花沢の館
享徳三年(一四五四年)、蝦夷ヶ島。
船が宇須岸の沖へ差しかかったのは、昼を少し過ぎたころだった。
朝から吹いていた南東の風は幾分弱まり、海面には細かな波が立っていた。船頭は帆を少し緩め、舳先を西へ向けた。
安東師季は船縁につかまり、陸地を眺めていた。
海へ突き出した、背の丸い山がある。
その麓からは細長い砂地が陸へ向かって延び、両側を海に挟まれていた。山の付け根には家々が集まり、浜には小舟が引き上げられている。
砂地の向こうには広い平野が続き、そのさらに奥には雪を残した山々が連なっていた。中でも一つ、頂の高い大きな山が、周囲の山々から抜きん出てそびえていた。
田名部の浜で商人から聞いたとおりの景色だった。
「船頭、あれが宇須岸か」
「左様にございます。あの高い山がよい目印になります。霧の深い日でも、山の上だけ見えることがございましてな」
「ずいぶん家があるではないか」
「この辺りでは、まだ少ない方でございます」
師季は浜に目を凝らした。小舟の傍らには人影がいくつもあり、網を干している者もいる。浜の奥には畑らしいものが見えた。
武田信広も、師季の隣で陸地を見ていた。
「思っていたより、人が住んでおりますな」
「そなたは、どのようなところだと思っておった」
「山ばかりで、人の家など滅多にないものかと」
船頭が笑った。
「それでは商いになりませぬ。こちらにも人がおりますから、我らは船を出すのでございます」
信広はもう一度、浜を眺めた。
家々の間から煙が上がっている。子供らしい人影が浜を走り、少し離れたところでは、男たちが船を押していた。
若狭の海辺とも、丹後の浜とも、さほど違わないように見えた。
ただ、背後の山々は深く、海岸から少し入れば、どこまでも森が続いているようだった。
「ここへ船を着けるのか」
師季が尋ねると、船頭は首を振った。
「いえ、我らはさらに西へ参ります。花沢の館は、まだ先でございます」
「どれほどかかる」
「風次第でございますな。あと二日は見ていただきとうございます」
船は宇須岸の沖を離れた。
やがて浜の家々は小さくなり、山の向こうへ隠れた。
西へ進むにつれ、海岸には切り立った崖が現れ、その間に小さな浦が開けていた。人家の見えないところもあれば、数艘の船が並ぶ浜もあった。
信広は、岸に近いところを進む小舟に目を留めた。
乗っている男は二人とも、見慣れた小袖を着ていた。一人は頭に布を巻き、もう一人は長い髪を後ろで束ねている。
「こちらの和人は、髪を結わぬ者もおるのですか」
信広が船頭に尋ねた。
「和人とは限りませぬぞ」
「では、蝦夷の者でございますか」
「さて、どちらでしょうな」
船頭は目をこらした。
「あの舟の主は、この辺りでよく知られた男でございます。父親は津軽から渡ってきたそうですが、母親はこちらの者で、本人は両方の言葉を話します。和人か蝦夷かと尋ねられても、わしには答えられませぬ」
「本人に尋ねればよいのでは」
「何のためにでございます」
信広は返事に詰まった。
船頭は笑いながら舵を取った。
「あの男に魚を売ってもらうときは、魚の値を聞けばよろしい。それで足ります」
*
それから二日後、花沢館の麓にある蠣崎季繁の屋敷では、朝から客を迎える支度が続いていた。
「違う」
季繁は座敷に並べられた膳を見て言った。
家臣が顔を上げた。
「何がでございましょう」
「この膳だ。こちらではない」
「昨日、殿がこちらをお使いになるようにと」
「昨日はそう申した。だが、考え直した」
季繁は膳を一つ持ち上げ、裏を確かめた。
「こちらの方がよい。漆も傷んでおらぬ」
「されど、数が揃いませぬ」
「奥の蔵にあるはずだ。探せ」
家臣は頭を下げ、膳を抱えて退出した。
季繁は座敷を見渡した。
床には畳を敷き、壁際には屏風を立ててある。客を迎える上座には新しい茵を用意し、花を生けた器も置かせた。
安東家の一門が来る。
南部の手を逃れ、海を渡ってくる。
季繁にとって、これほど重大な客は久しくなかった。
かつて下国家政が茂別館に安東盛季を迎えたときのことを、季繁は今も覚えていた。
