海峡の両岸
康正元年(一四五五年)の夏、蝦夷ヶ島の茂別館。
安東師季が茂別へ移ってから、ひと月ほどが過ぎていた。
下国家政は師季のために館の一角を明け渡し、津軽から付き従ってきた郎党たちにも住まいを与えていた。館の者たちは師季を東公と呼び、家政に仕える武士たちも丁重に接した。
しかし、海峡を隔てた津軽の情勢は、師季が島へ渡ったときから大きく変わっていなかった。
その日、師季の前には曽我、小山内、大高の三人が座っていた。
「十三湊には、今も南部方の兵が入っております」
曽我が報告した。
「湊の近くに残る者から、ようやく文が届きました。安東の御家を慕う者は少なくありませぬが、南部に逆らうほどの力はございませぬ」
「兵を挙げれば、呼応する者はおらぬか」
「殿が軍勢を率いてお戻りになるならば、話は別にございましょう。されど、今のうちから旗を掲げる者はおりますまい」
小山内も頷いた。
「家も田畑も津軽にございます。南部に睨まれれば、逃げる先もありませぬ」
師季は膝の上で手を組んだ。
「十三湊の様子はどうだ」
「以前ほど船が集まらぬと聞きます。商人どもが南の浜へ移ったとも」
「南部が湊を押さえたからか」
「そればかりではございませぬ。川口の浅くなったところもあり、以前から大きな船が入りにくくなっておりました」
師季はしばらく黙っていた。
大伯父の盛季が十三湊を治めていたころ、津軽の浜には諸国から船が集まった。都や若狭から来る商人もあれば、北の島々から珍しい品を運ぶ者もいた。
その湊を取り戻すために、どれほどの兵と船が必要になるのか。
「東公!」
廊下の向こうから、聞き覚えのある声がした。
師季が顔を上げると、家政が苦笑しながら入ってきた。
「男鹿の徳兵衛が参っておりますぞ」
「徳兵衛だと?」
師季は思わず聞き返した。
「ついこの間、男鹿へ帰ったばかりではないか」
「それを申しましたところ、帰ったからこそ戻ってこられた、などと申しております」
家政の後ろから、当の徳兵衛が顔を出した。
「東公様、御機嫌麗しゅうございます」
「そなた、もう戻ってきたのか」
「はい。男鹿へ帰り、用を済ませ、また海を渡って参りました」
「早いな」
「商いは早い者勝ちにございます」
徳兵衛は勝手知ったる様子で座り、懐から紙を何枚も取り出した。
「船主どもに会って参りました。米を持つ者、船を持つ者、銭を貸す者、それぞれ話をつけております」
「わしはまだ男鹿へ行くと決めておらぬ」
「存じております」
「では、何の話をつけた」
「東公様がお越しになる折の話にございます」
師季は眉をひそめた。
「来ぬかもしれぬではないか」
「そうなりますと、手前が困りますな」
「なぜ、そなたが困る」
「もう皆に話してしまいましたゆえ」
家政が声を上げて笑った。
徳兵衛は少しも悪びれなかった。
「東公様が男鹿へお渡りになれば、安東の御家を慕う者が集まりましょう。船主どもも、いずれ津軽へ渡る大きな商いが始まると聞けば、じっとしてはおられませぬ」
「わしの名を使って、何を約束した」
「まだ何も」
「本当か」
「銭を払うとは約束しておりませぬ」
「それ以外は約束したのだな」
徳兵衛は笑った。
「男鹿の船主にとっても、安東の御家にとっても、悪い話にはいたしませぬ」
師季がさらに問い詰めようとしたとき、館の者が廊下に現れた。
「東公。秋田湊より、御使者が二名お越しにございます」
徳兵衛が目を丸くした。
「ほう。秋田からでございますか」
師季は家政と顔を見合わせた。
「通せ」
ほどなく、旅装の武士が二人、案内されて入ってきた。
先に進み出た男は三十をいくつか越えた年頃で、日に焼けた顔に鋭い目をしていた。後ろの男はそれより若く、旅の疲れを見せながらも背筋を伸ばしている。
先頭の男が膝をついた。
