二つの名前
雪がまだ幼かったころ、花沢館に蝦夷の客人が訪れたことがあった。
父の季繁は、その男を客間へ通し、酒を振る舞っていた。雪は廊下の端から客間を覗き、客人の話を聞いていた。
男は大柄で、顎に濃い髭を蓄えていた。腰には見慣れない形の小刀を差し、着物の襟元には細かな刺繍が施されている。
傍らに控えていた小萩が呼ばれて酒を注ぐと、男は何かを言った。
小萩は笑って答えた。
それから男は、もう一度、小萩に向かって聞き慣れない言葉を口にした。小萩が振り返ったので、雪はそれが呼びかけなのだと分かった。
「小萩」
雪が小声で呼ぶと、小萩は振り向いた。
「何でございましょう、姫様」
「今、あの者は何と言ったのです」
「昔の話をしておりました」
「その前です。そなたを呼んだでしょう」
小萩は少し困ったような顔をした。
「私の名を呼ばれたのでございます」
「小萩とは言わなかったではありませんか」
「蝦夷の言葉でございますから」
雪は小萩を見上げた。
「では、そなたには別の名があるのですか」
「はい」
「何というのです」
小萩はすぐには答えなかった。客間では父が何かを尋ね、男が大きな声で笑っていた。
「姫様。そろそろ奥へお戻りになりませぬと」
「まだ答えておりません」
「後ほど、お話しいたします」
ところが、その後も小萩は名前を教えなかった。
雪が尋ねるたびに、今は忙しいとか、いずれお話しするとか言って、うまくかわしてしまう。
ある日、とうとう雪は腹を立てた。
「私には教えられぬというのですか」
「そのようなことはございませぬ」
「では、なぜ教えないのです」
小萩は縫い物の手を止めた。
「姫様は、なぜそれほどお知りになりたいのでございますか」
「そなたの名だからです」
「小萩という名は、姫様もご存じでございましょう」
「そういうことではありませぬ」
雪は膝の上の布を握りしめた。
「そなたは私のことを何でも知っているのに、私はそなたのことを知らないのですね」
小萩は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
雪はその日、夕餉の支度まで小萩と口を利かなかった。
翌朝、小萩が髪を結いに来ると、雪は黙って背を向けた。小萩もいつものように櫛を取り、髪を梳き始めた。
「姫様。今日はどちらの紐になさいますか」
「赤い方にいたします」
「かしこまりました」
しばらくして、雪は鏡に映る小萩の顔を見た。
「小萩」
「はい」
「昨日は、少し言い過ぎました」
小萩の手が一瞬止まった。
「お気になさらずとも」
「けれど、いつかは教えてくださいね」
小萩は赤い紐を取り、雪の髪を結んだ。
「……はい」
それから何年も経ったが、雪はまだ、その名前を知らなかった。
*
享徳四年(一四五五年)の春、蝦夷ヶ島の花沢館。
山裾の雪が消え、浜へ下りる道にも若草が伸び始めていた。
ある朝、武田信広は蠣崎季繁に呼ばれた。
「武田殿。今日は又四郎とともに、山の方へ行ってもらいたい」
「何かございましたか」
「近くの蝦夷の村から使いが来ておる。冬の間に預けた鉄物の勘定と、春の取引の話をしたいそうだ。又四郎に任せてあるが、そなたも一度、村を見ておくとよい」
「承知いたしました」
「それから、雪も連れていってやってくれ」
信広は少し驚いた。
「雪様もでございますか」
「うむ。村の者から、今年も来ぬかと誘われておる。小萩も一緒だ。又四郎がおれば心配あるまい」
季繁はそう言って、机の上の書状を取り上げた。
信広が庭へ出ると、又四郎はすでに支度を終えていた。
背の高い壮年の男で、髪を後ろで束ね、腰には刀を差している。信広が初めて花沢館へ来たとき、門前で郎党たちに指図していた武士だった。
「武田殿。今日はよしなに」
「季繁殿から、村のことは又四郎殿に聞くようにと言われております」
「道はさほど遠くございませぬ。ただ、雪解けのころは沢が荒れますので」
「では、足元に気をつけねばなりませぬな」
そこへ雪と小萩がやって来た。
雪は裾をまとめ、頭には笠をかぶっていた。小萩は布に包んだ荷を背負っている。
「武田殿もご一緒なのですね」
「村を見ておくようにと、季繁殿から申しつかりました」
「それなら、わたくしがご案内いたしましょう」