あの折には、家政の名が海峡の両岸でしきりに取り沙汰されたものである。
今度は自分の番だった。
「殿」
廊下から声がした。
「何だ」
「浜の者から知らせが参りました。東公の御船が松前の沖を過ぎたそうにございます」
「そうか」
季繁は頷き、しばらくしてから尋ねた。
「客人はどのような装束であった」
「聞いておりませぬ」
「なぜ聞かぬ」
「船が通ったとの知らせだけでございましたので」
季繁は眉を寄せた。
「よい。もう一度使いを出せ。客人が何人おられるか、供の者はどれほどか、確かめて参れ」
家臣が去ると、季繁は奥へ向かった。そこでは妻が衣を畳んでいた。
「また膳を替えさせたそうですね」
「聞いておったか」
「家中の者が皆、存じております」
「東公をお迎えするのだ。粗略にはできぬ」
「それは承知しております」
妻は衣を置いた。
「けれども、昨日から三度も席を替え、二度も膳を替えておいでです」
「安東家は日之本将軍の御家柄ぞ」
「存じております」
「我が家が代々どのような由緒を持つか、東公にもお分かりいただかねばならぬ」
妻は夫の顔を見た。
「それならば、いつものようになさればよろしいでしょう」
「いつものように?」
「殿は、蝦夷の長の方々を迎えるときには、これほどお迷いになりませぬ」
季繁は答えなかった。
妻は小さく笑い、再び衣を畳み始めた。
「雪にも、客人の前で粗相をせぬよう申し聞かせてあります」
「そうか。あれはどこにおる」
「小萩と一緒に、奥で針仕事をしております」
「東公の御前へは、わしが呼ぶまで出すな」
「はい。それから、兄上から文が参りました」
「家政殿からか」
「東公に御挨拶を申し上げたいと。三日ほど後には、こちらへおいでになるそうです」
「そうであろうな。ほかの館主たちも、いずれ参るであろう」
「その折には、また人手が要りますね」
「うむ。皆を一度に呼び集めるわけにも参るまい。来る者から順に迎えねば」
妻は畳んだ衣を重ねた。
「兄上は、雪にも会いたいと仰せです」
季繁は顔をしかめた。
「また、あの話か」
「まだ何も仰せになっておりませぬ」
「言わずとも分かる」
「兄上のお考えにも、もっともなところはございましょう」
「分かっておる」
季繁は袖を払った。
「されど、急いで決めることでもあるまい。今は東公のことが先だ」
妻はそれ以上何も言わなかった。
季繁が廊下へ戻ると、家臣の一人が駆け寄ってきた。
「殿、浜にアッケシの者が参っております」
「またか。先日の毛皮の件か」
「そのようでございます」
季繁は足を止めた。
「通せ。客人の船が着く前に話を済ませよう」
*
アッケシから来たという男は、和人の商人を一人伴っていた。
男は季繁と顔見知りで、以前にも屋敷へ来たことがあった。和人の言葉を幾らか解し、通訳を介さず話せることもあったが、込み入った話になると商人が間に入る。
「今年は、いつもの数を揃えられぬそうでございます」
商人が言った。
「なぜだ」
「東の方で争いがあり、毛皮を運んでくる者が減ったとか」
「どことどこが争っておる」
商人は男に尋ねた。
男は長々と説明した。季繁には聞き取れない言葉が続き、途中で二度ほど、川の名らしいものが出てきた。
商人は困った顔をした。
「トカチの方で、大長が一人討たれたそうにございます。親族が仇を討とうとして、別の者たちと争っておるとか」
「トカチと申したか。アッケシからは遠かろう」
「はい。されど、毛皮を運ぶ者たちは幾つもの土地を通りますゆえ」
「討たれた大長は、何という者だ」
商人が尋ね直すと、男は首を振り、今度は少し強い口調で答えた。
「違うそうでございます」
「何が違う」
「討たれたのは、大長の兄弟だと」
季繁は眉をひそめた。
「先ほどは大長が討たれたと申したではないか」
「わたくしも、そう聞こえたのでございますが」
男は二人のやり取りを聞いて、何か言った。
商人はしばらく考えた。
「その者が大長であったかどうかも、土地によって言い分が違うようでございます」
季繁はため息をついた。
「それで、毛皮はいつ届く」
商人は再び尋ねた。
