二人の大長
小林良景が殺され、河野政通が館を追われるよりも、およそ半年ほど前。
オシャマンベの川には、鮭が上っていた。
河口から少し遡ったところで、男たちが水に膝まで浸かって網を引いていた。銀色の魚が網の中で跳ね、水しぶきが飛ぶ。岸には魚を入れた籠が並び、女たちが石の上で腹を裂き、内臓を取り出していた。
川沿いのコタンには、大小の家が二十軒ほど集まっていた。
草を厚く葺いた屋根は秋の雨を吸って黒ずみ、チセの間には魚を干す棚が立っている。犬が魚の切れ端を狙って歩き回り、子供たちがそれを追い払っていた。
コタンの奥に、ひときわ大きなチセがあった。
オシャマンベの大長、コシャマインのチセである。
そのチセには、トイから来た若い男が暮らしていた。
名をシノカといった。二十四歳になるその男は、トイの大長シラヌカの長男だった。
シノカがオシャマンベに来たのは、二年前の秋のことだった。
初めはしばらく滞在して帰ると言っていたが、年が明けても帰らず、春が過ぎてもトイへ戻ろうとしなかった。
その日の朝、シノカはコシャマインの息子シタクルとともに川へ出ていた。
「トイでは、もう鮭を獲っているか」
シタクルが尋ねた。
「獲っているだろう。あちらの川にも、毎年このころには上ってくる」
シノカは網から魚を外し、籠へ放り込んだ。
「お前がいなくても困らぬか」
「魚を獲る者なら、ほかにもいる」
「そういうことを聞いているのではない」
シノカは手を止めた。
「親父のことか」
「そうだ」
「困っているだろうな」
シタクルは笑った。
「分かっているなら帰ればよい」
「帰れば、また同じ話になる」
シタクルはそれ以上尋ねなかった。
二人は歳が近く、シノカがオシャマンベへ来てから何度も一緒に狩りや漁へ出ていた。
シノカは弓をよく射り、舟を操るのも巧みだった。シタクルはその腕を気に入っていた。
だが、トイの話になると、シノカは決まって口数が少なくなった。
昼前、二人が魚を担いで戻ると、コシャマインがチセの前に立っていた。
五十ほどの大柄な男だった。肩幅が広く、濃い髭には白いものが混じっている。毛皮の上着の胸元には、長年使い込んだ小刀が下がっていた。
チセの前には、ヨイチから届いた毛皮の束が積まれている。前日、大長イカシマの親族が舟で運んできたものだった。
コシャマインの妻は、客人たちに食べ物を出すよう女たちに指図していた。
「シノカ。トイから客だ」
シノカは足を止めた。
「誰だ」
「お前の叔父だ」
シラヌカの弟だった。
シノカは魚をシタクルに渡し、チセへ入った。
炉の向こうに、髭の短い男が座っていた。傍らには干魚と毛皮の包みが置かれている。
「久しぶりだな」
叔父が言った。
「去年も会った」
「そうだったな」
叔父は笑ったが、すぐに真顔になった。
「シラヌカが待っている。そろそろ帰らぬか」
シノカは炉のそばに座った。
「まだ帰らぬ」
「お前の母も心配している」
「母には人をやった」
「それでは足りぬ」
叔父は膝の上に手を置いた。
「相手の家では、まだお前の返事を待っている」
シノカは顔を上げた。
「断ったはずだ」
「お前が一度は承知した話だろう」
「そうだ。だが、あとで断った」
「贈り物も交わした。親族も集めた。向こうの娘は、どうなる」
シノカは答えなかった。
縁談が決まったのは二年前だった。
相手は、海の向こうの大間に住むアイヌの有力者の娘だった。シラヌカは以前からその家と親しく、互いに海を渡って訪ね合っていた。
二年前、娘の親族がトイへ渡り、両家は酒を酌み交わして贈り物を交わし、縁談をまとめた。シノカもその場にいて、異存は唱えなかった。
しかし、その後、シノカは別の女と親しくなった。
女はオシャマンベの近くに親族を持ち、季節ごとにトイと北のコタンを行き来していた。
