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夷王の島 ──北海異聞──  作者: 灰神楽ねこ
第一部

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海陸静謐

康正《こうしょう》二年(一四五六年)の冬、志濃里《しのり》。


小林良景《こばやしよしかげ》の館《たて》には、朝から客が来ていた。

囲炉裏の向こうに座っているのは、近くのコタンから来た四人の男だった。秋に鍛冶の手にかかって死んだシノトという名の少年の叔父と、その親族たちである。

良景は米俵を二つ、鉄の小刀《マキリ》を三振り用意し、客が寒さに震えぬよう、火にも新しい薪をくべさせていた。


「これだけでは受け取れぬと申しております」

通詞がそう伝えると、良景は膝の上で手を組んだ。

「前には、米と鉄物で償うという話をしたはずだが」

少年の叔父が早口で何か言った。通詞は最後まで聞き、少し困った顔で良景を見た。

「米が欲しくて来たのではない、と。鍛冶を引き渡してほしいそうです」

「またその話か」

良景は囲炉裏の火を見た。


秋の事件以来、何度この話をしたか分からない。

少年は小刀を研いでもらうために鍛冶のもとへ来た。代価をめぐって言い争いとなり、鍛冶が刃物で少年を刺した。鍛冶は身を守ったのだと訴えたが、居合わせた者の話はそれとは違っていた。