今度は短い答えが返ってきた。
「秋まで待ってほしい、と」
「秋では遅い」
季繁は男に向き直り、身振りを交えて話した。男も手を動かしながら答えた。
しばらくして、季繁は頷いた。
「半分でよい。夏までに届けよ。残りは秋で構わぬ」
商人が訳すと、男は少し考え、承知した様子を見せた。
話が済むと、季繁は二人に食事を出すよう命じた。
男が退出しかけたところで、季繁は呼び止めた。
「その争いは、まだ続いておるのか」
商人が尋ねると、男は振り返った。
今度の返事は短かった。
「終わってはおらぬそうでございます」
男はさらに何か言い、商人が聞き返した。二人はしばらく話していたが、商人はやがて季繁に向き直った。
「島の南でも、長たちの仲が悪くなっておるそうです」
「どのあたりだ」
「東の海辺だとか」
「ふむ。何が原因だ」
商人が尋ねると、男は肩をすくめ、何やら早口で答えた。
「詳しくは存じませぬが、船を着ける浜や、商いのことで揉めておるようです。ウスやモロランの方に後ろ盾を持つ者もおるとか」
「ウスか。兵も来るのか」
「そこまでは分からぬそうでございます」
季繁は腕を組んだ。
「こちらへ来る船にも、差し障りが出るやもしれぬな」
季繁は少し考えたが、やがて二人を帰した。
男たちが去ったあと、季繁はしばらく座敷に残っていた。
トカチがどれほど遠い土地なのか、季繁は正確には知らなかった。アッケシの向こうにも、さらに幾つもの川と山があり、その先には別の海があるという。
そこでも人が争い、大長が死に、その子や兄弟が仇を討とうとしている。
東の海辺でも、何やら揉め事が起きているらしい。
季繁は、夏までに届く毛皮の数をもう一度指折り数えた。半分だけでは、津軽の商人に渡す分が足りなくなる。
*
船が天の川の河口沖へ着いたのは、翌日の午前だった。
師季たちの乗った船は岸から少し離れたところに錨を下ろし、迎えに出た小舟が行き来した。
河口には砂地が広がり、その向こうから川が海へ注いでいる。南側には木々の茂る丘が迫り、斜面には柵や土塁が見える。
丘の麓には家々が集まり、浜には船が何艘も引き上げられていた。
「あの川は何という」
小舟に乗り移った河野が、櫂を握る男に尋ねた。
「天の川にございます」
「天の川?」
河野は聞き返した。
「空の天の川と同じ名か」
「左様にございます」
相原が笑った。
「海を越えた果てに、天の川とはな」
「まことに妙な名だ」
河野も笑い、川の方へ顔を向けた。
「天の川といえば、七夕の歌に詠まれるものと思うておったが、こんなところにもあるのか」
小舟を操る男は、何がそれほど珍しいのか分からぬ様子だった。
「昔から、そう呼んでおります」
信広は黙って川を眺めていた。
水は河口の砂地を回り込み、海の波とぶつかって白く泡立っている。上流へ目を向けると、川は山々の間へ入り、やがて見えなくなった。
丹後から若狭へ、若狭から関東へ、さらに奥州を北へと歩き、とうとう海まで越えた。
その果てで、天の川という名の川に行き当たった。
「花沢館は、あの丘の上か」
河野が尋ねた。
「はい。あの高みに館がございます。殿のお住まいは麓にございますので、まずはそちらへ御案内いたします」
相原は丘を見上げた。
「見晴らしがよさそうだな」
「海から来る船は、よく見えます」
男はそう答えると、再び櫂を動かした。
岸へ近づくにつれ、浜に並んだ武士たちの姿がはっきり見えてきた。
中央に、立派な直垂を着た男が立っている。師季たちが小舟を降りると、男は進み出て、深々と頭を下げた。
「安東殿におわしますか」
「うむ」
「花沢の蠣崎季繁にございます。このたびは、よくぞお越しくださいました」
師季も礼を返した。
「迎えの船まで出していただき、かたじけない」
「何を仰せられます。安東家には、我ら代々御恩を蒙っております」
季繁は顔を上げた。
「まずは屋敷へお入りくだされ。旅のお疲れを癒していただきとうございます」
師季は軽く頷いた。
季繁はその礼の返し方を見て、一瞬だけ動きを止めた。自分が心得ていた作法とは、少し違う。
