雪の季節
享徳三年(一四五四年)の冬、出羽国秋田湊。
朝から冷たい風が吹き、ときおり雪が舞うなか、門前に騎馬の一団が駆け込んできた。
先頭の男は、泥に汚れた鎧を着ていた。兜の緒は緩み、右の袖には乾いた血がこびりついている。
馬も汗と泥にまみれ、荒い息を吐いていた。風に舞う雪が、男の鎧に触れては溶けていった。
門を守る武士が声を上げると、館の中から家臣たちが走り出てきた。
「殿、お帰りなされませ」
男は馬を降りず、近づいてきた家臣を呼びつけた。
「下刈! 手負いの者を収めよ。馬が足りねば湊の馬を使え。米も出せ」
「承知いたしました」
「川尻! 七人を捕らえた。三人は帰せ。残る四人は土牢へ入れておけ」
「三人を帰すのでございますか」
「降れば命を助けると約定しておる。誰を帰すかは連れてきた者に聞け」
「されど、殿。あの者どもは、また刃向かうやもしれませぬ」
「帰せと申した」
男は馬を一歩進めた。
川尻の目の前に馬の頭が迫った。生暖かい馬の鼻息とともに、鉄と血の匂いが漂った。
「──わしが助けると申した者を、そなたは殺す気か」
川尻は数歩後ずさり、雪の上に平伏した。
「滅相もございませぬ!」
「ならば帰せ」
川尻が二、三度息を整えて頭を上げたとき、男はもう別の者に顔を向けていた。
「此度の戦で由利の奴輩は存分に叩いた。それより、南部どもが動いておる」
「南部と申しますと、鹿角でございますか」
「仙北だ」
男は短く答えた。
「こちらには、まだ詳しい知らせが届いておりませぬ」
「豊島、人を出せ。兵の数と、誰が率いておるかを調べよ」
そう命じると、男はようやく馬を降りた。近習が手を貸そうとしたが、それを払って地面に飛び降りた。
「あ奴らは津軽を奪い、なお出羽へ手を伸ばす。欲の深いことよ」
男は薄く笑った。豊島は答えなかった。
「宗家は、まだ蝦夷ヶ島におるな」
「師季殿にございますな」
「うむ。南部に津軽を奪われたままで、よいと思うてはおるまい」
男は兜を脱ぎ、近習に渡した。
「津軽を取り戻したい者と、南部を困らせたい者がおる。話は早かろう」
湊安東氏の当主、安東二郎惟季は足早に館の奥へ歩き始めた。家臣たちはその後を追い、歩きながら次々と命令を受けた。
*
同じころ、蝦夷ヶ島の松前大館。
安東師季は、河野政通、相原政胤を伴い、大館館主の下国定季を訪ねていた。
大館は海峡に臨む高台にあった。
冬の晴れ間、高台の上からは津軽の山並みが見えた。山の頂には雪が積もり、その下には暗い色の海が広がっている。
師季は馬を降りたあと、しばらく対岸を眺めていた。
「……あれほど近いのか」
「晴れた日には、よう見えます」
背後から声がした。
振り返ると、年配の武士が家人を従えて立っていた。
男は師季に歩み寄って礼をした。歩くとき、片脚をわずかに引いているのが目についた。
「遠路、ようお越しくださいました」
「山城守殿か。お迎えいただき、かたじけのうござる」
「下国山城守定季にございます。東公のお噂は、かねて聞き及んでおります。ようやくお目にかかれましたな」
定季は安東康季の庶子で、宗家の血を引く男だった。師季より年長で、蝦夷ヶ島に渡ってからの歳月も長い。
「わしも、山城守殿にはぜひお会いしたいと思うておりました」
師季がそう言うと、定季は頷いて館の中へ案内した。
座敷には酒と肴が用意されていた。定季は家人に命じて火を足させ、師季に上座を勧めた。
「津軽がよく見える館ですな」
師季が言った。
「はい。海が荒れる日には、向こうの山が見えていても船を出せませぬが」
「今朝は渡れそうに見えました」
「されど潮の流れが速く、沖へ出れば、風も変わります」
定季は杯を置いた。
「津軽へ戻られるおつもりですか」
「はい。そのためにも、山城守殿のお力をお借りしたく存じます」
「わしとて、津軽を南部に取られたままでよいとは思うておりませぬ」