シノカはその女と暮らしたいと考えるようになり、父親に縁談を断りたいと告げた。
シラヌカは激怒した。
相手の家には既に約束をしていた。シノカの気持ちが変わったからといって、簡単に取り消せる話ではなかった。
父と息子は何度も言い争い、ついにシノカはトイを出た。
「俺が悪かったことは分かっている」
シノカは言った。
「ならば帰れ」
「帰って、あの娘と一緒になれと言うのか」
「まず相手の家に詫びるのだ」
「詫びるつもりはある」
「ならば、なぜ帰らぬ」
「戻れば、シラヌカはまた縁談を進める」
叔父は困った顔をした。
コシャマインが口を開いた。
「シノカは、自分でここへ来た」
「それは聞いている」
「俺が連れてきたのではない」
「それも聞いている。だが、シラヌカは信じておらぬ」
コシャマインは眉を動かした。
「何をだ」
「お前がシノカを引き留めているのではないかと」
「俺がか」
「トイの大長の息子が、いつまでもオシャマンベにいる。こちらの若い者たちと漁をし、狩りに出ている。それを聞いて、シラヌカは面白く思っておらぬ」
コシャマインはシノカを見た。
「帰るか」
「帰らぬ」
「そうか」
叔父は深く息を吐いた。
その日の夕方、叔父はトイへ帰った。
コシャマインは帰りの食べ物を持たせたが、シノカを同行させることはなかった。
*
トイのコタンは、オシャマンベよりも小さかった。
海岸に沿ってチセが並び、その背後に低い丘と林が続いている。浜には舟が引き上げられ、乾かした網が杭に掛けられていた。
シラヌカのチセは、浜から少し上がったところにあった。
チセの中には、津軽から渡ってきた鉄の刀《エムㇱ》や漆の椀、色鮮やかな布が収められていた。
シラヌカは、それらを自分だけのために集めていたわけではない。客が来れば贈り、親族が困れば分け与え、争いが起きれば償いの品として差し出した。
そのため、トイだけでなく、近隣のコタンからも多くの者がシラヌカを頼っていた。
叔父が帰ってきたとき、シラヌカはシリキシナイの大長ランケトクと話していた。
二人の妻は姉妹だった。
「帰らぬと言ったのか」
シラヌカが尋ねた。
「そうだ」
「コシャマインは何と言った」
「本人が帰らぬと言っている、と」
シラヌカは椀を置いた。
「そればかりだ」
ランケトクが言った。
「シノカ自身が約束を破ったのなら、まず相手の家に詫びさせねばなるまい」
「俺もそう言っている」
「だが、無理に連れ戻しても、また逃げるかもしれぬ」
シラヌカはランケトクを見た。
「ならば、どうすればよい」
「ほかの大長に話を聞いてもらうか」
シラヌカは黙った。
妻の叔父にあたるウスのカンナリには、既に使者を送っていた。
使者は毛皮三枚と干魚を携えてウスへ赴き、シノカを連れ戻すために力を貸してほしいと頼んだ。
カンナリは贈り物を受け取り、使者を数日間もてなしたが、オシャマンベへ男たちを遣わすことには応じなかった。
親子の争いにウスの者を巻き込めば、今度は自分がコシャマインと争うことになる。シラヌカ自身が息子と話すべきだというのが、カンナリの返答だった。
シラヌカは、その返事に不満を抱いていた。
「お前が仲立ちをしてくれぬか」
シラヌカが言うと、ランケトクは首を傾げた。
「俺では、コシャマインが承知せぬかもしれぬ」
「なぜだ」
「俺たちは妻を通じて親族だ。お前に近すぎると言うだろう」
シラヌカはしばらく考えた。
「では、ほかの大長を立てて、談判をするか」
「それがよかろう。だが、誰に頼む」
「コシャマインにも尋ねてみるか」
*
それから幾度か使者が行き来した。
シラヌカはランケトクを仲立ちに立てたいと伝えたが、コシャマインは承知しなかった。
代わりにヨイチのイカシマを挙げると、今度はシラヌカが拒んだ。
イカシマは以前からコシャマインと親しく、オシャマンベにはヨイチから来た親族もいた。シラヌカは、そんな男に自分の息子のことを裁かせるつもりはなかった。