しかし、師季は何事もなかったように歩き始めていた。
季繁は慌ててその横へ進んだ。
「こちらにございます」
信広は相原や河野とともに、少し後ろからついていった。
浜から屋敷へ続く道には、魚を干す棚が並び、その奥には畑があった。畑では女たちが働いている。小さな子供が道端に座り、見慣れない客人たちを眺めていた。
屋敷の背後には、先ほど船から見えた丘がそびえていた。斜面を登る細い道があり、その先には柵が巡らされている。
海から敵が来れば、あそこへ人々が逃げ込むのだろうと信広は思った。
季繁の屋敷は、浜の家々よりもひと回り大きかった。
板塀に囲まれた敷地に幾棟かの建物があり、倉や馬屋も備わっている。門の脇には武士が立ち、荷を運ぶ者たちが忙しく行き来していた。
信広は門のところで、一人の男に目を留めた。
背が高く、髪を後ろで束ねた壮年の男だった。腰には刀を差し、周囲の武士たちに指図している。
男は信広たちを見ると、丁寧に挨拶した。
「遠路、御苦労にございました。荷は我らが運びます」
河野が小声で言った。
「こちらにも、ずいぶん立派な武士がおるものだな」
信広は頷いた。
すると、傍らにいた若い郎党が少し笑った。
「あの御方は、蝦夷の出でございます」
「何、蝦夷の者なのか」
河野は思わず男を見直した。
「左様にございます。殿から館の警固を任されておられる御方で」
「ほう、警固を」
「はい。殿がことのほか頼りになさっております」
信広は男を見直した。
男は別の郎党と話していた。郎党も和人に見えた。だが、男と郎党は、信広には分からない言葉を使っていた。
やがてその男は、信広たちへ再び顔を向けた。
「何か御用でございますか」
「いや、失礼した」
河野が答えた。
「季繁殿にお仕えして長いのか」
「はい。もう二十年ほどになります」
「そうであったか。いや、見事なものだな」
男は少し笑った。
「恐れ入ります」
それだけ言うと、また仕事へ戻った。
*
歓迎の宴は、その日の夕刻に開かれた。
師季は上座に座り、季繁はその斜め前に控えた。相原や河野も席を与えられ、信広は末席に近いところへ座った。
膳には魚や貝、海藻の料理が並び、酒も振る舞われた。
季繁は、師季の一挙手一投足を注意深く見ていた。
師季は、差し出された盃を受け取ると、軽く掲げてから口をつけた。
季繁はその動作を見て、また迷った。
津軽では、あのようにするのか。
自分の知る作法では、盃を受けるときには、もう少し深く礼をするはずだった。
「蠣崎殿」
師季が声をかけた。
「はっ」
「ずいぶんと立派な屋敷だな」
「恐れ入ります」
「わしが田名部におったころより、よほど賑やかだ」
「何を仰せられます。我らは海の果てに暮らす身にございます。御覧のとおり、何もかも不自由で」
師季は膳の魚を見た。
「これほどの馳走をいただいて、不自由とは申せぬ」
「魚だけは、いくらでもございます」
季繁は苦笑した。
「されど、米も絹も、よい紙も、皆海を渡って参ります。京や鎌倉のようには参りませぬ」
「田名部も似たようなものだ」
「田名部は陸奥にございます」
「陸奥も、都から見れば遠い」
「されど、海を渡るには及びませぬ」
師季は笑った。
「なるほど。そなたには、海が一つ余計にあるのだな」
季繁も笑ったが、すぐに居住まいを正した。
「東公。お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「何だ」
「先ほど、盃をお受けになった折のことにございますが」
師季は盃を置いた。
「盃がどうした」
「いえ、その……」
季繁は言葉を探した。
「津軽では、あのようにお受けになるのが習いでございましょうか」
師季は不思議そうに季繁を見た。
「どのように受けた」
「少し、お掲げになったように見受けられました」
「ああ」
師季は盃を見た。
「父がそうしておったゆえ、わしもそうするようになった」
「御父君が」
「何かおかしかったか」
「滅相もございませぬ」
季繁は慌てて頭を下げた。
「まことに、よいことを教えていただきました」
