第1話 正しい人と、余裕のある上司
ご覧いただきありがとうございます。五話で完結予定です。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
朝の執務室は、まだ冷えている。
石造りの官舎は、春が近づいても朝夕の空気に容赦がない。高い窓から差し込む光は明るいのに、机の上に置かれたインク壺の縁に触れると、ひやりとした感触が指先に残る。廊下を行き交う文官たちの足音、紙を繰る音、羽ペンが走る細い音。そうしたものが少しずつ重なって、ようやく一日が始まるのだとわかる。
クラリス・ヘルムは、いつもの席で書類を確認していた。
机の上には、昨日のうちに回ってきた地方報告と、朝一番で確認すべき決裁待ちの束。革表紙の帳簿を横に置き、必要な箇所へ栞を挟み、要点を書き出しながら目を通していく。誤字、数値の齟齬、記載漏れ。どれも小さなものだが、小さいうちに正しておかなければ、あとで必ず面倒なことになる。
文官の仕事というのは、つまるところ、面倒を先回りして潰していくことだとクラリスは思っている。
華やかではない。剣を持って目に見える敵と戦うわけでもなく、夜会で美しい装いを纏って人目を引くわけでもない。ただ、誰かが見落とすかもしれない綻びを見つけ、整え、繋ぎ直す。そうして初めて、上に立つ者たちは迷いなく判断を下せる。
だから、手は抜けない。
真摯に向き合いなさい。
地道な努力を疎かにしてはいけません。
見ている人は、必ずいます。
幼い頃から、何度も言われてきた言葉だった。
ヘルム家は堅実な家風で知られている。武勲や派手な婚姻戦略で名を上げるより、誠実な勤めと確かな成果を重ねて地位を保ってきた一族だ。父も母も真面目な人だった。貴族としての誇りは持ちながらも、驕らず、怠らず、軽々しい感情に流されない。子どもに対しても、過剰に甘やかすことはなかったが、誠実だった。
その教育のもとで育てられたクラリスは、ごく自然に「正しくあること」を身につけた。
勉強は好きだった。答えのあるものを積み上げていくのは気持ちがよかったし、覚えたことが結果として返ってくるのも性に合っていた。学院では常に上位、卒業試験では首席。文官として登用されてからも、その評価は安定している。
だからこそ、他人の不手際には目がいく。
目についてしまうものを、見なかったことにはできない。
「クラリス様……」
控えめな声に顔を上げると、向かい側の机にいた若い文官補佐が、青ざめた顔で書類を抱えて立っていた。まだ配属されて半年も経っていない青年で、名前は確かエドガーだったか。几帳面そうな顔立ちをしているが、緊張するとすぐに手元が怪しくなる。
「何でしょう」
「こちらの地方税収の集計なのですが、その……再確認をお願いしたく……」
「再確認?」
クラリスは差し出された書類を受け取り、すぐに目を落とした。数字を追う。欄外の計算式、前月比、摘要欄。三行ほど見たところで、問題点はすぐにわかった。
「集計単位が一箇所だけ違います」
「……はい」
「こちらは銀貨換算で記載すべきところを、銅貨のまま計上していますね」
「申し訳ありません……!」
机の向こうで、周囲の文官たちがわずかに顔を上げる気配がした。静かな執務室では、小さなやり取りでも案外耳に入るものだ。若手の失敗は、ときに必要以上に注目を集める。
クラリスは書類を机の上に置いた。
「確認は何度しましたか」
「二回、です」
「足りません」
「……はい」
「数字が多い書類ほど、慣れで見落とします。目で追うだけでなく、声に出すか、別表と突き合わせてください」
「はい……」
「あと、途中で一度席を立ったでしょう」
「え」
「インクが乾いている箇所と、そうでない箇所の差が大きいので」
青年は完全に肩を落とした。
「……すみません」
「謝るより先に、手順を見直してください」
「はい……」
泣きそうだな、とクラリスは思った。
別に泣かせたいわけではない。失敗を責めたいのでもない。必要なのは原因の確認と再発防止だ。だが、言い方が柔らかくないことは自覚している。父にも昔、「お前は正しいが、正しさだけで押すと相手が固まることがある」と言われたことがあった。
それでも、仕事の場で曖昧な慰めを口にするのは違うと思っている。手順が必要な場所で、感情だけを先に立てるべきではない。