良景は鍛冶を館の中へ置き、勝手に浜へ出ることを禁じた。

少年の親族には償いをすると約束したが、鍛冶の身柄を渡すことだけは拒んでいた。


「わしも、あの者のしたことを許しておるわけではない。だが、館に住む者を、求められるまま引き渡すことはできぬ。償いについては、わしが責めを負う」

通詞が訳すと、少年の叔父は首を振った。

「それなら、なぜ鍛冶は生きているのかと申しております」

良景はすぐには答えなかった。


客の一人に、トゥレプという男がいた。

父親の代から志濃里へ毛皮を運び、良景の館で幾度も酒を飲んだことのある男だった。良景が病に伏した年には、山で採れる薬草を届けてくれたこともある。


「トゥレプ。お前からも話してくれぬか。わしがこの者たちを欺こうとしているわけではないと」

トゥレプは良景の顔を見た。

「殿が約束を破る男ではないことは知っている。だが、死んだ少年は、俺の妻の親族でもある、と申しております」

通詞の言葉を聞いて、良景は頷いた。

「それは承知しておる」

「俺が米を受け取れば、あの者たちは、俺も殿に買われたと思うだろう、と」

「そんなつもりで出しておるのではない」

「それも分かっているそうです」


トゥレプは少年の叔父と短く言葉を交わし、もう一度良景へ向き直った。


「鍛冶を出してほしい。どうしても出せぬなら、親族たちが納得できるよう話してほしい、と申しております」

「話なら、こうして何度もしておるではないか」

良景の声が少し大きくなった。少年の叔父も身を乗り出し、囲炉裏を挟んで激しく言い返した。

通詞が双方の言葉を伝えるうち、話はまた初めに戻った。


昼を過ぎても決着はつかなかった。

良景は食事を出させ、酒も勧めたが、少年の叔父は盃に口をつけなかった。トゥレプだけが少し飲み、帰り際に良景へ頭を下げた。

「春になったら、また来い」

良景が言うと、トゥレプは通詞の言葉を聞いて頷いた。

「そのころには、何とか話をつけたいものだ」



少年の親族たちが帰るころ、門の外には別のコタンから来た男たちも待っていた。宇須岸の浜のことで良景に訴えを重ねている者たちだった。

彼らはトゥレプを呼び止め、鍛冶のことがどうなったか尋ねた。

トゥレプが首を振ると、男たちは顔を見合わせた。やがて一人が何か吐き捨てるように言い、連れ立って浜へ下りていった。



男たちが去ったあとも、米俵と小刀は囲炉裏の脇に残されていた。

良景は通詞を呼び止めた。

「トゥレプは、また来ると思うか」

「参りましょう。殿との付き合いも長うございますから」

「そうだな」

良景は少し安心した。

館の外では、家人たちが屋根の雪を落としていた。浜の方からは、風に乗って波の音が聞こえてくる。

「春になれば、また毛皮を持って来る者も増えよう。いつまでも争っておるわけにはいかぬ」

良景はそう言って、客のために用意した酒を自分の盃へ注いだ。


*


康正三年(一四五七年)の春、花沢館《はなざわだて》。


津軽から届いた船荷を改めていた武田信広《たけだのぶひろ》は、倉の前で一つの塩俵に目を留めた。

俵の底が濡れ、縄の隙間から白い塩がこぼれている。荷を運んでいた男は、船底で水をかぶったのだろうと言った。

信広は俵を開き、塩を指でつまんで確かめた。

「中まで湿っておるな。ほかの俵とは分けておいた方がよい」

「使えませぬか」

「すぐに使う分ならよかろう。長く置くものには向かぬ」

男は頷き、俵を倉の隅へ運んでいった。


「武田殿」

振り返ると、雪が小萩《こはぎ》を伴って立っていた。

「またお手伝いですか」

「はい。荷が届いたと聞きましたので」

「父上も、信広殿はまことによく働くと申しておりました」

雪は笑いながら、破れた俵を見た。

「塩ですか」

「少し水をかぶったようでございます」

「それは困りましたね」

「乾かせば使えます。ただ、湿ったまま積んでおくと、ほかの荷まで傷めますので」

雪は信広の手元を見た。

「武田殿は、そのようなことまでご存じなのですね」

「以前、浜で見たことがございます」

「若狭の浜ですか」


信広は一瞬、返事に詰まった。


「いえ。別のところで」


雪はそれ以上尋ねなかった。倉の中を見回し、米俵の数や酒樽の置き場所について話し始めた。

信広も荷運びに戻ったが、塩のついた指先を擦り合わせたとき、ふいに丹後の浜の匂いが蘇った。


*


まだ夜が明けぬうちから、男たちは小屋へ入ってきた。

寝ている子供たちの身体を足で蹴り、起き上がるのが遅い者は容赦なく棒で打った。信広も何度となく背中を打たれたことがあった。


冬の浜では、海から吹く風が濡れた着物を通り抜けた。海水を汲む桶は子供には重く、両手で持ち上げても、歩くたびに水がこぼれた。

釜のそばまで運ぶと、今度は熱気が顔を焼いた。薪が湿っている日は煙がひどく、目を開けていられなかった。


一度、水桶を落としたことがあった。

監督していた男は信広の髪をつかみ、釜の前へ引きずっていった。

信広が泣きながら謝ると、男はさらに腹を蹴った。息ができず、砂の上で身体を丸めているところへ、熱い灰が投げつけられた。


その晩は、食事を与えられなかった。

小屋の隅で横になっていると、誰かが近づいてきた。

信広より少し年上の少女だった。少女は入口の方を何度も振り返りながら、懐から小さな握り飯を取り出した。


「食べな」


信広は手を伸ばしたが、指が震えてうまく受け取れなかった。

少女は信広の手を取り、握り飯を握らせた。


「早く。見つかるよ」


その手も、あかぎれだらけだった。


*


「武田殿?」

雪の声に、信広は顔を上げた。

いつの間にか、塩俵の前で立ち止まっていた。

「どうかなさいましたか」

「……いえ」

信広は指先を払った。

「少し、考え事をしておりました」

雪は信広の顔を見た。