定季は師季の顔を見た。
「されど、兵を渡すとなれば、考えねばならぬことが多うござる。まず、どこへ上陸なさるおつもりか」
「西浜を考えております。十三湊の近くには、まだ安東を慕う者がおります」
「その者たちと、話はついておりますか」
「知らせは来ております。南部に従うた者も、皆が心服しておるわけではありませぬ」
定季はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと首を振った。
「心を寄せる者が、船を迎えに浜へ出てくるとは限りませぬ」
師季は膝の上で手を組み直した
「まことに。その点は、心許のうございます」
定季は頷いた。
「兵を載せた船が着くと知れば、南部も動きましょう。浜に味方がいなければ、船から降りるところを攻められます」
河野が言った。
「山城守殿の仰せの通りにございます。渡る前に、浜を押さえる者が必要でしょう」
「船も要ります」
定季は続けた。
「大館の船を出すことはできます。されど、荷を運ぶ船と、武士を乗せて戦へ赴く船では違います。船頭たちにも、それぞれ家族と商いがございます」
「船頭のことは、我らだけでは分かりませぬ。山城守殿のお知恵をお借りしたい」
「無論、力を尽くしましょう」
相原が口を開いた。
「山城守殿。兵を渡すならば、馬はどれほど運べましょうか」
「馬か。そなた、騎馬で戦うつもりか」
「南部の騎馬を相手に、徒歩ばかりでは心許のうございます」
「それはそうじゃが、馬を船に乗せるのは容易ではないぞ。暴れられれば、船ごとひっくり返る」
「馬というものは、肝心なときに言うことを聞きませぬからな」
相原が苦笑した。
「何ぞ、覚えがあるのか」
「昔、相模の足柄で敵に追われた折、乗っていた馬がぬかるみに脚を取られまして。わしだけ放り出されました」
「足柄とは、いつの戦じゃ」
「永享十年、持氏公の軍勢と戦った折にございます」
定季が膝を打った。
「ほう。そなた、あの戦に出ておったか」
「下総から参りました。敵より先に馬に殺されるところでございましたが」
定季は声を立てて笑った。
「それで、馬はどうした」
「置いて逃げました。あとで探しましたが、とうとう見つかりませなんだ」
「ははは。そなたを振り落として、自分だけ逃げおったか」
「まことに薄情な馬でございました」
相原も笑った。
「それほど遠くから来た者が、どうして東公に仕えることになった」
「関東での戦が済んでから、あちこちを渡り歩きまして。下北へ参った折、殿に拾っていただきました」
「拾うたとは人聞きが悪い」
師季が笑った。
「田名部で、南部の家人と揉めた者どもを、そなたがうまく収めてくれたのであろう」
「殴り合いになる前に酒を飲ませただけにございます」
「それがなかなかできぬものよ」
定季は感心したように頷いた。
「そちらの河野殿は、どちらの生まれじゃ」
「加賀にございます」
「ほう。加賀から下北とは、また遠い」
「父の代に国を離れまして。わしは若い頃、出羽で荘園の年貢を取り立てる仕事をしておりました」
「それで、銭勘定に明るいのか」
師季が言った。
「殿には、いつも帳面のことで小言を申し上げております」
「それは頼もしい。わしも倅に一人欲しいくらいじゃ」
定季は二人を見比べた。
「東公のもとには、なかなか多芸な者が揃っておりますな」
師季も杯を持ったまま、河野と相原を見た。田名部では二人に日々の用を任せてきたが、仕える前のことまで詳しく尋ねたことはなかった。
「わしは、よい家臣に恵まれました」
「戦に強いだけでは、館は守れませぬからな」
定季はそう言って、杯を飲み干した。
そのとき、廊下で荒い足音がした。
「父上!」
若い武士が、断りもなく座敷に入ってきた。
「浜の商人どもが荷改めを拒んでおります。昨日も申しつけたというのに」