秋が深まり、川沿いの木々が葉を落としたころ、ヌカンがコシャマインに言った。
「セタナイのポンヤウンペはどうだろう」
コシャマインは顔を上げた。
「ポンヤウンペか」
「ヨイチのイカシマとも親しい。だが、シラヌカの身内ではない。あの男なら、どちらか一方に肩入れしているとは言われまい」
コシャマインは少し笑った。
「確かに、身内ではないな」
「何がおかしい」
「いや。あの男に、人の争いを収められるかと思ってな」
シタクルが口を挟んだ。
「ポンヤウンペなら、シラヌカも文句を言えぬだろう。あれほど大勢の者を従える男は、そうはいない」
コシャマインはしばらく考えた。
「では、イカシマから話をしてもらおう」
*
セタナイは、蝦夷ヶ島《ヤウンモシㇼ》の西の海に面した土地だった。
海岸には大きな岩が並び、沖には白い波が立っていた。冬が近づくと風は一段と強くなり、浜へ引き上げた舟を綱でしっかり留めておかなければならなかった。
ポンヤウンペのコタンは、川が海へ注ぐところにあった。
浜から少し離れた高みに、ひときわ大きなチセが建っていた。太い柱を使い、屋根には草が厚く葺かれている。
そのチセの入口の脇には、巨大な鯨の頭骨が置かれていた。
長く突き出した骨の先は白く乾き、ところどころに海藻の名残がこびりついていた。脇には大きな肋骨も立てかけられている。
何年か前、浜に鯨が打ち上げられたとき、ポンヤウンペはコタンの男たちを集めて肉と脂を分けさせた。そのあと、頭骨だけは自分の家へ運ばせたのである。
客が来るたびに、その鯨の話をするのが好きだった。
ポンヤウンペは四十を過ぎた大男で、腕は丸太のように太く、胸には古い傷が幾筋も走っていた。髪は肩まで伸び、濃い髭が顎を覆っている。
ポンヤウンペというのは、本来の名ではなかった。
若いころから、古い物語に登場する英雄のような働きをしたいと口にし、狩りでも争いでも人に先んじて飛び出した。
そのため仲間たちが英雄の名で呼ぶようになり、いつしか本名よりもそちらが広まった。
本人もその名を大いに気に入っていた。
その日、ヨイチからイカシマの使者が来ると、ポンヤウンペはまず酒を出した。
「イカシマは元気か!」
「元気です」
「ならば、なぜ自分で来ぬ。あの男とは、しばらく会っておらぬぞ」
使者は笑った。
食事が終わると、使者はコシャマインとシラヌカの争いについて話した。
「息子が家を出たのか」
「はい」
「父親が連れ戻したいと言っているのだな」
「そのとおりです」
「連れ戻せばよいだろう」
「それができぬので、争いになっております」
ポンヤウンペは眉をひそめた。
「コシャマインが邪魔をしているのか」
「本人が帰らぬと言っているそうです」
ポンヤウンペは大声で笑った。
「それだけのことか!」
使者は困った顔をした。
「ですが、双方とも譲りませぬ」
「ならば、俺が話をつけてやろう」
ポンヤウンペは膝を叩いた。
「二人とも、セタナイへ来いと言え!」
使者は頭を下げ、ポンヤウンペは満足そうに酒を飲んだ。
チセの奥では、弟が交易の品を調べていた。
ポンヤウンペは海を渡る商いの細かなことには興味がなかった。津軽の商人がどこで何を売り、どの館にどれほどの鉄物や米が集まっているかも、弟に任せていた。
自分が好むのは、狩りと武勇の話、それに大勢の客を招いて酒を飲むことだった。
「兄者。冬の食べ物を残しておいてくれ」
弟が奥から声をかけた。
「何だ!」
「客を呼ぶたびに、蓄えが減っている」
ポンヤウンペは笑った。
「足りなくなれば、また獲ればよい!」
弟は返事をしなかった。
*
冬の初め、コシャマインとシラヌカはセタナイへ向かった。
コシャマインはシタクルとヌカンを連れ、シラヌカはランケトクと親族の男たちを伴った。