師季は首をかしげたが、酒を注がれると、また盃を手に取った。
季繁はその動作を見逃すまいとした。
末席の信広は、二人のやり取りを聞きながら、黙って魚を食べていた。
*
宴が終わると、信広は庭へ出た。
海から吹く風は冷たく、遠くでは波の砕ける音が聞こえた。空には雲が流れ、月が出たり隠れたりしている。
信広は井戸の傍らで手を洗った。
「そなたが、武田信広殿か」
振り返ると、季繁が立っていた。
「はい」
信広は頭を下げた。
「東公から聞いた。宇曽利の山で熊を一矢に仕留めたそうだな」
「たまたま、よいところへ当たりました」
「たまたまで熊の眼を射られるものか」
季繁は笑った。
「若狭の武田家の出と聞いたが」
信広の表情がわずかに変わった。
「母から、そのように聞いております」
「御父君は」
「幼いころに別れまして、よく存じませぬ」
「そうか」
季繁はしばらく信広を見ていた。
「若狭の守護家といえば、由緒ある御家柄だ。何か証となるものは持っておらぬのか」
「ございませぬ」
信広は短く答えた。
季繁は頷いた。
「長く諸国を歩いておったそうだな」
「はい」
「弓は誰に習った」
「関東で、ある武士に」
「名は」
「犬塚番作と申す御方にございます」
「犬塚?」
季繁は考え込んだ。
「聞かぬ名だな」
「結城の戦に縁のある御方と聞いております」
「結城合戦か」
季繁は頷いた。
「ならば、小山の悪四郎が知っておるやもしれぬな」
「小山殿と申されますと」
「小山隆政という男だ。下野の小山氏の出で、結城の戦にも加わったと申しておる」
「その御方が、この島におられるのですか」
「おるとも。岩亀館におる」
季繁はそこで口をつぐんだ。
信広が続きを待っていると、季繁は鼻を鳴らした。
「腕の立つ武士ではあるが、いささか気難しい男でな。会うことがあれば、気をつけられよ」
「承知いたしました」
「まあ、あれのことはよい」
季繁は庭の向こうを見た。
「明日、弓を見せてもらいたい」
「承知いたしました」
「それから、もう一つ尋ねたいことがある」
「何でございましょう」
季繁は少し声を落とした。
「東公の御前での礼についてだが、若狭では、盃を受けるときに掲げることがあるか」
信広は困った。
若狭にいたころの記憶は、もう遠い。
寺では盃を受ける作法など教わらなかったし、諸国を歩いていたころも、武家の正式な宴席に招かれることはほとんどなかった。
「家によって、違いがございましょう」
「やはり、そうか」
季繁は真剣な顔で頷いた。
「それでは、あのようになさる家もあるのだな」
「わたしには、何とも」
「なるほど。容易には申せぬことか」
信広は黙っていた。
季繁は感心した様子で言った。
「若いのに、慎み深い男だ」
信広は返す言葉を見つけられなかった。
*
翌朝、信広は屋敷の裏手にある弓場へ案内された。
的は二十間ほど先に置かれていた。季繁の家臣たちが集まり、師季も見物に来ていた。
信広は弓を取り、弦を確かめた。
「どこを射ればよろしゅうございますか」
季繁が答えた。
「まずは、あの的を」
信広は矢を番え、静かに弓を引いた。
弦が鳴った。
矢は的の中央近くに突き立ち、家臣たちが声を上げた。
「もう一本」
季繁が言った。
信広は二本目を番えた。
今度の矢は、最初の矢よりわずかに右へ当たった。
「見事だ」
季繁は頷いた。
「されど、熊は動いておったのであろう」
「はい」
「ならば、動くものを射らせてみたい」
季繁が家臣に命じると、若い郎党が藁を束ねたものを持ってきた。
縄で吊るし、横へ引いて揺らす。
信広はその動きをじっと見た。
「もう少し、速く動かしていただけますか」
郎党が縄を強く引き、藁束が左右へ大きく揺れた。
信広は弓を構えたが、すぐには射なかった。藁束が右へ動き、戻りかけたところで、矢を放った。
矢は藁束の中央を貫いた。
見物していた者たちから歓声が上がった。
季繁は満足そうに笑ったが、すぐには声をかけなかった。
信広は弓を下ろし、次の指示を待っている。
季繁はその若者を改めて眺めた。