「恒季。客人の前じゃ。控えい」
定季が言ったが、若者は構わず続けた。
「一人、縄をかけて参りました。残りもひっ捕らえてよろしゅうございますか」
「何じゃと。誰がそのようなことを命じた」
「わしにございます。あやつら、館の者を馬鹿にしておるのです」
「縄を解け。荷改めのことは、わしが話を聞く」
「父上は甘すぎます。あのような者どもは、二、三人打ち据えねば言うことを聞きませぬ」
「恒季!」
定季が声を張り上げた。
「客人の前で、何を申しておる。今すぐ縄を解かせよ」
恒季は舌打ちした。
「……承知いたしました」
そう言い捨てると、師季たちに礼をすることなく座敷を出ていった。
定季はしばらく廊下を睨んでいた。
「倅にござる。どうにも、手が早うて困ります」
相原が言った。
「なかなか気性の激しい若殿にございますな」
「激しいなどというものではない。わしが目を離せば、すぐ誰かを殴っておる」
定季は苦々しげに杯を置いた。
「戦場ならばともかく、浜の商人を相手に刀を振り回されては、商いが成り立ちませぬ」
河野が言った。
「船頭たちも、館へ寄りつかなくなりましょう」
「まったく、その通りじゃ」
定季はため息をついた。
話は再び津軽へ戻った。
定季は、春になれば船をいくらか集められると答えた。ただし、ほかの館主たちの船まで自由に動かせるわけではない。
「季繁殿にも、家政殿にも、それぞれの船と家人がございます。どれほど出すかは、当人たちと話さねばなりませぬ」
「お二方には、すでに船を出すお話をいただいております」
師季が言った。
「それはよろしい。では、わしも浜の者どもに声をかけてみましょう」
「ありがたく存じます」
「ただ、兵を出す日と数については、わしにも考えさせてくだされ。大館を空にするわけには参りませぬ」
「無論にございます。山城守殿の家人を、わしの一存で動かすつもりはありませぬ」
定季は頷いた。
「東公が津軽へ戻られるなら、わしもできる限りのことをいたしましょう」
師季は深く頭を下げた。
「お言葉、忘れませぬ」
会談が終わるころには、日が傾き始めていた。
定季は館の外まで師季を見送った。石の混じる地面を歩くとき、片脚を引く様子が少し目立った。家人が近づいたが、定季は手で制した。
「東公」
馬に乗ろうとしていた師季が振り返った。
「津軽の山は、明日も見えましょう。急いで渡らずとも、逃げはいたしませぬ」
師季は対岸を見た。
冬空の下、雪をかぶった山々が夕日に照らされていた。
「山は逃げませぬ。されど、人は死にまする」
定季は黙って聞いていた。
「津軽に残った者どもを、いつまでも待たせるわけには参りませぬ」
師季はそう言って馬に乗った。
定季は一礼し、師季たちが門を出るまで見送っていた。
*
十一月に入るころから、花沢館にも雪が降るようになった。
初めは降ってもすぐに消えていたが、十二月に入ると、夜の間に庭が白く覆われる日が増えた。
海から吹く風は冷たく、晴れていても浜に長く立っていると、手足の感覚が鈍くなった。
信広は、雪よりも風に驚いた。陸奥の山では深い雪に足を取られることがあった。しかし、花沢では雪が少なくても、風が強ければ外へ出るのが難しい。
ある日、信広が門を出ようとすると、見張りの男に止められた。
「今日は浜へ行かぬ方がよろしい」
「何かあったのか」
「風が強うございます。昨日も、舟を出した者が戻れず、夜になってようやく帰ってまいりました」
信広は海を見た。沖には白い波が立ち、遠くの山々は雲に隠れていた。
「津軽へ渡る船も、今日は出ぬか」
「しばらくは無理でしょうな」
信広は門を離れ、館の奥へ戻った。
廊下には冷たい空気が入り込んでいた。板敷きを歩いていると、奥の部屋から小萩の声が聞こえてきた。
「姫様、もう少しこちらへお寄りください。火が遠うございます」