雪は少し得意そうに言った。
小萩が傍らから口を挟んだ。
「姫様、前にお訪ねになったのは、もう三年も前でございます」
「道くらい覚えております」
「途中で違う沢へ入ろうとなさったのを、お忘れでございますか」
「あれは小萩が、こちらだと言ったからでしょう」
「私は、そのようには申しておりませぬ」
又四郎が笑っているのを見て、雪は少し頬を赤くした。
「ともかく、参りましょう」
一行は花沢館を出て、浜沿いの道を北へ進んだ。
海から離れると、道は急に狭くなった。沢に沿って生える柳は芽吹き始めたばかりで、その向こうには黒々とした針葉樹の森が続いている。
雪解け水が斜面を流れ、道のあちこちに深い泥を作っていた。笹の根元にはまだ雪が残り、倒木の下をくぐらねばならぬところもあった。
信広が雪に手を貸して沢を渡らせると、小萩が後ろから裾を持ち上げた。
又四郎は先へ進み、倒れた木の枝を刀の鞘で押しのけた。
「このあたりは、春になると熊も下りてまいります」
「熊か」
信広は山の方を見た。
「宇曾利でも、山で熊に出会ったことがございます」
「それなら、ご存じでございましょう。春先の熊は、腹を空かせております」
又四郎はそう言って、歩き始めた。
「小萩殿も、蝦夷の村へよく参られたのですか」
信広が尋ねると、小萩は頷いた。
「はい。私も蝦夷の生まれでございますから」
「そうであったか」
信広は思わず小萩を見た。
花沢へ来てから幾度も顔を合わせていたが、その話は聞いたことがなかった。
「驚かれましたか」
「いや、失礼いたした。まるで存じませなんだ」
雪が横から言った。
「小萩は、わたくしが幼いころから一緒なのです。蝦夷の言葉も、又四郎と同じくらいよく知っております」
「姫様。又四郎殿ほどではございませぬ」
小萩がそう言うと、先を歩いていた又四郎が振り返った。
「わしの方が小萩に教わることも多いぞ」
小萩は笑った。
やがて沢の音が遠のき、林の向こうから犬の吠える声が聞こえてきた。
ところが、林を抜けたところで、一行は足を止めた。村の方から、男たちが大声で何かを叫ぶ声が聞こえた。
数人が太い木の棒を担ぎ、その間に黒い大きなものを吊るして運んでくる。近づくにつれ、それが熊だと分かった。
熊の前脚は縄で縛られ、頭がだらりと垂れていた。胸から腹にかけて血が固まり、毛には泥や枯葉が絡みついている。
「ウェンカムイ!」
誰かが叫んだ。
「ウェンカムイ!」
別の男も叫んだ。
村から人々が走り出てきた。子供を抱いた女が家の陰へ下がり、年寄りたちが厳しい顔で熊を見つめている。
信広は又四郎を見た。
「何と申しておるのです」
「ウェンカムイ。悪い神、というほどの意味でございます」
「熊を神と呼ぶのか」
又四郎は答えようとしたとき、村の男が又四郎を呼んだ。男が熊を指して早口で何かを話すと、又四郎が顔をこわばらせた。
「武田殿。少々お待ちくだされ」
又四郎は、男たちの方へ駆け寄った。
雪は小萩の袖をつかんだ。
「小萩。あれは、どうしたのです」
小萩は硬い顔で熊を見たまま答えた。
「春先に人を襲った熊でございましょう。こちらの村で、一人亡くなったと聞いております」
そのとき、家の一つから女が飛び出してきた。
女は熊を見るなり声を上げ、担いでいた男たちに駆け寄った。何かを激しく叫び、熊へ石を投げつけた。
男の一人が女を止めようとしたが、女はその腕を振り払った。
小萩が荷を雪に預け、女の方へ走った。何かを話しかけながら肩を抱くと、女は小萩の胸に顔を押しつけて泣き始めた。
信広は熊へ目を戻した。
地面に下ろされた熊の背には矢が二本刺さり、首のあたりには槍で突いた傷もあった。
若い男が熊を指して何か言うと、年長の男が怒鳴り返した。又四郎が二人の間に入り、しばらく言葉を交わした。
やがて男たちは熊を担ぎ直し、村外れの方へ運んで行った。
又四郎が戻ってきた。
「春先に人を殺した熊を、ようやく仕留めたのでございます。あの女は、亡くなった者の妻にございます」
信広は小萩の方を見た。
女はまだ泣いていた。小萩はその傍らに膝をつき、背をさすっている。
「熊を討った者たちは、皮を剥いで持ち帰ろうとしたそうでございます」
又四郎は続けた。
