↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夷王の島 ──北海異聞──  作者: 灰神楽ねこ
第一部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/13

茂別の館主

享徳《きょうとく》三年(一四五四年)、蝦夷ヶ島。


下国家政《しものくにいえまさ》が花沢館を訪れたのは、安東師季《あんどうもろすえ》の一行が到着してから三日目のことだった。

朝から曇っていた空は昼近くになって晴れ、天の川の河口には、潮に乗って入ってくる小舟が何艘も見えた。


季繁《すえしげ》は屋敷の門前に出て、家政の到着を待っていた。

「まだか」

傍らの郎党に尋ねると、男は道の向こうを見た。

「先ほど、浜を発たれたと聞いております。間もなくお見えになりましょう」

「そうか」

季繁は烏帽子を直し、直垂(ひたたれ)の袖を整えた。

「東公は」

「奥にてお待ちにございます」

「粗相のないようにな」

「承知しております」

季繁は頷いたが、すぐにまた袖口を確かめた。


やがて道の向こうに騎馬の一行が現れた。

先頭の男は四十をいくつか越えた年頃で、日に焼けた顔に短い髭を蓄えている。背は季繁より低いが、肩幅が広く、馬上でも腹のあたりに貫禄があった。

男は門前で馬を降りた。

「これはこれは、蠣崎殿。久しゅうござる」

「下国殿。ようこそお越しくだされた」

二人は互いに礼をした。

「東公がお越しと聞いて、取るものも取りあえず参った。いや、まことにめでたいことよ」

「まずは中へ。東公もお待ちにござる」


家政は門をくぐりかけて、季繁を振り返った。

「ところで、妹は息災か」

「おかげさまで」

「雪も大きゅうなったであろうな」

「ええ。近頃は口ばかり達者になりまして」

「ははは。それは母親に似たのであろう」

季繁は笑わなかった。

「下国殿。あまり大きな声では」

「何だ、聞こえるのか」

「奥におりますゆえ」

家政は声を上げて笑った。


*


安東師季は、家政を丁重に迎えた。

「茂別《もべつ》の下国家政にございます」

家政は板敷きに両手をつき、深く頭を下げた。

「安東家の御曹司をこの島にお迎えできますこと、まことにありがたき仕合せに存じます」


「遠路、よく参られた」

師季が答えると、家政は顔を上げた。

「遠路と申しましても、海を渡ってこられた東公に比べれば、わずかな道のりにございます」

「茂別からは、どれほどかかる」

「このたびは船で参りました。海を回りますゆえ、いささか遠回りになりますが、山道を越えるよりは楽にございます。ただ、風次第で日数が変わりまする」

家政はここで少し身を乗り出した。

「茂別の館《たて》からは津軽の海も見えます。晴れた日には向こう岸の山までよく見えまする」

「それはよいところだな」

「よいところにございます。何より、我が家は昔から安東家に御縁が深うございましてな」


季繁がわずかに顔を動かした。

家政はそれに気づかず、話を続けた。


「東公は、盛季《もりすえ》公が、かつて我が館にお越しになったことを御存じでございましょうか」

「話は聞いておる」

「左様でございましたか」

家政は嬉しそうに膝を進めた。

「あれはもう十年あまり昔のこと。十三湊を追われた盛季公が、海を越えて茂別へお渡りになったのでございます。父も私も、何としても御身をお守りせねばと、館の者どもを総出で働かせました」


