ヤウンモシㇼの王たち
康正二年(一四五六年)の夏、宇須岸。
浜には、和人の新しい大きな家が建っていた。
周囲には木の囲いが巡らされ、海に近いところでは、荷を積んだ舟から米俵や酒樽が下ろされていた。
シサムとともに働いているのは、近くのコタンの者たちだった。少し離れた浜では、二人の男が網を繕っていた。
「また破れた」
若い男が、網の端を持ち上げた。
「昨日は岩に掛けたからな」
向かいの男は、紐を歯で引き締めた。
「前の浜なら、こんなことにはならなかった」
「それはそうだ」
若者は海の方を見た。
「向こうの連中は、また米を手に入れたそうだ。鉄の鍋も来たと言っていた」
「シサムの舟が増えたからな」
「俺たちの舟を追いやって、あいつらだけがよい思いをしている」
年長の男は、網を膝に広げ直した。
「向こうの者たちも、昔からあの浜を使っていた」
「俺たちも使っていた」
「それは知っている」
「ならば、どうしてあいつらだけで決めた」
男は答えなかった。
若者は鉄の斧を手に取った。柄は長年使われて黒ずみ、刃には何度も研いだ跡があった。
「これを持ってきたのはコパヤシだったな」
「ああ。お前の父が毛皮と交換した」
「父は、コパヤシは信用できるシサムだと言っていた」
「いつも約束したものを持ってきたからな」
コパヤシは、東のシノリの大きな家に住むシサムだった。
自分の家にアイヌを招いたり、浜で取引をするだけでなく、本人も若いころから何度も海辺のコタンを訪ねてきた。
そういうときには多くの魚や毛皮を買い、米や鉄の道具を運んできた。彼を家に招いて酒を飲んだ者も少なくなかった。
ウスケシにシサムの大きな家を建てる話が持ち上がったときも、彼らはコパヤシに尋ねた。
自分たちの舟はどうなるのか、と。
コパヤシは話を聞き、ほかのコタンの者たちとも相談すると答えた。後日、浜を使えなくなることはないと伝えてきた。
だが、シサムの家が建つと、以前からコパヤシと親しいコタンの者たちが、舟を着けやすい場所を使うようになった。
「コパヤシは、俺たちのことを知っていた」
若者が言った。
「知っていたさ」
「それなのに、俺たちに何も聞かずに決めた」
「聞いてはいた。お前の父も話した」
「聞いただけだ。向こうの連中が困らぬと言えば、それでよいと思ったのだろう」
若者は斧を地面に置いた。
「俺たちが困ると知っていて、あいつらを選んだのだ」
年長の男は、しばらく黙っていた。
「シリキシナイの大長には、この件を話している」
「大長のランケトクの妻は、トイのシラヌカの妻の姉妹だ。そしてシラヌカは、向こうの連中と取引をしている」
「だからといって、大長が何もしてくれぬとは限らぬ」
「だが、もうランケトクには何度も頼んだではないか」
若者は網を放り出した。
「ウスへ行こう」
年長の男が顔を上げた。
「ウス?」
「そうだ。ウスの大長なら、シラヌカに遠慮することもあるまい。ウスには大勢の者がいる。人を連れて来てもらえば、コパヤシも俺たちの話を聞くだろう」
「遠いぞ」
「舟なら行ける」
「ウスの大長は、俺たちのことを知らぬかもしれぬ」
「知らぬなら、会って話せばよい。シサムが俺たちを欺いたと聞けば、黙ってはいまい」
年長の男は網を畳んだ。
「贈り物を用意せねばならぬな」
若者は顔を上げた。
「よい毛皮がある。去年獲ったものだ」
「ウスの大長となれば、それだけでは到底足りぬ。シラヌカやランケトクと話をするのとは違う。ほかの家にも声をかけよう。コタン中からよい毛皮を集めねばならぬ」
「鉄の針も、鍋も持っていこう」
「お前の斧も出した方がいいのではないか」
「これもか」
若者は微妙な顔をした。
「ウスだぞ。若いころに一度行ったが、とても大きなコタンだった。ランケトクのところとは違う」
「……では仕方ない」
二人は立ち上がった。