「秋田湊、安東二郎が使者として参りました。佐々木三郎兵衛門尉繁綱にございます」
続いて、もう一人が名乗った。
「同じく、比内弥五郎にございます」
繁綱は懐から書状を取り出した。
「我が主、安東二郎より、下野守様への御書状にございます」
師季の傍らに控えていた河野政通が進み出て、書状を受け取り、師季に差し出した。
師季は書状を開いた。
安東二郎惟季の湊安東家は、安東盛季の弟の家系で、秋田湊を中心に出羽の北部で勢力を保っている。
書状には、師季の無事を喜ぶ言葉とともに、津軽へ兵を進めるための方策が記されていた。
先年から三戸の南部遠江守義政が出羽仙北に兵を集め、葛西氏もそれに合力するとの噂があるという。
惟季は、師季が蝦夷ヶ島で兵を集め、海峡を渡って津軽北部に上陸することを望んでいた。
南部方が師季を迎え撃つために兵を北へ向ければ、秋田からも兵を動かす余地が生まれる。
読み終えた師季は、繁綱を見た。
「二郎殿は、わしに津軽へ渡れと仰せか」
「左様にございます。下野守様が北より兵を進められれば、南部方も兵を分けねばなりませぬ。我が主も、その機を逃さず動かれるお考えにございます」
「兵と船は、こちらで集めよということか」
「秋田からも、できる限りの助力をいたします。ただ、下野守様が津軽へお戻りになることが肝要と」
大高が身を乗り出した。
「津軽の者たちも、下野守様がお戻りになると聞けば、立ち上がるやもしれませぬ」
「それは分かる」
師季は頷いた。
「だが、わしが浜へ上がっただけで、南部の兵が退くわけではあるまい」
「船ならば──」
徳兵衛が口を挟んだ。皆の視線が集まった。
「男鹿にございます」
繁綱が徳兵衛を見た。
「そなたは」
「男鹿の商人、徳兵衛にございます。つい先ほど、東公様に男鹿へのお越しをお勧めしておりました」
「我が殿から、そなたの名は聞いておる」
「それはありがたいことで」
徳兵衛は嬉しそうに頭を下げた。
「男鹿へお越しになれば、秋田湊とも行き来しやすくなります。船も米も、蝦夷ヶ島より集めやすうございます。津軽の者どもに文を送るにも、男鹿の方が都合がよろしい」
繁綱は眉を寄せた。
「されど、惟季様は下野守様が津軽へ渡られることを望んでおられる。男鹿へお移りになれば、南部方の北を衝く者がおらぬではないか」
「男鹿からでも津軽へは渡れます」
徳兵衛が答えた。
「ただし、船を集め、兵を乗せ、南部方の待つ浜へ押しかければよろしいという話ではございませぬ。負ければ船も荷も失います。私ならば、そのような商いはいたしませぬ」
「戦は商いではない」
河野が言った。
「承知しております。だからこそ、戦をなさる方には船と米が要るのでございましょう」
徳兵衛は河野に向き直った。
「兵は腹が減ります。船は風を待ちます。どちらも銭を払えば思いどおりになるものではございませぬが、銭がなければなおさら動きませぬ」
師季は書状を畳んだ。
「二郎殿には、わしも津軽へ戻るつもりであると伝えてくれ。ただし、その前に男鹿へ渡り、兵と船を整えたい」
繁綱はすぐには返事をしなかった。
「我が主の御意とは、いささか異なりますな」
「承知しておる。だからこそ、まずは相談したい」
師季は続けた。
「十三湊に残る者たちも、今は兵を挙げられぬという。わしがわずかな兵で上陸して討たれれば、津軽の者たちも後に続けまい。男鹿で備えを整えたうえで、津軽へ渡る道を探りたい」
繁綱は頭を下げた。
「そのように申し伝えます」
比内弥五郎が書状を携えて秋田へ戻り、繁綱は茂別に留まることになった。
徳兵衛は、いつの間にかまた紙を広げていた。
「では、船の話を進めてよろしゅうございますな」
「まだ出立の日も決めておらぬ」
「日が決まってからでは遅うございます」
師季は呆れた顔で徳兵衛を見たが、部屋から追い出しはしなかった。