「お疲れなのではありませんか。朝からずっと働いておいででしょう」

「そのようなことはございませぬ」

「でも、お顔の色がよくありません」

信広は笑おうとした。

「塩の匂いで、昔のことを思い出しただけでございます」


口にしてから、余計なことを言ったと思った。


雪は少し首を傾げた。

「昔のこと、ですか」

「はい」

「先ほどおっしゃった、浜のことを?」

信広は小さく頷いた。


雪はしばらく待っていたが、信広が何も言わないので、倉の外へ目を向けた。

「わたくしは、花沢の外へ出ることが滅多にございません。若狭や丹後の浜がどのようなところなのかも、よく知らないのです」


「……丹後には、塩を焼く浜がございました」

信広はゆっくり答えた。

「わたしも、そこにいたことがございます」

「そうでしたか」

雪はそれ以上尋ねなかった。


小萩が、奥方から呼ばれていると告げに来た。雪は返事をしてから、信広へ向き直った。

「武田殿。今日はもう、お休みになってはいかがですか」

「まだ荷が残っておりますので」

「では、せめて昼餉はきちんと召し上がってくださいませ」

「承知いたしました」

雪は微笑み、小萩とともに去っていった。

信広はその背を見送った。



丹後の浜で、自分が武田氏の子だと訴えたことがあった。男たちは腹を抱えて笑い、その晩、信広を荒縄で小屋の柱に縛りつけた。

誰も、その言葉を信じなかった。


いま花沢では、季繁が信広を若狭の守護家、武田氏に連なる者として遇している。雪もまた、そう信じているのだろう。

信広は倉の隅に置かれた塩俵を見た。

もし雪が、あの浜での暮らしを知ったなら。


その先を考えるのはやめた。


信広は新しい縄を取り、破れた俵の口を結び直した。


*


志濃里では、雪解けが進むにつれて、浜へ集まる者が増えていた。

少年の親族たちは、春になっても鍛冶の引き渡しを求め続けた。

良景は償いの品を増やし、鍛冶を志濃里から追放することも考え始めていたが、親族たちの間では、もはやそれでは足りぬという声が強くなっていた。


ある夕刻、トゥレプは自分のコタンで客を迎えていた。


炉のそばには、少年の叔父とその親族のほか、宇須岸の近くから来た男たちが座っていた。そのうちの一人は、前年、ウスのカンナリに助けを求めて出かけた若者だった。


「コパヤシは、また米を出すと言ったそうだな」

若者が尋ねた。

「そうだ」

トゥレプは答えた。

「鍛冶はどうする」

「渡さぬと言っている」

「俺たちの浜のことも、同じだ」

若者は膝を叩いた。

「何度話しても、聞くだけだ。シサムの家が建ってから、俺たちの舟は岩の多いところへ追いやられたままだ」


トゥレプは若者を見た。

「ウスケシのシサムの家の長にも話したのか」

「話した。コパヤシにも話した。ランケトクにも頼んだ。ウスまで行って、カンナリにも頼んだ」

「カンナリは人を出さなかったそうだな」

「出さなかった。コタンの者たちから毛皮も鉄物も集めて持っていったのに」

若者は唇を噛んだ。

「父の斧まで渡した。あれはコパヤシが父に売った斧だ。何も変わらぬまま、斧だけがなくなった」


「冬はどうしていた」

トゥレプが尋ねた。


「ひどいものだった。よい浜は使えず、魚も思うように獲れぬ。ウスへ持っていった毛皮があれば、米も釣針も手に入ったのに。冬の終わりには、食べるものが足りぬ家もあった」


若者の隣にいた男が言った。

「カンナリは、俺たちに飯を食わせて帰してくれた。だが、あの男のところへ行かなければ、コタンの者たちにもっと食わせてやれた」


若者が吐き捨てるように付け加えた。

「カンナリは人を出さなかった。俺たちが持っていったものは、何一つ返さなかった。あの男を頼ったのが間違いだった。もう二度と、ウスのカンナリには頼まぬ」


「ランケトクやシラヌカには、もう一度頼めぬのか」

トゥレプが尋ねると、若者は首を振った。

「ランケトクは東の者たちとの話で忙しいそうだ。シラヌカも、オシャマンベから来る者たちのことで手いっぱいらしい」


「では、どうする」


「今度は、俺たちでコパヤシに話をつける」


少年の叔父が口を開いた。

「俺たちも、秋から待っている。冬も越した。春になっても何も変わらぬ。シノトを殺した男は、まだコパヤシの家で飯を食っている」


トゥレプは炉の火を見た。

「コパヤシは、これまで何度も我らを助けてくれた」

「俺の父も、そう言っていた」

若者は答えた。

「だが、俺たちが困っていると知っていて、何も変えようとしない。コパヤシが昔どれほどよい男だったとしても、今の俺たちには何の役にも立たぬ」


「今度こそ、鍛冶を連れて帰る」

少年の叔父が言った。

「俺たちも行く」

若者はすぐに答えた。

「コパヤシに、浜のことも話してもらう。今度は、皆の前でだ」


トゥレプは二人を見比べた。

「武器を持って行くつもりか」

「シサムの大きな家には、弓も槍もある」

若者が答えた。

「こちらだけ何も持たずに行けば、また追い返される」


「戦になれば、死人が出る」

トゥレプが言うと、少年の叔父が低い声で答えた。

「もう死んでいる」


しばらく誰も口を開かなかった。


やがてトゥレプは言った。

「俺も行く。だが、まず話をする。コパヤシが鍛冶を渡し、浜のことも改めるなら、それでよい」

「渡さなければ」

少年の叔父が尋ねた。


トゥレプはしばらく考えた。

「そのときは、皆で決める」


*


数日後、志濃里の浜には、朝から大勢のアイヌが集まっていた。

小林良景は館の門から、その様子を見下ろしていた。

男たちは弓や槍を持ち、浜から館へ続く道にまで並んでいた。良景が顔を知っている者も多かったが、見慣れぬ者もいた。遠くのコタンから、少年の親族に加勢するために来たのだという。