浜では、シサムの舟から荷を下ろし終えた者たちが、米俵を担いで歩いていた。その中には、若者の母方の親族もいた。
若者はそちらを見ようとせず、網を抱えてコタンへ戻った。
*
トイの大きなコタンでは、大長のシラヌカが、シリキシナイから来た客と話していた。
客はランケトクの使いで、干した魚をいくつか持ってきていた。シラヌカは妻に客の食事を頼み、自分も炉のそばに座った。
「ランケトクは元気か」
「はい。先日も若い者たちと川へ出ておりました」
「相変わらずだな。あの男は、昔からじっとしておらぬ」
シラヌカは笑った。
ランケトクの妻とシラヌカの妻は姉妹だった。二人の家では昔から人の行き来が多く、狩りの獲物や商いで得た品を贈り合っていた。
客は食事を終えると、ウスケシの浜のことを話し始めた。
「シサムが新しい大きな家を建ててから、舟を着ける場所で揉めております」
「聞いている」
「ランケトクのところへ、何度も訴えに来る者たちがおります」
「シノリのコパヤシとは話したのか」
「話したそうです。ですが、浜は以前のようには使えぬと」
シラヌカは椀を置いた。
「舟を着けられぬのか」
「岩の多いところなら、着けられるそうです」
「では、浜を追われたわけではないな」
「しかし、網が破れたり、舟を傷めたりするそうです」
シラヌカは少し考えた。
「よい場所を使っている者たちは、俺のところへも来る。あの者たちも、昔からウスケシで魚を獲っている」
「はい」
「どちらか一方だけに浜を使わせるわけにもいくまい」
「ランケトクも、そう申しておりました」
シラヌカは客の顔を見た。
「それで、俺に何をしてほしいと言っている」
「ランケトクは、一度お話を聞いていただければと」
「俺が出向けば、今度は向こうの者たちが文句を言いに来るだろう」
「それは……」
「ランケトクに伝えてくれ。双方の長を呼んで、もう一度話をさせるがよい。コパヤシにも人をやればよい」
客は頷いたが、まだ何か言いたそうだった。
「ほかにもあるのか」
「訴えている者たちは、たいそう怒っております。シサムに欺かれたと」
「コパヤシが、あの者たちを騙したのか」
「そこまでは分かりません」
「ならば、まず確かめることだ」
シラヌカは妻を呼び、ランケトクの家へ持たせる品を用意させた。
客が帰ったあと、シラヌカの妻が尋ねた。
「ウスケシのことは、放っておくのですか」
「放っておくわけではない。ランケトクが話を聞いている」
「姉のところにも、あの者たちが何度も来ているそうです」
「そうか」
シラヌカは炉の火を見た。
「俺が一方の味方をすれば、もう一方が怒る。あの浜では、どちらの者たちとも交易しているのだ」
妻は頷いた。
「ウスの叔父上にも、話してみますか」
「カンナリにか」
「叔父上なら、何かよい考えがあるかもしれません」
「ウスから人を呼ぶほどのことではあるまい」
シラヌカは笑った。
「それより、オシャマンベからは何か届いているか」
「まだ何も」
「そうか」
シラヌカは立ち上がり、戸口から海を見た。
浜では、若い男たちが舟を引き上げていた。沖には、東から来た舟が一艘浮かんでいた。
「ヨイチのイカシマが、またオシャマンベへ人を送ったそうだ」
「何を持っていったのです」
「毛皮と魚だろう。あの男は、いつもよい品を選ぶ」
シラヌカは浜へ下りた。
舟を引き上げていた若者の一人が、大長に声をかけた。
「明日は東へ出ますか」
「ああ。朝のうちに出よう。風が変わらぬうちにな」
シラヌカは舟の舳先を確かめ、若者たちに綱を結び直させた。
*
蝦夷ヶ島の南に大きく入り込んだ、人の横顔のような形をした入海の東に、ウスの大きなコタンがあった。
海から少し離れた家の前で、大長のカンナリは若い男たちが舟を修理しているのを眺めていた。
カンナリは六十ほどの男で、白いものの混じった髭を蓄えていた。若い男が船底の割れ目に木片を当てると、カンナリは屈んで隙間を確かめた。