師季は黙って聞いていた。


「盛季公は、御立派な御方でございました。国を失われても、少しも取り乱されず、朝には必ず身なりを整え、我らにも丁寧に言葉をかけてくだされた」

「そうであったか」

「はい。御座所も、今なお残してございます。あの折のことは、我ら下国の者にとって、決して忘れられぬことでございます」

家政は目を細めた。

「東公にも、ぜひ一度お越しいただきとうございます」

「茂別へか」

「はい。盛季公がお使いになった部屋を、御覧いただきたいのです。しばらく御滞在いただけるなら、なおありがたく存じます」


師季は少し考えた。

「それは見てみたいものだ。わしも、この島のことを知っておきたい」

「まことにございますか」

「うむ。蠣崎殿がよければ、いずれ参ろう」

家政の顔が明るくなった。

「それは何よりのお言葉。父が存命ならば、どれほど喜んだことでございましょう」


季繁が口を挟んだ。

「安東家への御奉公は、我らも代々心がけて参りました」

「無論、蠣崎殿もそうであろう」

家政は頷いた。

「されど、盛季公が海を渡られた折には、まず我が茂別館をお頼りになった。あのときのことは、今も忘れられませぬ」

「それは、茂別が津軽に近かったゆえではござらぬか」

季繁が言った。


家政は振り向いた。

「何と」

「いや、盛季公が茂別へお渡りになったのは、海を越えてすぐのところに館があったからであろうと」

「それだけではござらぬ」

「無論、下国殿の御厚情あってのことでござろう」

「厚情というより、御恩を返したまでのことよ」

「我らも同じにござる」

二人は顔を見合わせた。


師季が笑った。

「盛季公がそなたらを頼ったことは、よく分かった。こうしてわしまで世話になっておるのだから、ありがたいことだ」

家政も季繁も、揃って頭を下げた。


末席に控えていた武田信広《たけだのぶひろ》は、二人の様子を眺めていた。

家政は安東家への忠節を口にしながら、自分の家が盛季を迎えたことを繰り返し語る。

季繁はそれを聞くたびに、何か言わずにはいられないらしい。


信広には、どちらが師季に対して深い敬意を抱いているのか、よく分からなかった。


*


昼の膳が運ばれてくると、家政はようやく昔話をやめた。

季繁の妻も奥から姿を見せ、兄に挨拶した。

家政は妹の顔を見るなり、少し痩せたのではないかと言い、妹は兄の腹がまた大きくなったと返した。

「茂別ではよほどよいものを召し上がっておられるのでしょう」

「いや、近頃は魚ばかりでな」

「昔からそのように仰せでした」

「魚は体によい」

「兄上は、何を召し上がっても体によいと仰せになります」

師季が笑い、季繁もつられて笑った。


家政は妹の言葉を聞き流し、酒を一口飲んだ。

「ところで雪はどうした」

「奥におります」

「顔を見せぬか。久しく会っておらぬ」

季繁の妻が女房に命じると、ほどなく雪が現れた。


雪は客人たちに礼をしてから、家政に向き直った。

「伯父上、お久しゅうございます」

「おお、雪か。大きゅうなったな」

「伯父上も、お変わりなく」

「わしは少し老いたぞ」

「そのようには見えませぬ」

家政は満足そうに笑った。

「うまいことを申す。母親に似たな」

「兄上」

妹がたしなめた。


家政は構わず続けた。

「雪も、そろそろよい年頃であろう」


季繁が盃を置いた。

「下国殿」

「何だ」

「その話は、また後ほど」

「何を申す。東公もおられることだし、めでたい話は皆の前でするに限る」


雪は父を見た。

季繁は眉間に皺を寄せ、家政は笑顔だった。


「我が息子も、近頃はすっかり一人前になってな」

家政は師季に向き直った。

「東公。実は我が家には、まだ妻を迎えておらぬ息子がおりまする。雪とは従兄妹同士にございますが、幼い頃からよく知った仲でして」


雪の顔から笑みが消えた。


「兄上、まだ決めたことではございませぬ」

季繁の妻が言った。

「分かっておる。ゆえに、こうして相談しておるのではないか」

「相談は、奥でなさればよろしいでしょう」

家政は不思議そうに妹を見た。

「何を隠すことがある。家と家との縁組ではないか」


季繁が咳払いをした。

「下国殿。まずは東公をお迎えすることが肝要にござる」

「それもそうだな」

家政はようやく盃を取り上げた。

雪は母に促され、奥へ下がった。


その途中、雪は信広の方をちらりと見た。

信広は目を伏せた。

家政の息子がどのような男なのか、信広は知らない。雪がその縁談をどう思っているのかも分からなかった。

ただ、先ほどまで楽しげだった雪の顔が、急にこわばったことだけは見ていた。


*


午後、師季は家政と季繁を相手に、津軽の情勢について話していた。

南部氏の勢力はなお強く、安東氏が失った土地を取り戻すには、味方となる国人を一人でも多く集めなければならない。


家政は、津軽の北畠氏の動向を尋ねた。