双方とも、遠いセタナイまで出向くことには不満があった。
オシャマンベからでも、山を越えて西の海へ出なければならない。トイから来るシラヌカにとっては、さらに長い道のりだった。
「なぜ、俺たちの争いのために、あの男のところまで行かねばならぬ」
シラヌカは道中、何度もそうこぼした。
ランケトクは、そのたびに同じことを答えた。
「ほかに、双方が承知する者がおらぬからだ」
コシャマインも似たようなことを考えていた。
だが、ポンヤウンペが仲裁を引き受けた以上、こちらから出向かぬわけにはいかなかった。
セタナイに着くと、浜にはポンヤウンペの男たちが待っていた。
チセの前には、先に到着した客の舟が引き上げられていた。
コシャマインはその舟を見て、眉をひそめた。
「ヨイチの舟ではないか」
ヌカンが頷いた。
「イカシマが来ているようだ」
チセの中から大きな笑い声が聞こえた。
入ってみると、ポンヤウンペの隣にイカシマが座っていた。
「おお、コシャマイン!」
イカシマが手を上げた。
「久しぶりだな!」
コシャマインは苦笑した。
「なぜ、お前がいる」
「ポンヤウンペが客を集めると聞いたのでな。酒を飲みに来た」
そのとき、シラヌカもチセに入ってきた。
イカシマの顔を見ると、足を止めた。
「なぜお前が、ここにいる」
イカシマは笑った。
「客だ」
シラヌカはポンヤウンペを見た。
「イカシマが話に加わるなら、俺は帰る」
ポンヤウンペは驚いた顔をした。
「なぜだ!」
「俺が仲立ちを頼むのを断った男だ」
「だが、俺の客だぞ」
「客として酒を飲むのは構わぬ。だが、俺の息子の話には加わらせぬ」
ポンヤウンペは不満そうだったが、やがて頷いた。
「分かった。イカシマは酒を飲んでおれ」
イカシマは肩をすくめた。
「俺は構わぬ」
そう言って、また椀を手に取った。
*
談判は翌朝から始まった。
ポンヤウンペのチセには、コシャマインとシラヌカ、それぞれの親族や従者が集まった。
炉には大きな薪がくべられ、煙が屋根の上へ昇っていた。奥には漆の椀や鉄の刀、毛皮の束が並べられている。ポンヤウンペが客に贈るために用意した品だった。
コシャマインとシラヌカは炉を挟んで向かい合い、ポンヤウンペはその間に座った。
シノカも来ていた。
初めにポンヤウンペが客たちを迎え、食べ物と酒を出した。
そのあと、双方が持参した贈り物が広げられた。
コシャマインは良質な毛皮と鉄の小刀を差し出し、シラヌカは干魚と漆の椀を贈った。
ポンヤウンペは満足そうに頷いた。
「よい品だ!」
しばらくして、食器が片づけられた。
家の中が静かになると、ポンヤウンペは両手を膝に置いた。
「では、話を聞こう」
最初にシラヌカが口を開いた。
「俺の息子が、オシャマンベへ行った。コシャマインは、その息子を家に置いている」
「本人が来たのだ」
コシャマインが答えた。
「俺は連れてきておらぬ」
「それは聞いた。だが、俺が何度も返してほしいと言っているのに、帰そうとしない」
「帰るかどうかは、本人が決めることだ」
シラヌカはシノカを見た。
「お前は、どうするつもりだ」
シノカは顔を上げた。
「まだ帰らぬ」
「相手の家に詫びるつもりはないのか」
「詫びる。だが、あの娘を妻には迎えぬ」
シラヌカは唇を噛んだ。
「お前が一度は承知した話だ」
「分かっている」
「ならば、約束を破ったことも分かっているな」
「分かっている」
「それでも帰らぬのか」
「帰れば、また同じ話になる」
ポンヤウンペは二人を見比べた。
「相手の娘は、まだ嫁いでおらぬのか」
「そうだ」
「ほかの男に嫁がせればよい」
シラヌカは顔をしかめた。
「そう簡単にはいかぬ」
「なぜだ」
「既に贈り物を交わしている。親族も集めた。こちらから断れば、相手の家に恥をかかせる」
ポンヤウンペは頷いた。