「もう少し削れ。そこから水が入る」
若者が木片を外したところへ、客がやって来た。
「大長、モロランからです」
カンナリが顔を上げた。
客は、海沿いに二日歩いたところにある大きなコタン、モロランからの使いだった。使いの男は背負ってきた籠を下ろし、東の海から届いた品を見せた。
カンナリは客を自分の家へ連れて行った。
そのチセは、ウスのコタンの中でもひときわ大きかった。屋根は周囲のチセより高く、柱には太い木が使われていた。中へ入ると、中央の大きな炉を囲んで二十人ほどが座れる広さがあった。
奥には、漆塗りの椀や膳、立派な鞘に収められた刀など、代々伝わる宝物がいくつも置かれていた。中には、遠い土地から幾人もの手を経て運ばれてきた品もあった。
チセに入ると、カンナリと客は、炉を挟んで座った。
「イペタムは、今年も東へ舟を出すのか」
カンナリが尋ねた。
「大長は迷っております。トカプチで大きな争いが続いているそうで」
「トカプチか」
トカプチはいくつもの山と川を越えた土地だが、その名はこの島の隅々にまで知られていた。
大勢の戦士を集めることのできる大長たちがいて、その力は、ヤウンモシㇼのどの土地の者たちにも劣らないといわれていた。
カンナリは少し黙ってから、聞いた。
「トマコマイのサルンクルはどうしている」
「トマコマイの大長は、舟を出すつもりだそうです」
「相変わらずだな」
カンナリは笑った。
「北から来る者たちの話も聞きたい。サッポロペッの方では、今年は毛皮がよく獲れたそうだ」
客は頷き、持ってきた品の一つを広げた。
昼を過ぎたころ、南から来た三人の男が通された。
三人はカンナリのチセをしばらく仰ぎ見て、目を丸くした。
中に導き入れられて食事を出されると、長々と礼を言って食べた。船旅の疲れが顔に出ていた。
食べ終わると、三人は持ってきた荷を広げた。
よい毛皮が何枚も重ねられ、その上に鉄の針や鍋が並べられた。最後に、一人の若者が使い込まれた斧を取り出した。柄は黒ずみ、刃には何度も研いだ跡があった。
カンナリは品々を眺めた。
「ずいぶん持ってきたな」
「コタンの者たちから集めて参りました。どうか、お納めください」
カンナリは軽く頷き、家の者に品を片づけさせた。
それから、一人が口を開いた。
「ウスの大長に、お願いがあって参りました」
「どこの者だ」
「ウスケシの近くに住んでおります」
男がコタンの名を告げると、カンナリは首を傾げた。
「知らぬな。ランケトクのところか」
「シリキシナイの大長とは交易しておりますが、我らは別のコタンです」
「そうか。それで、何があった」
男は、ウスケシの浜にシサムが大きな家を建てたことを話した。以前から舟を着けていた場所が使いにくくなり、シノリのコパヤシに訴えても変わらなかったという。
カンナリは黙って聞いていた。
「コパヤシの名前は聞いたことがある。昔からあのあたりで取引をしているシサムだな」
「はい。我らも、以前はあの者を信用しておりました」
「浜を使うなと言われたのか」
「そうではありません。ですが、よい場所はほかのコタンの者たちが使い、我らは岩の多いところへ追いやられております」
「ランケトクには話したか」
「話しました。シラヌカにも伝えると言われましたが、何も変わりません」
「ならば、もう一度話すことだ」
客の男は身を乗り出した。
「大長、我らはそのために参ったのではありません」
カンナリは男を見た。
「ウスの者たちが来てくだされば、シサムも我らを軽んじることはできません。どうか、力をお貸しください」
「人を出せというのか」
「はい。大長のお力があれば、コパヤシも考えを改めるでしょう」
「シサムと戦うつもりか」
「戦わずともよいのです。ウスから大勢の者が来れば、話を聞くはずです」
カンナリは炉の薪を動かした。