だからクラリスは、少しだけ間を置いてから続けた。
「……本日の集計は、ここまでにしましょう」
「え」
「この状態で続けても、さらにミスが増えるだけです」
「ですが、締め切りが」
「今日中に私が確認しておきます。あなたは計算表を一から書き直してください。焦ると雑になります」
「クラリス様、それは……」
「次から同じことをしなければ、それでいいのです」
青年はしばらく呆然としたあと、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、ありがとうございます……!」
「感謝は不要です。次に活かしてください」
「はい!」
今度は少しだけ顔色が戻っていた。書類を抱えて自席に戻っていく背中を見送り、クラリスは小さく息をついた。
向かいの席から、年配の文官が苦笑混じりに言う。
「相変わらず厳しいな、君は」
「必要な指摘をしたまでです」
「そのあと、さりげなく助け舟を出すところまで含めてな」
「助け舟ではありません。非効率なやり直しを減らしただけです」
「はいはい」
からかうような声音だったが、悪意はない。クラリスはそれ以上応じず、書類へ視線を戻した。
別に、特別なことをしたつもりはない。
初歩的なミスを繰り返させるより、一度止めて整えさせたほうが結果的に早い。それだけの話だ。……それだけなのだが、時々、周囲はそれをもう少し“情”のあるものとして受け取る。
情と呼ばれるのは、少し違う気がした。
ただ、雑に扱いたくないだけだ。仕事も、人も。
それだけのことなのに、クラリスは昔から、どうも柔らかく伝えるのが得意ではなかった。
昼前、部署の空気が少しだけ動いた。
廊下の向こうから、複数人の話し声が近づいてくる。文官たちが自然と姿勢を正し、筆を置く者もいる。足音は急かさないが、迷いがない。そういう歩き方をする人間は限られていた。
「おはようございます」
澄んだ声が執務室に落ちる。
クラリスも立ち上がった。
入ってきたのは、ルシアン・ヴェルディエだった。
今日も隙のない装いだった。上質な濃灰の文官服は皺ひとつなく、金の飾り紐も過度に主張しない。明るい茶金の髪はきちんと整えられ、目元には常にどこか余裕を感じさせる笑みが浮かんでいる。整った顔立ちは華やかだが、それを鼻にかけるようなところはない。人当たりがよく、話し上手で、判断も速い。年齢のわりに要職を任されているのも納得できる有能さだった。
そして、クラリスの直属の上司でもある。
「おはようございます、ルシアン様」
「おはよう、クラリス。例の北方の予算見直し案、午後までに一度見せてもらえる?」
「すでに一次案はまとまっています。追加資料を反映してからお持ちします」
「もうまとまってるのか、早いね」
「必要でしたので」
「助かるよ」
にこりと微笑まれる。言葉遣いは柔らかいが、仕事の確認は的確だ。雑談の延長のような口ぶりでいて、必要な指示はきちんと通す。そのあたりの匙加減が見事だと、クラリスはいつも思う。
ルシアンは部屋をひと通り見渡し、いくつか確認事項を伝えたあと、ふとエドガーの机のほうに視線を向けた。
「顔色があまり良くないな。どうした?」
「え、あ、その……」
「地方税収の集計で計上単位を誤っていましたので、現在修正中です」
クラリスが代わりに答えると、ルシアンは「なるほど」と頷いた。
「じゃあ今日は、完成度より正確さ優先で。焦ると余計に絡まるから」
「は、はい!」
「クラリス、午後の資料と一緒に、彼の集計も一度見てもらえるかな?」
「承知しました」
「頼むよ」
それだけで終わる。
責めもしないし、甘くもしない。だがエドガーの肩から余計な力が抜けたのが、横目にもわかった。
こういうところだ、とクラリスは思う。
ルシアンは、押しつけがましくなく人を整えるのがうまい。厳しさがないわけではないが、相手を必要以上に追い詰めない。その采配の巧みさは、純粋に尊敬していた。
文官の仕事は、能力だけでは回らない。人をどう動かすかが半分以上を占めることもある。その意味でルシアンは、クラリスにとって理想的な上司だった。
だから、午後の会議で地方予算の交渉相手をわずかな言葉で丸め込み、夕方には何事もなかったかのように美しい筆跡で決裁欄に署名する姿を見ても、何の違和感もなかった。