「ならば、贈り物を返せばよい」
ランケトクが言った。
「贈り物だけの問題ではない」
「では、何が足りぬ」
「二つの家の約束だ」
ポンヤウンペは腕を組んだ。
コシャマインが口を開いた。
「相手の家に償いが必要なら、俺も品を出そう。シノカが俺の家にいる以上、関わりがないとは言えぬ」
シラヌカは顔を上げた。
「なぜ、お前が出す」
「シノカがこちらへ来たからだ」
「俺の息子の縁談を、お前の品で片づけるつもりか」
「そうではない」
「ならば、なぜ口を出す」
コシャマインは黙った。
ポンヤウンペが大きく手を叩いた。
「分かった!」
皆がポンヤウンペを見た。
「シラヌカは息子を連れ戻したい。コシャマインは帰せぬと言う。ならば、息子が帰ればよい!」
シノカは首を振った。
「帰らぬ」
「帰って、父親と話せ!」
「何度も話した」
「もう一度話せ!」
シノカは黙った。
ポンヤウンペはシラヌカを見た。
「息子が戻れば、無理に妻を迎えさせぬと約束できるか」
シラヌカは少し考えた。
「すぐに妻を迎えさせるつもりはない」
「それでよいではないか!」
「だが、相手の家との話は残る」
「俺が品を出そう!」
ポンヤウンペは胸を叩いた。
「よい刀《エムㇱ》がある。漆の椀もある。毛皮も出そう。それを相手の家へ持っていけばよい!」
シラヌカは首を振った。
「俺の息子のことで、お前に品を出させるわけにはいかぬ」
「遠慮するな!」
「遠慮ではない」
「では、何だ!」
シラヌカは答えなかった。
ポンヤウンペはしばらく二人を見比べていたが、突然立ち上がった。
「お前たち、外へ出ろ!」
コシャマインは眉をひそめた。
「まだ話は終わっておらぬ」
「よいから来い! 見せたいものがある!」
チセの外には雪が積もっていた。
ポンヤウンペは毛皮の上着を脱ぎ、チセの脇にある大石の前へ進んだ。
石は人の腰ほどの高さがあり、半ば地面に埋まっていた。
「見ておれ!」
ポンヤウンペが石に両腕を回すと、セタナイの若い男たちが集まってきた。
「ポンヤウンペ! ポンヤウンペ!」
一人が声を張り上げた。
別の男が、古い英雄の物語を語るような節回しで囃した。
「山の岩をも抱き起こす、セタナイのポンヤウンペ!」
「ポンヤウンペ! ポンヤウンペ!」
男たちは足を踏み鳴らした。
ポンヤウンペは歯を食いしばり、腰を落とした。太い腕に筋が浮き、石の下で凍った土が割れた。
「おおっ!」
石が浮いた。
ポンヤウンペはそれを胸の高さまで抱え上げると、雄叫びを上げて前へ放り出した。
石が雪の上に落ち、鈍い音を立てた。
「ポンヤウンペ! ポンヤウンペ!」
若い男たちは跳び上がり、互いの肩を叩いた。年長の男まで笑いながら両腕を振り上げている。
イカシマも家から飛び出してきた。
「見事だ!」
イカシマは大声で叫び、セタナイの男たちと一緒になって手を叩いた。
ポンヤウンペは胸を張った。
「どうだ!」
コシャマインは石を見た。
シラヌカも石を見た。
しばらくして、シラヌカが尋ねた。
「……それで、俺の息子はどうなる」
ポンヤウンペは大声で笑った。
「これほどの石を動かせる俺が、男一人の行き先を決められぬと思うか!」
コシャマインは何も言わなかった。
シラヌカは毛皮の襟を合わせた。
「寒い。中へ戻ってよいか」
*
チャランケは、その日のうちに終わらなかった。
翌日も、双方の親族が言い分を述べた。
シラヌカは、シノカが約束を破ったことを認め、相手の家に詫びるべきだと主張した。
コシャマインは、それには同意した。だが、シノカを無理にトイへ連れ戻すことには応じなかった。
ポンヤウンペは、何度も自分の品を出すと言った。
しかし、シラヌカは受け取らず、シノカも帰るとは言わなかった。
三日目の朝、ポンヤウンペはとうとう怒り出した。
「俺は、どちらも困らぬようにしようと言っている!」