信広が声のする方を見ると、開いた襖の向こうに雪が座っていた。傍らには火鉢が置かれ、小萩が炭を直している。
「武田殿」
雪が顔を上げた。
「こんな風の日に、どちらへお出かけでしたの」
「浜へ行こうと思うたのですが、門で止められました」
「それは止められましょう。今日は朝からひどい風ですもの」
小萩が信広のために円座を敷いた。
「こちらで少し、お温まりになってはいかがですか」
信広は礼を言い、火鉢のそばに腰を下ろした。
炭が小さく音を立てていた。雪は膝の上に置いていた縫い物を脇へ寄せた。
「浜へは、毎日のようにお出かけですのね」
「館の中にばかりいても、仕方がありませぬので」
「父も、信広殿がよく働いてくださると申しておりました」
「お世話になっておりますゆえ」
雪は微笑んだ。
「働きすぎてお倒れになっても困ります。父が何を申しても、今日はお休みくださいませ」
信広も笑った。
「では、お言葉に甘えましょう」
しばらく、風の音だけが聞こえた。
雪は縫い物を手に取ったが、すぐにまた置いた。
「先日、岩亀館へおいでになったのでしょう」
「はい。小山判官殿にお会いしました」
「お元気でしたか」
「たいそうお元気でございました」
「それはようございました」
雪は嬉しそうに言った。
「わたくしが幼い頃、兄と二人で馬に乗せていただいたことがございます。まだ父上と判官様が仲良くなさっていた頃です」
「お兄上が、おられたのですか」
季繁に跡取りの男子はいない。だが、それ以上の仔細は、信広は知らなかった。
雪は少し意外そうに信広を見た。
「お話ししたことがございませんでしたか」
「存じ上げませなんだ」
「わたくしより、いくつか年上の兄がおりました。何年も前に亡くなりましたけれど」
「……そうでございましたか」
雪は小さく頷いた。
「判官様は、わたくしを前に抱えて、兄を後ろに乗せてくださったのです。浜まで連れていっていただきました」
「さぞ賑やかだったでしょうな」
「ええ。兄はもっと速く走ってほしいとせがんでおりました。わたくしは怖くて、判官様の着物をつかんでいたのに」
「判官殿は、何と?」
「兄には、妹が落ちたらどうする、と。でも、帰りには少しだけ馬を走らせてくださいました」
雪は火鉢の炭を見つめた。
「それにしても、武田殿が判官様と仲良くなられたのは、少し意外でした」
「なぜでございますか」
「父上から、いろいろお聞きになったでしょう」
「ええ。判官殿とは、長いお付き合いだそうですな」
「昔は、この館の中で毎日、顔を合わせておられました。お二人とも、よく言い争っておいででしたけれど」
「お膳の置き方や、盃を差し上げる順番のことでしょうか」
「まあ、ご存じなのですね」
雪は小萩と顔を見合わせた。
「判官様は、都や関東の作法にお詳しいのです。父上も初めのうちは熱心にお聞きになっていたのに、いつの間にか、どちらが正しいかで言い争うようになってしまって」
「季繁殿も、都のことにはお詳しゅうございます」
「詳しくなりたいのです」
雪がそう言うと、小萩が口元を押さえた。
「父上は、いつかこの館で連歌の会を開きたいとおっしゃっているのですよ。都から歌をよく知る方をお招きして」
「それは、立派なことでございます」
「武田殿も、そう思われますか」
「はい」
「では、父上にそう申し上げておきます。きっとお喜びになります」
信広は少し慌てた。
「いや、わたしは歌のことはよく存じませぬので」
「大丈夫です。父上も、まだお稽古の途中ですから」
小萩がとうとう笑い出した。
「姫様、そのようなことを申しては」
「本当のことではないか」
雪は澄ました顔で答えた。
小萩が新しい炭を持ってきた。火箸で灰を寄せ、赤くなった炭の傍らへ置く。
「姫様も、昔から歌がお好きでございましたね」
「小萩。またその話を」
「兄君様がいらしたころは、よく歌を覚えておいででしたもの」