「お前たちの浜のことは、俺には分からぬ。近くの者たちが話し合って決めることだ」
「その近くの者たちが、我らの話を聞かぬのです」
「シラヌカには会ったのか」
「まだです」
「ならば、会ってみろ。ランケトクもシラヌカも、お前たちの近くにいる」
客の男は、隣の二人を見た。
「シラヌカは、コパヤシと親しい者たちと交易しております」
「シラヌカは、シサムとも交易している。それは俺も知っている」
「だからこそ、ウスの大長を頼って参りました」
男は深く頭を下げた。
「どうか、何人かでもお貸しください」
カンナリはしばらく考えていたが、やがて首を振った。
「人は出せぬ」
男は顔を上げた。
「大長……」
「遠くへ人を送るには、食べ物も舟も要る。俺のところにも、話し合わねばならぬ相手が大勢いる」
「我らは、ここまで来るのに幾日もかけました」
「それは分かっている。帰りの食べ物は持たせよう。舟も都合をつける」
「我らがお願いしているのは、食べ物ではありません」
カンナリは声を荒らげなかった。
「それでも、人は出せぬ」
三人はそれ以上言わなかった。
しばらくして、一人が口を開いた。
「大長、持ってきた品は……」
カンナリは男を見た。
「何だ。返してほしいのか」
「いえ。そのようなことは」
男は慌てて首を振り、頭を下げた。
翌朝、彼らは用意された食べ物を舟に積み、南へ帰っていった。
カンナリは浜で舟の修理を見ていた。モロランから来た客が、三人の舟を見送りながら尋ねた。
「南の者たちは、ずいぶん落胆しておりましたな」
「遠くまで来たからな」
「シラヌカの近くで、そんな争いがあったとは」
「シラヌカが何かしたわけではあるまい」
カンナリは船底を覗き込んだ。
「それより、イペタムに秋の客のことを伝えておいてくれ。サッポロペッから来る者たちと、話をする日を決めたい」
「承知しました」
「それから、トカプチの方の争いも、もう少し詳しく聞いておいてくれ」
カンナリは若者に声をかけ、修理した舟を水へ下ろさせた。
*
渡島半島東岸の北部、オシャマンベでは春の雪解けで川筋が変わり、河口に新しい砂州ができていた。その砂州をめぐって、二つのコタンの者たちが争っていた。
川岸に集まった男たちの前に、大柄な男が立っていた。五十ほどに見え、肩幅が広く、顎には濃い髭があった。
「去年、網を入れていたのはどこだ」
一人が、今は水の下になっている浅瀬を指さした。
「お前たちの舟は」
別の男が岸の木立を示した。
大長は両方を見比べた。
「春になってから、どちらが先にここで魚を獲った」
「我らです」
「いや、我らの方が先です」
二人が言い争い始めると、大長は手を上げた。
「その場にいた者を、明日連れてこい。今日はどちらも、あの砂州に網を入れるな」
「大長、魚が逃げてしまいます」
「川には、ほかにも魚がいる」
男たちは不満そうだったが、それぞれのコタンへ戻っていった。
大長の傍らには、息子のシタクルと、妻の弟であるヌカンが残った。
「明日も、同じことを言い合うでしょう」
シタクルが言った。
「そうだろうな」
「どちらかに決めてしまえばよいのに」
「去年の川を知っている者もいる。話を聞いてからでも遅くはない」
大長は川岸を離れた。
家に戻ると、ヨイチから客が来ていた。
客はヨイチの大長イカシマの親族で、毛皮や干した魚を贈り物として持ってきていた。
「イカシマは元気か」
大長が尋ねた。
「元気です。先月も若い者を連れて舟を出しました」
「もう若くもあるまいに」
「こちらの大長にも同じことを言っておりました」
客が笑った。
大長の妻も出てきて、ヨイチに住む親族の様子を尋ねた。客は生まれた子供や、病気から回復した老人のことを話した。
妻は女たちを呼び、帰りに持たせる品を用意させた。
客が食事を終えるころ、ヌカンのところへ別の男が来た。ヌカンは男と小声でしばらく話してから、大長のそばへ座った。