「ですが、村の長が許さなかった。人を殺した熊は、普通の獲物のようには扱えぬと」
「皮も肉も取らぬのか」
「この村では、そういたします。悪い神を家へ持ち込むことになると申して」
信広は熊が運ばれていった方を見た。
「熊を討った者には、何も与えぬのか」
「それも、まず死んだ者の家へ話を通さねばならぬと」
村の長らしい男が近づいてきた。
髭を蓄え、厚い毛皮の上着をまとっている。又四郎を見ると、短く何かを言った。
又四郎は頷き、信広たちを紹介した。
男は雪を見ると、少し表情を和らげた。何か言われて、雪も微笑んだ。
「お久しゅうございます」
雪が頭を下げると、男は声を立てて笑った。
そのとき小萩が戻ってきた。長は小萩を見ると、雪に向けたものとは違う、改まった口調で何かを言った。
小萩も丁寧に答えた。
長はしばらく小萩と話し、最後にその肩へ手を置いた。傍らにいた若い男も、小萩に深く頭を下げた。
信広はその様子を見ていたが、何を話しているのかは分からなかった。
*
村の長は一行を自分の家へ招いた。
木の骨組みに草を厚く葺いた家で、入口には編んだ覆いが垂らされていた。
中へ入ると、炉の煙と煮炊きの匂いが鼻をついた。
家の中央には火が燃え、梁には魚や肉が吊るされている。壁際には木の器や編んだ籠が並び、奥には木を薄く削った祭具が立てられていた。
信広が座る場所を迷っていると、又四郎が手で示した。
「こちらへ」
雪は慣れた様子で腰を下ろした。
長は又四郎と取引の話を始めた。
季繁から預かった鉄の小刀や針が広げられ、代わりに毛皮や干魚の束が運ばれてきた。
若い男が小刀を手に取り、刃を指で確かめた。
又四郎が何か言うと、男は首を振った。
二人はしばらく言い合い、最後には長が口を挟んだ。
又四郎は苦笑した。
「今年は毛皮の数が少ないそうでございます。冬の狩りが思わしくなかったとか」
「それでは、鉄物との交換も難しかろう」
信広が言うと、又四郎は頷いた。
「ただ、魚はよく獲れております。干魚を増やしてもらうことで、話がつきそうでございます」
長は二人の顔を見て何かを尋ねた。又四郎が答えると、長は満足そうに頷いた。
やがて魚と山菜を煮た汁が配られた。
信広は木の椀を受け取り、一口すすった。魚の脂が浮き、山菜にはわずかな苦みがある。
雪は慣れた様子で食べていた。
「武田殿。お口に合いますか」
「はい。なかなかよい味でございます」
「それはようございました」
小萩は女たちと蝦夷の言葉で話していた。
女の一人が小萩の手を取り、何か言った。小萩が笑って答えると、女たちも声を立てて笑い、雪の方を見た。
「小萩。何のお話ですか」
「姫様が幼いころ、こちらで転んで泣いておられたお話でございます」
「またその話ですか」
「皆、よく覚えておりますので」
「困りましたね」
雪がそう言うと、女たちはさらに笑った。
信広も思わず笑った。
食事が終わるころ、先ほど熊を運んできた若い男が入ってきた。
長の前に座り、何かを話し始めた。
又四郎も耳を傾けていたが、やがて信広に言った。
「熊を討った者への礼について、まだ話がつかぬそうでございます。若い者たちは、矢や槍を損じた分だけでも償ってほしいと。長は、まず亡くなった者の親族と話をつけるべきだと申しております」
「長が決めれば、それで済むのではないのか」
「そうもまいりませぬ。亡くなった者の親族にも、言い分がございますから」
長は若い男に低い声で何かを言った。男は不満そうだったが、それ以上は言い返さなかった。
信広は又四郎に尋ねた。
「この村では、狩り場や浜のことも長が決めるのか」
「村の者だけで決められることもございますが、ほかの村が関われば、そうはいきませぬ」
又四郎は炉の向こうに座る長を見た。
「このあたりの浜にも、魚を獲る場所や舟を寄せる場所について、昔からの取り決めがございます。村ごとに使うところが違い、季節によっても変わります」
「浜は続いておるのにか」
「はい。こちらでは、誰が先に使ってきたか、誰の親族がそこで漁をしてきたかが大切なのでございます」
長は二人の話を聞いていたらしく、又四郎に何かを言った。
「昔、近くの村と狩り場をめぐって争ったときにも、似たようなことがあったそうでございます」
「そのときは、どうしたのだ」