「浪岡の北畠殿は、いかがでございましょう」

「まだ確かな返事はない」

「されど、南部がこれ以上強くなることを喜ぶ御方ばかりではありますまい」

「そうであってほしいものだ」

師季は答えた。


季繁が言った。

「浪岡の御所には、我が家も浅からぬ御縁がございます」

「ほう」

「我らの祖は、かつて下北の蠣崎城を本領としておりました。北畠顕家《きたばたけあきいえ》公にお仕えし、所領を認められたと伝わっております」

「それは知らなんだ」

「古い家伝にございますが、北畠家の御恩は忘れておりませぬ」

季繁は姿勢を正した。

「浪岡の御所は、奥州《みちのく》でも格別の御家柄にございます。南部と安東の争いを、いつまでも傍観なさるとは思えませぬ」


家政が盃を置いた。

「下北の蠣崎といえば、蔵人《くろうど》という男がおろう」

季繁の顔がわずかに曇った。

「おります」

「そなたの縁者であろう」

「遠い縁にございます」

「南部に従わず、兵を集めておると聞くが」

「そのようでござる」

季繁は短く答えた。


師季が尋ねた。

「蔵人とは、よく行き来しておるのか」

「いえ。長らく会うておりませぬ」

「南朝の御末を奉じておるという噂もあるそうだな」

「そのような噂までございますか」

季繁は眉をひそめた。

「出自も知れぬ者を担ぎ出して、何をしようというのでございましょう」

「さあな。田名部《たなぶ》でも聞いたが、誰も確かなことは知らなんだ」

「蔵人も、南部に従わぬだけならばまだしも、妙な者を近づけておるなら心配にござる」


家政が言った。

「されど、南部も蔵人のことは放っておけまい。下北で兵を集める者がおれば、田名部から目を離せぬからな」

師季は頷いた。

「わしが田名部を離れる折にも、南部方は蔵人の動きを案じておった」


季繁は少し考えてから言った。

「蔵人が南部の兵を引きつけてくれれば、津軽へ攻め戻るにも都合がよいのではございませぬか」

家政が言った。

「そううまく運べばよいがな」

師季は苦笑した。

「いずれにせよ、我らだけで南部に立ち向かうのは難しい。秋田の湊安東《みなとあんどう》にも、力を貸して貰えればよいが」

「安東二郎殿ならば、南部と容易に折り合う御方ではありますまい」

家政が頷いた。

「二郎殿は気性の激しい御方と聞きます。戦となれば、自ら兵を率いて出られるとか」

「一度お会いしたいものだ」

師季が言った。

「安東の名を持つ者同士、いつまでも別々に戦っておるわけにはゆかぬ」

「されど、湊安東にも湊安東の御都合がございましょう」

季繁が言うと、師季は笑った。

「そうであろうな。わしに力を貸してくださるとしても、ただの好意からではあるまい」


家政は、しばらく考えてから口を開いた。

「東公。我らも船なら、いくらか用意できまする」

「ありがたい」

「されど、兵を乗せるとなれば、商船とは勝手が違います。馬も運ばねばなりませぬし、風を待つ日もございましょう」

「承知しておる」

「いざという折には、早めにお知らせくだされ」

季繁も言った。

「我が家からも船を出しましょう」

「蠣崎殿の船は、どれほどある」

家政が尋ねた。

「必要とあらば集めまする」

「それは頼もしい」

家政は笑った。

「茂別でも集めねばならぬが、浜の者どもは昆布や魚を運ぶ船を手放したがらぬ。ことに夏場は難儀でな」

「花沢も同じにござる」

「それならば、冬に戦をなさるか」

「冬は海が荒れよう」

「ははは、まことに」


師季も笑ったが、やがて家政に尋ねた。

「松前の方にも、船を持つ者はおろう」

「無論にございます。大館《おおだて》の下国山城守殿などは、相当な御力をお持ちにございます」

「下国山城守殿か」

「はい。安東の御一門に連なる御方にございます」


師季は少し身を乗り出した。

「それならば、力を貸していただけるであろうか」

「東公のお越しは、すでにお聞き及びでございましょう。されど、船を出していただけるかどうかは、直接お尋ねになるのがよろしかろうと存じます」

「そうか。いずれお会いせねばならぬな」

「それがよろしゅうございましょう。山城守殿は、この島のことをよう御存じにございます」


師季は頷いた。


花沢の季繁も、茂別の家政も、船を出すと言ってくれる。しかし、実際に何艘集められるかとなると、話は容易ではなかった。

松前には安東一門の館主もいるというが、まだ会ったこともない。

兵を出すにしても、誰の命令で、どこまで従うのか。


師季はまだ、この島の館主たちについて知らないことが多かった。


*


翌日には、志濃里《しのり》館の小林良景《こばやしよしかげ》が訪れた。


良景は四十前後の、細身の男だった。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、目尻が少し下がっている。口数は多くないが、相手の話を聞くときには、じっと顔を見る癖があった。