*
秋になって、惟季から返書が届いた。
男鹿へ渡る必要は認めるものの、津軽へ兵を進める時機を失ってはならぬという。蝦夷ヶ島の諸館主から兵を借り、十三湊の北に上陸する道を、なお検討してほしいと記されていた。
師季は家政、繁綱らと相談し、改めて返書を送った。
蠣崎季繁や下国山城守定季も助力を申し出ているが、島の館主たちにも守るべき館があり、すべての兵を津軽へ渡すわけにはいかない。
男鹿で船と兵糧を整え、秋田の兵とも力を合わせれば、より大きな軍勢を動かせると説いた。
徳兵衛も男鹿と茂別を行き来し、船主たちの返事や米の値を持ち込んだ。
「東公様。秋田の御使者方が、また船を増やせぬかと仰せです」
「増やせるのか」
「銭次第でございます」
「そなたは、そればかりだな」
「銭がなくとも船を出してくださる御仁がおれば、ぜひ手前にも紹介していただきとうございます」
冬の初め、惟季から三度目の書状が届いた。
今度は、師季が男鹿へ移ることを了承していた。春には秋田で会い、津軽への出兵について具体的に相談したいという。
ただし、男鹿での滞在が長引き、御家再興の機を失うことがあってはならぬ、とも念を押していた。
師季は書状を読み終えると、繁綱に言った。
「二郎殿には、ずいぶん辛抱をしていただいたな」
「下野守様にも、お考えがございますゆえ」
「秋田で改めて、津軽へ渡る道を相談したい」
繁綱は深く頭を下げた。
数日後、師季は河野政通と相原政胤を呼んだ。
「政通。そなたには宇須岸に新しい館を築いてもらいたい」
河野は顔を上げた。
「宇須岸に、でございますか」
「家政殿とも話した。あそこは船を寄せるにもよく、これから商いが盛んになる場所だという」
師季は相原に向き直った。
「政胤は大館へ参れ。定季殿に頼んである。子息の恒季殿とも力を合わせ、島の備えを固めてくれ」
相原は即答しなかった。
「……殿。某も津軽へお供するつもりでおりました」
「分かっておる」
「御家再興の戦に加われぬのでございますか」
河野も口を開いた。
「某も同じ思いにございます。殿が津軽へお戻りになるというのに、島に残るばかりでは」
師季は二人を見渡した。
「わしが津軽へ戻るには、この島を失うわけにはゆかぬ」
相原が黙った。
「津軽で兵を挙げれば、南部も黙ってはおるまい。勝てばよい。だが、戦が長引くこともあろう。再び海を渡らねばならぬこともあるやもしれぬ。そのとき、この島に頼るところがなくなっておれば、どうする」
「されど、殿のお側には」
「曽我も小山内も大高もおる。秋田には二郎殿もおられる。そなたらまで連れてゆかずとも、わしは一人にはならぬ」
師季は河野の方へ身体を向けた。
「政通。そなたには人を集め、物を整える才がある。宇須岸に館を築くのは、ただ柵を立てる仕事ではない。船を迎え、商人を呼び、島の者たちと付き合ってゆかねばならぬ」
「はい」
「政胤には大館を頼みたい。定季殿のもとには兵もおる。何かあれば、そなたが力を貸せ」
相原は唇を結んだ。
「そなたらを信じておるから残すのだ。わしに従って津軽へ渡る者は、ほかにもおる。だが、ここを任せられる者は多くない」
河野はしばらく黙念として考え、それから頭を下げた。
「承知いたしました。宇須岸に、よき館を築いてご覧に入れます」
相原も続いた。
「大館のことは、某にお任せくだされ」
師季は頷いた。
「頼むぞ」
*
翌康正二年(一四五六年)の春。
河野政通は花沢館から呼び寄せた武田信広、又四郎らを伴い、志濃里館を訪れた。
館主の小林良景は、門のところまで出迎えた。
「河野殿。東公よりお話は伺っております」
「しばし、世話になり申す」
「宇須岸のことでございましょう。まずは館へお入りくだされ」
志濃里館は海に近い高みを占めていた。