「東の方に、諸村から頼りにされる大長がおります。その御方に双方の言い分を聞いてもらい、ようやく収まったとか」
「遠くから、わざわざ仲裁を頼むのか」
「はい。どちらも譲らぬときには、双方が話を聞く相手でなければ収まりませぬ」
長は又四郎の言葉を聞いて頷き、何かを付け加えた。
「その大長は、贈り物を受け取るばかりではなく、争いの相手にも自分の品を分け与えることがあるそうです」
「それは、たいした御仁だな」
信広が言うと、又四郎は頷いた。
「こちらの者たちも、そう申しております」
長は話を終えると、若い男を呼び寄せた。二人はまた熊の件について話し始めた。
*
春も終わりに近づいたころ、花沢の浜では、男鹿から来た商人徳兵衛の船がようやく修理を終えた。
船底の傷んだ板を取り替え、継ぎ目を塞ぎ、帆綱も新しくしてある。
徳兵衛は船大工たちに銭を払っていたが、最後の一人が立ち去ると、懐から帳面を取り出して何やら書きつけた。
そこへ師季が、河野と相原を伴って浜へ下りてきた。
「これはこれは。わざわざお見送りいただけるとは、ありがたいことでございます」
徳兵衛は大げさに頭を下げた。
「船は直ったようだな」
「はい。花沢の船大工は腕がよろしい。ただし、銭を取る腕もなかなかのもので」
徳兵衛は帳面を振ってみせた。
「手前がこの島で使った銭を数えますと、いっそ花沢に家を建てた方が安かったのではないかと思うほどでございます」
河野が眉をひそめた。
「船を直すよう命じてくださったのは師季様だぞ」
「もちろん、ありがたく存じております」
徳兵衛はすぐに頭を下げた。
「ただ、東公様のお役に立つために直した船でもございます。いずれ御用の折には、この苦労も少しはお思い出しいただければ」
「そなた、自分の船を直した代まで、こちらへ請求するつもりか」
「まさか」
徳兵衛は笑った。
「請求などと、とんでもない。ただ、恩というものは、忘れぬ方がよろしいかと」
相原が呆れたように言った。
「恩を売りに来たのか」
「売れるものなら売りとうございますな。手前は商人でございますから」
師季は思わず笑った。
「そなたには敵わぬな」
「そのようなことはございませぬ。手前など、東公様の御前では小さな商人にすぎませぬ」
徳兵衛はそう言いながら、師季の顔を覗き込んだ。
「ところで、男鹿へお渡りになるお話は、いかがなりましたかな」
「まだ決めておらぬ」
「それは困りました」
「なぜ、そなたが困る」
「手前が困るのではございませぬ。東公様がお困りになるのです」
徳兵衛は平然と答えた。
「船を集めるにも、米を買い付けるにも、時が要ります。いざ海を渡るとなってから慌てても、よい船は残っておりませぬ。残っているのは、沈みかけた船か、法外な値をつける船主ばかりでございます」
河野が言った。
「その法外な値をつける船主に、そなたも入るのではないか」
「手前は、法外な値などつけませぬ」
徳兵衛は胸を張った。
「ただ、危ない海を渡るのでございます。命の値は少々高うございますな」
師季は腕を組んだ。
「そなた、男鹿へ戻ったら、湊の二郎殿に会えるか」
「直接お目にかかれるかは分かりませぬが、御家中には知り合いがおります」
「では、わしが男鹿へ渡ることも考えておると、伝えておいてくれぬか」
徳兵衛の目が細くなった。
「それは、たいそう結構なお話でございます」
「まだ決めたわけではないぞ」
「承知しております。ですが、男鹿へお越しになるかもしれぬとなれば、こちらにも支度がございます」
「勝手に話を進めるなよ」
「滅相もございませぬ」
徳兵衛は深く頭を下げた。
「手前は、東公様のお言葉をそのままお伝えするだけでございます。ただし、聞いた者が何を考えるかまでは、手前にも止められませぬ」
河野が顔をしかめた。
「そなた、妙な噂を広めるつもりではあるまいな」
「噂とは、勝手に広まるものでございます」
徳兵衛はにこやかに答えた。
「もっとも、よい噂なら、少々手を貸しても罰は当たりますまい」
師季はしばらく徳兵衛を見ていたが、やがて笑った。
「よい。そなたに任せる。ただし、わしがまだ決めておらぬことは、よく伝えよ」
「かしこまりました」
徳兵衛は頭を下げた。
「では、男鹿では東公様をお迎えする支度を進めておきましょう」