「南の方で、妙なことがありました」
「何だ」
「ウスケシの近くの者たちが、ウスへ行ったそうです」
「何をしに」
「カンナリに人を出してもらおうとしたとか」
大長は椀を置いた。
「誰の者たちだ」
「ランケトクと交易しているコタンだそうです。シラヌカと親しい者たちとも、行き来があるとか」
「シラヌカが行かせたのか」
「そこまでは分かりません」
「何のために人を求めた」
「シサムと争っているそうです。ウスケシの浜の舟を着ける場所で揉めていると」
シタクルが笑った。
「そんなことで、ウスまで行ったのか」
大長も少し笑った。
「ウスケシの浜に南のシサムが、また大きな家を建てたそうです。それで揉めているとか」
ヌカンが言った。
「シサムの家など、幾つ建とうと構わぬ。それで、カンナリは人を出したのか」
「分かりません」
「確かめてくれ」
シタクルが父を見た。
「南のシサムが何をしていようと、我らには関わりのないことでしょう」
「シサムのことはな」
大長はヌカンに向き直った。
「シラヌカは、この話を知っているのか」
「ランケトクから伝わっているかもしれません」
「カンナリのところへ行った者たちは、シラヌカに頼まれたのか。それとも、自分たちで行ったのか」
「それも分かりません」
「ならば、まずそこを確かめよ」
シタクルが言った。
「カンナリが南へ人を出したところで、何が変わるのです」
「カンナリが動けば、シラヌカも動きやすくなる」
「ウスの者たちは、もともとシラヌカの味方でしょう」
「カンナリは、シラヌカの妻の叔父だ。だが、シラヌカの言うことを何でも聞くわけではない」
大長は炉に薪をくべた。
「モロランのイペタムもいる。トマコマイのサルンクルもいる。あの者たちは、それぞれ自分の考えで動く」
ヌカンが頷いた。
「ウスの者たちは、北のサッポロペッとも行き来しています」
「東のトカプチも気にしているだろう。それでもカンナリが南へ人を送るなら、何か考えがあるはずだ」
「シラヌカが頼んだのかもしれません」
「それなら、シラヌカが何を渡したのか知りたいものだ」
大長は笑った。
「毛皮三枚では足りぬだろうな」
ヌカンも笑った。
シタクルは、壁に掛けてあった弓を見た。
「もしウスの者たちがトイへ来るなら、我らも人を集めますか」
「まだ誰も動いておらぬ」
大長は息子を見た。
「トイへ兵を出せば、今度はこちらがカンナリを動かすことになる。シラヌカを喜ばせるだけだ」
シタクルは黙った。
「ヌカン、ウスへ行った者たちのことを確かめてくれ。それから、イペタムにも贈り物を届けたい」
「何を持たせます」
「この前の毛皮があるだろう。あれを二枚。それから、よい魚を選んでくれ」
「承知しました」
話が終わると、シタクルは浜へ舟を見に行った。
大長も外へ出た。
西の空には夕日を受けた雲が広がり、川の河口では男たちが網を片づけていた。ヨイチから来た客が舟のそばで誰かと話し、子供たちが犬を追いかけて走っていた。
大長が川の方へ歩き始めると、背後から女の声がした。
「コシャマイン!」
大長が振り返った。
「どうした」
「明日、川の魚を分けるのは朝かい。昼には妹のところへ行きたいんだけど」
「朝にしてくれ。俺もその方がよい」
「分かったよ」
女は子供の手を引き、家々の間を歩いていった。
*
同じ夏、宇須岸の館では、河野政通が浜を見下ろしていた。
新しい館の下には、津軽から来た船が二艘停まっていた。米俵や塩、鉄の品々が次々に運び上げられ、浜では商人たちが荷の数を確かめていた。
「今年は、去年より船が増えましたな」
家人の一人が言った。
「まだ増えるだろう」
政通は答えた。
「この浜はよい。船を着ける場所があり、背後には人の住める土地も広い。道を整えれば、東の浜から来る者も増えるだろう」
「志濃里にも船は参ります」
