まぐれや冗談ではなく、長く持ち続けてきた感覚のようにも聞こえた。


 クラリスはわずかに眉を寄せたが、特に何も言わなかった。


 それがどういう意味なのか、はっきりとはわからない。

 ただ、一般的な“結婚を望む人間の言葉”とは、少しだけ違う響きがあるような気がした。


 クラリスが黙っていると、ルシアンは何か思いついたように顔を上げた。


「……ねえ」

「はい」

「いっそ、結婚する?」


 数秒、沈黙した。


 店内の奥で、皿の触れ合う小さな音がした。外では馬車が石畳を通る音がかすかに聞こえる。すぐそばの卓上燭台の火が揺れているのに、その一言だけが妙にはっきりと耳に残った。


 クラリスは瞬きをした。


「……今、何と」

「だから、結婚」

「……」

「私と、あなたで」


 ルシアンは冗談めかした顔をしていなかった。笑ってはいる。いつもの、やわらかな笑みだ。けれど、茶化しているわけではないことが、その目の落ち着きでわかる。


 クラリスはしばらく言葉を失った。


 結婚。


 その単語自体は珍しくない。日常のどこかで常にちらついている話題だ。だが、それを自分に向けて、しかもこの人が、こんなにも自然な口ぶりで言うとは思っていなかった。


「……合理性が見えません」


 ようやく出てきた言葉が、それだった。

 ルシアンは、ああ、と頷く。


「あるわよ、十分に」

「どういう意味でしょう」

「まず、私たちは互いに相手へ過度な幻想を抱いていない」

「……」

「仕事上の信頼もある」

「……はい」

「一緒にいて疲れない」

「それは先ほどの話です」

「重要でしょう?」

「……否定はしません」

「それに、外から見ればそこそこ見栄えもするわ」

「見栄え」

「貴族出身同士、年齢も釣り合う、仕事も安定、問題ある?」

「唐突すぎること以外は」

「そこはごめんなさいね。でも、思いついたら口に出したくなって」


 言いながら、ルシアンは少しだけ真顔になった。


「もちろん、本気で今ここで返事をしろって意味じゃないの」

「……」

「ただ、あり得ない話ではないでしょう?」


 その問いに、クラリスはすぐに否定できなかった。

 あり得ない、とは言い切れない。


 それがまず、自分でも少し意外だった。


 結婚というものは、本来もっと感情的で、運命めいていて、あるいは少なくとも長い交際の果てにするものなのかもしれない。だが貴族社会においては、必ずしもそうではない。条件や家格や実利で決まることも珍しくない。それを思えば、ルシアンの言い分は決して荒唐無稽ではなかった。


 むしろ、筋は通っている。


 そして何より。

 クラリスは、相手がルシアンであることに、自分が想像以上に抵抗を覚えていないのだと気づいた。


「……あなたとなら」


 考えながら、言葉が漏れる。


「はい?」

「いえ、まだ結論ではありません」

「あら、惜しい」

「惜しくありません」


 そう返しながらも、クラリスは自分の中で何かが静かに動き始めているのを感じていた。


 それは恋ではない。少なくとも、そういうものではないと思う。

 けれど、条件や体面だけでは説明しきれない、奇妙な納得感のようなものがあった。


 もし本当にそんな話になったとしても、この人となら、毎日必要以上に気を張らずに済むのではないか。無理に何かを演じなくてもいいのではないか。仕事の話も、家の話も、たぶん適度な距離で共有できる。


 そういう予感が、妙に現実味を持って浮かぶ。

 それが不思議だった。


 結婚など、もっと遠いものだと思っていたから。


「今日は、考える材料だけ渡しておくわ」


 ルシアンが茶を飲み干しながら言った。


「すぐに返事を求めるつもりはないの」

「……本気なのですか」

「ええ」

「冗談ではなく」

「冗談でこんな面倒な話をしないわよ」

「それもそうですね」

「でしょ?」


 また、その言葉に小さく頷いてしまう。


 会計資料の見直しや人員配置の話をしているときと同じくらい自然に、こんな話が進んでしまっていることが、少しおかしかった。


 だが、本当におかしいだけなのかと言われると、それもまた違う気がした。


 店を出る頃には、空気はさらに冷えていた。夜の街は静かで、通りの端に吊るされた灯りが石畳に淡い輪を落としている。二人並んで歩きながらも、クラリスは先ほどの言葉をずっと反芻していた。


 いっそ、結婚する?