「だから、まだ決めておらぬと申しておろうが」
「はい。決まったときに間に合うように、でございます」
徳兵衛は笑みを崩さなかった。
やがて船頭が潮のよいことを告げた。
徳兵衛は一同に頭を下げ、船へ乗り込んだ。
綱が解かれると、船はゆっくりと浜を離れた。
河野は船を見送りながら言った。
「あの男、油断がなりませぬな」
「うむ」
師季は頷いた。
「だが、ああいう男が一人おれば、船も米も集まるかもしれぬ」
「代は高くつきましょう」
「それも承知の上だ」
師季は沖へ目を向けた。
「使えるものは何でも使わねばならぬ」
*
花沢館に、下国家政から書状が届いた。
安東師季を迎える居室と、供の武士たちの住まいを整えたという。昨年から幾度も招かれていた師季は、ようやく茂別へ移ることになった。
蠣崎季繁は書状を読み終えると、師季に差し出した。
「家政殿は、随分とお待ちかねのようでございますな」
「盛季公のお使いになった部屋も、見せてくれるそうだ」
「家政殿は、あの折のことをたいそう誇りにしておられますからな」
季繁は少し笑った。
「東公がお越しになってから、花沢も賑やかになりました。津軽の商人ばかりか、武士まで訪ねて参ります」
「そなたには、何かと世話をかけた」
「いえ。海の向こうの方々とお話しできるのは、私にとってもありがたいことでございました」
季繁は師季から返された書状を畳み、丁寧に文箱へ納めた。
「昨年、家政殿と盛季公のお話をいたしましたな」
「覚えておる。そなたらは、どちらが安東家と縁が深いか、ずいぶん言い合っておった」
「言い合いなどと。家政殿が、あまりに御自慢なさるものですから」
師季は笑った。
「今度も、わしを迎えたことを家政殿が自慢するかもしれぬな」
「それは困りますな。東公を最初にお迎えしたのは花沢でございます」
季繁も笑った。
やがて小者が酒を運んできた。
季繁は師季の盃に注ぎ、自分も一杯受けた。
盃を軽く掲げてから口をつける。その所作は、以前、師季から教わったつもりになっていたものだった。
「東公。津軽へお戻りになる折には、どうか花沢にもお声をおかけください」
「無論だ。そなたに黙って海を渡るわけにはゆくまい」
「ありがたきお言葉にございます」
季繁は居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
その日の夕方、師季は庭先で雪と顔を合わせた。
雪は小萩とともに、旅立つ客人へ贈る布や小物を運んでいた。師季の姿を見つけると、荷を小萩に預けて頭を下げた。
「東公様。茂別へお移りになると伺いました」
「うむ。長く世話になった」
「父が、少し寂しげにしております」
「そうか」
「昨日も、家政様からの書状を何度も読んでおりました」
師季は笑った。
「蠣崎殿には、ずいぶん気を遣わせてしまった」
「父は、東公がお越しになってから、津軽のお話をすることが増えました。昔の十三湊は、今とは比べものにならぬほど賑やかだったと」
「わしも、そのころの十三湊をこの目で見たかった」
雪は少し意外そうな顔をした。
「東公も、ご覧になったことがないのですか」
「わしが物心ついたころには、安東の家は既に難しい立場にあった。そなたの父の方が、昔のことをよく知っておろう」
「では、また父に聞いてみます」
「そうするとよい。わしにも知らぬことが多い」
小萩が荷を抱え直した。
「姫様、こちらはどこへお運びいたしましょう」
「東公様のお部屋へ。私も参ります」
雪はまた師季へ向き直り、一瞬躊躇うようにしてから聞いた。
「東公様。……武田殿も茂別へお移りになるのでしょうか」
「まだ決めておらぬ。あの者にも考えがあろう」
「そうでございますか」
雪はそれ以上尋ねず、小萩とともに廊下を歩いていった。
師季はその後ろ姿を見送り、季繁が娘の行く末を案じるようになるのも、そう遠いことではあるまいと思った。
*
師季が茂別へ移ることになってから、花沢館では荷造りが始まった。
河野と相原は書状や帳面を箱に収め、曽我と小山内は武具や馬具をまとめていた。大高も郎党たちに交じって、荷を運び出していた。
信広も荷の整理を手伝っていたが、自分の持ち物はまだまとめていなかった。