「志濃里には志濃里のよさがある。だが、宇須岸も負けてはおらぬ」
政通は浜の向こうを見た。
「いずれは、津軽から来た商人がここで冬を越すようになる。家が増え、店ができ、船を直す者も住み着くだろう」
「そこまで大きくなりましょうか」
「なるとも」
政通は笑った。
「海の向こうには津軽も下北もある。東にも西にも、よい品を持ってくる者がいる。ここで物を替えれば、わざわざ別の浜へ行かずとも済む」
家人は頷いた。
「蝦夷の者たちとも、うまく付き合わねばなりませぬな」
「無論だ。浜の者たちが来なくなれば、商いは成り立たぬ」
政通は、近ごろ宇須岸の者と東の浜の者が舟着き場をめぐって言い争ったことも聞いていた。
「浜のことで揉めているなら、双方を呼んで話を聞こう。誰もが船を着けられる場所を決めればよい」
「簡単に収まりましょうか」
「収めねばならぬ。ここへ来る者が増えるほど、そうしたことも増えるだろう」
政通は家人に命じ、翌日、近くのコタンの長たちを招くことにした。
数日後、志濃里館の小林良景が宇須岸を訪ねてきた。
政通が新しい館を案内すると、良景は門をくぐったところで立ち止まり、振り返って建物を眺めた。
「これはまた、妙な館をお建てになったものだ」
「妙とは何です」
「いや、見事なものです。だが、こうして見ると、まるで大きな箱ですな」
良景は声を上げて笑った。
政通は眉をひそめた。
「箱とは失礼な。海からの風を防ぎ、荷を収めるにも都合がよいように造ったのです」
「それは分かっております。いや、しかし、箱のようだ。箱の館だ」
良景はもう一度笑った。
「いっそ箱館と呼んではいかがです」
「何を馬鹿な」
「宇須岸の館と言うより、よほど覚えやすい。津軽の商人たちにもすぐに伝わりましょう」
「宇須岸には、もとから名がある」
「浜の名はそのままでよいではありませぬか。館だけ箱館と呼べばよい」
政通はしばらく黙っていた。
「……好きに呼ばれよ」
「では、これからは箱館ですな」
「わしは宇須岸の館と呼びます」
良景はまた笑った。
その日の夕方、良景は館を出るとき、門のそばにいた家人に声をかけた。
「箱館の殿に、また参ると伝えてくれ」
家人は困った顔をしたが、良景は気にせず馬に乗った。
志濃里館に戻った良景は、浜へ来た蝦夷の客人たちと会った。
良景は長年この地に住み、近くのコタンの者たちと顔なじみだった。客人の中には、父親の代から小林家へ出入りしている者もいた。
「今年は、よい毛皮が獲れたな」
良景が言うと、客人は頷き、持参した毛皮を広げた。
「鉄の小刀が欲しいそうです」
通詞が伝えた。
「小刀か。よいものがある」
良景は家人に命じ、蔵から品を持ってこさせた。
客人たちは小刀を手に取り、刃を確かめた。やがて一人が満足そうに頷いた。
取引が済むと、良景は酒を出させた。
良景は、蝦夷の客が来るのを楽しみにしていた。
交易の用がなくても顔を見せる者がおり、良景も暇があればコタンへ出かけた。
酒を酌み交わし、魚を食べ、狩りの話を聞くのが好きだった。言葉が十分に通じなくても、身振りを交えて笑い合うことができた。
客人の一人が、良景の髭を指さして何か言った。
通詞が笑いながら伝えた。
「殿の髭は、去年より白くなったと申しております」
「余計なお世話だ」
良景は笑った。
「お前の方こそ、去年より腹が出たではないか」
通詞が伝えると、客人たちは声を上げて笑った。
良景も一緒になって笑った。
しばらくして、良景は尋ねた。
「宇須岸に新しい館が建って、あちらへ行く者も増えたそうだな」
通詞が伝えると、客人は頷いた。
「だが、こちらへ来る者もおります。殿のところなら、昔からの馴染みゆえと申しております」
「それはありがたいことだ」
良景は嬉しそうに頷いた。
客人の一人が、宇須岸で舟着き場をめぐる言い争いがあったことを話した。
良景は聞き終えると、通詞に言った。