 あまりにも軽い口調だったのに、その中身は驚くほど重い。


 ルシアンは黙っていた。無理に話を続けない。その沈黙がありがたいと思う。考える時間をそのまま置いておいてくれるところも、この人のうまさなのかもしれなかった。


 官舎の分かれ道が近づいたところで、ルシアンがふと立ち止まる。


「今日は付き合わせてしまってごめんなさいね」

「いえ」

「でも、楽しかったわ」

「……私も」

「まあ」


 ルシアンの目が少し細まる。


「それは、かなり嬉しいわ」

「事実です」

「本当に事実しか言わないのね」

「そういうものです」

「ええ、知ってる」


 夜気の中で笑う顔は、仕事中より少しだけやわらかかった。


「じゃあ、考えておいて」

「……」

「返事は急がなくていい。でも」


 そこでルシアンは、ほんの少しだけ声を落とした。


「あなたとなら、問題ないと思ったの。私」


 その言葉が、なぜか胸の奥に静かに落ちた。

 条件がいいとか、外聞が整うとか、そういう話だけではなく。


 あなたとなら。


 その一言のほうが、ずっと重く感じられる。


 クラリスはしばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。


「……わかりました」

「ええ」


 それだけを交わして別れる。


 自室へ戻る道すがら、クラリスは何度も考えた。


 結婚。ルシアンと。


 あり得るのか。

 あり得ないのか。


 考えれば考えるほど、否定しきれない自分がいる。


 部屋に戻り、外套を脱ぎ、机の上の明かりを灯す。いつも通りの部屋。いつも通りの静けさ。けれど今夜は、その“いつも通り”の中に一つだけ妙な異物が落ちている。


 あなたとなら、問題ないと思ったの。

 その一言が、ずっと残っていた。


 問題ない。


 それは、感情的な言葉ではない。自分たちらしい、どこまでも穏当で現実的な表現だ。


 けれど、だからこそ妙に心に引っかかった。

 問題ない、というのは、ときに最大限の肯定でもあるのではないか。


 そんなことを考えてしまう自分に、クラリスは少しだけ眉を寄せた。らしくない。

 結論が出ないまま考え込むのは、あまり得意ではない。


 だがこの件に関しては、いつものように帳簿をひらいて答えを照合するわけにはいかなかった。


 翌日、執務室に入ると、ルシアンはいつも通りだった。


 何事もなかったかのように朝の確認を済ませ、必要な指示を出し、部下たちの質問にもよどみなく答える。昨日の夜、あんな話をした人と同じとは思えないくらい、仕事の顔に戻っていた。


 その切り替えに感心しつつも、クラリスは少しだけ複雑な気持ちになった。


 昨夜のことが、自分の中ではまだ収まっていないからだ。


 それなのにルシアンは、昼前に回ってきた決裁書類を受け取りながら、ごく自然な声で言った。


「午後、少し時間あるかな?」

「ございます」

「じゃあ、そのときに例の件も少しだけ」

「……例の件」

「結婚の話」

「職場でそれを言いますか」

「誰も聞いてないよ」

「聞かれたらどうするのです」

「そのときはそのときかな」

「雑すぎます」

「でも、あなたとなら問題ないでしょう?」


 さらりと返されて、クラリスは一瞬言葉を失った。


 昨夜、自分はそんなことを言っていない。言ってはいないのだが、言いかけたことは見抜かれていたらしい。


 ルシアンは、その反応を楽しむようにわずかに笑ってから、次の書類へ手を伸ばした。


 その横顔を見ながら、クラリスは思う。


 この人は、たぶん、本当に本気なのだ。

 冗談にしては手際がよすぎるし、軽口にしては視線が真っ直ぐすぎる。

 そして自分は、その本気を、まったく不快に思っていない。


 それどころか。


 午後、自分がどんな返事をするのかを、少しだけ考えてしまっている。


 そのことに気づいて、クラリスは静かに息を吐いた。


 どうやら、自分が思っていた以上に、話はもう先へ進み始めているらしい。



お付き合いいただきありがとうございます。

次回3話目は明日同時刻に投稿します!

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