「殿。今日は、門を開かぬ方がよろしいのでは」

家人《けにん》の一人が言った。

「何を申す。話をしに来た者たちを、門前で追い返すわけにはいかぬ」

「しかし、あれほどの人数では」

「トゥレプも来ておる。あの男がいれば、話はできよう」

良景は通詞を呼び、トゥレプを連れてくるよう命じた。


しばらくして、トゥレプが少年の叔父たちとともに門前へ現れた。

「おお、来たか」

良景は声をかけた。

トゥレプは頷いたが、いつものように笑わなかった。


「今日は、ずいぶん大勢だな」

通詞が伝えると、トゥレプは何か答えた。


「皆の前で、もう一度話を聞いてほしいと申しております」

「よかろう」

良景は門を出た。

家人たちは不安そうに顔を見合わせたが、良景が手を振ったので、数人だけが槍を持って後に続いた。


浜へ下りると、男たちが道を開けた。

良景は通詞を傍らに置き、少年の親族たちに向かって話し始めた。

「鍛冶のしたことについては、わしも責めを負う。償いの品も用意しておる。それでも納得できぬというなら、何が足りぬのか、もう一度聞かせてほしい」


通詞が訳し終えると、少年の叔父が前へ出た。

「鍛冶を出せ」

「それはできぬ」

「では、いつまで待てばよい」

「わしにも考えがある。鍛冶は、もうこの浜には置かぬ。津軽へ帰すことにしようと思う」

通詞が伝えると、男たちの間にざわめきが広がった。


良景は続けた。

「二度と志濃里へ来させぬ。それに、米と鉄物も渡そう。これでどうだ」



そのとき、人々の間から一人の若者が進み出た。

「コパヤシ!」

若者は良景を指さし、何か叫んだ。


通詞が耳を傾けた。

「宇須岸の浜のことも、ここで話をしてほしいと申しております」

「宇須岸の浜?」

良景は若者を見た。

「そのことなら、河野殿とも話しておる。浜を使う者たちで、もう一度相談するよう伝えたはずだ」


若者は激しく首を振った。

「何度相談しても、何も変わらぬと申しております。館が建つ前のように、舟を着けられる場所を返してほしいと」

「浜を使えぬわけではあるまい」

良景は答えた。

「宇須岸の館が建ったからといって、皆を追い払ったわけではない。あの浜には、昔から舟を着けている者が大勢いるのだ」


通詞が伝えると、若者は声を荒らげた。

「それは知っている。だからこそ、俺たちにも使わせろと言っているのだ、と」


良景は困った顔をした。

「その話は、また別に聞こう。今日は、鍛冶のことを……」


若者が言葉を遮った。

後ろにいた男たちも声を上げた。


通詞が訳した。

「いつまで待たせるのか、と申しております」


良景は男たちを見渡した。

「待たせるつもりはない。わしも、できることはしておる」


トゥレプが少年の叔父に向かって何か言った。

叔父は首を振ったが、周囲の男たちの中には、頷く者もいた。

良景はそれを見て、少し声を和らげた。


「わしは、これからもお前たちと商いを続けたい。お前たちが毛皮や魚を持って来れば、わしは米や鉄を渡す。これまで、そうしてきたではないか」


通詞が訳すと、トゥレプが頷いた。


男たちはしばらく話し合った。

良景は待った。


やがてトゥレプが顔を上げた。

「鍛冶を津軽へ帰すなら、まず本人を皆の前へ連れてきてほしい、と申しております」

良景は眉を寄せた。

「本人を?」

「はい。逃がすのではないと、確かめたいそうです」

「それは……」

良景は館を振り返った。


鍛冶は、秋以来ほとんど外へ出していない。親族たちの前へ連れてくれば、何が起こるか分からなかった。


「それはできぬ。だが、必ず津軽へ帰すと約束しよう」

通詞が訳すと、少年の叔父が激しく首を振った。

「また約束か!」

男は大声で叫んだ。

その声に、後ろの者たちも騒ぎ始めた。


良景は手を上げた。

「待て。話はまだ終わっておらぬ」