供の者は三人だけだった。


「小林太郎左衛門尉良景にございます」

師季の前に進み出た良景は、丁寧に礼をした。

「東公には、遠き海を越えてよくぞお越しくださいました」

「志濃里から参ったそうだな」

「はい。宇須岸のさらに東にございます」

「海沿いの館か」

「左様にございます。館の下まで波の音が聞こえまする」


季繁が言った。

「小林殿のところは、昆布で知られております」

良景は少し笑った。

「昆布だけでござるよ」

「またそのようなことを。津軽の商人どもが、志濃里の昆布を求めて集まると聞いておるぞ」

「集まる年もあれば、来ぬ年もござる」

良景は師季に向き直った。

「今年は春の海が荒れましてな。船の往来が遅れ、浜の者どもが困っております」

「昆布は採れておるのか」

「まだ本格的な時季ではございませぬが、去年の分が残っております。されど、買い手が来ねば蔵に積んでおくほかない」


家政が口を挟んだ。

「小林殿の蔵には、銭が山ほどあると聞くぞ」

「銭ばかりあっても、米は食えませぬ」

「銭で米を買えばよかろう」

「米を積んだ船が来れば、そういたします」

家政は笑った。

「なるほど、そなたには敵わぬ」


良景も笑ったが、すぐに表情を改めた。

「東公。津軽の戦は、まだ続くのでございましょうか」

師季は頷いた。

「南部が退くとは思えぬ。こちらも、失ったものをそのままにはできぬ」

「左様にございますか」

良景は少し考えた。

「津軽の浜では、近頃、船を出すのをためらう者がおります。どちらの勢力に属する港へ入ればよいのか、分からぬと申すのです」

「商人は戦を嫌うものだな」

家政が言った。

「商人ばかりではございませぬ」

良景は答えた。

「船頭も、浜で働く者も、争いは嫌います。荷を積んだまま港を閉ざされては、皆が困りますゆえ」


師季は良景を見た。

「安東が津軽を取り戻せば、船も安心して通えるようになると思うか」

「それは、取り戻された後のことでございましょう」

良景は慎重に答えた。

「南部方の港にも、長く付き合いのある商人がおります。昨日まで南部の者と商いをしていたからといって、明日から船を入れぬと仰せられては困ります」


家政が眉を上げた。

「小林殿。東公の御前で、少し言葉が過ぎるのではないか」

良景は家政に頭を下げた。

「失礼いたしました。ただ、浜の者どもの話を申し上げたまでにございます」

師季は手を上げた。

「構わぬ。わしも聞いておきたいことだ」

良景は再び頭を下げた。

「恐れ入ります」


「志濃里では、蝦夷の者とも商いをするのであろう」

「はい」

「どのような品を扱う」

「昆布、干した魚、皮、鳥の羽などでございましょうか。向こうから持ち込むものもあれば、我らが買い付けに参ることもございます」

「言葉は通じるのか」

「通じる者もおります。通じぬ者とは、間に人を立てます」

「そなた自身は」

「少しは覚えましたが、難しい話はできませぬ」

季繁が笑った。

「小林殿は謙遜しておられる。志濃里の浜では、蝦夷の者と長々と話しておられるそうな」

「値を決めるだけでも、長くかかることがございます」

良景は苦笑した。

「向こうも、こちらが何を欲しがっているか、よく知っておりますゆえ」


信広は、その言葉に興味を覚えた。

花沢館では、又四郎という蝦夷の男が警固を任されている。彼は和人の郎党たちと変わらぬ姿で働いていた。

一方、良景の話に出てくる蝦夷の人々は、館に仕える者ではなく、品物を売り買いする相手だった。


「東の方には、どれほど人が住んでおるのだ」

師季が尋ねた。

良景は首をかしげた。

「それは、どこまでを東と申すかによりまする」

「志濃里より先だ」

「浜ごとに村がございます。大きな村もあれば、家が数軒しかないところもございます。川を遡ったところにも人が住んでおりますが、我らが皆を知っているわけではございませぬ」