大きな声がチセに響いた。
「シラヌカは息子を連れて帰る。コシャマインは息子を送り出す。相手の家には俺が品を出す。それで何が悪い!」
コシャマインが静かに答えた。
「シノカが承知しておらぬ」
「ならば、お前が言い聞かせろ!」
「俺は、シノカの父親ではない」
「それは知っている!」
「父親でない俺が、帰りたくない者を無理に帰すわけにはいかぬ」
ポンヤウンペは膝を叩いた。
「では、いつまでこうしているつもりだ!」
シラヌカが言った。
「俺が聞きたいのも、それだ」
コシャマインはシラヌカに向き直った。
「お前がシノカと話すなら、俺は邪魔をせぬ。トイへ戻ることを決めたなら、舟も出そう」
「戻らぬと言っているではないか」
「ならば、今は戻らぬのだろう」
シラヌカは立ち上がった。
「もうよい」
ランケトクが呼び止めた。
「シラヌカ」
「これ以上話しても同じだ」
ポンヤウンペも立ち上がった。
「待て! まだ話は終わっておらぬ!」
「俺は、お前に息子を連れ戻してもらいたかったのではない。双方の言い分を聞いてもらいたかったのだ」
「聞いたではないか!」
「聞いただけだ」
ポンヤウンペは口を開きかけたが、何も言わなかった。
シラヌカは家を出ていった。
ランケトクとトイの男たちが後を追った。
シノカはしばらく座っていたが、やがて立ち上がった。
「父親と話してくる」
コシャマインは頷いた。
家の中には、コシャマインとシタクル、ヌカン、ポンヤウンペ、それにセタナイの男たちが残った。
ポンヤウンペは炉の火を見ていた。
「俺は、悪いことを言ったか」
コシャマインは答えた。
「悪いことではない」
「ならば、なぜ怒る」
「シラヌカは、自分の家のことを自分で決めたいのだ」
「息子が帰らぬと言っているのにか」
「そうだ」
ポンヤウンペは首を振った。
「面倒な話だ!」
コシャマインは椀を手に取った。
「俺も、そう思うことがある」
ポンヤウンペはその顔を見て、ようやく笑った。
*
シラヌカは、その日のうちにセタナイを発った。
シノカは浜で父を追いかけた。
「待ってくれ」
シラヌカは振り返った。
「帰る気になったか」
「まだだ」
「ならば、何だ」
シノカは少し迷った。
「母は元気か」
「元気だ」
「そうか」
「お前が戻れば、もっと元気になるだろう」
シノカは黙った。
シラヌカは舟へ向かった。
シノカがもう一度呼び止めた。
「俺は、あんたが嫌いで出てきたのではない」
シラヌカは息子を見た。
「ならば、なぜ帰らぬ」
「帰れば、またあの娘との話になるからだ」
シラヌカはしばらく黙っていた。
「お前は、俺の息子だ」
「分かっている」
「それは、どこへ行っても変わらぬ」
シラヌカは舟に乗った。
シノカは浜に立ち、舟が沖へ出ていくのを見送った。
*
年が明け、康正三年(一四五七年)の春が近づいた。
オシャマンベとトイの間では、使者の往来が続いていた。
シラヌカはシノカの帰還を求め、コシャマインは本人の意思を確かめるよう答えた。
ランケトクも何度か人を送ったが、話は進まなかった。
そのころ、トイに近い海辺で、一つの事件が起きた。
シノカの母方の親族に当たる男たちが、オシャマンベへ向かう舟を見つけたのである。
舟には、シノカのために食べ物や衣類を運ぶ者が乗っていた。
男たちは舟を浜へ呼び寄せ、荷を調べようとした。
「何を運んでいる」
「オシャマンベへ持っていくものだ」
「シノカにか」
「そうだ」
「ならば、トイへ持ってこい」
舟の男たちは断った。
「これはシノカに頼まれたものだ。お前たちに渡すわけにはいかぬ」
言い争いになった。
一人が舟の綱をつかみ、別の男がその手を払いのけた。
やがて、浜にいた男が腰の小刀を抜いた。
舟の男も弓を取った。
誰が先に手を出したのか、あとになってもはっきりしなかった。