「河野殿も、悪いようにはなさるまい。浜の者たちには、よく話をするよう伝えてくれ」
良景は、蝦夷の者たちとの付き合いには自信があった。
何を欲しがり、何を嫌うか。どの長が話の分かる人物で、どの若者が血気にはやるか。長く付き合っていれば、自然と分かってくる。
良景は彼らを好いていた。気前よく笑い、酒を飲み、狩りの獲物を惜しげもなく分けてくれる。時には腹を立てて怒鳴り合うこともあったが、翌日にはまた顔を合わせて笑っていた。
志濃里の浜では、これまでも小さな争いはあった。そのたびに良景は双方の話を聞き、酒や品物を出し、折り合いをつけてきた。
今回も、そうして収まるだろうと思っていた。
*
花沢館では、蠣崎季繁が下北から届いた書状を読んでいた。
差出人は田名部へ渡った商人で、下北で兵を集める蠣崎蔵人についての噂が記されていた。
「また蔵人殿の話ですか」
傍らにいた家人が尋ねた。
「そうだ」
季繁は書状を畳んだ。
「南部の兵と小競り合いを続けておるらしい」
「よく持ちこたえておりますな」
「下北の山を知っておるからな。だが、いつまでも続けられるものではあるまい」
家人は少し声を落とした。
「南朝の御末を奉じているという噂も、まだございますか」
「あるらしい」
季繁は眉をひそめた。
「誰が言い始めたのかも分からぬ話だ。蔵人とは長らく会うておらぬし、あの男が何を考えておるのか、わしにも分からぬ」
「本当に、そのような御方がおられるのでしょうか」
「さあな」
季繁は答えた。
「南部に従わぬ者が、何か名分を求めておるのかもしれぬ。だが、噂だけで決めつけるわけにもいかぬ」
家人は頷いた。
季繁は書状をもう一度広げた。
下北で南部の兵が動けば、津軽の情勢にも影響する。海峡を越えて来る商船の数や、荷の値にも関わってくる。
しかし、花沢の館から下北の様子を知るには、船を待つほかなかった。
季繁は書状を畳み、文箱に収めた。
*
その年の秋、志濃里の浜で、一人のアイヌの少年が和人の鍛冶のもとを訪れた。
少年は小刀を持っていた。刃が傷んでいたため、研ぎ直してもらうつもりだった。
鍛冶は小刀を受け取り、刃を確かめた。少年は修理を頼み、代わりに渡す品を示した。
ところが、仕事を終えた鍛冶は、少年が持ってきたものでは足りぬと言い出した。
少年は納得しなかった。約束したものを渡したのだから、小刀を返してほしいと求めた。
鍛冶も譲らなかった。
二人の言葉は十分に通じなかった。少年は身振りを交えて訴え、鍛冶は怒鳴り返した。
少年が小刀に手を伸ばし、鍛冶はそれを払いのけた。
少年はもう一度、手を伸ばした。
次の瞬間、鍛冶が手にしていた刃物が少年の身体を刺した。
少年はその場に倒れた。
騒ぎを聞きつけた者たちが集まったときには、少年は動かなくなっていた。
知らせは、まず少年の親族へ届いた。
親族の者たちは志濃里へ向かい、鍛冶を引き渡すよう求めた。
和人たちは、事情を調べると言った。
少年の親族は、それでは納得しなかった。
やがて、近くのコタンからも人が集まるようになった。
誰が少年を殺したのか。なぜ殺したのか。何を差し出せば償いになるのか。
話はまとまらなかった。
冬が近づくころには、志濃里から離れた浜にも、その出来事が伝わっていた。
シリキシナイ……現在の函館市恵山方面。大長はランケトク。
トイ……現在の函館市戸井付近。大長はシラヌカ。
ウス……現在の有珠付近。大長はカンナリ。
モロラン……現在の室蘭付近。大長はイペタム。
トマコマイ……現在の苫小牧周辺。大長はサルンクル。
ヨイチ……現在の余市付近。大長はイカシマ。
オシャマンベ……現在の長万部付近。大長はコシャマイン。
トカプチ……現在の十勝地方。
サッポロペッ……現在の札幌周辺。
ヤウンモシㇼ……現在の北海道
コシャマインを除き、大長たちの名前や作中の関係性はすべて創作設定です。