由緒ある家の生まれだというが、証となるものは持たず、諸国を流浪してきたという。それでいて、弓の腕はこれほどのものだった。
「東公、よき武者をお連れになりましたな」
季繁が言うと、師季も頷いた。
「わしも、あの山で驚かされた」
季繁は信広に近づいた。
「そなた、しばらく我が屋敷に留まらぬか」
「東公のお供にございますので」
「それは承知しておる。東公にもお許しをいただこう」
師季が笑った。
「信広がよいと申すなら、わしは構わぬ」
季繁は信広の肩を叩いた。
「この島では、弓の腕が役に立つ。もっとも、弓だけで済むことばかりではないがな」
信広は頭を下げた。
そのとき、屋敷の奥から女たちが出てきた。
一人はまだ若い娘で、薄い色の小袖を着ていた。傍らには、少し年上らしい女が付き添っている。
娘は弓場の様子を見ると、季繁に声をかけた。
「父上、母上がお呼びにございます」
「何だ、雪。客人の前だぞ」
「存じております。されど、母上が」
娘は言いかけて、信広を見た。
信広はその顔を見た瞬間、息を呑んだ。
日に焼けていない頬。眉の形。目元から鼻筋にかけての輪郭。
安寿の顔だった。
最後に見たのは、もう十年以上も前だった。
あのとき安寿は追っ手の足を止めるため、信広とは反対の方へ走った。
信広はその後を知らない。
「どうなされた」
季繁の声が聞こえた。
信広は我に返った。
娘は怪訝そうに彼を見ていた。
「いえ」
信広は慌てて目を伏せた。
「何でもございませぬ」
季繁は娘に向き直った。
「こちらは東公とともに渡ってこられた武田信広殿だ。若狭の武田家に連なる御方と聞いておる」
雪は居住まいを正し、礼をした。
「蠣崎の娘、雪にございます」
信広も頭を下げた。
「武田信広にございます」
雪は顔を上げた。
「先ほどの弓を射られたのは、そなたですか」
「はい」
「ずいぶんお上手なのですね」
「恐れ入ります」
雪は信広の弓を見た。
「わたくしは、あのように速く動くものへ矢を当てる方を、初めて見ました」
「たまたま当たっただけにございます」
「父上は、たまたまでは当たらぬと仰せになるでしょう」
季繁が笑った。
「そのとおりだ」
雪も笑った。
その笑い方まで、安寿によく似ていた。
信広は視線を外した。
雪の傍らにいた女が、主人の袖を軽く引いた。
「姫様、奥方様がお待ちでございます」
「ああ、そうでした」
雪は父に向き直った。
「母上が、東公へのお贈り物についてお尋ねになりたいそうです」
季繁は眉を寄せた。
「昨日、決めたはずだが」
「そのお品では、数が足りぬとか」
季繁はため息をついた。
「分かった。すぐ参る」
雪はもう一度、信広に礼をしてから、侍女とともに去っていった。
信広はその背を見送った。
侍女が何かを囁くと、雪は小さく笑い、軽くその肩を叩いた。二人は親しげに話しながら廊下の向こうへ消えた。
「信広」
師季に呼ばれた。
「はい」
「どうした。顔色が悪いぞ」
「少し、船の疲れが残っているようにございます」
「ならば、今日はもう休め」
信広は頭を下げた。
弓を片づけて屋敷の裏へ回ると、そこに小さな仏堂があった。古びた屋根の下に木の仏像が安置され、供えられた花はまだ新しかった。
信広は堂の前に膝をつき、両手を合わせてしばらく念仏を唱えた。
目を閉じると、丹後の浜が浮かんだ。
塩を焼く煙。濡れた薪の匂い。荒れた手で握らせてくれた小さな握り飯。
そして、最後に振り返った少女の顔。
信広は目を開けた。
堂の向こうには、天の川の河口と、その先に広がる海が見えた。
ここは丹後ではない。若狭でも、関東でもない。
海を越えた、蝦夷ヶ島だった。
信広はもう一度、仏像に手を合わせた。
遠くから屋敷の者たちの声が聞こえてきた。誰かが馬を呼び、別の者が荷を運ぶよう命じている。浜では船が出るらしく、男たちの掛け声が風に乗って届いた。
信広は立ち上がって、しばらく海を眺めた。
やがて弓を肩に掛け直し、屋敷へ戻っていった。
宇須岸は現代の函館、花沢は現代の上ノ国です。
室町後期の安東氏の歴史や蠣崎氏の登場については記録が錯綜しており、本作では複数の史料や伝承を組み合わせています。