ルシアン・ヴェルディエは、そういう人だ。
有能で、余裕があって、社交的で、少しばかり掴みどころがなく、それでいて信頼できる。
少なくとも、クラリスはそう思っていた。
その認識が変わったのは、本当にたまたまだった。
日は暮れかけていた。
窓の外の光が薄まり、執務室の中にも橙色の影が伸びている。帰り支度を始める者、残って帳簿を閉じる者、明日の資料を揃える者。忙しかった一日の終わりには、独特の弛緩がある。
クラリスは書庫に資料を戻すよう頼まれて、中央棟の奥にある保管室へ向かっていた。古い会計記録は部署ごとに管理されているが、三年以上前のものはまとめて別室に下げられる。重たい簿冊を二冊抱え、人気の少ない廊下を歩く。
夕方の官舎は、昼間とはまるで別の建物のようだった。人の往来が減るだけで、石壁の冷たさや廊下の長さが急に際立つ。窓の外の庭木が黒く影を落とし、足音だけがやけに響いた。
保管室のある一角へ差しかかったとき、クラリスはふと足を止めた。
扉の向こうから、声がしたのだ。
「……ほんっと、面倒なのよねぇ」
聞き慣れた声だった。
だが、聞き慣れているはずの声音とは、少し違う気がした。
「……また同じ話」
かさり、と紙が鳴る。
「どうして“そろそろ身を固めたら”なんて話になるのかしら。私が誰と食事していようが、どんな付き合いをしていようが……本当に、放っておいてほしいわ」
わずかに苛立ちを含んだ声音。
それから、深く息を吐くような気配。
「……ええ、わかってる。家のことも、立場のことも。わかってるから余計に面倒なのよ」
クラリスは扉の前で固まった。
中にいるのは、間違いなくルシアンだった。だが、話し方が違う。
いや、正確には、今まで職場で耳にしたことのない、あまりにも力の抜けた声だった。滑らかで、少しばかり投げやりで、どこか飾りのない本音の温度がある。
同時に、内容も耳に入ってしまった。
結婚の話。面倒だという愚痴。立場や家のこと。
聞くつもりはなかった。だが、ここまで来て今さら引き返すのも不自然で、しかも両手は簿冊で塞がっている。
どうするべきかと迷っているうちに、中からまた声がした。
「本当に、私はね、孫の顔だの家の体面だのを餌にされると弱いのよ。愛されてるのはわかるの。でも重いの。優しさが常に心地いいとは限らないのよ、世の中」
その言葉の端に、ほんの少しだけ疲れが滲んでいた。
そこでクラリスは、思いがけず胸の奥が引っかかるのを感じた。
ルシアンが、そんなふうに言うのは初めて聞いた。
いつも余裕があって、何事も上手くいなしているように見える人だと思っていたから、その疲れたような声音が少し意外だった。
意外で——少しだけ、人間らしいと思った。
と、そのとき。扉が内側から開いた。
反応する間もなく、真正面でルシアンと目が合った。
――その手には、開いたままの手紙が握られていた。
数秒、沈黙が落ちた。
ルシアンの目がほんのわずかに見開かれ、それから、ああ、というように細められる。
「おや」
いつもの、整った微笑みに戻るまで、ほとんど時間はかからなかった。
「……クラリス」
クラリスは簿冊を抱えたまま、姿勢を正した。
「申し訳ありません。資料を戻しに」
「ああ、保管室だからね。そういうこともあるね」
「……」
「どこから聞いたのかな?」
「“面倒なのよねぇ”からです」
「最悪ねぇ」
即答だった。しかも、妙に淡々としている。
思わずクラリスは瞬きをした。もっと取り繕うかと思ったのだが、ルシアンはほんの一瞬だけ空を仰ぐようにしてから、諦めたように肩をすくめた。
「まあ、今さら取り繕っても仕方ないわね」
そう言って、手にしていた手紙を軽く持ち上げる。
「……実家からの手紙なの。つい、ね」
「申し訳ありません。盗み聞きのつもりはありませんでした」
「わかってるわよ。あなた、そういう趣味はなさそうだもの」
「ありません」
「でしょうね」
保管室の中には誰もいなかった。どうやら、誰かと話していたのではなく、独り言だったらしい。あるいは、独り言のように愚痴をこぼしていたのか。
それにしても、である。
クラリスは一度だけ迷ってから、口を開いた。
「……意外でした」
「何が?」