「それぞれに長がおるのか」

「はい。ただ、村の長と、幾つもの村に顔が利く者とは違います」

「ほう」

「親類同士で結びつくこともあれば、争うこともございます。去年まで仲のよかった者が、今年は口も利かぬということもございます」

家政が言った。

「蝦夷の者どもも、我らと変わらぬな」

良景は小さく頷いた。

「争いの種は、どこにでもございます」


「近頃、東では何か起きておるのか」

師季が尋ねた。

「大きな戦は聞いておりませぬ。ただ、交易に来る者の顔ぶれが少し変わりました」

「どう変わった」

「以前は年寄りが連れてきた若い者が、近頃は自分で人を率いて参ります。別の浜から来る者も増えました。誰が誰に従うのか、こちらにも分からぬことがございます」

良景はそこで言葉を切った。

「そういう折には、古い約束が役に立たぬこともございます」

師季は頷いた。

「そなたも苦労が多いな」

「それで食べておりますゆえ」

良景は笑った。

「それに、向こうの者も我らをよく見ております。約束を違えれば、次からは別の浜へ品を持ってゆく。刀を持って追いかけたところで、商いにはなりませぬ」

季繁が頷いた。

「我らの浜でも同じことよ。何事も力ずくで済むわけではない」

「されど、力が要らぬということでもございませぬ」

良景は答えた。

「浜で争いが起これば、我らが収めねばならぬ。船を奪おうとする者があれば、追い払わねばなりませぬ」


師季は良景の顔を見た。

「そなたは、なかなか難しいところを治めておるのだな」

「海に面したところは、どこも似たようなものでございましょう」

良景はそう言って、盃を取った。


*


その日の夕刻、信広は屋敷の裏手で雪と顔を合わせた。

雪は侍女とともに、干した布を取り込んでいるところだった。


「武田殿」


声をかけられ、信広は足を止めた。

「雪殿」

「先日は、弓を見せていただきありがとうございました」

「いえ」

雪は布を侍女に渡した。

「伯父上のお話は、お聞きになりましたか」

信広は返答に迷った。

「少しばかり」

「では、息子のことも」

「はい」


雪はため息をついた。

「伯父上は、昔からあの話ばかりなさいます」

信広は黙っていた。

雪は少し声を落とした。

「従兄は、悪い人ではないのです」

「左様でございますか」

「ええ。馬が好きで、弓もお上手だそうです。ただ……」

雪は口をつぐんだ。

「ただ?」

「いえ、何でもございませぬ」


侍女が横で笑いをこらえていた。

雪はその腕を軽く叩いた。

「笑わないで」

「申し訳ございませぬ」

「そなたが余計なことを言うから」

「わたくしは何も申しておりませぬ」


雪は困ったように笑った。

「従兄は、少し口の匂いが強いのです」


侍女がとうとう吹き出した。

「姫様!」

「だって、本当のことではないか」


信広は思わず口元を緩めた。

雪はそれを見逃さなかった。


「武田殿まで笑われるのですか」

「失礼いたしました」

「まったく、男の方は皆そうです」

雪は布を抱え直した。

「父上も、伯父上も、家のことばかりお考えになる。わたくしが誰と暮らすことになるのかは、あまり気になさらぬようです」

「季繁殿は、まだお決めになっておらぬのでしょう」