雪は少し考えた。
「歌といえば、信広殿は、慈円僧正の御歌をご存じですか」
「慈円僧正ですか」
雪は庭の方を向き、ゆっくりと口ずさんだ。
「秋の月 あまねき影を 眺めてぞ
千島の蝦夷も 哀れ知るらむ」
信広は、下の句を小さく繰り返した。
「千島の蝦夷も、でございますか」
「ええ。都の方は、この島の人々も月を眺めるのだろうかと、お考えになったのでしょうね」
「そのように聞こえます」
「でも、月は都だけに出るものではありませんのに」
雪は少し不満そうだった。
「父上は、都のものは何でも立派だとおっしゃいます。よい紙も、絹も、歌も、みな都から来るのだと。でも、わたくしはこちらの月も美しいと思うのです」
「わたしも、こちらへ来てから何度か月を眺めました。海の上に出る月は、なかなかよいものでございますな」
「でしょう?」
雪は嬉しそうに笑った。
「武田殿は、この島へ渡る前、どのようなところだと思っておられました?」
「山ばかりで、人の住むところも少ない島かと」
「まあ。そんなところに父上が住んでいると?」
「失礼ながら」
雪は声を立てて笑った。
「海から宇須岸を見て、驚きました。浜には家が並び、舟があり、子供たちが遊んでおりました。若狭や丹後の浜と、そう違わぬところもございました」
「それでは、思っていたよりよいところでしたか」
「はい。それに、思っていたより遥かに大きな島でございました」
「小さな島だと思っておられたのですか」
「これほど山が続いているとは。島は、いったいどこまであるのでしょう」
「さあ。父上も、北の果てまではご存じないと思います」
「雪殿も?」
「わたくしなど、花沢の外へ出ることさえ滅多にございませんもの」
雪は少し肩をすくめた。
「けれども、遠くから来る者たちは、いろいろな話をいたします。大きな川があるとか、夏でも雪の残る山があるとか」
「そのようなところにも、人が住んでいるのでしょうな」
「ええ。父上のところへ来る人々の中にも、ずいぶん遠くから来たという者がおります」
信広は頷いた。
外では風がいっそう強くなっていた。戸の隙間から吹き込む冷気が足元を這い、火鉢に近づけた膝だけが温かい。信広は袂を引き寄せた。
「それにしても、こちらの方々は、寒さにお強いですな」
「慣れているだけです。寒いものは寒うございます」
「浜では、雪の中でも舟を直している者がおりました。手が真っ赤になっておりましたが、平気な顔をして働いておりました」
「冬のうちに直しておかねば、春に困りますもの」
「なるほど」
信広は、岩亀へ向かう途中で会った蝦夷の男の話も思い出した。
「この島では、思いがけぬこともございます」
「どのようなことですか」
「岩亀へ向かう途中、判官殿と争ったことのある者たちに会いました。でも、今も判官殿の館へ魚を売りに行くのだそうです」
「浜の人たちは、そういうところがございますね。父上も、よく商人たちと口論なさいますけれど、次に船が来ると、また同じ相手と商いをなさっています」
「わたしも、先日そのようなところを見ました。塩の値をめぐって怒鳴り合っていた者たちが、翌日には一緒に酒を飲んでおりまして」
「それは、仲がよろしいのか悪いのか分かりませんね」
雪は笑った。
「でも、武田殿がいろいろなところをご覧になっていると分かって、安心いたしました」
「安心、でございますか」
「ええ。父上のお話だけでは、この島のことを嫌いになってしまうかもしれませんもの」
「季繁殿は、この島を大切にしておられると思いますが」
「もちろんです。でも、父上は都の話になると、こちらにはないものばかり数え始めるのです」
雪は庭へ目を向けた。
「わたくしは、ここで生まれましたから。浜も、山も、春の花も、みな好きです」
「春になったら、またいろいろなところを見てみとうございます」