周囲には堀と土塁が巡らされ、木の柵が立っている。門をくぐると、住まいや作業に使う建物が並び、その奥には蔵がいくつも見えた。
河野は足を止めた。
蔵の前では男たちが俵を運び、別の一角では女たちが干した昆布を選り分けていた。
魚の干物を束ねる者もいる。荷を担いだ男が行き交い、海の方からは船を引き上げる掛け声が聞こえた。
「ずいぶん賑やかですな」
「春になって、ようやく船が増えました」
良景はそう答えた。
「去年は海が荒れまして、荷がなかなか捌けませなんだ。今年はその分も運ばねばなりませぬ」
蔵の一つには、昆布の束が高く積まれていた。別の蔵には米俵や布、鉄の道具などが収められている。
河野が尋ねた。
「これほどの荷を、皆この浜で扱うのでござるか」
「志濃里の者だけではございませぬ。東の浜からも品が届きます。蝦夷の者が持ってくるものもあれば、こちらから買い付けに参ることもございます」
「銭も相当動くのでしょうな」
良景は少し笑った。
「動いてくれねば困ります。蔵に積んだままでは、米も買えませぬ」
良景は河野たちを奥へ案内した。
「宇須岸をご覧になるのでしたら、潮の具合がよいうちに参りましょう」
一行は馬と徒歩で西へ向かった。
宇須岸の浜には、海へ突き出した山があった。
その山の裾から砂の細長い土地が延び、内側には波の静かな水面が広がっている。船を寄せられる場所がいくつもあり、背後には平らな土地も続いていた。
河野は山と浜を交互に眺めた。
「なるほど。ここならば船を入れられる」
「北から風が吹いても、山が幾分遮ってくれます」
良景が言った。
「ただし、どこへでも船を寄せてよいわけではございませぬ。浜を使う者たちがおりますゆえ」
河野は頷いた。
「館を築く場所も、相談せねばなりませぬな」
「そのために、話のできる者を呼んでおります」
浜には小舟が引き上げられ、網や木の道具が干されていた。少し離れたところには家々があり、煙が上がっている。
良景の案内で、一行は現地の蝦夷の人々と会った。
又四郎が間に入り、河野の言葉を伝えた。
河野はまず、館を築く目的を説明した。船を迎え、荷を扱い、商いをするための場所が欲しいこと。和人の住まいや蔵を設けるが、浜の者たちの暮らしを妨げるつもりはないこと。
相手の男たちは、又四郎の話を聞きながら、ときおり良景に問いかけた。
初めのうちは穏やかだった話し合いが、船を引き上げる場所の話になると行き詰まった。
河野が館の前に船着場を設けたいと説明すると、一人の男が強く首を振った。
又四郎が訳したところによれば、そこは春から夏にかけて小舟を引き上げ、網を干す場所であり、よそから来た和人の船に明け渡すつもりはないという。
「別の浜ではいかぬのか」
河野が尋ねると、男は海の方を指さし、早口で何かを言った。
又四郎はしばらく聞いてから答えた。
「向こうの浜は、風が変わると波が高くなるそうです。舟を引き上げるにも、こちらの方がよいと申しております」
良景が間に入った。
「これまでどおり漁をしてもらうつもりでござる。和人の船が来る折だけ、少し場所を空けてもらえれば」
しかし、男は納得しなかった。
和人の船が何艘来るかも分からぬのに、いつ場所を空ければよいのか。網を広げている最中に船が来れば、漁をやめねばならぬのか。
又四郎がそう伝えると、河野は返事に詰まった。
「船が来る時刻など、風と潮次第ではないか」
「だから困る、と申しております」
男たちの声が大きくなった。
良景が何かを説明したが、一人は席を立ち、浜へ向かって歩き始めた。
河野も立ち上がりかけたが、信広が袖を引いた。
「政通殿。浜をもう一度見てはどうでしょう」
「何を見に行く」
「船を寄せる場所は、まだ一つしか見ておりませぬ」
河野はしばらく考えた。
「よし。案内してもらおう」