「ええ。母上も反対なさっています」

雪は少し明るい顔になった。

「だから、まだよいのです」


侍女が布を抱え、奥へ歩き始めた。

雪もその後を追いかけたが、途中で振り返った。

「武田殿」

「はい」

「また弓を見せてくださいませ」

「機会がございましたら」

「父上にお願いしておきます」

雪はそう言って、侍女とともに屋敷へ戻っていった。


信広はしばらくその場に立っていた。


雪の笑い方は、やはり安寿によく似ていた。

しかし、安寿が従兄の口の匂いについて話すところなど、信広には想像もできなかった。

あの少女は、いつも自分を守ろうとしていた。

雪は父や伯父に不満を言い、侍女と笑い合い、自分の望まぬ縁談を嫌がっている。


信広は、雪が去っていった廊下を見た。


その顔を見れば、安寿のことを思い出す。

だが、雪は安寿ではなかった。


*


翌朝、家政は茂別へ帰ることになった。


出立に先立ち、季繁は門前まで見送りに出た。

「下国殿。東公のこと、くれぐれもよろしくお頼み申す」

「何を申す。東公は我らが御守りする御方ではないか」

家政は馬の手綱を取った。

「茂別へお越しの折には、盛季公の御座所をお使いいただくつもりだ。人も増えるゆえ、傷んだところを直さねばならぬな」

「それは御苦労なことでござる」

季繁は答えた。

「我が花沢にも、安東家ゆかりの品が幾つもございます」

「そうか、そうか」

家政は笑った。

「では、また参ろう」


馬に跨がると、家政は屋敷の奥へ向かって声を張り上げた。

「雪にもよろしく伝えてくだされ。息子も会いたがっておるとな」


季繁の顔がこわばった。

「下国殿!」


家政は笑いながら馬を進めた。

一行が道の向こうへ消えるまで、季繁は門前に立っていた。


「まったく、あの御仁は」


傍らの郎党が尋ねた。

「殿、何か」

「何でもない」

季繁は袖を払った。

「東公の御前では、もう少し慎みというものを心得てもらいたいものだ」

そう言いながら、屋敷へ戻っていった。


*


その日の午後、師季は河野政通《こうのまさみち》と相原政胤《あいはらまさたね》を呼んだ。


部屋には三人だけだった。

師季は窓の外を見ていた。庭では家人たちが薪を運び、倉の戸を開け閉めしている。


「この島の館主たちは、皆、立派なものだな」

師季が言った。

河野は頷いた。

「左様にございます。蠣崎殿も下国殿も、よく人を使っておられます」

「小林殿も、商いには相当な腕があるようだ」

「はい」

「だが、皆、それぞれの家を持っておる」

相原が顔を上げた。

「それは、いかにも」

「盛季公が茂別へ逃れた折、下国の者たちは助けてくれた。今度も、こうしてわしを迎えてくれておる」

師季は二人を見た。

「ありがたいことだ。だが、いつまでも他家の情けに頼っておるわけにはゆかぬ」


河野は黙っていた。


「わしは、いずれ津軽へ戻る」

師季は続けた。

「南部に奪われたものを取り戻さねばならぬ。だが、もし再び敗れれば、またこの島を頼ることになるやもしれぬ」

「東公」

相原が言った。

「そのようなことは」

「分かっておる。敗れるつもりで戦う者はおらぬ」

師季は苦笑した。