「ええ。花沢のあたりなら、わたくしも少しはご案内できます」
「それは心強い」
「ただし、父上が許してくださるところだけですけれど」
小萩が横で笑うと、雪はその腕を軽く叩いた。
「また笑って」
「申し訳ございませぬ」
話しているうちに、庭はすっかり暗くなっていた。雪の積もったところだけが、薄く白く見える。小萩が灯明を近くへ寄せ、火鉢の灰をならした。
「武田殿は、ずいぶん遠くから旅をなさってきたそうですね」
雪が言った。
「歩いてみれば、一日ごとの道のりでございます」
「それでも、いろいろな土地をご覧になったのでしょう」
「ええ。よいことばかりではございませなんだが」
雪は信広を見た。
「武田殿は、どうしてそれほど旅をなさったのですか」
「……行くところが、なかった時期がございまして」
「ご家族は?」
「母とは、幼い頃に別れました」
信広は火鉢に目を落とした。雪はすぐには何も言わなかった。小萩が灯明の芯を直すと、炎が少し高くなった。
雪は火鉢の上で両手を擦り合わせた。灯明に照らされた横顔が、ふと信広の記憶にある少女と重なった。
丹後の冬も寒かった。薄暗い小屋で、あの少女が冷えた手を擦り合わせていたことがある。信広はその傍らに座り、少女が分けてくれた食べ物を受け取った。
「……安寿」
小さく声が漏れた。
「え?」
雪が顔を上げた。
信広は、しばらく返事ができなかった。
「今、何とおっしゃいました?」
「……昔、知っていた者の名でございます」
雪は信広を見つめた。
「安寿、というのですか」
「はい」
雪はその名を小さく繰り返した。
「よいお名前ですね」
「……ええ」
信広は火鉢に目を落とした。
小萩が火鉢の灰をならす音がした。廊下の向こうでは、夕餉の支度をする者たちの足音が聞こえている。
「姫様、そろそろ奥へお戻りになりませぬと」
小萩が言った。
「ああ、もうそのような時刻でしたか」
雪は庭を見た。いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。
「ずいぶん長くお話ししてしまいました」
「はい。火に当たらせていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。いろいろなお話を聞かせていただきました」
雪は立ち上がり、衣の裾を整えた。
「武田殿も、あまりここにおられては、お身体が冷えますよ」
「はい。そろそろ戻ります」
「また、お話を聞かせてくださいませ」
「承知いたしました」
雪は小萩とともに廊下を歩き始めた。曲がり角まで来たところで、雪が振り返った。
「武田殿」
「はい」
「今度、判官様にお会いになったら、雪も元気にしておりますと、お伝えくださいね」
「必ず」
雪は微笑み、奥へ姿を消した。
信広は立ち上がった。
火鉢から離れると、廊下の冷たさが足の裏から伝わってきた。戸の隙間で灯明の火が揺れ、外では相変わらず風が吹き荒れていた。
*
正月が過ぎても、花沢の浜には冷たい風が吹いていた。
ある朝、津軽から渡ってきたという二人の武士が、師季への目通りを願い出た。
師季は河野と相原を傍らに置き、二人を迎えた。
「津軽へ戻られると聞き、参上いたしました」
先に口を開いたのは、曽我と名乗る武士だった。
「誰から聞いた」
「西浜の者どもからにございます。師季様が島におられることは、津軽でも知られております」
「そなたは、どこの者だ」
「十三湊の近くに住んでおりました。累代、安東の御家に仕えた者にございます」
「南部が来たときは、どうしておった」
「一度は戦いました。されど、味方が散り散りとなり、今は家も失うております」
曽我は顔を上げた。
「津軽には、まだ御家を忘れぬ者がおります。南部に従ってはおりますが、心まで服したわけではございませぬ」
「誰がおる」
師季が尋ねると、曽我は数人の名を挙げた。