だが、すでに何人もの男が館の門へ向かって歩き始めていた。

「鍛冶を出せ!」

「館の中にいるのだろう!」


良景は家人たちに命じた。

「門を閉めよ。ただし、こちらから手を出すな!」


家人たちが良景を囲むようにして門へ走った。

男たちはその後を追い、閉じようとする門扉へ手をかけた。

重い木の扉が軋み、両側から押し合う者たちの足元で砂が跳ねた。

「下がれ! 殿の命だ!」

家人が叫んだ。

その声は、門前の怒号にかき消された。

良景は門の前に立ち止まって、トゥレプを目で探した。

男は少年の叔父を押しとどめようとしていたが、周囲から次々に人が押し寄せ、二人の姿は見えなくなった。


そのとき、門の内側で誰かが悲鳴を上げた。

良景が振り返ると、家人の一人が肩を押さえて倒れていた。腕の間から血が流れ、足元には矢が転がっている。

「誰が射た!」

良景が叫んだ。


返事はなかった。

門前の男たちも、突然のことに動きを止めていた。


しかし、館の塀の上から家人が矢を射返した。

浜の方で一人が倒れた。

その瞬間、男たちの間から怒号が上がった。

矢が次々に放たれ、門の柱や塀に突き立った。家人たちは慌てて身を伏せ、門扉を押し戻そうとしたが、外から加わる力はますます強くなった。

「殿! お下がりください!」

良景は家人に腕をつかまれ、門の内側へ引き戻された。

「待て! まだ話が……」

言い終わらぬうちに、門扉が大きく揺れた。

外から丸太を打ちつけているらしい。鈍い音が続き、扉を支える横木が軋んだ。

良景はようやく槍を取った。

「皆、持ち場につけ! 門を破らせるな!」



館の中は騒然となった。

女たちは子供を抱いて奥へ走り、家人たちは弓や槍を持って塀へ駆け上がった。馬が厩で暴れ、繋ぎ綱を引きちぎろうとしていた。


門の外から、再び丸太を打ちつける音が響いた。

一度、二度。

三度目に、横木が折れた。

扉が内側へ跳ね上がり、押さえていた家人たちが地面へ投げ出された。そこへ槍を構えた男たちが雪崩れ込んできた。

良景は先頭の男へ槍を突き出した。

穂先が相手の肩を貫き、男は絶叫をあげて倒れた。続いて入ってきた者が槍を振り回し、家人の一人が顔を裂かれて倒れた。

庭はたちまち乱戦となった。

良景は槍を引き、もう一人の男を突いた。相手が倒れると、足元に転がった盾を蹴り飛ばし、門から入ってくる者たちを押し返そうとした。

だが、塀の向こうからも男たちが次々に乗り越えてきていた。


「東の塀へ回れ!」

良景が叫ぶと、家人たちが走った。

その直後、館の屋根の上に何か火のついたものが落ちた。

乾いた葺草に火が移り、風に煽られて炎が広がった。屋根の隙間から黒い煙が噴き出し、火の粉が庭へ舞い落ちた。

「火を消せ!」

誰かが叫んだが、水桶を運ぶ者はもういなかった。


門の方では、なおも男たちが押し寄せていた。館の中へ入った者たちは、倉や住居へ走り、逃げ遅れた家人を追い回した。

良景は槍を握り直した。

肩に痛みが走った。いつの間にか、矢がかすめたらしく、袖が血で濡れていた。


「殿! こちらへ!」

家人の一人が良景を呼んだ。

「奥の門からお逃げください!」

「馬鹿を申すな。まだ皆が戦っておる!」

良景はそう言って、再び敵へ向き直った。

しかし、庭の向こうでは家人たちが次々に倒れていた。火はすでに屋根の半ばを覆い、燃え落ちた葺草が地面へ降り注いでいた。

良景は歯を食いしばり、槍を構えた。


そのとき、煙の向こうに見知った顔が現れた。


トゥレプだった。

男は槍を持ち、数人の仲間とともに庭へ入ってきた。頬には血がつき、衣の袖も裂けていた。

「トゥレプ!」

良景は思わず叫んだ。

トゥレプが振り返った。


二人の間には、倒れた家人が一人横たわっていた。背後では屋根が燃え、梁の折れる音が響いていた。


良景は槍を構えたまま、男へ歩み寄った。

「お前まで、わしの館を攻めるのか!」