「されど、盛季公も義季公も、思いどおりにはならなんだ。わしだけが必ず勝つと、どうして言えよう」


二人は答えなかった。


「この島に、わしら自身の足場が要る」

師季は静かに言った。

「蠣崎も下国も頼もしい。だが、いざというとき、誰がわしのために兵を動かし、誰が船を出してくれるか。そこまで他人任せにはできぬ」


河野が言った。

「されど、我らはこの島へ渡ったばかりにございます。土地も人も、まだよく存じませぬ」

「うむ。そこが難しいところだ」

師季は頷いた。

「茂別の下国殿は、しばらく館に滞在せよと申してくださった。いずれ、その厚意に甘えようと思う」

「それがよろしゅうございましょう」

相原が答えた。

「茂別に移れば、津軽との行き来も幾分容易になりましょう」

「それに、下国殿からはこの島のことを教わることも多かろう」

師季は二人を見た。

「そなたらにも、折を見て各地の館を訪ねてもらいたい。わしが南へ戻った後のことも、考えておかねばならぬ」


「殿は、我らを島に残されるおつもりで」

河野が尋ねた。


「まだ分からぬ。津軽の様子も見ねばならぬし、この島で何ができるかも知らねばならぬ」

師季は少し笑った。

「何も知らぬうちから、あれこれ決めるわけにはゆくまい」

河野と相原は頷いた。



師季は立ち上がり、庭へ出た。

花沢の丘の向こうには、海が広がっていた。沖には小さな船が浮かび、風を受けてゆっくりと南へ進んでいる。


かつて安東盛季は、十三湊を追われて蝦夷ヶ島へ渡り、茂別の下国氏を頼った。その後、義季は津軽の奪還を果たせぬまま討たれ、今度は自分が南部政経のもとを逃れて、この島へ来た。

師季は大伯父の盛季に会ったことがなく、義季とも言葉を交わしたことはなかった。それでも今は、二人が守ろうとした安東家を自分が継いでいる。


家政は、盛季が使った部屋を今も残しているという。茂別へ行けば、その頃の話をもっと聞けるかもしれない。


庭の向こうでは、季繁が家臣たちに何かを命じていた。

大きな声が響き、男たちが慌ただしく動き始める。門の近くでは、荷を積んだ馬が一頭、手綱を引かれるのを嫌がって首を振っていた。


季繁はよく世話をしてくれる男だった。家政も、盛季の頃からの縁を大切にしている。

志濃里の小林良景は、津軽の商人や東の蝦夷たちについて、師季の知らないことをいくつも聞かせてくれた。

だが、まだ会っていない館主も多い。島の道も港も、どこにどれほど人が住んでいるのかも、分からぬことばかりだった。


師季は、もう一度沖を眺めた。

南へ向かっていた船は、いつの間にか岬の近くまで進んでいた。白い帆が傾き、やがて岬の陰へ入って見えなくなった。

下国家政(安東家政)は一般的には安東師季(政季)の実弟とされますが、本作では別人という設定です。

また、茂別館は安東盛季が築いたという説が一般的ですが、本作ではそれ以前から館が存在し、盛季を迎えるために家政が改築をしたという設定です。

蠣崎季繁の妻が安東家政の妹というのも、本作独自の設定です。

蠣崎季繁の先祖が北畠顕家に本領安堵されたというのも本作独自設定ですが、下北の蠣崎家の先祖が北畠顕家に従った南部師行の配下であったという伝承は存在します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。