その日の夕刻、信広は季繁に呼ばれた。
「武田殿。東公が茂別へ移られる。そなたはどうするつもりだ」
「しばらくは、花沢に残りとうございます」
季繁は少し意外そうに信広を見た。
「東公とともに茂別へ移るものと思っておったが」
「私も、以前はそう考えておりました」
「何か気が変わったか」
信広は少し考えてから答えた。
「花沢へ参ってから、館の仕事をいろいろと任されるようになりました。浜の者たちとも話し、先日は又四郎殿とともに蝦夷の村へも参りました」
「うむ」
「まだ、こちらで学びたいことが多うございます」
季繁は笑った。
「この島が気に入ったか」
「はい」
「それは結構なことだ。わしとしても、そなたが残るならばありがたい」
季繁は少し身を乗り出した。
「だが、東公には何と申し上げる」
「茂別へは同行せず、ひとまず花沢に残りたいと申し上げるつもりでございます。津軽へお戻りになる折には、改めてお話ししたいと」
「それがよかろう」
季繁は頷いた。
「そなたは東公とともに海を渡ってきた身だ。あの御方に黙って決めるわけにはゆくまい」
「はい」
「もっとも、花沢に残るならば、いつまでも客人ではおれぬぞ」
「承知しております」
信広は頭を下げた。
「又四郎も、そなたをよく見ておるようだ」
「又四郎殿が、でございますか」
「うむ。弓が達者なばかりでなく、人の話をよく聞く男だと申しておった」
信広は少し驚いた。
「そのように申しておりましたか」
「わしも、そう思う」
季繁は笑った。
「よい。東公には、わしからもそなたの考えを伝えておこう」
「ありがたき幸せにございます」
信広が退出すると、廊下の向こうから雪が歩いてきた。
「父上。武田殿は、茂別へはお移りにならないのですか」
「今のところは、花沢に残るそうだ」
「そうでございますか」
雪は信広の去った方を見た。
「では、明日もこちらにおられるのですね」
「そうだな」
季繁は娘を見た。
「なぜ、それを気にする」
雪は少し困ったような顔をした。
「東公がお移りになれば、武田殿もご一緒だと思っておりましたので」
「津軽へ戻られる折には、また考えるそうだ」
「そうですか」
雪は頷き、庭へ下りていった。
季繁はしばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて家人を呼び、翌日の荷運びについて指図した。
*
夏の初め、師季は茂別館へ移った。
出立の朝、花沢の浜には季繁と信広、雪、小萩のほか、館の郎党たちが集まった。
師季の荷を積んだ船は、すでに岸に寄せられていた。
「蠣崎殿。長らく世話になった」
「何をおっしゃいます。東公をお迎えできたことは、花沢にとっても大きな誉れでございました」
「家政殿にも、そう申しておこう」
「それは、ぜひお願いいたします」
季繁は笑った。
河野と相原が先に船へ乗り込み、荷の置き場所を確かめた。曽我と小山内もそれに続き、大高は浜に残って、最後の荷が積み込まれるのを見届けていた。
信広は師季の前に進み出た。
「殿。どうぞお達者で」
「うむ。そなたもな。蠣崎殿のもとで、よく励めよ」
「はい」
師季は信広の肩に手を置いた。
「津軽へ戻る折には、また話をせねばならぬぞ。そなたの弓を、わしは当てにしておるからな」
信広は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
雪も師季に挨拶した。
「東公様。茂別でも、どうぞお健やかに」
「うむ。そなたも達者でな」
「はい」
小萩が雪の傍らで頭を下げた。
やがて船頭が出立を告げ、綱が解かれると、師季は船上から手を上げた。季繁も手を上げ、信広たちは低く頭を下げた。
船は浜を離れ、ゆっくりと沖へ進んでいった。
雪はしばらく船を見送っていたが、やがて信広へ向き直った。
「武田殿。今日は館へお戻りになるのですね」
「はい。まだ片づけねばならぬ仕事がございます」
「では、父にお伝えしておきます。昼餉の支度もございますから」
「恐れ入ります」
雪は小萩とともに先に歩き始め、信広も季繁の後に続いた。
浜には、師季の出立を見送った者たちがまだ残っていた。荷を運んでいた郎党たちは、空になった荷車を引いて館へ戻っていった。