そのうちの一人について、傍らに控えていた若い武士が口を挟んだ。
「その者なら、狼倉館のころから存じております」
小山内という、秋口に津軽から渡ってきた武士だった。
狼倉館の落城にも居合わせたという。義季から直々に命じられて城を脱したと話していたが、師季にはその真偽を確かめる術がなかった。
「今も西浜におるのか」
師季が尋ねた。
「おるはずにございます。南部に従ったと聞きましたが、あの男が心から安東を捨てたとは思えませぬ」
「思うだけでは、兵は集まらぬ」
相原が言った。
「承知しております。されど、会えば話はできましょう」
師季は頷き、もう一人の武士を見た。
「そなたも津軽の者か」
「いえ。米代川の川上に、父の家がございます」
大高と名乗った男は、曽我よりも若かった。肩幅が広く、日に焼けた顔をしている。
「なぜ、わしを頼る」
「父の家は、昔から安東の御家に縁がございます。されど、それがしは庶子ゆえ、家に残っても所領を得る見込みがございませぬ」
「それで、島まで来たか」
「はい」
「わしには、そなたに与える所領など、まだないぞ」
「存じております」
大高はためらわずに答えた。
「師季様が再び兵を挙げられるなら、働く場をいただきとうございます」
河野がわずかに眉を動かした。
「働き次第で、所領を望むか」
「はい」
師季はその顔を見て、少し笑った。
「よい。望むものがあるなら、働いてみせよ」
大高は深く頭を下げた。
「ところで、そなたの父の土地は、どのあたりだ」
「米代川を遡ったところにございます。川沿いには、父の縁者もおります」
「舟は通るか」
「小舟ならば。水の多いころには、荷を積んで下ることもできます」
師季は頷いた。
「出羽にも、安東の名を覚えておる者がおるということか」
「はい。されど、南部の勢いを恐れる者も少なくございませぬ」
師季は腕を組んだ。
「津軽へ戻るにも、まず海を渡らねばならぬ」
そのとき、廊下から声がした。
「それなら、男鹿へお渡りなされ」
相原が振り向いた。
「誰だ」
襖の向こうに、酒壺を提げた男が立っていた。
四十をいくつか過ぎたころか、肉付きのよい顔に薄い笑みを浮かべ、武士たちの視線を受けても平然としている。
着物は上等なものではなかったが、襟元はきちんと整えられていた。
「男鹿の徳兵衛と申します」
男は壺を脇へ置いた。
「秋の嵐で船を傷めましてな。花沢の浜に世話になっております」
「誰がここへ通した」
河野が咎めた。
「門の者には、殿にお話があると申し上げました。嘘はついておりませぬ」
「そのようなことを聞いておるのではない」
「これは失礼」
徳兵衛は軽く頭を下げたが、引き下がろうとはしなかった。
師季が片手を上げた。
「何の用だ」
「津軽へお戻りになるなら、男鹿をお使いなされ。船も集まる。湊もある。出羽の者と話をつけるにも、悪いところではございませぬ」
「なぜ、そなたがそれを勧める」
「手前の商いにも、都合がよろしゅうございます」
徳兵衛は笑った。
「それを隠さぬか」
「隠したところで、いずれお分かりになりましょう」
相原が口を挟んだ。
「師季様は津軽へ戻られるのだ。男鹿へ行って、何になる」
「津軽へ戻るには、兵が要りましょう。船も、米も。島でお集めになるのもよろしいが、男鹿には男鹿のつながりがございます」
徳兵衛はそこで言葉を切った。
「それに、津軽の西浜へ出るにも、男鹿からなら早い」
師季は黙って男を見ていた。
「そなた、船を出せるのか」
「春になれば、一艘は出せましょう。ほかの船主にも話はできます」
「幾艘だ」
「何を運ぶかによりますな」
徳兵衛は笑みを崩さなかった。
河野が呆れたように言った。
「まだ何も決まっておらぬうちから、商いの話か」
「決まってからでは、手前の入り込む隙がございませぬ」
師季は思わず笑った。
「抜け目のない男だ」