又四郎が声をかけると、立ち去りかけた男が振り返った。
一行は浜へ下りた。
男たちは小舟を引き上げる場所を示し、網を干すところや、魚を運ぶ道を指さした。砂浜には舟を引きずった跡が幾筋も残っていた。
河野は波打ち際を歩き、地面の高さを確かめた。
「ここに大きな船を寄せるつもりだったが、船を沖に泊めて、小舟で荷を運ぶこともできよう」
「その方が、浜を塞がずに済みますな」
良景が言った。
「ただ、荷を揚げる場所は要ります」
河野は少し離れた砂地を指さした。
「あちらを使えぬか。館へ通じる道も、向こう側へ回せばよい」
又四郎が訳すと、男たちは顔を見合わせた。
一人が歩いてゆき、砂を踏み、波の届くところを確かめた。別の男が、そこは秋の大風の折に水をかぶると告げた。
「ならば、荷を置く場所はもう少し高いところにする」
河野は枝を拾い、砂の上に線を引いた。
「ここを道にして、蔵はこのあたりに置く。船からの荷は小舟で運び、漁の舟を引き上げる場所には入らぬ」
信広が尋ねた。
「長たちの話だけでなく、実際に浜を使う者にも聞いた方がよいのではござらぬか」
「その方がよさそうだ」
良景は近くにいた男たちを呼び寄せた。
小舟を出す者、網を干す者、魚を運ぶ者。それぞれの話を聞くうちに、河野が最初に考えていた館の位置や道筋も少しずつ変わっていった。
話し合いは日を改めて続けられた。
河野は贈り物を用意し、良景もこれまでの取引相手を集めた。和人の船を寄せる場所、漁の妨げにならぬ道筋、交易品の受け渡しなどを、一つずつ確かめていった。
鉄の道具を求める者には、良景がこれからの取引について説明した。河野も、館ができれば船の往来が増え、品を手に入れる機会も増えるだろうと話した。
最後には、最初に強く反対していた男も、河野が砂の上に描いた道筋を見て頷いた。
又四郎がその言葉を伝えた。
「漁の舟を引き上げる場所に入らぬなら、館を築いてもよいと申しております」
河野は大きく息を吐いた。
「それはありがたい」
良景も笑った。
「これで、ようやく仕事にかかれますな」
河野は、改めて宇須岸の浜を見渡した。
「ここに館を築けば、東から来る船も、西へ向かう船も立ち寄れましょう」
「志濃里の商いも、いくらか賑やかになりますかな」
良景が言った。
「いくらかどころではありますまい」
河野は笑った。
「蔵も船着場も、いずれは増やさねばならぬでしょう」
良景は海の方を見た。
「船が来れば、荷も来ます。荷が来れば、人も集まりましょう。ただ、初めから欲張りすぎぬことでござる」
「心得ております」
河野はそう答えたが、すでに頭の中では、建物を置く場所や道の幅を考え始めていた。
数日後には木材を運ぶ者が集まり、地面を均す仕事が始まった。
信広は、河野が人夫たちに指図する姿を眺めていた。
加賀から流れてきた男が、今はこの北の島で新しい館を築こうとしている。信広自身も、いつまでも花沢館の客分でいるわけにはいかない。そんな気持ちになった。
*
春も深まったころ、信広は茂別館を訪れた。
師季は出立の準備に追われていた。曽我や小山内らが荷の数を確かめ、佐々木繁綱は秋田へ送る文を整えている。
信広が来たと聞くと、師季は手を止めた。
「宇須岸の様子はどうだ」
「政通殿がよく働いております。浜の者たちとも話がつき、木材を運び始めました」
「それはよかった」
師季は信広を座らせた。
「そなたも、そろそろ支度をせねばならぬな」
信広は師季を見た。
「殿。そのことで願いがございます」
「何だ」
「某は、蝦夷ヶ島に残りとうございます」
師季はしばらく何も言わずに信広の顔を見た。
「津軽へは来ぬと申すか」
「はい」
「わしとともに南部と戦うつもりではなかったのか」
「そのつもりでございました。されど、某には津軽に取り戻すべき家も土地もございませぬ」