ただ、一人が腕を切られ、もう一人が矢を受けて倒れた。
矢を受けた男は、その日のうちに死んだ。
死んだのは、トイの男だった。
シラヌカは知らせを聞くと、すぐに親族を集めた。
「誰が射た」
「オシャマンベの者です」
「名は」
男の名が告げられた。
シラヌカは知っていた。以前、シノカとともに漁へ出たことのある若者だった。
「その男を連れてこい」
「オシャマンベへ戻ったそうです」
シラヌカは拳を握った。
「ならば、コシャマインに人をやれ」
ランケトクが言った。
「まず、何があったのか確かめた方がよい」
「俺の親族が死んだ」
「それは分かっている」
「分かっているなら、なぜ止める」
「死んだ者の親族が、何を求めるかも聞かねばならぬ」
シラヌカは黙った。
やがて、低い声で言った。
「コシャマインに伝えろ。人を渡せとな」
*
オシャマンベでは、コシャマインが使者の話を聞いていた。死んだ男のことも、矢を射た若者のことも知っていた。
「その男はどこにいる」
「こちらへ戻っている」
「呼んでこい」
若者はすぐに連れてこられた。顔に傷があり、片腕に布を巻いていた。
コシャマインは尋ねた。
「お前が射たのか」
「そうだ」
「なぜ射た」
「向こうが小刀を抜いたからだ」
「先に弓を取ったのは誰だ」
若者は黙った。
「お前か」
「……そうだ」
コシャマインはしばらく、若者をじっと見ていた。
「相手は、何と言っていた」
「荷を渡せと」
「渡せば済んだのではないか」
「シノカに届けるものだ。渡すわけにはいかなかった」
「人を殺してまで守るものだったか」
若者は顔を伏せた。
シタクルが口を開いた。
「向こうも小刀を抜いている」
「それは聞いた」
「こちらだけが悪いわけではない」
「それも分かっている」
コシャマインは若者に向き直った。
「死んだ者の親族へ、何を渡せる」
若者は顔を上げた。
「俺の家には、よい毛皮が二枚ある。それから、刀が一振り」
「それだけか」
「ほかには……」
「足りぬだろう」
コシャマインはヌカンを呼んだ。
「俺のところからも品を出す。シラヌカへ人をやれ。死んだ者の親族とも話をしたい」
ヌカンは頷いた。
しかし、使者が帰ってくる前に、別の知らせが届いた。
トイの男たちが、オシャマンベと行き来する者を捕らえたというのである。捕らえられたのは二人で、一人はシノカと親しい若者だった。
シタクルは知らせを聞くと、すぐに立ち上がった。
「人を出そう」
「待て」
「待っている間に、あの二人が殺されるかもしれぬ」
「シラヌカに使者をやる」
「もう何度も使者をやっている」
コシャマインは息子を見た。
「お前は、何をするつもりだ」
「二人を連れ戻す」
「戦になるぞ」
「向こうが先に人を捕らえた」
ヌカンが言った。
「シタクルの言うことにも理がある。シラヌカが二人を返さぬなら、こちらの者たちも黙ってはおるまい」
コシャマインはしばらく考えた。
「まず、人をやる」
シタクルは不満そうだったが、頷いた。
その日の夕方、オシャマンベから使者が出た。
*
使者は三日後に戻った。
二人のうち一人は返されたが、もう一人はトイに留め置かれていた。
シラヌカは、矢を射た若者を引き渡すまで帰さぬと言っているという。
コシャマインは使者の話を最後まで聞いた。
「死んだ者の親族は、何と言っている」
「償いの品だけでは足りぬと」
「あの男を渡せと言うのか」
「そうだ」
コシャマインは炉の火を見た。
シタクルが言った。
「もう話しても無駄だ」
「まだ話せる」
「いつまでだ」
コシャマインは答えなかった。
シタクルは続けた。
「シノカが来てから、何度も人をやった。セタナイまで行って話もした。それでもシラヌカは、こちらの者を捕らえている」
「シラヌカの親族も死んでいる」
「こちらの者も傷を負った」
「だからといって、また人を殺せばどうなる」