「その、今の話し方が」
「ああ」
ルシアンは一拍おいて、それからふっと笑った。
「素よ」
「素」
「ええ。仕事中は少し整えてるの」
「そうだったのですね」
「失望した?」
「いいえ」
それは本当に、考えるより先に出た言葉だった。
失望、という発想自体がなかった。驚きはした。意外ではあった。けれど、それだけだ。話し方が違うからといって、ルシアンの仕事ぶりが変わるわけでもないし、信頼が損なわれるとも思わなかった。
むしろ——。
「少し、安心しました」
「……安心?」
「はい」
「どうして?」
「完璧すぎる方だと思っておりましたので」
言ってしまってから、少し率直すぎたかと思った。だがルシアンは目を丸くしたあと、くすくすと笑い出した。
「それ、褒めてるのかしら」
「事実です」
「ふふ……あなた、本当に正直ね」
「必要なことしか言いません」
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
夕方の薄い光の中で、ルシアンの笑みはいつもより少しやわらかく見えた。職場で見せる社交用の整った微笑みではなく、もっと気の抜けた、自然な笑い方だった。
それを見て、クラリスは不思議とほっとした。
何に対してなのかは、自分でもよくわからない。ただ、こうして立っているルシアンのほうが、さっきまでの“理想的な上司”より少しだけ近く感じられた。
「……このことは」
クラリスは言葉を選んだ。
「聞かなかったことにします」
「あら」
ルシアンが、少しだけ目を細める。
「優しいのね」
「口外する理由がありません」
「それでもよ」
「……そうでしょうか」
「ええ、そういうの、優しさって言うの」
クラリスはわずかに眉を寄せた。
優しさ、というのは、自分にはどうも大げさに聞こえる。大したことではない。聞くつもりがなかったものを、わざわざ広める必要がない。それだけだ。
ただ、ルシアンはもうそれ以上押しつけてはこなかった。にこりと笑って、保管室の扉を大きく開ける。
「どうぞ。重たいでしょう」
「ありがとうございます」
クラリスは中へ入り、所定の棚へ簿冊を収めた。古い紙と革の匂いが鼻をくすぐる。背表紙の番号を確認しながら戻していくあいだ、扉のそばでルシアンは待っていた。
普通なら、上司がそこまでする必要はない。
だが、そういうところもまたルシアンらしいと思った。
作業を終え、二人で廊下へ出る。窓の外はもうかなり暗くなっていて、壁に掛けられた燭台の火だけが頼りだった。
「こんな時間まで残るなんて、珍しいじゃない」
「本日の分を終えてから帰りたかったので」
「真面目ねえ」
「そういうものです」
「そういうもの、ね」
ルシアンはどこか可笑しそうに繰り返した。
「あなた、本当に、そのまま育ってきたのね」
「そのまま?」
「まっすぐ、真面目に。教えられた通りに努力して、教えられた通りにきちんと報われてきた顔をしてる」
「……顔でわかるものですか」
「わかる人には、ね」
その言い方に、少しだけ含みがあった。
クラリスはちらりと隣を見た。ルシアンの横顔は穏やかだったが、先ほどの愚痴を思い出したせいか、そこにわずかな疲れの影を見た気がした。
家のこと。立場のこと。結婚のこと。
貴族である以上、それらと無縁ではいられない。クラリス自身だって、年頃になってからは何度も縁談を示されたし、そろそろ身を固める気はないのかと親族に遠回しに言われることも増えた。だが、仕事が忙しいことを理由に曖昧に流してきた。必要を感じなかったし、何より、そういうことに気を回す余裕がなかった。
ルシアンほど露骨に疲れてはいないにせよ、うんざりする気持ちは少しわかる。
そこまで考えてから、クラリスは口を開いた。
「……本日は、お疲れのようでした」
「まあ」
ルシアンが立ち止まりそうなほどの顔をした。
「気づかれたの」
「少し」
「それは失敗ね」
「失敗というほどでは」
「私、職場でそういうの見せたくないのよ」
「そうですか」
「ええ。完璧な上司でいたいじゃない?」
「十分、そう見えています」
「あら、嬉しい」
けれど、その声はほんの少しだけ乾いていた。
クラリスは迷った。自分が今、何を言うのが正しいのか、少しわからなかった。