トゥレプは答えなかった。


良景はなおも言った。

「わしは、お前の父とも長い付き合いだった。お前が若いころから、何度もこの館へ来たではないか!」


トゥレプの背後から、少年の叔父が叫んだ。

トゥレプは一瞬、そちらを振り返った。

良景には、その言葉の意味が分からなかった。

だが、トゥレプの顔が変わったのは分かった。


男は槍を握り直した。

良景も穂先を上げた。

二人は数歩の距離で向かい合った。


良景は、目の前の男が自分を殺そうとしていることを、まだ信じられなかった。

トゥレプは、冬にもこの館へ来た。囲炉裏を挟んで酒を飲み、少年の親族と良景の間に立って話をしてくれた。良景は、あの男がいれば、どれほど怒っている者とも話ができると思っていた。


「トゥレプ……」

良景が口を開いた。

その瞬間、トゥレプが踏み込んだ。

槍の穂先が良景の胸へ向かって伸びた。


良景は咄嗟に身を捻ったが、避けきれなかった。穂先が脇腹から入り、身体の奥深くへ突き通された。


息が詰まった。

良景は槍を取り落とし、目を見開いた。

目の前に、トゥレプの顔があった。

男は歯を食いしばり、両手で槍を握っていた。


良景はその顔を見つめた。

驚きと、何かを確かめようとするような表情が、しばらく消えなかった。


トゥレプが槍を引き抜くと、良景の膝が折れた。

良景は地面へ倒れ、片手を伸ばした。指先が土を掻いたが、身体を支えることはできなかった。


トゥレプは動かなかった。

良景は最後まで、男の方を見ていた。


やがて、その目から力が失われた。



背後で、燃えた屋根の一部が崩れ落ちた。

大きな音とともに火の粉が舞い上がり、庭にいた者たちが一斉に身を伏せた。

トゥレプは顔を上げた。

館の奥から、仲間たちの呼ぶ声が聞こえていた。

男は血のついた槍を握り、良景の身体を一度だけ振り返ると、炎の向こうへ走っていった。


*


同じ日の午後、宇須岸《うすけし》。


河野政通《こうのまさみち》は、倉の増築について家人と話していた。

春の船が増え、浜には津軽から届いた米俵や酒樽が積み上げられていた。政通は、新しい倉をもう一棟建て、荷を運ぶ道も広げようと考えていた。

「このままでは、夏に船が増えたときに困る。材木は、津軽からも買い入れねばなるまい」

政通は板に描かれた図を指した。

「こちらへ倉を建てれば、浜から荷を運ぶにも都合がよかろう」

家人が頷いた。


そのとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。

政通は顔を上げた。

「誰か来たようだな」


門の方が騒がしくなった。

馬の蹄が地面を激しく打つ音が近づき、誰かが大声で叫んだ。

「開けろ! 志濃里からの急使だ!」


政通は立ち上がった。

「志濃里から?」


次の瞬間、門が開き、泥に汚れた馬が庭へ駆け込んできた。

乗っていた男は鞍から滑り落ちるように地面へ降りた。衣は土と汗で汚れ、片方の袖には血がついていた。


政通は庭へ走り出た。

「何事だ!」

男は息を切らし、しばらく言葉にならなかった。

「殿……志濃里が……」

「志濃里がどうした!」

男は顔を上げた。

「志濃里館が、落ちました!」


政通は足を止めた。

「何と申した」

「蝦夷《えぞ》の者どもが大勢で押し寄せ、館へ火を放ちました。門は破られ、家人たちは……」

男はそこで言葉を詰まらせた。

政通は男の肩をつかんだ。

「良景殿は! 小林良景殿はどうなされた!」

男は顔を伏せた。

「……討死なされました」


政通の手から力が抜けた。

「良景殿が……?」

男は頷いた。


政通はしばらく動かなかった。

小林良景は、志濃里の浜で長くアイヌの者たちと付き合ってきた男だった。交易のことにも詳しく、争いが起これば自ら相手のコタンへ出向き、酒を酌み交わして話をつけていた。