シタクルは黙った。
コシャマインはヌカンに言った。
「もう一度、人をやれ。俺がトイへ行ってもよいと伝えろ」
ヌカンは頷いた。
しかし、その使者が出る前に、浜から男が駆け込んできた。
「大長。南から舟が来た」
「トイの者か」
「違う。シリキシナイの者だ」
男は息を整えた。
「ランケトクが、シラヌカのところへ人を集めているそうだ」
コシャマインは立ち上がった。
「どれほどだ」
「まだ分からぬ」
「カンナリは」
「ウスから人が来たという話は聞いておらぬ」
コシャマインはヌカンを見た。
「イペタムには知らせたか」
「先月、使者を出した」
「返事は」
「まだだ」
シタクルが言った。
「今度こそ、こちらも人を集めねばならぬ」
コシャマインは息子を見た。
「集めよう」
シタクルは頷いた。
「ただし、トイへ行くのは、まず俺だ」
「親父が行くのか」
「シラヌカと話をする。話がつかねば、そのときは仕方がない」
コシャマインは戸口へ向かった。
外では、春の雪解け水が川へ流れ込み、河口の砂州が少しずつ形を変えていた。
*
数日後、オシャマンベの浜には、朝から人の声が絶えなかった。
河口の両岸に舟が引き上げられ、浜には弓や槍を持った男たちが集まっていた。
オシャマンベだけではない。北の海岸や山あいのコタンからも、長たちがそれぞれ数十人の男を率いてやって来ていた。
舟は三十艘を超えた。岸に並ぶ男たちは三百人ほどに達し、川沿いの広場だけでは収まりきらず、魚を干す棚の向こうまで人があふれていた。
家々からは女たちが食べ物を運び出していた。
干魚を束ね、木の器に脂を詰め、舟には飲み水を積み込む。
若い男たちは弓の弦を確かめ、年長の者たちは矢の数を数えていた。
コシャマインの家の前には、各コタンの長たちが集まっていた。
コシャマインは一人ずつ言葉を交わし、連れてきた男の数と、持参した食べ物を確かめた。中には遠方から二日がかりで来た者もいた。
皆が同じ理由で集まったわけではない。シラヌカに親族を捕らえられた者もいれば、以前からトイの者と争っていた者もいた。
それでも、コシャマインが人を集めると伝えると、彼らは武器を携えてやって来た。
シタクルは若い者たちを率い、舟の割り振りを進めていた。
ヌカンは道を知る男たちと話し、途中で舟を寄せる浜や、陸を進む者たちとの落ち合う場所を確かめていた。
シノカは少し離れたところに立っていた。
コシャマインが近づくと、シノカは顔を上げた。
「俺も行く」
「お前は残れ」
「親父と話したい」
「お前が行けば、シラヌカはまずお前を連れ戻そうとする」
「それでも、俺のことだ」
コシャマインは浜を見渡した。
男たちの声に混じって、槍の柄が舟べりに当たる音が聞こえた。岸では新たに到着した一団が武器を下ろし、出迎えた者たちと挨拶を交わしていた。
「お前のことだけではなくなった」
シノカは唇を噛んだ。
「俺がここへ来なければ、こんなことにはならなかった」
「それは分からぬ」
コシャマインは息子の方を見た。
「支度はどうだ」
「整った。海を行く者から先に出す」
シタクルは浜の北側を指した。
「陸を行く者たちも、もう出られる」
コシャマインは頷いた。
やがて、浜のあちこちで出発を告げる声が上がった。
男たちが舟を押し出し、次々と乗り込んだ。
弓を背負った者が舳先に立ち、槍を持つ者が船底に腰を下ろす。川沿いでは、陸路を進む一団が荷を背負い、林へ続く道に列を作っていた。
コシャマインは最後に、集まった長たちを見渡した。
「行こう」
三百人ほどの男たちが、海と陸に分かれて南へ向かい始めた。
浜に残った女や子供たちは、舟が沖へ出ていくのを見送っていた。シノカもその中にいた。
コシャマインは舟の舳先に座り、南の海を見つめた。
その先には、シラヌカが待っていた。