「船を一艘失って、なお生きておりますゆえ」
徳兵衛は壺を持ち上げた。
「男鹿へお渡りになるなら、よい酒もございます。津軽の深浦には、不老不死の湯まであるそうで。西浜を取り戻された暁には、ひとつお試しになってはいかがですかな」
「そなたは入ったことがあるのか」
師季が尋ねた。
「ございませぬ」
徳兵衛は平然と答えた。
河野が鼻を鳴らした。
師季はしばらく徳兵衛を見ていたが、やがて相原に言った。
「この男の船を、見ておけ」
「はっ」
「直せるものなら、春までに直させよ」
徳兵衛は深く頭を下げた。
「ありがたいことでございます」
「まだ、そなたの船を使うとは申しておらぬ」
「承知しております」
徳兵衛は顔を上げた。
「されど、船は直しておかねば、使いたくなったときに間に合いませぬ」
師季は河野と顔を見合わせた。
庭には、朝から降り続いていた雪が積もっていた。
*
同じころ、蝦夷ヶ島、渡島半島東岸の北部。
オシャマンベのコタンにも、朝から雪が降っていた。
浜に引き上げられた舟には雪が積もり、家々の屋根からは細い煙が立っていた。犬が一匹、魚を干した棚の下で鼻を動かしていたが、女に追い払われて雪の中を駆けていった。
大きな家の中では、炉の火が赤く燃えていた。
毛皮の上に座った男は、五十ほどに見えた。肩幅が広く、顎には濃い髭があった。火に向けていた手を引き、傍らの若い男に何か言った。
「シタクル、客にもっと食わせろ」
シタクルと呼ばれた男は、木の椀を手に取った。
父親に似た大柄な体つきで、まだ三十にはなっていない。客人の前に椀を置くと、自分も腰を下ろした。
客人はトイから来た男だった。濡れた履物を乾かしながら、差し出された魚を食べていた。
「シラヌカは、まだ怒っているのか」
年長の男が尋ねた。
「怒っている。浜へ来た者を返せと言っている」
「その者は、自分でこちらへ来た」
「そう言った。だが、シラヌカは信じていない」
シタクルが鼻を鳴らした。
「返せと言うなら、自分で迎えに来ればいい」
炉の向こうで、別の男が笑った。ヌカンだった。年長の男の妻の弟で、近くのコタンに妻の親族が大勢いた。
客人も笑いかけたが、すぐに口を閉じた。
「シラヌカはウスへ人をやった」
年長の男は顔を上げた。
「カンナリのところか」
「そうだ。妻の親族を頼ったらしい」
「何を持っていった」
「よい毛皮を三枚。それから干した魚を幾束か」
「三枚か」
男は火の中の薪を一本動かした。
「カンナリは、もっと欲しがるだろう」
ヌカンが言った。
「ウスの者は、トイまで来ると思うか」
「カンナリ自身は来まい。だが、姪の夫が困っていると聞けば、若い者を何人か寄越すかもしれぬ」
シタクルは椀を置いた。
「来るなら来ればいい。ウスの者とは、まだ戦ったことがない」
「戦わずに済むなら、その方がよい」
父親はそう言って、客人に向き直った。
「モロランのイペタムは、何と言っている」
「イペタムのところへは、まだ行っていない」
「では、帰る前にヌカンと話せ。あちらへ持っていくものを預ける」
客人が頷いた。
外で犬が吠えた。
入口の覆いが持ち上がり、雪を肩に積もらせた男が入ってきた。浜で舟を見ていた者だった。
「シタクル。舟の綱が切れかけている」
シタクルは立ち上がった。
「昨日、結び直したばかりだぞ」
「雪で重くなっている。二人では動かせぬ」
「分かった」
シタクルは壁際に立ててあった弓を取り、邪魔にならぬところへ掛け直した。それから毛皮の上着を引っかけて外へ出た。
ヌカンも立ち上がり、客人を連れて奥へ向かった。
チセの中が静かになると、年長の男は残った魚を手に取り、骨を外して食べた。
しばらくして、入口から冷たい風が吹き込んだ。外ではシタクルが男たちに声をかけ、舟を引く綱を掛け直させていた。
父親はその声を聞きながら、もう一本、炉に薪をくべた。