信広は言葉を続けた。
「花沢館に参ってから、島の浜を歩き、蝦夷の者たちとも話しました。宇須岸では、政通殿が新しい館を築こうとしております。某も、この島で働いてみとうございます」
師季は腕を組んだ。
「季繁殿には話したのか」
「はい。殿のお許しがあれば、引き続き花沢に置いてくださると」
「雪殿も喜ぶであろうな」
信広は返事に困った。
師季は笑ったが、すぐに真顔になった。
「そなたの弓を、津軽で頼りにしておった」
「殿がお呼びになれば、海を渡って参ります」
「必ずか」
「はい」
師季は頷いた。
「ならば、島に残れ。季繁殿によく仕え、政通や政胤とも力を合わせよ」
信広は深く頭を下げた。
「有り難き仕合せにございます」
「ただし、津軽のことを忘れるな」
「忘れませぬ」
師季は信広の肩を軽く叩いた。
*
三月、茂別館には蝦夷ヶ島の主な和人諸館から館主たちが集まった。
志濃里館の小林太郎左衛門尉良景。
茂別館の下国安東八郎式部大輔家政。
中野館の佐藤三郎左衛門尉季則。
脇本館の南条治部少輔季継。
穏内館の蒋土甲斐守季直。
覃部館の今井刑部少輔季友。
大館の下国山城守定季。
禰保田館の近藤四郎右衛門尉季常。
原口館の岡辺六郎左衛門尉季澄。
比石館の厚谷右近将監重政。
そして花沢館の蠣崎修理大夫季繁。
師季は、集まった館主たちを前に三通の文書を示した。
まず、下国山城守定季が呼ばれた。
小山内が文書を広げ、声を上げて読み始めた。
「下す。下国山城守定季。蝦夷島松前守護職に補任せしむべきの事。
右、海陸静謐のため、諸館の武士を催し、境内の狼藉を停止すべし。よって下知、件の如し。
康正二年三月日。安東下野守師季」
定季は進み出て、文書を受け取った。
続いて蠣崎修理大夫季繁が呼ばれた。
「下す。蠣崎修理大夫季繁。蝦夷島上国守護職に補任せしむべきの事。
右、海陸静謐のため、諸館の武士を催し、境内の狼藉を停止すべし。よって下知、件の如し。
康正二年三月日。安東下野守師季」
季繁は師季に礼をし、文書を受け取った。
最後に、下国安東八郎式部大輔家政が呼ばれた。
「下す。下国安東八郎式部大輔家政。蝦夷島下国守護職に補任せしむべきの事。
右、海陸静謐のため、諸館の武士を催し、境内の狼藉を停止すべし。よって下知、件の如し。
康正二年三月日。安東下野守師季」
家政も進み出て、文書を受け取った。
師季は諸館主に向き直った。
「わしは間もなく男鹿へ渡る。島に残るそなたらには、これまでどおりそれぞれの館を守ってもらいたい」
一同は静かに聞いていた。
「三人を守護に任じたからといって、ほかの館主の所領や商いを取り上げるものではない。争いが起きた折には、互いに力を合わせ、島の安寧を守ってほしい」
家政が頭を下げた。
「承りました」
季繁と定季も続いた。
儀式が終わると、館主たちは酒を酌み交わした。
信広はその席で、花沢館の南隣に位置する比石館の厚谷右近将監重政と言葉を交わした。
重政は信広より年長で、日に焼けた顔に精悍なところがあった。
「そなたが武田信広殿か」
「左様にございます」
「弓の腕が立つと聞いておる」
「誰からお聞きになりました」
「季繁殿からよ。若いが慎みがあり、武勇にも優れておると」
重政は盃を置いた。
「わしの比石にも、津軽から流れてきた者が多い。南部との戦で家を失った者、商いの道が閉ざされて渡ってきた者、さまざまだ」
「島へ来る者は、増えておりますか」
「増えておる。だが、誰でも住めるわけではない。土地には土地の者がおるし、食わせるにも米が要る」
信広は頷いた。
「宇須岸で、新しい館を築き始めました」
「聞いておる。河野殿が働いておられるそうだな」
「はい」
「よい港になれば、船も増えよう。されど、船が増えれば争いも増える。商いの相手が増えれば、味方も敵も増えるものよ」