政通が宇須岸へ来てからも、何度となく顔を合わせた。

新しい館を見せたとき、良景は笑って言ったものだった。

「まるで大きな箱ですな。いっそ箱館《はこだて》と呼んではいかがか」


あの良景が、討たれたという。


政通は男の肩から手を離した。

「……まことか」

「この目で見ました。殿が槍で突かれ、倒れられるところを……」


政通は顔を上げた。

庭の向こうには、春の空が広がっていた。浜では、先ほどまで荷を運ぶ者たちの声が聞こえていたはずだった。


そのとき、門の外から、異様な叫び声が上がった。

政通は振り返った。

続いて、幾人もの声が重なった。

門番が何かを叫び、庭へ駆け込んできた。

「殿! 蝦夷の兵が!」


政通が立ち上がったとき、門の向こうで鬨の声が上がった。


*


同じ日の夕刻、茂別館《もべつだて》。


下国家政《しものくにいえまさ》は、息子の家季《いえすえ》と向かい合って夕餉を取っていた。

春になって津軽からの船が増え、茂別の浜にも米や酒が運び込まれるようになっていた。家政は今年の交易について息子と話し、夏までに修繕しておきたい倉のことを尋ねた。


「屋根の板が傷んでおります。雨が続く前に直した方がよろしいかと」

「そうだな。材木は足りるか」

「少々足りませぬ。山からもう少し伐り出さねば」

「ならば、明日にでも人を出せ」

家政は魚の身をほぐしながら、息子の顔を見た。

「ところで、雪のことだが」

家季は箸を止めた。

「また、そのお話ですか」

「何だ。嫌なのか」

「そのようなことは申しませぬが」

「では、よいではないか。雪は気立てもよいし、幼いころから知った仲だ。季繁殿も、悪い話とは思っておらぬはずだぞ」

家季は少し困ったように笑った。

「しかし、雪殿はあまり乗り気ではないようで」

「そこが分からん」

家政は首を傾げた。

「お前の何が気に入らぬというのだろうな。家のこともよく働いておるし、酒に溺れることもない。馬にも乗れるし、弓も人並みには引ける」

「父上、それでは褒めているのかどうか分かりませぬ」

家季が笑って答えると、家政も声を上げて笑った。


家季は父親によく似た大きな顔をしていたが、顎が長く、鼻筋も前へ突き出していた。笑うと大きな歯がよく見えた。


「まあ、女の心というものは分からぬ。雪も、もう少し大きくなれば考えが変わるかもしれぬしな」

「父上は、そう仰ってばかりです」

「何だ、不満か」

「いえ。ただ、雪殿にもお考えがございましょう」

「それはそうだがな」

家政は酒を一口飲み、なおも何か言おうとした。



そのとき、廊下を慌ただしく走る足音が聞こえた。

「殿!」

家人が戸口に現れた。

「宇須岸の方角から、煙が上がっております!」

家政は盃を置いた。

「煙だと?」

「はい。山の向こうに、黒い煙が見えます」

「山火事か?」

「それが、どうも……」

家政は立ち上がり、家季とともに庭へ出た。


海の向こう、宇須岸のある方角では、対岸に大きくそびえる岬の山の向こうに黒ずんだ煙が立ち昇っていた。

春の薄い雲とは明らかに違う。煙は風に流されながらも、絶えず新しいものが湧き上がっているように見えた。

「ずいぶん大きな火のようですな」

家季が言った。

家政は目を細めた。

「河野殿の館が、あの辺りにある」

しばらく煙を見つめていた家政は、馬を引くよう命じた。

「浜へ行くぞ」


二人が海岸へ出ると、すでに何人もの者が集まっていた。男たちは沖を指さし、何か言い合っている。

家政は馬を降りた。

「どうした。何があった」

「殿、あれをご覧ください」

一人が海を指した。


沖合に、小舟が一艘浮かんでいた。

帆はなく、櫂を動かす者もいない。舟は波に揺られながら、ゆっくりと浜へ近づいてきていた。


「誰か乗っているのか」

「人がいるようですが、動きませぬ」

家政は目を凝らした。

舟の中に、何かが横たわっていた。


やがて波が舟を持ち上げたとき、船べりから垂れ下がっているものが見えた。

人間の腕だった。

力の抜けた手が、舟の揺れに合わせてぶらぶらと動いていた。


「死人か?」

浜の男たちが騒ぎ始めた。

「おい、舟を引き上げろ!」

家季が叫んだ。