慰めの言葉は軽い気がする。かといって、何も言わないのも違う気がした。
結局、出てきたのはこんな言葉だった。
「……あまり無理はなさらないでください」
「……」
ルシアンが黙る。
クラリスは内心でしまったと思った。ありきたりだったし、自分にしては踏み込みすぎたかもしれない。職場の上司に向ける言葉として、適切かどうかも微妙だった。
だが次の瞬間、ルシアンはふっと笑った。
「それ、部下に言われるなんてね」
「不適切でしたら、お忘れください」
「いいえ」
やわらかく首を振る。
「……ありがとう、クラリス」
その“ありがとう”は、今日何度か聞いたどれとも違っていた。
社交辞令でも、仕事上の礼でもない。ほんの少し、肩の力が抜けた声だった。
それが妙に耳に残って、クラリスはなぜか視線を逸らしたくなる。
「事実を述べただけです」
「あなた、本当にそういうところ変わらないのね」
「変わる必要があるでしょうか」
「いいえ、全然」
ルシアンはまた笑った。
廊下の曲がり角まで来たところで、彼はふと思い出したように振り向く。
「そうだ、クラリス」
「はい」
「今度、仕事のあとに食事でもどう?」
「……食事、ですか」
「ええ。お礼」
「お礼をされるようなことは」
「私がしたいの。だめ?」
だめかどうかで言えば、だめではない。
上司と部下で食事くらい、珍しくもない。仕事の延長で軽く話をすることもある。そこに特別な意味はないはずだ。
それなのに、なぜかクラリスは少しだけ考えてしまった。
ルシアンと、仕事以外で。
その響きが、わずかに意外だったのだ。
「……問題ありません」
「よかった」
「ただし、長時間は難しいかと」
「真面目ねえ」
「翌日に支障が出るのは困りますので」
「ええ、ええ。そういうところも含めて気に入ってるわ」
まただ。
そういうふうに、少し気軽に好意めいたことを言う。冗談なのか本気なのか判断のつかない温度で。それが不快ではないあたり、自分は案外この人に慣れてしまっているのかもしれない、とクラリスは思った。
「では、日取りは改めて」
「ええ。楽しみにしてるわ」
ルシアンはそう言って、廊下の向こうへ去っていった。
燭台の灯りを横切る背中は、やはりいつも通り整って見えた。だが、先ほどの“面倒なのよねぇ”という声を知ってしまった今では、その整った後ろ姿の見え方も少しだけ違う。
完璧な上司。
余裕のある文官。
社交的で、人当たりがよく、何でもそつなくこなす人。
その輪郭は変わらない。けれど、その内側に、疲れることもあれば、愚痴をこぼすこともある、ごく普通の人間がいるのだとわかった。
それを知って、どう思うのか。
クラリスはしばらく考えたが、うまく言葉にならなかった。
ただ一つ、確かなのは——。
不思議と、嫌ではなかったということだけだ。
翌朝、出勤してきたクラリスは、いつも通り自席についた。机の上には整えた書類の束、いつものインク壺、昨日のうちにまとめておいた確認表。執務室の空気も、昨日とほとんど変わらない。
それなのに、自分の中だけ何かが少し違うような気がして、クラリスはわずかに首を傾げた。
ほどなくして、扉が開く。
「おはようございます」
いつもの声。
いつもの笑み。
ルシアンが入ってくる。
文官たちが一斉に立ち上がり、朝の挨拶が交わされる。その流れの中で、ルシアンの視線が一瞬だけこちらを掠めた。
ほんの、ほんの一瞬だった。
けれど、その目がわずかに細められた気がして、クラリスはなぜか昨日の保管室の薄暗さを思い出した。
気のせいかもしれない。
ただの錯覚かもしれない。
だが、ルシアンはクラリスの机の前を通り過ぎざま、ごく自然な顔で一言だけ落とした。
「昨日のこと、内緒だよ?」
足を止めることもなく、柔らかな声だけが耳に残る。
クラリスは一拍遅れて顔を上げたが、ルシアンはすでに別の文官へ指示を出していて、こちらを見てもいなかった。
――本当に、何事もなかったように。
けれど、その声に、わずかに笑いが混じっていたことを、クラリスはきちんと聞いてしまっていた。
自分でもよくわからないまま、ほんの少しだけ口元が緩む。
「……了解しました」
小さく呟いたその返事は、誰の耳にも届かなかった。
ご覧いただきありがとうございます!
次回2話目は明日同時刻に投稿します!