重政は笑った。
「そなたは島に残ると聞いた。ならば、また会うこともあろう」
「その折には、よしなに」
「こちらこそ」
二人は盃を合わせた。
*
師季が男鹿へ渡る日、茂別の浜には早朝から人が集まっていた。
沖には船が並んでいた。
一艘、二艘と数えた師季は、途中で眉を上げた。
「徳兵衛。あれは皆、わしのための船か」
「左様にございます」
徳兵衛は得意げに答えた。
「男鹿から八艘。こちらの御館主方が出してくださった船を合わせて、十二艘にございます」
「十二艘だと?」
家政も驚いた顔をした。
「男鹿から、よくそれほど集めたものだ」
「船主どもにも、それぞれ都合がございます。米を運びたい者、昆布を買いたい者、秋田湊で荷を降ろしたい者。皆の望みを少しずつ合わせれば、船は集まるものでございます」
「船賃はどうなっておる」
河野が尋ねた。
徳兵衛は咳払いした。
「そのあたりは、後ほど帳面をご覧いただければ」
「今、見せよ」
「政通殿は、相変わらず細かいことで」
「細かくなければ、そなたに銭を取られる」
徳兵衛は笑った。
「ご安心くだされ。船頭には支払う分を決めております。男鹿で積む荷も、帰りに運ぶ荷も、話はつけてございます」
徳兵衛は浜を指さした。
「あちらの大きな船には米と武具を積みます。東公と御家人衆は、その隣の船へ。風が変わった折には、沖で待つ場所も船頭たちに申し渡しております」
師季は改めて船団を眺めた。
男鹿の船だけではない。季繁が出した船には花沢の家人が乗り、家政の船には食糧や道具が積まれていた。定季からも武士と船頭が送られてきている。
浜では曽我や小山内が荷を確かめ、大高が郎党たちに声をかけていた。佐々木繁綱は秋田へ持ち帰る文箱を抱え、比内弥五郎と何やら話している。
徳兵衛はその間を歩き回り、船頭を呼び止め、積荷を指さし、遅れてきた人夫を叱りつけた。
師季は家政に言った。
「胡散臭い男だと思っておったが、仕事はするものだな」
「銭のことさえなければ、頼もしい男にございます」
家政が答えた。
「銭のことがあるから、あれほど働くのであろう」
師季が言うと、二人は笑った。
出航の刻が近づいた。
季繁、家政、定季らが師季の前に進み出た。
「東公。どうか御無事で」
季繁が言った。
「津軽へお戻りになる折には、我らもできる限りの力を尽くしましょう」
定季も頷いた。
「船が要れば、お申し付けくだされ」
「かたじけない」
師季は一人ずつ顔を見た。
河野と相原も並んでいた。
「政通。宇須岸を頼む」
「必ずや」
「政胤。定季殿をよく助けよ」
「承知いたしました」
最後に信広が進み出た。
師季はその顔を見て、少し笑った。
「そなたの弓を借りる日が来るやもしれぬ」
「いつでもお呼びくだされ」
「頼みにしておる」
師季が船に乗り込むと、郎党たちも続いた。
浜から綱が解かれ、船頭たちの掛け声が上がった。帆が風を受け、一艘ずつ沖へ向かって動き始める。
師季の乗る船には、白地に檜扇鷲羽の紋を染め抜いた旗が高く掲げられていた。海から吹く風を受け、旗は大きく翻った。
徳兵衛は最後まで浜を走り回っていたが、やがて自分の船に飛び乗った。
十二艘の船は、しだいに茂別の浜を離れていく。
信広は河野と並んで、その姿を見送った。
「政通殿。宇須岸へは、いつ戻られますか」
「明日にでも戻るつもりだ。木材が届くことになっておる」
「某も参りましょう」
「助かる」
河野は沖の船団を見た。
「東公が津軽へお戻りになり、また島へ来られる折があれば、立派な館をお見せしたいものだ」
信広も海を見た。
師季を乗せた船は、ほかの船に囲まれながら、南へ向かって進んでいた。白い旗は、船影が小さくなってもなお、風の中にはっきりと見えていた。