数人の男が裾をまくり、冷たい海へ入っていった。膝まで水に浸かりながら舟へ近づき、舳先に手をかける。波が押し寄せ、男たちの腰まで水が跳ね上がった。

「綱を持ってこい!」

岸から縄が投げられた。

男たちは舟に縄を結び、波に足を取られながら浜へ引いた。

ようやく舟底が砂を擦ると、家季が駆け寄った。

「生きているか!」


舟の中には、一人の男が倒れていた。

衣は血で黒ずみ、片方の袖は裂けていた。顔にも傷があり、髪には乾いた血と砂がこびりついている。

家季が男の肩に手をかけた。

「おい! 聞こえるか!」

男は動かなかった。

家政も舟へ近づいた。

その顔を覗き込んだ途端、息を呑んだ。


「……河野殿?」


男の頬は腫れ、唇は切れていた。それでも、見間違えるはずがなかった。

宇須岸の館主、河野政通だった。


「河野殿! しっかりなされよ!」

家政が呼びかけると、政通の瞼がわずかに動いた。


「家……政……殿……」

掠れた声が漏れた。


家政は身を屈めた。

「何があった。宇須岸で何があったのだ!」

政通は何かを言おうとした。

しかし、喉が鳴るばかりで、言葉にならなかった。

家政は耳を近づけた。

「河野殿!」


政通の唇が、かすかに動いた。


「宇須岸の……館は……」


家政は息を止めた。


「燃えた……」


それだけ言うと、政通の頭が横へ傾いた。

「河野殿!」

家政が叫んだ。

傍らにいた家季が、政通の胸に手を当てた。

「父上、息はございます!」

「すぐに館へ運べ! 湯と布を用意させ、傷を診られる者を呼べ!」

家人たちが政通を抱え上げた。家季もその一人に肩を貸し、砂浜を急いだ。


家政は立ち上がり、海の向こうを見た。

宇須岸の方角には、なお黒い煙が昇っていた。

河野政通は、東公《とうこう》が家政の補佐として任じた男でもあった。その河野が、館を焼かれ、瀕死の姿で茂別へ逃れてきた。

家政の脳裏に、昨年の春、師季から授かった文書の一節が浮かんだ。


――海陸静謐《かいりくせいひつ》のため、諸館《しょだて》の武士を催し、境内《きょうない》の狼藉《ろうぜき》を停止《ちょうじ》すべし。


あのときは、安東家から下国《しものくに》の守りを任されたことが誇らしかった。


家政は浜に集まった家人たちを振り返った。

「館へ戻るぞ。すぐに人を集めよ」

家季が政通を運ぶ者たちに指示を出してから、父のもとへ戻ってきた。

「父上、宇須岸へ兵を出しますか」

「待て。敵の数も分からぬうちに兵を出せば、こちらまで危うくなる」

家政は煙の方を指した。

「浜と山道に物見を出せ。宇須岸から逃れてくる者があれば、館へ入れて話を聞け。ただし、武器を持った群れをむやみに近づけるな」

「承知しました」

「大館《おおだて》と小館《こだて》の守りを固めよ。弓と槍を揃え、夜番を増やせ。米と水も蓄えておけ。今夜は誰も油断するな」

家季は頷いた。

「近くの蝦夷の村へも知らせますか」

「知らせよ。だが、蝦夷を敵と決めつけてはならぬ。宇須岸を襲った者がどこの者か、まだ分からぬのだ」

家政は馬の手綱を取った。

「それから、木古内《きこない》の方へ使いを出せ。西の館《たて》にも急を知らせねばならぬ。松前の山城守殿にも、上国《かみのくに》の季繁《すえしげ》殿にも、志濃里と宇須岸の様子を探っていると伝えよ」

「はっ」

「家季」

馬に乗ろうとした息子が振り返った。

「河野殿を死なせるな。あの男から聞かねばならぬことが、まだ山ほどある」

「承知いたしました」

家季は馬に飛び乗り、館へ続く坂道を駆け上がっていった。


家政はしばらく海を見ていた。

師季《もろすえ》が出羽へ渡るとき、下国の守りを任されたのは自分だった。

茂別の一館だけを守っていればよいわけではない。宇須岸も、その向こうの志濃里も、同じ海を行き来する船によって結ばれている。

河野の館が焼けたというなら、次はどこが誰に襲われるか分からなかった。


家政は馬に跨がった。

「急げ。日が暮れるぞ」


家人たちが一斉に動き始めた。

浜には、河野を運んできた小舟が残されていた。船底に溜まった血が、打ち寄せる波に洗われていた。


海の向こうでは、黒い煙がまだ消えなかった。

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